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2009年01月31日

天文(10)-M1

 
 
 M1, the Crab Nebula. Courtesy of NASA/ESA by Wikipedia.

 (旧暦  1月 6日)

 M1といえばこの頃は、お笑いの島田紳助が企画し吉本興業が主催する漫才の選手権大会と勘違いされてしまいますが、このMはメシエ(Messier) の頭文字を取ったもので、フランスの天文学者シャルル・メシエ(Charles Messier 、1730~1817)が 彗星の探索に際して、彗星と紛らわしい103個の天体の一覧であるメシエ天体(Messier object)のカタログを作ったのが始まりとされています。

 "What caused me to undertake the catalog was the nebula I discovered above the southern horn of Taurus on September 12, 1758, while observing the comet that year.. had such a resemblance to a comet, in its form and brightness, that I endeavoured to find others, so that astronomers would not confuse these same nebulae with comets just beginning to shine." (Messier Connaissance des Temps 1800/1801 recorded in DSB).

 「私がこのカタログの作成に取りかかったのは、1758年9月12日、その年に見つかった彗星を観測中に、牡牛座の南側の角の上に発見した星雲が原因である。・・・この星雲はその形といい明るさといい、あまりにも彗星によく似ていたので、私は他にもこのようなものを見つけて、天文学者がこれらの同じ星雲を、ちょうど輝き始めた彗星と混同することのないようにしようとした。」

 彼はその動機を1801年版のフランスの年鑑『Connoissance des Temps』の中で前記のように説明しています。

 face05 La première publication du catalogue date de 1774 et regroupait les 45 premiers objets.

  メシエはM1からM45までを1771年2月にパリの科学アカデミーで発表し、それはその年の 『Mémoires de l'Academie』に掲載され、1774年に出版された。

 face08 Le catalogue final, qui comprenait 103 objets, fut achevé en 1781 et publié en 1784 dans le périodique Connaissance des Temps.

  メシエは1780年の4月までに68個のリストを作成し、フランスの年鑑 『Connoissance des Temps』1783年版に発表、その後、メシエの最終カタログには103個の天体が記載され、それは 『Connoissance des Temps』1784年版に発表された。

  さて、メシエが最初にカタログにリストアップした天体M1は、牡牛座の南側の角の上に発見した赤経05 h 34.5 m 、赤緯+22° 01' 、等級8.4等、距離6,300光年の超新星残骸である「かに星雲」(Crab Nebula)でした。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:52Comments(0)天文

2009年01月30日

漢詩(23)-蘇軾(1)-前赤壁賦(1)

 
 
 Engravings on a cliff-side mark one widely-accepted site of Chìbì, near modern Chibi City, Hubei by Wikipedia. The engravings are at least a thousand years old. 
 
 壁面の彫字が現在の湖北省赤壁市近郊、赤壁(Chibi)の地と広く受け入れられている地を示す。彫字は少なくとも千年を経ている。

 (旧暦  1月 5日)

 中国人のジョン・ウー(呉宇森)が監督を務め、三国志を映画化したアクション映画『レッド・クリフ』が話題をさらっていますが、呉の孫権、蜀の劉備連合軍と魏の曹操軍が長江の赤壁(湖北省赤壁市西北)で衝突した赤壁の戦いは、後漢末期の建安13年(208)のできごとでした。

 時代は下り、北宋の元豊2年(1079)8月18日、新法党の御使の讒言を受けて、湖州(浙江省呉興県)知事を解任され御史台の獄に下った蘇軾(1036~1101)は、拘禁100日におよび死に処せられんとせるも第6代皇帝神宗(在位1067~1085)の憐れみにより、12月29日、検校尚書水部員外郎を授けられ、黃州団練副使に充てられて黃州(湖北省武昌東南60Kmの長江左岸)に左遷されます。名目だけの地方官職を与えて、新法党の刃から逃したとされています。

 元豊5年(1082)秋7月、黃州に在った蘇軾は客と舟を三国志の古戦場、長江の赤壁に浮かべます。

 壬戌之秋、七月既望、蘇子與客泛舟、遊於赤壁之下。清風徐来、水波不興。挙酒蜀客、誦明月之詩、歌窈窕之章。少焉月出於東山之上、徘徊於斗牛之間。白露横江、水光接天。縦一葦之所如、凌萬頃之茫然。浩浩乎如馮虚御風、而不知其所止、飄飄乎如遺世独立、羽化而登仙。

