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2006年08月30日

史記列傅(4)−老子韓非列傅第三−其れ猶ほ龍のごときか

 

 明の長陵 第3代永楽帝(在位1402〜1424)像 北京市昌平区明十三陵景区内

 (旧暦閏 7月 6日)

 李耳(りじ:老子)は無為にして自ら化す、清淨にして自ら正し。韓非は事情を揣(はか)り、埶理(げいり:時勢の動く理法)に循(したが)ふ。よって老子韓非列傳第三を作る。(太史公自序)

 李耳(老子)は[君主が]無為であれば[民は]自ずから化せられ、[君主が]清潔平静であれば[民は]自ずから正しくなるとした。韓非子は事態を分析し、時勢の動く理法に従った。そこで、老子・韓非列伝第三を作る。(太史公自序:司馬遷の序文)

 老子は、楚の国(現在の湖北省、湖南省を中心とした地域)苦縣(こけん:河南省鹿邑県)厲郷(らいきょう)の曲仁里(きょくじんり)の人で、名は耳(じ)、字は耼(たん)、姓は李氏。
 周王朝の守蔵室(書物倉)の記録官でした。

 孔子(551BC〜479BC)が周の都成周(現在の河南省洛陽市付近)に赴いて、老子に礼について教えを乞おうとしました。

 すると老子が孔子に向かって言うのには、

 「あなたは古来の礼について問おうとしているが、その礼を行った人は骨とともに朽ちてしまい、ただ言葉が残っているだけである。
 そもそも君子というものは、時を得たならば高い位について経綸(施策)を行い、時勢に外れると流浪して渡り歩くものである。・・・・・
 君子は優れた徳を隠して、外見は愚か者のように見えると云われる」と。

 
 そして孔子にきつい言葉を浴びせかけます。

 「あなたは自分の驕氣(慢心)と多欲(欲望)と態色(気取り)と淫志(激情)を捨てなさい。これらはどれも、あなたの一身にとって何の役にも立たないよ。
 私があなたに言えることは、これだけだよ」と。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:36Comments(0)史記列傅

2006年08月28日

雑司ヶ谷霊園(1)−あらまし

 

 小雨に煙る閑静な雑司ヶ谷霊園 

 (旧暦閏-7月 5日)

 道元忌  曹洞宗の開祖で、『正法眼蔵』87巻を著し、傘松峰大仏寺(後の吉祥山永平寺)を開いた禅僧道元の建長5年(1253)の忌日

 池袋のサンシャインシティの横を走る首都高速5号池袋線の下を500mほど南に下ると都電荒川線の雑司ヶ谷の停留所があり、そのそばに総合面積106,110㎡、使用者数約9,000人もの一般埋蔵施設他を有する東京都立雑司ヶ谷霊園の閑静で宏大な敷地が広がっています。

 都立雑司ヶ谷霊園は、明治7年(1874)9月1日に開設されたもと雑司ヶ谷旭出町墓地を東京府が引き継ぎ、昭和10年(1935)に「雑司ヶ谷霊園」に名称が変更されたものです。

 徳川幕府は、寛永12年(1635)に寺請制度を制定して人々がいずれかの寺院の檀家となることを義務付け、その寺院の付属する墓地に各檀家の埋葬を許可してきましたが、明治政府は明治6年(1873)に従前の墓地といえども旧朱印内は埋葬を禁止する旨の布達を行いました。

 当時の江戸の市域は「御府内」と呼ばれ、正式な区域は文政5年(1822年)12月、備後福山藩11万石第5代藩主で江戸幕府では老中を務めた阿部正精(まさきよ、1775〜1826)によって、朱線で囲った地図とともに次のような通達によって定義されています。

 「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」

 • 東 … 中川限り
 • 西 … 神田上水限り
 • 南 … 南品川町を含む目黒川辺
 • 北 … 荒川・石神井川下流限り


 つまり、旧朱印内は、旧東京市の15区より若干広く、現在の豊島区、渋谷区、荒川区、北区、目黒区の一部、品川区の一部、板橋区の一部をも含む範囲でした。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:35Comments(0)雑司ヶ谷霊園

