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2005年02月28日

日本(11)-2.26事件(5)- 兵に告ぐ(1)

 

 蹶起直後の半蔵門

 (旧暦  1月20日)

 利休忌 茶人千利休の天正19年(1591)の忌日

 皇軍相撃つ流血の事態は何とか避けたいと、様々なルートから蹶起将校達に対する説得が試みられ、帰順論に体勢が傾いていた中、もともと武力蹶起には反対の穏健派の1人であった歩兵第3聯隊第6中隊長安藤輝三大尉は、帰順に対し最も強硬に反対し、首謀者の1人である磯部とともに「徹底抗戦」を叫び、自決・帰順を覆して蹶起将校たちの士気を決戦へと鼓舞しました。

 当初、「将校は自決し、大命に従い下士官兵は陛下に返上する」との報告を受け安堵に包まれていた戒厳司令部は、一転万事休すとなり、ついに蹶起将校たちに同情的だった香椎戒厳司令官も武力鎮圧を決心、28日午後11時、戒厳司令部は正式に討伐命令(作戦命令)を下達しました。

 戒作命第十四號
  命 令
 叛乱部隊ハ遂ニ大命ニ服セズ、依テ断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス
  戒厳司令官  香椎 浩平


 

 芝浦埠頭に上陸する横須賀海軍陸戦隊(2月26日)  続きを読む

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2005年02月27日

日本(10)-2.26事件(4)-奉勅命令下達

 

 軍事参議官、陸軍大将、男爵 荒木貞夫

 (旧暦  1月19日)

 宮中に参集した軍事参議官たちは、川島陸相より今朝来の事態についての報告を聴取してから対策を協議しましたが、荒木貞夫陸軍大将の発言により、武力行使を避けて説得によって撤退せしめようという方向で一致し、「陸軍大臣告示」を作成して蹶起将校達を説得することになりました。

 そして蹶起した将校たち(皇道派)に理解があると思われている山下奉文少将(後のシンガポール攻略の第25軍司令官)が陸相官邸に行き、作成した「陸軍大臣ヨリ」の原案を一部修正し、蹶起将校達に繰り返し読み上げました。

 ところがこの告示の第二項は、「諸子ノ《行動》ハ國体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム」となっており、この「陸軍大臣告示」によれば、叛乱軍の《行動》を認めたことになってしまい、蹶起は国を憂える行為として認められ、それは天皇の耳にも達していると受け取れる内容でした。  続きを読む

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2005年02月26日

日本(9)-2.26事件(3)-陸軍大臣告示

 

 戒厳司令部(九段下の旧軍人会館)

 (旧暦  1月18日)

 丹生誠忠(にうよしただ)中尉率いる歩兵第1聯隊第11中隊を主力とする約160名は、陸軍の中枢である参謀本部、陸軍省、そして陸相官邸の周囲を包囲・遮断し、外部との連絡を断切った上で陸相官邸に乗込みました。

 午前7時近くになった頃、陸相官邸大広間の会議室において、事件の首謀者である元陸軍一等主計磯辺浅一、元陸軍歩兵大尉村中孝次、陸軍歩兵大尉香田清貞の三人は陸相、小松秘書官と対峙し、香田大尉が『蹶起趣意書』および「大臣への要望事項」を読み上げました。

 その要旨は、「陸軍大臣の断乎たる決意により事態収拾を急速に行うとともに、本事態を昭和維新回転の方向に導き、蹶起の趣旨を陸軍大臣を通じて天聴(天皇が聞くこと)に達せしむる」等具体的な内容を含むものでした。  続きを読む

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2005年02月25日

日本(8)-2.26事件(2)-要人襲撃

 

 岡田啓介首相

 (旧暦  1月17日)

 茂吉忌  精神科医でアララギ派の歌人、斎藤茂吉の昭和28年(1953)の忌日。

 襲撃目標と担当部隊は、次のようなものでした。

 首相官邸襲撃・・・・栗原隊(歩兵第1聯隊機関銃隊)
 鈴木侍従長襲撃・・・安藤隊(歩兵第3聯隊第6中隊)
 斎藤内大臣襲撃・・・坂井隊(歩兵第3聯隊第1中隊、第2中隊一部)
 渡辺教育総監襲撃・・坂井隊の一部
 高橋蔵相襲撃・・・・中橋隊(近衛歩兵第3聯隊第7中隊一部)
 牧野前内大臣襲撃・・河野隊(河野大尉他民間人)
 警視庁占拠・・・・・野中隊(歩兵第3聯隊第3、第7、第10中隊)
 陸相官邸占拠・・・・丹生隊(歩兵第1聯隊第11中隊)