 壬戌(じんじゆつ)の秋、七月既望(きぼう)蘇子客と舟を泛(うか)べて赤壁の下(もと)に遊ぶ。
 清風徐(おもむろ)に來(きた)つて、水波(すゐは)興(おこ)らず。酒を舉(あ)げて客に屬(しよく)し、明月の詩を誦(しよう)し、窈窕(えうてう)の章を歌ふ。
 少焉(しばらく)にして、月 東山の上に出(い)で、斗牛の閒(かん)に徘徊す。白露江に橫たはり、水光天に接す。一葦(いちゐ)の如(ゆ)く所を縱(ほしいまま)にして、萬頃の茫然たるを淩(しの)ぐ。
 浩浩乎(かうかうこ)として虛に馮(よ)り風に御して、其の止まる所を知らざるが如く、飄飄乎(へうへうこ)として世を遺(わす)れて獨立し、羽化(うくわ)して登仙するが如し。


 神宗(中国北宋の第6代皇帝、在位1067~1085)の元豊五年(1082)秋七月十六日、私(蘇軾)は客と共に舟を出して赤壁(湖北省黄岡県)のあたりに出かけた。
 爽やかな風はしずかに吹きわたり川面には波もおこらない。酒を汲んで客にすすめ、明月の詩を吟じ、詩経の国風、周南篇関雎(かんしよ)の窈窕(えうてう)の章を歌った。


 明月の詩

 『詩經』 國風 齊篇 東方之日
 東方の日よ 彼の姝(しゆ)たる者は子
 我が室に在り 我が室に在り 
 履(つ)いで我即(ゆ)かん

 東方の月よ 彼の姝(しゆ)たる者は子
 我が闥(たつ)に在り 我が闥(たつ)に在り
 履(つ)いで我發(た)たん


 東方に昇る太陽よ。
 その太陽のようなあなたと見まがうばかりのあの美しい若者が
 私の部屋にいるよ。 私の部屋にいるよ。
 私はあとについて行きます。

 東方に昇る月よ。
 その月のようなあなたと見まがうばかりのあの美しい若者が
 私の門の内にいるよ。 私の門の内にいるよ。
 私はあとについて出立します。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:32Comments(0)漢詩

2009年01月26日

演劇(3)-夏の夜の夢(2)

 
 "Una and the Lion" by Briton Rivière (1840-1920) from Wikipedia.

 Una, the personification of the "True Church". She travels with the Redcrosse Knight (who represents England), whom she has recruited to save her parents' castle from a dragon. She also defeats Duessa, who represents the "false" (Catholic) church and the person of Mary, Queen of Scots, in a trial reminiscent of that which ended in Mary's beheading. Una is also representative of Truth.

 Unaとは、スコットランドの詩人Thomas Percy (1729~1811)の叙事詩 “The Reliques of Ancient English Poetry”に登場する真実の教会」の擬人化です。 Unaは、彼女の親の城を竜から救うために募った(イギリスを代表する)the Redcrosse Knightと一緒に旅行します。 彼女はまた、 Maryの打ち首に終わった事件(1586年のバビントン事件;カトリックのアンソニー・バビントンがエリザベスⅠ世の暗殺を狙った事件)を偲ばせる裁判で、「虚偽の」(旧教の)教会の代理を務める Duessa とスコットランドの女王 Maryを打ち負かします。 Una はまた真実を象徴しています。

 (旧暦  1月 1日)

 演劇(2)-夏の夜の夢(1)のつづき

 Peasblossom! Cobweb! Moth! and Mustardseed!
 豆の花! 蜘蛛の糸! 蛾の羽根! 芥子の種!

 [Enter Four Fairies.]
 4匹の妖精登場

 FIRST FAIRY
   Ready.
 SECOND FAIRY
       And I.
 THIRD FAIRY
           And I.
 FOURTH FAIRY
              Where shall we go?


                     
 豆の花
   はい、ご用は?
 蜘蛛の糸
          ご用は?
 蛾の羽
              ご用は?
 芥子の種
                    なんでしょう?