2006年08月27日

天文(5)−冥王星

 

 Pluto

 (旧暦閏 7月 4日)

 益軒忌 江戸時代前期の本草学者、儒学者で筑前黒田藩士貝原益軒先生の正徳4年(1714)の忌日。藩命により「黒田家譜」を編纂し、また藩内をくまなく調査して「筑前国続風土記」を編纂した。

 主な著書に「大和本草」、「菜譜」、「花譜」といった本草書、教育書の「養生訓」、「和俗童子訓」、「五常訓」、思想書の「大擬録」など数多くの著作を残している。

 冥王星(Pluto)は、可愛いそうでんなあ〜。

 つい先日の8月17日の新聞各紙では、「太陽系の惑星がこれまでの9個から一気に3個増え、12個になる可能性がでてきた。・・・」と報道されていたのに、24日になって国際天文学連合(IAU)は惑星の新しい定義について採決し、太陽系の惑星を水星(Mercury)、金星(Venus)、地球(Earth)、火星(Mars)、木星(Jupiter)、土星(Saturn)、天王星(Uranus)、海王星(Neptune)の8個として冥王星(Pluto)を惑星から外す案を賛成多数で可決してしまいました。

 「いったいどないなってんのや?」と思ったよゐ子の皆さんも大勢いらっしゃったことでせう。

 「惑星(Planet)」って一体どのようなものを指すのでしょうか。
そもそも英語のplanetという言葉は、ギリシア語の「彷徨うもの」を語源としているそうですが、地球から見ると、外惑星(火星、木星、土星、天王星、海王星)は空を移動しながら定期的に移動方向を変えるように見えます。
 この見かけの逆行運動は古代の天文学者を悩ませ、このことがplanet という名前の由来の一つとなっているとのことです。

 古代の中国では行星、日本では遊星とも呼ばれ、惑星という言葉も、惑うような動きから来ているとのことです。
 そういえば遙かな昔の昭和の御代に、「遊星王子」というヒーローもいましたねえ。

 さて、24日に国際天文学連合(IAU)によって定義された惑星の定義は、次のようなものです。

 The IAU...resolves that planets and other bodies in our Solar System be defined into three distinct categories in the following way:
 国際天文学連合は、我々の太陽系に属する惑星およびその他の天体に対して、以下の3つの明確な種別を定義する:

 (1) A "planet" [1] is a celestial body that: (a) is in orbit around the Sun, (b) has sufficient mass for its self-gravity to overcome rigid body forces so that it assumes a hydrostatic equilibrium (nearly round) shape, and (c) has cleared the neighbourhood around its orbit.

 1. 惑星(注1)とは、
 (a)太陽の周りを回り、
 (b)十分大きな質量を持つため、自己重力が固体に働く他の種々の力を上回って重力平衡形状(ほとんど球状の形)を有し、
 (c)その軌道の近くでは他の天体を一掃した
 天体である。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:07Comments(0)天文

2006年08月23日

歳時記(11)−夏(5)−落暉

 

  北京北海公園(ベイハイコンユワン)の夕暮れ

 (旧暦  7月30日)

 雲こそ我が墓標 落暉よ碑銘をかざれ

 これは鹿児島県の海軍航空隊出水基地を舞台に描かれた阿川弘之氏の小説『雲の墓標』の中で、特攻隊員が戦友に宛てた遺書の中に出てくる一節です。

 落暉(らっき)とは、広辞苑によれば「入り日」、「夕日」、「落日」との解説がありますが、1日の役目を終えて西の方へ傾いてゆく太陽を英語ではdeclining sun (斜陽)、setting sun (入り日)とも云います。

 イギリスの詩人ジョン・ミルトン(John Milton, 1608〜1674)による仮面劇『コーマス、Comus』では、“The slope sun”(傾ける太陽)とも表現されていますが、沈んでいく太陽が洋の東西を問わず人の心を打つのは、それが華麗な夕焼けの色を伴うからで、sunset glow、sunset color、evening glow は、いずれも夕焼け、夕映えのことを指します。