 歩兵第1聯隊機関銃隊附栗原安秀中尉に率いられた291名が首相官邸を包囲したのは午前5時、襲撃は直ちに開始されましたが、岡田首相はからくも難を逃れ、義弟で首相秘書官事務嘱託の松尾伝蔵陸軍予備役大佐が即死したほか、首相護衛警官4名が応戦して死亡しました。

 

 即死した義弟で首相秘書官事務嘱託松尾伝蔵陸軍予備役大佐(右)  続きを読む

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2005年02月24日

日本(7)-2.26事件(1)-蹶起趣意書

 

 山王ホテルで指揮を執る叛乱部隊 歩兵第一聯隊第十一中隊 中隊長代理 丹生誠忠中尉

 (旧暦  1月16日)

 南国忌 大衆作家直木三十五の昭和9年(1934)の忌日。代表作の『南国太平記』から「南国忌」と呼ばれている。

 蹶起趣意書

 謹ンテ惟(おもんみ)ルニ我カ神州タル所以(ゆえん)ハ萬世一神タル 天皇陛下御統帥ノ下ニ挙國一體生々化育ヲ遂ケ終ニ八紘一宇ヲ完(まっと)フスルノ國體ニ存ス。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 然ルニ頃来(けいらい)遂ニ不逞兇悪ノ徒蔟出(そうしゅつ)シテ私心我欲ヲ恣(ほしいまま)ニシ、至尊絶対ノ尊厳ヲ藐視(びょうし)シ僭上之レ働キ、萬民ノ生々化育ヲ阻碍(そがい)シテ塗炭の疾苦ニ呻吟セシメ、随テ外侮外患日ヲ遂フテ激化ス。

 所謂(いわゆる)元老重臣軍閥財閥官僚政黨等ハ國體破壊ノ元兇ナリ。
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2005年02月23日

書(4)-顔真卿(3)-『祭姪文稿』(さいてつぶんこう)

 

 大蹙賊臣擁眾不救賊臣不救 
 孤城圍逼父陷子死巢 
 傾卵覆 天不悔禍誰為 
 荼毒念爾遘殘百身何贖 
 嗚乎哀哉吾承 
 天澤移牧河東近河關爾之爾明 
 比者再陷常山攜爾 
 首櫬亦自常山及茲同還撫念摧切 
 震悼心顏方俟□ □遠日卜爾 
 幽宅魂而有知無嗟 
 久客嗚呼哀哉尚饗 
 

 祭姪文稿 顔真卿 [唐] 紙本墨書 一巻 台北故宮博物院 維基百科より 

  (旧暦  1月15日)

 顔真卿(2)-『祭姪文稿』のつづき

 顔真卿は、至徳元載(756)平原城を捨て、鳳翔県(陝西省)に避難中であった7代皇帝粛宗(?〜762)(在位756〜762)の行在所にはせ参じて憲部尚書に任じられ、御史大夫をも加えられました。

 また、8代皇帝代宗(726〜779)(在位762〜779)のときには尚書右丞となって、魯郡公に封ぜられました。

 さらには、太子太師(皇太子の師範役)に任じられましたが、直言をはばからない剛直な性格が災いして、宦官勢力や宰相の元載のような実権者から妬まれました。

 そのため建中3載(783)、河南淮西節度使の李希烈(?〜786)が反乱を起こした際、宰相元載の陰謀により、顔真卿に対して9代皇帝徳宗(742〜805)(在位779〜805)の勅命が下り、李希烈慰諭(帰順の説得)の特使に任じられました。  続きを読む

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2005年02月22日

書(3)-顔真卿(2)-『祭姪文稿』(さいてつぶんこう)

 

 維乾元元年歲次戊戌九月庚 
 午朔三日壬申從父第十三叔銀青光祿 
 夫使持節蒲州諸軍事蒲州 
 刺史上輕車都尉丹陽縣開國 
 侯真卿以清酌庶羞祭于 
 亡姪贈贊善大夫季明之靈曰 
 惟爾挺生夙標幼德宗廟瑚璉 
 階庭蘭玉方憑積善每慰 
 人心方期戩穀何圖逆賊開 
 釁稱兵犯順 爾父□制被脅竭誠常 
 山作郡余時受 命亦在平 
 原 仁兄愛我俾爾傳言爾既
 歸止爰開土門土門既開凶威