 TITANIA
 Be kind and courteous to this gentleman; 
 Hop in his walks and gambol in his eyes;
 Feed him with apricocks and dewberries,
 With purple grapes, green figs, and mulberries;
 The honey bags steal from the humble-bees,
 And, for night-tapers, crop their waxen thighs,
 And light them at the fiery glow-worm's eyes,
 To have my love to bed and to arise;
 And pluck the wings from painted butterflies,
 To fan the moonbeams from his sleeping eyes:
 Nod to him, elves, and do him courtesies.
 -Shakespeare : A Midsummer-Night’s Dream, Ⅲ. i. 167-176


 タイターニア(妖精の女王)
 この方には失礼のないように;
 お歩きになる処では跳ね回り、お目々のまわりでは飛び回り;
 お食事にはアンズや木イチゴ、
 紫ブドウ、緑のイチジク、クワの実を;
 ぶんぶんバチから蜜袋を盗んでおいで、
 ろうそくの代わりには蠟まみれの腿を切り取っておいで、
 それを燃え立つようなホタルの目で灯すのよ、
 あの方が寝起きのときに使うため;
 それからきれいなチョウの羽を引き抜いて、
 眠っておいでのあの方のお目に、月の光があたらぬようにあおぐのよ;
 うとうとさせるのよ、あの方を、妖精たち、優しくね。
  [ 第三幕第一場 森 ]  嘉穂のフーケモン拙訳
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:37Comments(2)演劇

2009年01月10日

北東アジア(35)-リットン報告書(3)

 
 
 関東軍司令官本庄繁大将 (1876〜1945)

 (旧暦 12月15日)

 北東アジア(34)-リットン報告書(2)のつづき

 さて、同報告書は、日中両国の紛争解決に向けて、第10章で大きく分けて以下のような提議を行っています。

 1. 東三省(遼寧省・吉林省・黒竜江省=満洲)は、中国中央政府の権力と自治地方政府の権力とを区分すべきである。この自治政府には、外交、税関、郵便等の中央政府に帰属する管理を除き、充分なる行政権が帰属される。

 2. 満洲は漸次非武装地帯とし、外国人教官の協力のもとに特別憲兵隊を組織すべきである。この憲兵隊は、東三省に於ける唯一の武装隊であるべきである。

 3. 自治政府の執政は適当数の外国人顧問を任命すべく、その内日本人が充分なる割合を占めることが必要である。しかし、これらの外国人顧問及び官吏の任用は、中国政府の受諾し得るべき形式により、中国の主権に合致する方法に於いて選任せらるべきである。

 4. 南満洲鉄道及び日本国民の既得権を保障しつつ、日中両国は「不可侵条約」、「通商条約」を結ぶべきである。もしソビエト連邦政府がこれに参加を求めるのであれば、別途三国協定中に適当なる条項を包含させればよい。

 
 こうして、245頁にわたる英文報告書は次のように結びます。

 Our work is finished.
 Manchuria for a year past has been given over to strife and turmoil.
 The population of a large, fertile and rich country has been subjected to conditions of distress such as it has probably never experienced before. ・・・・・・・・・・


 吾人の任務は終了せり。
 満洲は過去一年間争闘及び混乱に委せられたり。
 広大、肥沃且つ豊穣なる満洲の人民は恐らく曾て経験したることなき悲惨なる状態に遭遇せり。
 日支両国間の関係は仮装せる戦争関係にて将来に付いては憂慮に堪えざるものあり。
 吾人は右の如き状態を創造せる事情に関し報告せり。
 何人と雖も連盟の遭遇せる問題の重大性及び其の解決の困難に付き充分了知する所なり。
 吾人は其の報告を完了せんとする際新聞紙上において日支両国外務大臣の二個の声明を閲読せるが其の双方に付き最も重大なる一点を抜粋すべし。
 八月二十八日羅文幹(外交部長:外務大臣、1888~1941)は南京に於いて左の如く声明せり。  

 「支那は現事態の解決に対する如何なる合理的なる提案も連盟規約、不戦条約及九国条約の条章及び精神並びに支那の主権と両立すべきものたるを要し又極東に於ける永続的平和を有効に確保するものたるを要すと信ず。」

