さぽろぐ

  文化・芸能・学術  |  札幌市中央区

新規登録ログインヘルプ


2006年04月29日

となり村名所あんない(26)−新宿村(1)−学習院旧正門

 

 重要文化財 学習院旧正門
 昭和48年(1973)6月2日 文部大臣指定
 所在地 戸山三丁目二十番一号
 所有者 学校法人 学習院

 (旧暦  4月 2日)

 連休初日、板橋村から豊島村池袋、明治通り(東京都道305号芝新宿王子線)を南下して戸山、新宿御苑経由、四谷4丁目から新宿通り(旧甲州街道)を四谷、半蔵門、内堀通りを降って桜田門まで約12?強をトレーニングを兼ねて走ってきましたが、途中、諏訪町交差点を過ぎて100mばかり走った戸山3丁目20番の道路脇に、日章旗を掲げた古めかしい鋳鉄製の門が建っていました。

 この鋳鉄製の門は、現在、学習院女子大学、学習院女子高等科、学習院女子中等科の正門として使用されている門で、はじめは明治10年(1878)に華族学校(学習院)が神田錦町に開かれた時に正門として建てられたものだそうです。

 製作は埼玉県川口市の鋳物工場で、唐草文様をあしらった和洋折衷の鉄門は、左右に脇柱と袖塀をもち、本柱と本柱の間は5.54メートル、本柱と脇柱の間は1.7メートルと規模の大きなもので、明治初期の文明開化時の様式と技術を伝える貴重な文化財であるとして、国の重要文化財に指定されています。

 学習院の沿革は、弘化4年(1847)、第120代仁孝天皇(1800〜1846)の意を受けて京都御所内に設けられた公家を対象とした教育機関である「学習所」を淵源とし、明治維新を経て明治10年(1877)に華族学校が創立、10月17日に明治天皇、皇后親臨のもと開業式が行われ、勅諭により「学習院」の名称が定まり、後に勅額が下賜されたとのこと。

 明治19年(1886)に神田錦町の校舎の中心部が火災により焼失したため、学習院は明治21年(1888)に麹町区三年町(現在の港区虎ノ門)に移転、さらに明治23年(1890)には四谷区尾張町(現在の新宿区四谷)に移転、その後、明治41年(1908)に中等学科、高等学科は北豊島郡高田村(現在の豊島区目白)への移転しましたが、初等学科は四谷にとどまり、学習院初等科として現在に至っています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:17Comments(0)となり村名所あんない

2006年04月26日

やまとうた(18)−しつやしつしつのをたまきくり返し(2) 

 

 キンポウゲ科 オダマキ(苧環) 学名:Aquilegia buergeriana

 (旧暦  3月29日)
 
 やまとうた(18)−しつやしつ しつのをたまきくり返し(1)のつづき 

 高木彬光(1920〜1995)氏が昭和33年(1958)に発表した推理小説に『成吉思汗の秘密』というのがありますが、成吉思汗(ジンギスカン)を万葉仮名として読み下せば、 成吉思汗(なすよしもがな)つまり静御前の歌の下の句「むかしをいまになすよしもかな」への返歌になっているとの説や、「成吉思汗−吉成りて汗を思ふ=吉野山の誓成りて水干(白拍子=静)を思う」との秘密が隠されているという内容には、思わず引き込まれたものでした。

 一ノ谷の戦いの後の元暦元年(1184年)8月6日、除目(ぢもく:各官職を任命する儀式)が行われ、九郎義経は後白河法皇の意により左衛門少尉と検非違使少尉(判官)に任官し、従五位下に叙せられて院への昇殿を許されました。左衛門尉と検非違使とを兼職した場合には廷尉(ていじょう)と俗称されたため、義経は以後、九郎判官あるいは廷尉と呼ばれるようになりました。

 同じき八月六日の日、除目行はれて、大將軍蒲冠者範頼、參河守になる。九郎冠者義經、左衛門尉になる。則ち使(つかひ)の宣旨を蒙りて、九郎判官とぞ申しける。
 [平家物語 巻十 十四藤戸の事]