 
 祭姪文稿 顔真卿 [唐] 紙本墨書 一巻 台北故宮博物院 維基百科より     
 
 (旧暦  1月14日)  

 風生忌 俳人富安風生の昭和54年(1979)の忌日

 顔真卿(1)-『祭姪文稿』のつづき

 『祭姪文稿』は、『祭伯父文稿』、『争坐位帖』と並んで三稿の一とされていますが、真蹟本がのこっているのはこれだけです。顔真卿の書の最高傑作と言われています。

 草書体を交えた行書で、肉太の堂々とした線、筆管を垂直に立て紙面に透過させるような筆圧の変化等顔法の特徴がよく出ていると評されています。
 また甥(姪)の死を悼み事の成り行きを悲憤慷慨する文章や、文章を訂正、推敲する様子なども、文字と一体となって雰囲気を盛り上げています。

 全文268字のうち、塗り潰された文字が34文字もあるのは、顔真卿の心の乱れか、安禄山に対する義憤の情か、「何ぞ図らん逆賊の間をつき兵を稱げ順を犯さんとは、爾(なんじ)の父は誠をつくし常山郡の太守となり、余もまた命を受けて平原郡の太守たり」などの文字が激しい筆致で書かれています。

 また、文中には「賊臣不救、孤城圍逼、父陥子死、巣傾卵覆」(賊臣救わず、孤城は包囲され、父は陥落し、子は死に、巣は傾き、卵は覆った)とも書かれています。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:49Comments(0)

2005年02月21日

書(2)-顔真卿(1)-『祭姪文稿』(さいてつぶんこう)

 

 Tang provinces by 742; An Lushan harassed the Khitans (their territory indicated on the map) in order to stir conflict, which provided him with more support from Chang'an, hence strengthening his position. He eventually rose in rebellion in 755 by Wikipedia.

 (旧暦  1月13日)  泰忌  俳人・上野泰の昭和48年(1973)の忌日

 顔真卿(709〜785)は、8世紀の唐代の政治家であり、代表的な書家でもあります。

 字は清臣、書聖「王羲之」と奇しくも同郷の琅邪臨沂(ろうやりんぎ) (山東省臨沂市)の顔氏の出身ですが、生まれは長安であり、『顔氏家訓』(子孫への訓誡の書で、家族を中心とした道徳・学問・教養と、乱世を生きる心構えなどを説いている)で知られる顔之推(がんしすい:531?〜604)の五世の孫にも当たります。

 顔氏は、代々学問で知られ、また能書家が多く、学家と称されました。

 開元25年(737)に進士に及第し、天宝元年(742)に文詞秀逸科に挙げられて醴泉(九成宮があった陝西省麟遊県天台山?)の尉、次に長安の尉となり、監察御史、式部員外郎などを歴任しましたが、生来が剛直な性質であったが為に、玄宗の寵姫・楊貴妃の従祖兄(またいとこ)でありその縁故で宰相となった楊国忠に疎んじられ、天宝12載《天宝3年から「年」を「載」と変更》(753)に平原郡(山東省徳県)の太守に左遷されました。

 そのため、役職にちなんで顔平原、封爵にちなんで顔魯公とも呼ばれています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:08Comments(0)

2005年02月20日

国立故宮博物院(2)-象牙多層球(清代)

 

 象牙多層球

 (旧暦  1月12日)

 多喜二忌 「蟹工船」などで知られるプロレタリア文学作家、小林多喜二の昭和8年(1933)の忌日。特高警察の拷問により築地署内において凄惨な拷問を受け虐殺された。
              
 鳴雪忌、老梅忌  俳人・内藤鳴雪の大正15年(1926)の忌日。

 象牙は古くから装飾品に用いられ、周代(紀元前1046年頃〜紀元前256年)の官制を伝える『周礼(しゅうらい)』には、文物を作る「八材」として、真珠、象牙、玉、石、木、金、革、羽の8種を挙げています。

