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2012年04月17日

となり村名所あんない(34)−文京村(4)−水戸藩上屋敷

 
 
 
 Bunken Edo oezu : kan / Fusai Mori. Ansei 5 [1858] 分間江戸大絵圖 安政5年 小石川水戸藩邸上屋敷
 
 (旧暦3月27日)
 
 家康忌
 神君徳川家康公の元和二年(1616)四月十七日の命日。家康が亡くなったのは、天ぷらによる食中毒ではなく、胃がんで亡くなったという説が主流となっている。

 文京村の小石川の地には、江戸時代には常陸水戸藩徳川家35万石の上屋敷がありました。敷地面積101,831坪。現在は、東京ドームや後楽園遊園地などの娯楽施設がありますが、当時の名庭園「後楽園」も残されています。

 旧水戸藩上屋敷は、神田川より山の手台地の一部である小石川台地の南端が神田川沿いの低地に臨むところまで、横は水道橋、小石川橋から飯田橋の近くまでの広大な敷地を有していました。

 威公上曾て代官町御邸に御座なされ候節、山水を好ませたまひて、江府の御邸に山水を経營せむとおぼしめしたまひ、德大寺左兵衛(上杉右近大夫宇都宮弥三郎と同じく並びてこれを高家といふ)に命ぜられ、その宜き地形をえらばしめたまふに、小石川本妙寺吉祥寺の邊、山水のいとなみ然るべき地形なりといふ。則将軍家へ請はせられければ、台命有て、やがて本妙寺を丸山へ、吉祥寺を駒込へうつさせたまひて、本藩の御邸となる。(小石川御中屋敷と称す) そのときこの地数百年の喬木しげりて、當時人力の及ぶべからざる形勢なり。
 (後略)
 後樂紀事  源眞興撰


 小石川の水戸藩上屋敷は、徳川家康の十一男、水戸徳川家の藩祖徳川頼房(1603〜1661)が徳川二代将軍秀忠に願い出て、寛永六年(1625)に7,6689坪の敷地を与えられたことに始まります。
 この上屋敷は、当初は中屋敷として建築されました。もともと徳川御三家の邸宅は江戸城本丸から紅葉山の背面にかけて配置されていましたが、明暦三年(1657)の大火を契機に城外に移され、水戸家は小石川の中屋敷を上屋敷と定めた経緯があります。
 
 また、江戸初期の大名庭園である「後楽園」は、藩祖威公(徳川頼房)が造営を命じ、二代藩主徳川光圀(1628〜1701)の代に完成しています。
「後楽園」の名前の由来は、中国北宋の政治家、文人であった范仲淹(989〜1052)が著した『岳陽楼記』の一節から、光圀に招聘された明の遺臣朱舜水(1600〜1682)が名付けたと云われています。

 (前略)
 明遺民舜水(朱之瑜)に命ぜられて、御園の名をえらばせられし時に、宋の范文正の、士當先天下之憂而憂、後天下之樂而樂の語をとりて、後樂園と名付けられて、御屋形より御園への唐門にも右の三字を書して扁額となせり。
 (後略)
 後樂紀事  源眞興撰


 嗟夫、予嘗求古仁人之心、或異二者之為、何哉。不以物喜,不以己悲。居廟堂之高、則憂其民、處江湖之遠、則憂其君。是進亦憂、退亦憂。
 然則何時而樂耶。其
必曰先天下之憂而憂、後天下之樂而樂歟。噫微斯人、吾誰與歸。
  『岳陽樓記』   范仲淹


 嗟夫(ああ)、予(われ)、嘗(かつ)て古仁人之心を求むるに、或はニ者之爲(しわざ)に異なるは、何ぞや。物を以て喜ばず、己を以て悲しまず。廟堂之高きに居らば、則ち其の民を憂へ、江湖之遠きに處らば、則ち其の君を憂ふ。是れ進むも亦憂へ、退(しりぞ)くも亦憂ふ。

 然らば則ち何(いづ)れの時にしてか樂しまん。其れ必ず天下の憂(うれへ)に先んじて憂へ、天下の樂(たのしみ)に遅れて樂しむと曰はんか。噫(ああ)斯の人微(な)かりせば、吾誰と與(とも)にか歸せん。

 范仲淹(989〜1052)は、字は希文、蘇州呉縣(江蘇省蘇州市)の人。北宋の端拱二年(989)八月二日、武寧軍(徐州)節度掌書記であった范墉の第三子として、徐州の官舎に生まれました。
 仲淹二歳の時に父を喪い、後妻であった母謝氏は夫の故郷蘇州に帰ることができず、長山(淄州長山縣、山東省)の朱氏に再嫁したのでその姓に従って名を説と改めましたが、長ずるに及んでその出自を知り本姓の范氏に戻しています。

 大中祥符四年(1011)、應天府書院に入学して苦学し、大中祥符八年(1015)の進士科に九十七番目(中間)の順位で合格して、廣德軍(安徽)司理参軍となり獄訟の処理を担当しました。
 当時、科挙の進士科に及第した者は、状元(一甲第一名)、榜眼(一甲第二名)、探花(一甲第三名)の三名が直ちに正官(京官)に任官し、他は幕職州縣官という官僚見習いからスタートしました。

 その後、正式の官員となって本格的に政治の舞台で活躍しようとした矢先に、母である謝氏の死に会い、5年間の喪に服すことになります。
 仲淹はこの喪中、左遷されて知宣州(宣州知事)となり、間もなく南京留守として應天府に来た著名な晏殊(991〜1055)と知り合うことになり、晏殊に請われて母校である應天府學の教鞭を執ります。