 翌元暦2年(1185)3月24日に平家が長門の壇ノ浦で滅亡したのち、同年4月15日に頼朝は、内挙(内々の推挙)を得ず朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、京での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じました。

 関東の御家人、内挙を蒙らず、功無くして多く以て衛府・所司等の官を拝任す。各々殊に奇怪の由、御下文を彼の輩の中に遣わさる。件の名字一紙に載せ、面々その不可を注し加えらると。
 下す 東国侍の内任官の輩中
 本国に下向することを停止せしめ、各々在京し陣直公役に勤仕すべき事
     (以下略)
 [吾妻鑑 元暦2年4月15日 戊辰]


 つまり、義経を初めとする関東の御家人が頼朝に許可なく官位を受けたことは、頼朝の大きな不信を招きました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:49Comments(0)やまとうた

2006年04月25日

中生代(7)−ジュラ紀(1)−魚竜

 

 レプトネクテス・テヌイロストリス(Leptonectes tenuirostris)  
 Conybeare 1822 イギリス ドーセット州 ライム・リージス 国立科学博物館

 (旧暦  3月28日)

 御忌(ぎょき) 平安末期から鎌倉初期の僧侶で浄土宗の開祖法然の忌日法会。実際の忌日は建暦2年1月25日(ユリウス暦1212年2月29日)だが、明治10年(1877)から厳寒の1月をさけて気候のよい陽春4月に変更され、今日に至っている。

 約80種類以上に分類されている魚竜類(Ichthyosauria:イクチオサウリア)は、約2億4500万年前の中生代(Mesozoic)三畳紀(Triassic)から約9000万年前の中生代白亜紀(Cretaceous)に渡る1億5500万年以上もの間繁栄していました。

 その完全骨格は、メアリー・アニング(Mary Anning)(1799〜1847)という女性により、1811年にイギリス南部の町ライム・リージス(Lyme Regis)の海岸のジュラ紀層の崖から発見されました。
 彼女は、イギリス・ドーセット州(Dorset)ライム・リージスの出身で、化石を売ることで収入を補っていた大工の娘でしたが、彼女が10歳のときに父親が亡くなり、それ以後、化石を売る仕事を始めたようです。そして、最も著名な女流化石収集家になりました。

 関節のつながった魚竜の完全骨格(1810)と長頸竜骨格(1823)の世界最初の発見、イギリスでの翼竜の最初の発見(1828)を含めて、いくつかの劇的な発見が彼女によってなされています。
 そのため有名な『古生物百科事典』(The Encyclopaedia of Prehistoric Life)にも彼女についての一項目が載せられています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:15Comments(0)中生代

2006年04月24日

やまとうた(17)−しつやしつしつのをたまきくり返し(1) 

 

 静御前(菊池容斎画、明治時代)

 (旧暦  3月27日)

 しつやしつ しつのをたまきくり返し  むかしをいまになすよしもかな (静御前)

 静御前と義経の悲恋の物語は、南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられている源義経とその主従を中心に書いた軍記物語『義経記』に詳しく書かれていますが、鎌倉時代に成立した歴史書である『吾妻鏡』にも静御前に関する記述が見られ、あながち単なる物語というわけでもないようですね。

 平家を滅ぼした後、義経は兄頼朝と対立し朝敵として追われることになりますが、頼朝が義経と対立した原因は、頼朝に許可なく官位を受けたことのほか、軍監として義経の平氏追討に従っていた梶原景時との対立による讒言があり、また平家追討の功労者である義経の人望が源氏の棟梁である頼朝を脅かすことを怖れたことが指摘されています。

 静御前は、義経が京を落ちて西国の菊池氏を頼って九州へ向かう際に同行しましたが、義経一行の船団は途中暴風のために難破し、主従散り散りとなってともに摂津に押し戻されてしまいました。

 そこで義経は郎党や静御前を連れて吉野に身を隠しましたが、吉野で義経と別れて京へ戻る途中で従者に持ち物を奪われて山中をさまよっていた時に、山僧等に捕らえられて京の北白川へ引き渡され、文治2年(1186)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られてしまいます。