 ローマ神話に登場する太陽の神アポロ(Apollo)の車が1日の行程を終えてその華麗な色彩を西の空一面にまき散らしながら静かに消えていく姿は、夏の夕暮れの静寂とともに心惹かれる風景のひとつです。

 しかしこのように美しい夕映えを伴う入り日の姿を、かつて栄えた者が落ち目になった形容として描くこともあるようです。

 ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare、1564〜1616)は、悲劇『ジュリアス・シーザー、Julius Caesar、1599』(?. ?. 60-3)で次のように描いています。

 But Cassius is no more.
 O setting sun,
 As in thy red rays thou dost sink to night,
 So in his red blood Cassius’day is set;
 The sun of Rome is set!


 しかし、シーザー様はもうこの世にいない。
 おお、沈みゆく太陽よ、
 おまえは紅い光線の内に没して夜となるが、
 このシーザー様の日輪も赤い血の内に没した。
 ローマの太陽が没したのだ。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:35Comments(0)歳時記

2006年08月22日

板橋村ゆかりの人々(6)−三船久蔵先生

 

 嘉納治五郎師範と三船久三先生の模範演技

 (旧暦  7月29日)

 藤村忌  作家島崎藤村の昭和18年(1943)の忌日。 詩集『若菜集』(1897)、『落梅集』(1901)や小説『破戒』(1906)、『夜明け前』(1929)などの作品を残し、明治浪漫主義文学、後には日本自然主義文学の先陣を切った代表的作家。

 ちなみに、昭和16年(1941)1月8日、当時の陸軍大臣東條英機が示達した、陸軍軍人としての行動規範を示した文書である『戦陣訓』の文案作成に、島崎藤村も参画したとされている。


 以前、池袋のさるレストラン・バーで日本一の借金王という人を紹介され、あっけにとられたことがあります。
 
 この方は、小島虎之助(宜隆)という人で、東京外語大中退後、三井物産をスタートとして数多くの商売に取り組み、そのつど大儲けをしては大損するという浮き沈みを経験、昭和61年(1986)から不動産業界に参入してビル用地専門の買取業者として全国で10本の指に入るまでに成長したものの、バブル景気の崩壊で3,000億円の負債を背負うことになりましたが、担保とした土地を融資した銀行に融資評価額で引き取らせて2,900億円まで返済し、なお今現在100億の借金があるというとてつもないお方です。

 この方が「偉いな」と思ったのは、自己破産せず、毎月1万円ずつ8行に返済しているところで、返済期限は8,000年だとか9,000年だとかおっしゃられて豪快に笑っておられました。

 私「嘉穂のフーケモン」は、あっけにとられてその方の人生哲学を拝聴していましたが、耳が潰れておられることに気がつき、「柔道をされていたことがあるのですか。」と質問したところ、「講道館7段です。三船久蔵先生の書生をしておりました。」とのお返事。
 ますますもって、びっくら仰天!思わず、「ハハァ〜」と頭を下げてしまいました。
 
 三船久蔵先生は板橋村の常盤台にお住まいだったとかで、小島氏は学生時代に先生宅に住み込みで書生をしていたとのことです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:10Comments(0)板橋村ゆかりの人々

2006年08月19日

数学セミナー (11) − エントロピー

 

 Ludwig Boltzmann (1844〜1906)

 (旧暦  7月26日)

 義秀忌  昭和13年(1938)に「厚物咲」により第7回芥川賞を受賞した作家中山義秀の昭和44年(1969)年の忌日

 村議会の委員会で、「貴君は理科系出身だからエントロピーについては知っておるでしょう」と他会派の大先輩から云われて一瞬「ギクリ」としましたが、「ええ、まあ」とお茶を濁しておきました。
 そして昔、農学校の時代に、エントロピー概念が出てくる「熱力学」の試験で赤点を取り、再試験で単位を取った苦い思い出が蘇りました。出来れば、「エントロピー」とか「エンタルピー」と云う言葉は二度と聞きたくなかったのですが・・・・。

