2009年10月27日
日本(38)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(10)

Sir Rudolf Ernst Peierls (1907~1995)
(旧暦 9月 10日)
松陰忌 明治維新の精神的指導者、二十一回猛士、松陰吉田寅次郎の安政6年(1859)10月27日の忌日。安政の大獄に連座し、大老井伊直弼の命により、江戸伝馬町牢屋敷にて斬首された。
今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼(たのみ)なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし。
日本(37)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(9)のつづき
イギリスに亡命したユダヤ人の理論物理学者ルドルフ・エルンスト・パイエルス(Rudolf Ernst Peierls、1907~1995)とオットー・フリッシュ (Otto Robert Frisch、1904~1979)は、当時所属していたバーミンガム大学物理学科の主任マーク・オリファント(Marcus Laurence Elwin Oliphant、1901~2000) の助言により、ウラニウム235の核分裂連鎖反応による原子爆弾の可能性を論じた二種類の覚書(The Frisch-Peierls memorandum)を作成しました。
それらの覚書はマーク・オリファントにより、1940年3月19日に防空科学調査委員会(The Committee on the Scientific Survey of Air Defence)の文民議長であったオックスフォードのサー・ヘンリー・ティザード(Sir Henry Thomas Tizard 、1885~1959) へ届けられました。
第一の覚書は、政府職員や軍人向けの平易な内容で原子爆弾の可能性の一般的な見解を述べています。また、第二の覚書は、より詳細に技術的な記述を含む内容になっています。
ところで、第一の覚書は、第2次大戦終了後20年ほど後に英国の作家ロナルド W.クラーク(Ronald William Clark 、 1916~1987)がサー・ヘンリー・ティザードの書類の間から発見したと伝えられています。
Memorandum on the Properties of a Radioactive "Super-bomb"
放射性「超爆弾」の特性に関する覚書
The attached detailed report concerns the possibility of constructing a "super-bomb" which utilises the energy stored in atomic nuclei as a source of energy. The energy liberated in the explosion of such a super-bomb is about the same as that produced by the explosion of 1,000 tons of dynamite. This energy is liberated in a small volume, in which it will, for an instant, produce a temperature comparable to that in the interior of the sun. The blast from such an explosion would destroy life in a wide area. The size of this area is difficult to estimate, but it will probably cover the center of a big city.
添付した詳細報告書は、原子核の中に蓄積されたエネルギーをエネルギー源として利用する「超爆弾」を作る可能性に関するものである。この超爆弾の爆発によって解放されるエネルギーは、ダイナマイト1,000トンの爆発によって生ずるエネルギーとほぼ同等である。このエネルギーは小さな容量の中で解放され、その中で瞬時に太陽内部と同等の高温を発生する。その爆発からの爆風は、広い範囲で生物を絶滅させるであろう。この範囲の大きさを推定することは難しいが、それは多分大都市の中心部におよぶ。
In addition, some part of the energy set free by the bomb goes to produce radioactive substances, and these will emit very powerful and dangerous radiations. The effects of these radiations is greatest immediately after the explosion, but it decays only gradually and even for days after the explosion any person entering the affected area will be killed.
更に、この爆弾によって解放されたエネルギーの一部は放射性物質を生成し、これらは非常に強力で危険な放射線を放射する。これらの放射線の影響は爆発直後に最大となり、非常に緩やかに崩壊するが、爆発後数日間は影響を受けた地域に立ち入った人は死亡するであろう。
Some of this radioactivity will be carried along with the wind and will spread the contamination; several miles downwind this may kill people.
この放射能の一部は風によって運ばれて、汚染を拡大する。その風下数マイルでは、おそらく人々を死亡させるであろう。
In order to produce such a bomb it is necessary to treat a substantial amount of uranium by a process which will separate from the uranium its light isotope (U235) of which it contains about 0.7 percent. Methods for the separation of such isotopes have recently been developed. They are slow and they have not until now been applied to uranium, whose chemical properties give rise to technical difficulties. But these difficulties are by no means insuperable. We have not sufficient experience with large-scale chemical plant to give a reliable estimate of the cost, but it is certainly not prohibitive.