 八月三十日内田伯(外務大臣・伯爵内田康哉、1865~1936)は東京に於いて左の如く声明せりと伝えらる。

 「帝国政府は日支両国関係の問題は満蒙問題より更に重要なりと思惟す。」

 吾人は本報告書を終了するに当り右両声明の基調を為す思想を再録するを以て最も適当と思考するものなり。右思想は吾人の蒐集せる証拠、問題に関する吾人の研究、従って吾人の確信と正確に対応するものにして吾人は右声明により表示せられたる政策が迅速 且つ有効に実行せらるるに於ては必ずや極東に於ける二大国及び人類一般の最善の利益に於いて満州問題の満足なる解決を遂げ得べきを信ずるものなり。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:29Comments(0)歴史/北東アジア

2009年01月09日

北東アジア(34)-リットン報告書(2)

 

 満鉄線柳条湖爆破現場 by Wikipedia.

 (旧暦 12月14日)

 青々忌  ホトトギス派の俳人松瀬青々の昭和12年(1937)年の忌日。
 その句は子規にも認められ、明治34年(1901)、武石巨石、湯村月村らと俳誌「宝船」を創刊、大正14年(1925)、「宝船」を「倦鳥」と改め、没するまで編集し、西村白雲卿、塚本虚名、武定巨石、古屋秀雄らの俊英を育てた。芭蕉研究にも努めた。 

   友禅を着たる使や 菊の花
   風呂吹の とろりと味噌の流れけり 
   七草の粥のあをみや いさぎよき 


 北東アジア(33)-リットン報告書(1)のつづき

 リットン報告書は、中国側の主張をかなり認めていますが、一方、当時の国際連盟の常任理事国であった大日本帝国(The Empire of Japan)側の主張にも配慮しています。

 1. 中国側の日本製品不買運動が広範囲の日本側世論の対中国感情に惨憺たる反響を起こした点については、物質的影響に劣らず重大である。この日本製品不買運動が、日中関係を深く悪化させた原因のひとつであることは疑う余地がない。

 The psychological effect of the boycott on Sino-Japanese relations, although even more difficult to estimate than the material effect, is certainly not less serious in that it has had a disastrous repercussion on the feelings of large sections of Japanese public opinion towards China.

 Anyway there is no doubt that the boycott has been amongst the causes which have profoundly embittered the relations between China and Japan in recent years.
 CHAPTER Ⅶ.
 JAPANESE ECONOMIC INTERESTS AND THE CHINESE BOYCOTT. (P-206)


 2. 日中両国の貿易上の相互依存と両国の利益のためには経済的近接が必要だが、両国の政治的関係が険悪で一方が兵力を、他方が不買運動という経済的武器を用いる間は、かくの如き接近は不可能である。

 The interdependence of the trade of these two neighbouring countries and the interests of both call for an economic rapprochement, but there can be no such rapprochement so long as the political relations between them are so unsatisfactory as to call forth the use of military force by one and the economic force of the boycott by the other.
 CHAPTER Ⅶ.
 JAPANESE ECONOMIC INTERESTS AND THE CHINESE BOYCOTT. (P-211)
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:06Comments(0)歴史/北東アジア

2009年01月07日

北東アジア(33)-リットン報告書(1)

 

 Lytton Commission members in Shanghai (Lord Lytton wearing coat in center of photo).

 (旧暦 12月 12日)

 夕霧忌 日本三大遊郭の一つ京都島原の遊女で、大坂新町の扇屋に引き抜かれた実在の名妓夕霧が病死した延宝6年(1678)の忌日。
 初代坂田藤十郎((1647~1709))は和事の創始者として知られ、特に代表的な役が傾城夕霧との情話で有名な藤屋伊左衛門である。
 その第一作「夕霧名残の正月」は延宝6年(1678)、夕霧がなくなった翌月に初演されたといわれているが、台本が残っていないので、詳しい内容はわかっていない。

 

 昭和7年(1932)10月10日初版発行の国際連盟協会叢書百十五輯(しゅう)、外務省仮訳による『リットン報告書』(国際連盟協会発行)の復刻版を、となり村の中央図書館で見つけました。