 每感激論天下事、奮不顧身、一時士大夫矯厲尚風節、自仲淹倡之。
 (宋史 卷314 列傳第73 范仲淹) 


 天下の事を論ずる毎に感激し、身を顧りみず奮ひ、一時士大夫を矯厲(欠点を改めつとめはげむ)し風節を尚(たつと)び、仲淹自ら之を倡(とな)ふ。

 その後、晏殊の推薦によって宮廷図書館の書籍を校勘する秘閣校理となり、ようやく四十にして念願の朝廷で勤めることになります。
 范仲淹は宋代士風の形成者の一人とされ、儒教中興の祖である朱熹(1130〜1200)が撰した《五朝名臣言行錄》にも文章が収められています。
 六経(易、書、詩、礼、楽、春秋)に通じ常に天下を論じては感激して、一身を顧みず奮い立ったと云います。文章に優れ、『范文正公詩余』、『范文正公集』 24巻などがあります。


 岳陽樓記       范仲淹
 慶曆四年春、滕子京、謫守巴陵郡。越明年、政通人和、百廢具興。乃重修岳陽樓 、增其舊制、刻唐賢今人詩賦於其上、屬予作文以記之。

  予、觀夫巴陵勝狀、在洞庭一湖。銜遠山、吞長江、浩浩湯湯、橫無際涯、朝暉夕陰、氣象萬千。此則岳陽樓之大觀也。前人之述備矣。
 然則北通巫峽、南極瀟湘、遷客騷人、多會於此。覽物之情、得無異乎。

  若夫霪雨霏霏、連月不開、陰風怒號、濁浪排空、日星隱耀、山岳潛形、商旅不
行、檣傾楫摧、薄暮冥冥、虎嘯猿啼、登斯樓也、則有去國懷鄉、憂讒畏譏、滿目蕭然、感極而悲者矣。
  至若春和景明、波瀾不驚、上下天光、一碧萬頃、沙鷗翔集、錦鱗游泳、岸芷汀蘭、郁郁靑靑、而或長煙一空、皓月千里、浮光躍金、靜影沈璧、漁歌互答此樂何極。登斯樓也、則有心曠神
怡、寵辱偕忘、把酒臨風、其喜洋洋者矣。

  嗟夫、予嘗求古仁人之心、或異二者之為、何哉。不以物喜,不以己悲。居廟堂之高、則憂其民、處江湖之遠、則憂其君。是進亦憂、退亦憂。
 然則何時而樂耶。其
必曰先天下之憂而憂、後天下之樂而樂歟。噫微斯人、吾誰與歸。

 時六年九月十五日。


 慶暦四年春、滕子京、謫(たく)せられて巴陵郡に守たり。越えて明年、政(まつりごと)通じ人和し、百廢具(とも)に興(おこ)る。乃ち岳陽樓を重修し、其の舊制を增し、唐賢今人の詩賦を其の上に刻し、予に屬(しよく)して文を作りて以て之を記せしむ。

 予、夫(か)の巴陵の勝狀を觀るに洞庭の一湖に在り。遠山を銜(ふく)み、長江を呑み、浩浩湯湯(しやうしやう)として、横(ほしいまま)に際涯無く、朝睴夕陰、氣象萬千。此れ則ち岳陽樓之大観なり。前人之述備はれり。

 然れば則ち北のかた巫峡(ふけふ)に通じ、南のかた瀟湘(せいしやう)を極めて、遷客騒人、多く此に會す。物を覽(み)るの情、異なること無きを得んや。

 夫の霪雨(いんう)霏霏(ひひ)として、連月開けず、陰風怒號し、濁浪空を排し、日星曜(ひかり)を隱し、山岳形を潛(ひそ)め、商旅行かず、檣傾き擑(しふ)摧(くだ)け、薄暮冥冥、虎嘯き猿啼くが若き、斯の樓に登らんか、則ち國を去り鄉を懷(おも)ひ、讒を憂へ譏を畏れ、滿目䔥然として、感極りて悲しむ者有らん。

 春和(やはら)ぎ景明かに、波欄驚かず、上下天光、一碧萬頃、沙鷗翔集し、錦鱗游泳し、岸芷汀蘭、郁郁靑靑として、或は長煙一空、皓月千里、浮光金を躍らせ、靜影璧(たま)を沈め、漁歌互に答ふるが若きに至りては、此の樂(たのしみ)何ぞ極らん。斯の樓に登らんか、則ち心曠く神(しん)怡(よろこ)び、寵辱皆忘れ、酒を把(と)りて風に臨み、其の喜(よろこび)洋洋たる者有らん。

 嗟夫(ああ)、予(われ)、嘗(かつ)て古仁人之心を求むるに、或はニ者之爲(しわざ)に異なるは、何ぞや。物を以て喜ばず、己を以て悲しまず。廟堂之高きに居らば、則ち其の民を憂へ、江湖之遠きに處らば、則ち其の君を憂ふ。是れ進むも亦憂へ、退(しりぞ)くも亦憂ふ。
 
 然らば則ち何(いづ)れの時にしてか樂しまん。其れ必ず天下の憂(うれへ)に先んじて憂へ、天下の樂(たのしみ)に遅れて樂しむと曰はんか。噫(ああ)斯の人微(な)かりせば、吾誰と與(とも)にか歸せん。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:10Comments(0)となり村名所あんない