このような爆弾を製造するには、そうとうな量のウラニウムを処理してその中に約0.7%含まれている軽い同位体(U235)を分離するという課程が必要になる。そのような同位体を分離する幾つかの方法が最近開発された。それらの方法は時間がかかり、今日に至るまでまだウラニウムには適用されていない。ウラニウムの化学的特質が技術的困難を高めている。しかしこれらの困難は決して克服できないものではない。我々は信頼できる経費を概算するに足りる大規模な化学プラントの経験がないが、多分ひどく高いものではないだろう。
It is a property of these super-bombs that there exists a "critical size" of about one pound. A quantity of the separated uranium isotope that exceeds the critical amount is explosive; yet a quantity less than the critical amount is absolutely safe. The bomb would therefore be manufactured in two (or more) parts, each being less than the critical size, and in transport all danger of a premature explosion would be avoided if these parts were kept at a distance of a few inches from each other. The bomb would be provided with a mechanism that brings the two parts together when the bomb is intended to go off. Once the parts are joined to form a block which exceeds the critical amount, the effect of the penetrating radiation always present in the atmosphere will initiate the explosion within a second or so.
これら超爆弾の特質として約1ポンド(454g)の「臨界規模」が存在する。臨界量を超える量の分離されたウラニウム同位体は、爆発する。まだ臨界量を超えない分量ならば、絶対に安全である。従って、この爆弾をそれぞれが臨界規模以下の二つ(又はそれ以上)の部分に分けて作り、輸送に際してはこれらの部分を互いに数インチだけ離しておけば、早まって爆発する危険を防ぐことができる。この爆弾を爆発させるときには、二個の部分を結合する仕組みが取り付けられる。この部分が臨界量を超える一つのブロックを形作るために接合されると、大気中に常に存在する透過性放射線の影響により一秒程度以内に爆発するであろう。
The mechanism which brings the parts of the bomb together must be arranged to work fairly rapidly because of the possibility of the bomb exploding when the critical conditions have just only been reached. In this case the explosion will be far less powerful. It is never possible to exclude this altogether, but one can easily ensure that only, say, one bomb out of 100 will fail in this way, and since in any case the explosion is strong enough to destroy the bomb itself, this point is not serious.
この爆弾の部分を結合させる仕組みは、臨界状態に達したときすぐに爆弾が爆発する可能性があるので、かなり急速に作動するように調整しなければならない。この場合、爆発は非常に弱い。それが起こる可能性は全く排除できないが、百発のうち例えばただ一発がこうした不具合を起こすだろうことは容易に保証できる。いずれにしても、その爆発は爆弾そのものを破壊するのに十分強力であるから、この点は重大ではない。
We do not feel competent to discuss the strategic value of such a bomb, but the following conclusions seem certain:
このような爆弾の戦略的な価値について論じる立場にはないが、下記の結論は信頼できると思われる: 続きを読む
2009年10月17日
やまとうた(25)-からす羽に かくたまずさの心地して

マガン 学名:Anser albifrons
(旧暦 8月29日)
夜に入りて雁を聞く
からす羽に かくたまずさの心地して 雁なきわたる夕やみのそら
西行法師家集 262
鴉(からす)の真っ黒な羽に墨でかかれている手紙を読むことは難しい。その鴉羽の手紙を受け取るようなおぼつかない気持になる。夕闇の空を雁の群れが鳴き渡ってゆくが、薄暗く、連なり飛ぶ姿が鴉羽の手紙の文字のように見えぬのだから。
この歌を詠んだ西行(1118~1190)は、その歌論書『西行上人談抄』の中で、次のように述べています。
さて歌はいかやうによむべきぞと問ひ申しゝがば、和歌はうるはしく可詠(よむべき)なり。古今集の體を本としてよむべし。中にも雜の部を常に可見(みるべし)。但、古今にもうけられぬ體の歌少々あり。古今の歌なればとて、その體をば詠ずべからず。心にも付きて優におぼえむ其風體の風理をよむべし・・・(中略)
春霞かすみていにし雁がねは 今ぞなくなる秋霧の上に
此歌を貫之中宮の御屏風に書きけるを、先づ春霞と書きたりけるを、秋の繪の所には春霞いかゞと申す人ありければ、筆をうちおきて不覺仕り候けりと云ひて、しばしありてみなみな書きたりければ、難じたる人かほあかめて心うげに思ひたりけり。
『西行上人談抄』は、『西公談抄』、『西行日記』、 『蓮阿記』ともよばれ、その弟子であった蓮阿(荒木田満良)が、西行から歌について聞書きしたもので、西行の歌論書となっています。
西行は、「和歌は麗しく詠むもの、古今集の歌風を手本として詠むべきである。その中でも、雑部を常に見るべきである。」と論じています。
雑部は述懐を主とした歌であり、西行の歌は述懐を重んじた姿勢がみられるとされています。
題しらず よみ人しらず
春霞 かすみていにしかりがねは 今ぞなくなる 秋ぎりのうへに
(古今集 210)
また西行は、古今集に載せられた紀貫之(866?~945)の従兄弟にあたる紀友則(845~907)の歌も意識裡においていたと推察されます。
是定のみこの家の歌合のうた とものり
秋風に 初雁がねぞきこゆなる たがたまずさを かけてきつらん
(古今集 207)
からす羽の玉章(たまずさ)の故事は、『日本書紀』の敏達天皇元年(572)五月丙辰(へいしん、十五日)の項に記載されています。
高句麗からからすの羽に書かれた表疏(国書)が届きましたが、羽も文字も黒いので、誰も読み解くことができません。
ここに、百済王の一族で已に帰化していた王辰爾(わしに)が、飯をふかす蒸気で羽を湿らせ、白い絹布を押し当てて文字を写し取り解読しました。
《欽明天皇卅一年》 (原漢文、嘉穂のフーケモン拙訳)
夏四月(うつき)甲申(こうしん)の朔(ついたち)乙酉(いつゆう)。泊瀬柴籬宮(はつせのしばかきのみや)に幸す。越人(こしびと)江渟臣裙代(えぬのおみのもしろ)京に詣で奏て曰く、「高麗(こま)の使(つかひ)人、風浪に辛苦して、迷(まよひ)て浦津(とまりつ)を失へり。水の任(まま)に漂流(ただよは)せて、忽に岸(ほとり)に到着す。郡司(こおりのつかさ)隠匿す。故に臣、顕(あらは)し奏(まう)す。」
詔(みことのりし)て曰く、「朕は帝業(きみつき)を承(うけ)て若干年(ととせあまり)。高麗(こま)路(みち)に迷ひ、始(はじめ)て越(こし)の岸(ほとり)に到り、漂溺(ただよひおぼる)に苦むと雖も、尚ほ性命(みいのち)を全(まつたう)す。豈に徽猷(よきのり)廣被して、至(いき)徳の魏(さかり)に魏(おほき)に、仁化(めぐみのみち)傍(あまね)く通ひて、洪(あふる)る恩(めぐみ)蕩(ひろ)く蕩(とをき)に非(あらざ)る者哉(か)。有司(つかさ)宜しく山背國(やましろのくに)相樂郡(さはらのこほり)に於て、館(むろつみ)を浄治(きよめはらひ)て起て、厚く相資(たすけ)養へ。」
第29代欽明天皇31年(570)、夏4月2日。天皇は、泊瀬柴籬宮(はつせのしばかきのみや、奈良県桜井市初瀬)に行幸された。
越(北陸地方)の人、江渟臣裙代(えぬのおみのもしろ)が京に詣で奏上して言うには、「高麗の使者が暴風雨のために港が分からなくなり、漂流してやっとのことで海岸に着きましたが、郡司がこれを報告せずに隠しているので、私がお知らせに参りました」と。
天皇は、「自分は皇位について若干年だが、高麗人が航路に迷い、初めて越(北陸地方)の浜に到着し、漂流に苦しみながらもその命をとりとめた。これは我が政治が広く行き渡り、徳が盛んで、仁があまねく通じ、大恩が果てしないことを示すものではあるまいか。有司(つかさ、朝廷の官僚)は、山背国相楽郡(京都府相良郡山城町)に館(むろつみ)を建て、厚く助けて養生させよ。」と詔(みことのり)した。
しかしこの翌年(572)四月に、欽明天皇が崩御したため、高麗の使者のことは顧みられませんでした。 続きを読む