 『リットン報告書』とは、正式名称を『日支紛争に関する国際連盟調査委員会の報告』(The Report of the Commission of Enquiry into the Sino-Japanese Dispute)と云い、国際連盟によって満州事変や満州国の調査を命ぜられたイギリスのヴィクター・リットン卿(Victor Alexander George Robert Bulwer-Lytton, 2nd Earl of Lytton, 1876~1947)を団長とする、国際連盟日支紛争調査委員会より派遣された調査団の報告書です。

 満洲事変(Manchurian Incident)は、昭和6年(1931)9月18日夜22時20分、奉天(瀋陽)郊外の柳条湖で、旧帝国陸軍の関東州(遼東半島)駐劄部隊である関東軍の一部が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満洲(中国東北部)全土の占領を経て、昭和8年(1933)5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争を指し、中国側では九一八事變と呼ばれています。

 戦後明らかになった事実では、満鉄線路の爆破という謀略で武力発動の口火をきる任務は、奉天(瀋陽)北方約20kmの虎石台に駐屯していた独立守備歩兵第二大隊第三中隊(中隊長川島正大尉)の担当であり、実際に爆破工作にあたったのは、隊付将校河本末守中尉と小杉喜一軍曹ほか5名であったとされています。

 1932年1月に国際連盟(League of Nations)によって結成されたリットン調査団の委員は次の5名でした。

 face01 ヴィクター・リットン卿 (イギリス) 56歳 :枢密顧問官、元インド総督
 face02 アンリ・クローデル陸軍中将 (フランス) 62歳 :フランス植民地軍総監
 face03 アルドロバンディ伯爵 (イタリア) 56歳 :外交官
 face04 ハインリッヒ・シュネー博士 (ドイツ) 61歳 :国会議員、元ドイツ領東アフリカ総督
 face05 フランク・ロス・マッコイ陸軍少将 (アメリカ) 59歳
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:20Comments(0)歴史/北東アジア

2009年01月04日

となり村名所あんない(32)−港村(8)−愛宕山

 

 「品川 日乃出」 歌川広重 『東海道五十三次』 by Wikipedia
 御殿山の麓を通過する大名行列の最後尾を描いている。現在、海は埋め立てられて、当時の月の名所の面影はない。

 (旧暦 12月 9日)

 我が板橋村より、となり村の名所の方が多く、書くことにも事欠かないのは仕方のないことですが、となり村の名所を書くためには、基本的にはランニングで現地まで行っているため、このところ、遠くまで走らなければなりません。
 しか~し、旧東京市内(23区内)ならば、何とかなるでしょう。

 と云うことで大晦日の早朝、走り納めに板橋宿からライバルの品川宿までLSD(Long Slow Distance:ゆっくりと長い時間をかけて一定距離を走るトレーニング)をしてきました。
 板橋宿(上宿)から日本橋までは2里25町33間(10.643km)、日本橋から品川宿(北宿)まで2里(7.855km)だから、あれこれ寄り道しながら20km程度走ったのでしょう。

 徳川家康は、天正18年(1590)、当時葦の生い茂る寒村に過ぎなかった江戸に入国して以来、諸街道の整備を進めてきました。
 江戸日本橋を基点として、1里を36町(4km弱)に統一し、江戸を中心とした東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五街道に榎を植えた一里塚を築かせ、これを全国に広げました。

 また、江戸四宿と呼ばれる日本橋に最も近い宿場町を整備させました。

 face03 東海道品川宿 
   慶長6年(1601年)に中世以来の港町、品川湊の近くに設置され、北宿、南宿、新宿にわかれていました。

 face07 甲州街道内藤新宿
   当初、甲州街道には慶長7年(1602)に高井戸宿が設けられましたが、日本橋から4里(16km)余りもあり、距離が長く、旅人は難儀をしたとのことです。
   その後、寛永3年(1625)には住民の願いにより太宗寺門前の町屋(新宿2丁目)ができ、これを内藤宿と呼ぶようになりました。
   元禄11年(1698)、当時の浅草安倍川町の名主であった喜兵衛ほか同志4人が5,600両の上納とともに宿場開設を願い出て、翌年、内藤家の中屋敷の敷地を一部利用して宿場が開設されました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:19Comments(0)となり村名所あんない