 静女の事、子細を尋ね問わるると雖も、豫州(伊豫の守義経)の在所を知らざるの由申し切りをはんぬ。
当時彼の子息を懐妊する所なり。産生の後返し遣わさるべきの由沙汰有りと。
 [吾妻鑑 文治2年3月22日 庚子]
  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:11Comments(0)やまとうた

2006年04月23日

漢詩(14)−白居易(3)−琵琶行(3)

 

 九江烟水亭

 (旧暦  3月26日)

 漢詩(13)−白居易(2)−琵琶行(2)のつづき


 序文で九江郡という秦代(B.C.221〜B.C.206)に設置された古称で呼ばれている江州は、現在では長江中流域の江西省九江市という人口450万人を擁する重要港湾都市になっていますが、白居易が左遷された中唐の頃は、蘆や荻(おぎ)が一面に茫々と生い茂った低湿地に位置する寒村でした。

 白居易があてがわれた司馬という官職は州の長官である州刺史の補佐役でしたが、この当時の州刺史の権限は節度使と呼ばれた軍政権と民政権を併せ持った藩鎮の有力者に握られており、その補佐役たる司馬は名目だけの役職で、左遷された者にあてがう名ばかりの閑職だったようです。

 最後の句で白居易は、自分のことを江州司馬と称していますが、司馬の位(従五品下)に許された緋色の衣ではなく、最下位の官職(従九品下)の身分の者が着る青衫(せいさん:青いひとえの短い衣)と自嘲的に表現しているところに白居易の鬱屈した心情が吐露されており、「同じく是れ天涯 淪落(落ちぶれる)の人」と云うのが、この詩全編を貫く主題となるようです。


 沈吟し 撥(ばち)を放ちて  絃中に插(さしはさ)み
 衣裳を整頓して  起ちて容(かたち)を斂(をさ)む
 自ら言ふ  本(もと)是れ京城(帝都長安)の女(むすめ)
 家は蝦蟆陵(がまりょう:長安の東南郊外)下に在りて住めり
 十三に 琵琶を學び得て 成り
 名は 教坊(歌舞を教えるところ)の  第一部に屬す
 曲 罷(をは)りては 曾(かつ)て善才(琵琶の名人)をして 伏さしめ
 妝(よそほ)ひ成りては(美しく装う)  毎(つね)に秋娘(名妓の杜秋娘)に妬(ねた)まる
 五陵の年少(長安郊外の豊かな地域に住む貴公子)  爭ひて 纏頭(てんとう:心付け)し
 一曲に 紅綃(紅い薄絹の心付け)は  數 知れず
 鈿頭(でんとう)の雲篦(うんぺい)(螺鈿の飾りのこうがい)は  節を撃ちて碎け
 血色の羅裙(らくん:薄絹のスカート)は  酒を翻(ひるがへ)して 汚(けが)る
 今年の 歡笑  復た 明年
 秋月 春風  等?(とうかん:なおざり)に 度(す)ぐ
  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:32Comments(0)漢詩

2006年04月22日

漢詩(13)−白居易(2)−琵琶行(2)

 

 盧山(世界遺産、九江市) By GNU Free Documentation License
 Fog curls around the peaks of Mt Lushan in Jiangxi province, China. The trees have been identified as Pinus hwangshanensis, or Huangshan Pine.


 (旧暦  3月25日)

 漢詩(12)−白居易(1)−琵琶行(1)のつづき

 潯陽(じんよう)江頭  夜 客を送る
 楓葉(ふうよう) 荻花(てきか)  秋 索索(さくさく)
 主人は馬より下り  客は船に在り
 酒を舉げて 飮まんと欲するに  管絃無し
 醉えど歡を成さず  慘として將に別れんとす
 別るる時 茫茫として  江は月を浸す
 忽ち聞く  水上 琵琶の聲
 主人は歸るを忘れ  客は發せず