 儀式などの手に持つ笏(しゃく)も、皇帝は玉、諸侯は象牙、大夫以下は鯨のヒゲか竹と決められていました。

 おじゃる丸(NHK教育テレビのアニメの主人公)が持っているエンマ大王の笏は、ピンク色なので、何製かはよくわかりませんが・・・  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:51Comments(1)国立故宮博物院

2005年02月19日

北東アジア(9)-安禄山(3)

 

 安禄山(705〜757)

 (旧暦  1月 11日)

  瓢々忌  小説家・尾崎士郎の昭和39年(1964)の忌日。 代表作『人生劇場』の主人公・青成瓢吉から瓢々忌と呼ばれる。

 北東アジア(8)-安禄山(2)のつづき

 945年に完成し、唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれた『旧唐書(くとうじょ)』によれば、安禄山は機転が利く愛敬者で、体重は330斤あったと記録されています。唐代の1斤は約600gなので、何と198kgもあったことになります。

 その腹は弛んで膝を過ぎたと云い、玄宗から「一体その中に何が入っているのか」と訊(き)かれ、「臣の腹中は、唯だ赤心のみ」と答えた話は有名です。

 また、玄宗の寵姫・楊貴妃(719〜756)に取り入ってその義子になりたいなどと言い、参内すると先に楊貴妃に挨拶し、「蕃人は母を先にして、父をあとにいたします」と人を笑わせたそうです。

 ひょうきん者で、開けっぴろげで、他人に警戒心をもたれない安禄山は、やすやすと玄宗と楊貴妃の心を掴んだと云います。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 08:34Comments(0)歴史/北東アジア

2005年02月18日

北東アジア(8)-安禄山(2)

 

 8世紀中頃の唐の勢力範囲と節度使の配置図

 (旧暦  1月 10日)

 かの子忌  画家岡本太郎の母で、作家・仏教研究家である岡本かの子の命日。

 北東アジア(7)-安禄山(1)のつづき

 北宋の大学者であり政治家の司馬光(1019〜1086)が第5代皇帝英宗(在位1063〜1067)の詔をうけ、19年かかって作成した294巻にも上る編年体の歴史書である『資治通鑑』《前403年に韓・魏・趙が晋を滅ぼしたときより筆をおこし、959年(後周、世宗の顕徳6年)までの1362年間を記述》によれば、その10節度使と駐在地及び兵力は以下のようになります。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 00:32Comments(0)歴史/北東アジア

2005年02月17日

北東アジア(7)-安禄山(1)

 

 7世紀中頃の唐の勢力範囲

 (旧暦  1月 9日)

  安吾忌  「白痴」「堕落論」などを著した新潟市出身の作家、坂口安吾の昭和30年(1955)の命日。

 中国の唐王朝(618〜907)は、『藩鎮』およびその長官である『節度使』という制度を設けたことにより、その滅亡を早めたと云われています。

 唐代の兵制は、当初、律令体制下で農民から徴発された府兵が長安や洛陽の警備と辺境防衛を担っていました。

 このうち辺境防衛は、府兵が防人として3年交替で鎮・戌と呼ばれる辺境部隊に勤務していましたが、7世紀になると周辺諸国・諸民族の隆盛によって唐の周辺が圧迫され、防人を基本とする辺境防衛体制が成り立たなくなってきました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 08:15Comments(0)歴史/北東アジア

2005年02月16日

やまとうた(6)-津の国の難波の春は夢なれや

 

 難波津之圖

 (旧暦  1月 8日)  

 題しらず
 津の国の難波の春は夢なれや 蘆のかれ葉に風わたるなり
 (西行 新古今和歌集625)


 文治2年(1186)、東大寺再建をめざす大勧進・俊乗坊重源(1121〜1206)より砂金勧進を依頼され、再び東国へ旅立った西行(1118〜1190)は、途中、鎌倉で源頼朝(1147〜1199)と会見しました。

 奈良東大寺は、天平15年(745)、聖武天皇の勅願によって建立された総国分寺ですが、6年前の治承4年(1180)12月、東大寺が源氏に荷担したとして平清盛の5男、平重衡(1157〜1185)により焼き払われていました。
 しかし、後白河法皇(1127〜1192)により俊乗坊重源(重源上人)が東大寺再建の大勧進に抜擢されていました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 08:28Comments(0)やまとうた

2005年02月15日

となり村名所あんない(11)-千代田村(2)-二重橋と伏見櫓

 