 その大先輩曰く、「実はエントロピーの法則を覆しエネルギー問題を解決できる画期的な大発明がなされて、近く発表される」とおっしゃられる。
 噂では、「水から水素を取り出してエネルギーとし、その水素をまた水に還元してリサイクルさせる装置だそうで、水素を抽出する特別なエネルギーもいらない△×※○・・・」

 水を分解して水素を抽出するためには多大な電力を要するはずで、現代科学においてはこのような「永久機関」の存在は否定されており、どうも胡散臭い話しに騙されておられるのではと思っておりましたが、今のところ、そのような大発明がなされたというニュースも聞かないし、きっとデマ話だったのでせう。

 エントロピーという概念は古典熱力学において初めて登場し、それは物質の状態が定まれば一意的に定まる量で、物質の状態の微小変化におけるエントロピーSの変化は次式で与えられます。

 

 ここでdQは物質の状態の変化に伴う熱量の微小変化であり、そのときの絶対温度がTになります。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:02Comments(0)数学セミナー

2006年08月11日

食べ物散歩(4)-全聚徳(王府井)

 

 全聚徳(チュエンジュドゥー)王府井(ワンフーチン)店の北京烤鴨(ベイジンカオヤー)

 (旧暦  7月18日)

 北京料理とは狭い意味では、中国の歴代王朝が北京に首都を定めるようになった時代つまり元代以降に宮廷貴族が食べてきた料理のことで、明代、清代に集大成され、清朝崩壊による宮廷料理人の流出とともに中国全土に広まったとされています。
 
 特徴としては宮廷料理であったため、手の込んだ繊細で見栄えのする料理が多く、また華北地方であるため、米や魚よりも小麦粉や獣肉を多用していることにあると云われています。
 
 その北京料理の中でも代表的で有名な料理に、北京烤鴨(ベイジンカオヤー)、通称北京ダックがあります。

 日本で北京ダックを食べると、だいたい1テーブル8〜10人に1羽なので、ほとんどの人がひと包みの北京ダックしか食べられず、「もっと食べたいなあ〜」と思うのですが、今回、北京烤鴨(ベイジンカオヤー)で有名な全聚徳(チュエンジュドゥー)の王府井(ワンフーチン)店に行き、6人で2羽の北京ダックを注文したため、さすがに油っこくなって飽きてしまいました。
 何事も、程々が宜しいようです。

 北京ダックのお店は数々あれど、特に有名な店は「全聚徳(ぜんしゅとく)」と云われています。
 全聚徳は、清朝の第10代同治帝(1856〜1875、在位1861〜1875)の同治3年(1864)に現在の崇文区前門大街32号で創業し、当時東安門の「東海坊」の料理長でかつては宮廷で豚やアヒルを焼いていた料理人李師傳を料理長として引き抜いてから今日の名声を博したと云われています。

 なおこの前門前聚德北京烤鴨店は当時の北京城の外城正陽門(前門)の外側にありましたが、現在ではこの場所は天安門広場までは徒歩で5分、紫禁城までは徒歩で20分程度の絶好の場所に位置しています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:46Comments(0)食べ物散歩

2006年08月10日

外つ国の旅(2)−中国(2)−八達嶺(2)

 

 北京ダックの有名店「全聚徳」で出されたサソリの唐揚げ

 (旧暦  7月17日)

 西鶴忌 江戸前期の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳人の井原西鶴の元禄6年(1693)の忌日(旧暦8月10日)。裕福な商家の出自と云われているが詳細は不明。
 西山宗因に師事して談林派の俳諧を学んだが、奔放で機知に富んだ句を詠む談林派の中でも特に自由奔放な作品を作り、「オランダ西鶴」と呼ばれた。また当時流行した、連続で多くの句を作る「矢数俳諧(大矢数)」では、一昼夜に2万3500句を詠む多数吟の最高記録を打ち立てている。
 残念ながら句そのものは伝えられていない。

 外つ国の旅(1)−中国(1)−八達嶺(1)のつづき

 さて、この堅固な八達嶺長城の守りも、歴史上一度だけ崩されたことがあるそうです。
 それは明の崇禎17年(1644)3月、八達嶺、居庸関を抜き、北京城を陥れた李自成(1606〜1645)率いる叛乱農民軍約50万からなる大順國東征軍でした。