 皇居二重橋と伏見櫓

(旧暦  1月 7日)

 兼好忌 「徒然草」の作者として 知られる卜部兼好の正平5年(1350)の忌日。

 皇居前広場から皇居正門を経て新宮殿に至る二重橋濠には、二つの橋が架かっており、手前の橋が「正門石橋」(めがね橋)、奥の橋が「正門鉄橋」(二重橋)です。

 「二重橋」は一般にこの二つの橋を総称して言われていますが、厳密には奥の橋(正門鉄橋)を指しています。

 江戸時代には、奥の橋の「西丸下乗橋」が「二重橋」と呼ばれており、木造橋だった江戸時代には堀が深くて、そのままだと橋が架けられなかったため、橋の下段に通行できない橋を作り、それを土台にして上に橋を架け、上下に二つ重なった橋ということで二重橋というのが元々の云われだそうです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:31Comments(0)となり村名所あんない

2005年02月13日

新生代(3)-第三紀(3)-アンブロケタス・ナタンス

 

 アンブロケタス・ナタンス(Ambulocetus natans)国立科学博物館

 (旧暦  1月 5日)

 平成4年(1992)、ノースイースタン・オハイオ大学医学部(Northeastern Ohio Universities College of Medic)のハンス・テービスン(J.G.M. Hans Thewissen)博士のチームは、パキスタン北部パンジャブ州カーラチッタ丘陵(Kala Chitta Hills)の4900万年前の新生代第三紀始新世の海の岩の中から、現在のクジラと彼らの陸上の祖先の中間に位置する動物のほぼ完全な骨格(80%)を発見しました。

 大きな足部と強靭な尾は、泳ぎに優れていることを物語っていましたが、脚が太く、また、肘や手首の関節が動くことから、陸上でも動き回ることができたと判断されました。

 テービスン博士は、そのクジラにアンブロケタス・ナタンス(Ambulocetus natans)と名付けました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:16Comments(0)新生代

2005年02月11日

パイポの煙(13)-水戸学(3)

 
 
 大老井伊直弼(1815〜1860)

 (旧暦  1月 3日)  

 パイポの煙(12)-水戸学(2)のつづき

 斉昭は、極端な排仏など政策の過激さにより、弘化元年(1844)、幕府から謹慎・隠居を命じられましたが、老中の備後福山藩10万石第7代藩主阿部正弘(1819〜1857)や伊予宇和島藩10万石第8代藩主伊達宗城(1818〜1892)らと書簡を交し、ペリー来航後は幕府海防参与となり、大船建造や軍制改革に参画しました。

 また、第13代将軍徳川家定(1824〜1858)の継嗣問題では、7男である徳川慶喜(1837〜1913)を推しましたが、大老の近江彦根藩30万石第13代藩主井伊直弼(1815〜1860)により紀州和歌山藩55万5千石第13代藩主徳川慶福(家茂)が継嗣に内定、さらには米国総領事ハリスの要求を受け入れて、井伊直弼らが勅許を得ずに日米修好通商条約を締結し開国を実施する決定をしたため、安政5年(1858)6月24日、尾張名古屋藩61万9千石第14代藩主徳川慶勝(1824〜1883)らと「不時登城」(登城日以外の登城は「不時登城」あるいは「押懸登城」と言われる)して井伊を詰問・抗議しました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 08:18Comments(0)パイポの煙

2005年02月10日

パイポの煙(12)-水戸学(2)

 

 水戸徳川家第9代藩主徳川斉昭(1800〜1860)

 (旧暦  1月 2日)  

 パイポの煙(11)-水戸学(1)のつづき


 特に、第9代藩主徳川斉昭(なりあき)(1800〜1860)の時代の18世紀末期から幕末にかけての、『大日本史』編纂事業の継続と、当時の内憂外患の時局問題の解決にも目を向けた後期の水戸の学問が、天保年間以後他藩からも注目されるようになり、「天保学」、「水府の学」などと呼ばれたようです。

 文政12年(1829)、兄の第8代藩主斉脩(なりのぶ)(1816〜1829)に嗣子がなく、死後その遺言によって養子となり水戸藩を継いだ斉昭は、「水戸の両田」と称された改革派の藤田東湖(1806〜1855)、戸田蓬軒(?〜1855)らを登用し、全領地の検地、弘道館・郷校の設置、梵鐘没収と大砲鋳造、軍事調練など天保の藩政改革を行いました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 06:13Comments(0)パイポの煙

2005年02月09日

パイポの煙(11)-水戸学(1)

 

 藤田小四郎自讃画

 (旧暦  1月 1日)

  旧正月

 「水戸っぽ」といえば、反骨精神の持ち主、闘志あふれた気骨の激しさを真骨頂とした頑固者といったイメージがあり、私「嘉穂のフーケモン」の周りでも時折、如何にも「水戸っぽ」らしい人に遭遇しますが、これは水戸の精神風土のなせるわざなのでしょうか。

 断髪蓬髪如夜叉 不言可識是藤田

 「断髪(だんぱつ)蓬髪(ほうはつ)夜叉の如し。言わずして識るべし是藤田」との自讃画を残した藤田小四郎(1842〜1865)も、血気盛んな若者とはいえ、典型的な「水戸っぽ」の1人だったのでしょう。

 水戸学を築き上げた藤田東湖(1806〜1855)の第4子である小四郎は、元治元年(1864)3月、若干22歳ながら首謀者として、筑波山にこもって「尊王攘夷」の旗を上げました。

 有名な「水戸天狗党の乱」と呼ばれていますが、その後、各地を転戦しながら京都へ向かい、越前新保村(現敦賀市内)で加賀藩の軍勢に下り、翌慶応元年(1865)2月、最後は幕府の冷酷な判決により、藤田以下352名が斬首、遠島137名、追放187名といった残酷な終焉を迎えました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:24Comments(0)パイポの煙

2005年02月08日

日本(6)-浦上四番崩れ

 

 再建された浦上天主堂と原爆で被爆した石像

(旧暦 12月30日)  

 節忌 大正4年(1915)の長塚節の忌日

 日本におけるキリスト教の歴史は、迫害の歴史といっても過言ではないでしょう。
 天正15年(1587)、豊臣秀吉によって発布された「バテレン追放令」は、布教は禁じるが貿易は歓迎するという不徹底なものでした。

 しかし、江戸期に入った慶長17年(1612)に幕府は禁教令を出し、キリスト教徒や宣教師に厳しい迫害を加えました。

 その後、寛永14年(1837)の島原の乱をきっかけに、弾圧はさらに強まり、とうとう寛永18年(1641)、オランダ商館を出島に移して外国人が出島以外のところに出ることを禁じ、幕府は鎖国体制を完成させて、幕末の開国まで、宣教はほぼ不可能な状況に陥いりました。

 この間、潜伏した信徒達は、仏教徒として振舞いながら、ひそかに祈祷文「オラショ」を唱え、また、メダイやロザリオ、聖像聖画、クルス(十字架)などの聖具を秘蔵し、生まれる子に洗礼を授けるなどして信仰を守りました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:21Comments(0)歴史/日本

2005年02月07日

板橋村あれこれ(7)-中山道(2)

 

 江戸名所圖絵 板橋驛

 (旧暦 12月29日)  

 瓜人忌

 板橋村あれこれ(6)-中山道(1)からのつづき

 大名行列の人数は多い時代では1000人を超え、その後幕府が随行者数の制限を定めて20万石以上は400人強、10万石以上で200人強という非常に大きな規模で、これに現地で調達した人足・馬が加わります。

 寛永19年(1643)の参勤交代制度細目の通達により、外様大名は4月、譜代大名は6月と交代月が決められていたため、この時期に集中して大名行列が街道を通過しました。

 参勤交代で街道を通る大名や上級家臣は宿駅の本陣または脇本陣に宿泊し、一般の随行者たちは旅籠屋や大きな寺社に宿泊しました。

 文政4年(1821)に中山道を通る大名は、102万石の加賀前田家をはじめとして、越前・越中・越後・信濃・美濃・上野・武蔵などの39家と定められていました。
東海道、中山道どちらでも良いのは、彦根の井伊家をはじめとする9家でした。
 大名の行列は、多人数が移動するため、各宿駅の負担は大きなものがありました。

 加賀藩の場合、文化10年(1813)には、直臣185名、陪臣830名、雇用人686名、宿継人足86人で都合1787名、その他に家中の馬匹32疋、駅馬188疋を数えています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 08:21Comments(0)板橋村あれこれ