 明朝最後の第17代崇禎帝 (すうていてい、1611〜1644、在位1628〜1644)は、たびたび関内(長城以南)に侵入して農耕民を拉致していく満州族に対する戦費捻出のために増税し、また郵駅と呼ばれた伝統的な駅伝制度を廃止したため、税金を払えない農民の逃亡が相次ぎ、失業した全国の駅夫(宿場人足)達は組織を挙げて叛乱に立ち上がりました。

 延安府米脂県(陝西省延安)出身の李自成(1606〜1645)は、自らが失業した駅夫の一人でしたが、2代目の闖王(ちんおう)として逃亡農民や失業駅夫からなる造反軍を率い、あくまでも明軍に抵抗しました。

 明の崇禎十七年(1644)正月、李自成は西安で即位の式典を執り行って国号を「順」、元号を永昌と定め、ただちに東征の軍を起こし、二月には山西最大の城市太原を陥落させ、代州(山西省忻州市代県)を攻略しました。

 このため抵抗が難しいと判断した北京防衛の要で大軍を擁する大同(山西省大同市)総兵(司令官)、宣府(河北省張家口市)総兵、居庸関総兵が次々と李自成軍に降り、北京は易々と陥落して明は滅亡したのでした。

 なお、八達嶺長城の南西約5㎞に位置する「八達嶺残長城」が2006年6月末から一般開放されていますが、同長城にある石峡関では、李自成率いる農民軍と明軍が激しい攻防戦を繰りひろげた場所で、李自成の農民軍はここを突破して北京城に迫ったとされています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:22Comments(0)外つ国の旅

2006年08月09日

外つ国の旅(1)−中国(1)−八達嶺(1)

 

 八達嶺「女坂」望楼より東西城楼および「男坂」を望む

 (旧暦  7月16日)

 太祇忌(不夜庵忌)  諸国を行脚した後出家し、京都大徳寺真珠庵に住まいを定めたが、その後京都九条朱雀野の通称島原遊郭に不夜庵と名付け定住した俳諧師炭太祇(不夜庵)の明和8年(1771)の忌日。安永、天明期に活躍し、与謝蕪村とも親交した。
 うつす手に 光る蛍や指のまた

 毎日暑い日が続きますが、大変ご無沙汰でございます。
 なんせ、しばらく黄砂吹き荒れる大陸の方に往っていたもんで。
 なんちゃって!

 実は私「嘉穂のフーケモン」は、板橋村と姉妹都市交流をしている中華人民共和国北京市石景山区への交流使節団の末席随員として、2008年のオリンピックの成功へ向けて建設の槌音かまびすしい北京市を訪問してきましたとです。

 まあ、公式行事はさておき(歓迎宴での乾杯の連続で疲れましたもんで)、かねてから一度は行ってみたいと思っておりました万里の長城を見学できましたことは、大変に良かったと思っておりますです。

 北京近郊での長城(The Great Walll)見学と云えば6ヶ所の有名スポットがあるそうですが、私「嘉穂のフーケモン」は7月の暑い最中、ご苦労さんにも北京北西80㎞にある最も代表的で見学客が多い八達嶺長城を見学してきました。

 八達嶺長城は明代に建設され、首都北京を防衛するために特に堅牢に作られていたようですが、それでも一般に公開されているところは大規模な修復が行われているそうです。

 東西の城楼は、明代の弘治十八年(1505)に建造され、東門には「居庸外鎮」、西門には「北門鎖鑰」と字が彫られています。また、この長城は、1987年に世界文化遺産に登録されています。

 北京でのガイドの黄さんの説明では、城楼の北側の階段のある長城を「女坂」、南側の険しい長城を「男坂」と呼んでいるそうですが、現地にはそのような案内はなく、愛宕神社や湯島天神ではあるまいし、何が「女坂」、「男坂」だと思っておりました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:48Comments(0)外つ国の旅