 聲を尋ねて闇に問ふ  彈く者は誰ぞと
 琵琶の聲停(や)み  語らんと欲して遲(おそ)し
 船を移し相ひ近づきて  邀(むか)へて相ひ見る
 酒を添へ灯(ともしび)を迴(めぐ)らし  重ねて宴を開く
 千呼(せんこ) 萬喚(ばんかん)  始めて出で來たる
 猶ほ琵琶を把(と)りて  半ば面を遮(さえぎ)る


 軸を轉(てん)じ絃を撥(はら)ふこと三兩聲(二、三回少しだけ音を出す)
 未だ曲調を成さざるに  先ず情有り
 絃絃 掩抑(えんよく:おさえとどめる)して  聲聲に思ひあり
 平生の志を得ざりしことを 訴ふるに似たり
 眉を低(た)れ 手に信(まか)せて  續續として彈じ
 説き盡くす  心中 無限の事
  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:36Comments(1)漢詩

2006年04月20日

漢詩(12)−白居易(1)−琵琶行(1)

 

 白楽天『晩笑堂竹荘畫傳』より

 (旧暦  3月23日)

 百閒(けん)忌 小説家、随筆家の内田百閒の昭和46年(1971)の忌日。旧制第六高等学校(岡山)で俳句に親しみ、ふるさとの岡山市東部にある百閒川に因んで、百閒の号を用いたとされている。本名は、内田栄造。


 琵琶行 並びに序

 元和十年、予は九江郡の司馬に左遷せらる。明年秋、客を湓浦口(ぼんぽこう)
に送る。舟船中に夜、琵琶を彈ずる者あるを聞く。

 其の音を聽くに、錚錚(そうそう)然として京都(けいと)の聲有り。其の人を問ふに、本(もと)長安の倡女にして、嘗て琵琶を穆と曹との二善才に學べり。年長(た)けて色衰へ、身を委(まか)せて賈人(こじん)の婦(つま)と爲る。

 遂に酒を命じて、快(こころよ)く數曲を彈か使む。曲罷(おは)りて、憫默(びんもく)せり。
 自ら敍(の)ぶ、少小の時、歡樂の事を。今、漂淪(ひょうりん)憔悴(しょうすい)し、江湖の間に轉徙(てんし)するを。

 予、出でて官すること二年、恬然(てんぜん)として自ら安んぜしも、斯(こ)の人の言に感じ、是の夕(ゆう)べ始めて遷謫(せんたく)の意有るを覺ゆ。

 因(より)て長句の歌を爲し、以て之に贈る。凡(およ)そ六百一十二言、命(な)づけて琵琶行と曰ふ。



 唐の第11代憲宗(在位805〜820)の元和10年(815)6月3日の未明、宰相武元衡(758〜815)が出勤の途上、河南平盧節度使李師道(?〜819)が放った刺客によって暗殺されるという事件が起こりました。

 宰相武元衡は、第11代憲宗(在位805〜820)が行った藩鎮権力を抑制するための税制改革に反発して叛乱を起こした河南淮西節度使呉元斉(?〜817)を討伐するために準備を整えていたところでした。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:46Comments(0)漢詩

2006年04月18日

その他(3)−島原大変、肥後迷惑

  

 島原大変大地図(島原市松平文庫蔵)
 
 (旧暦  3月21日) 

 昨年、平成3年(1991)6月3日午後4時頃に起きた長崎県島原市の雲仙普賢岳の火砕流を撮影中に巻き込まれて死亡した日本テレビのカメラマンのビデオカメラが発見され、焼けただれたビデオカメラのテープが再生されて生々しい現場の状況が放送されていましたが、このときの大火砕流は死者43名という日本の火山災害史に残る惨劇となりました。

 この事件をきっかけに、「火砕流(Pyroclastic flow)」という言葉が有名になりました。火砕流は、火山の火口から噴出した溶岩が発泡や崩落により粉砕され、高温ガスと一体になって火山の斜面を高速で流れ下る現象で、流れ下るスピードは時速100kmを越えることもあり、その温度は数百℃から1000℃になると解説されています。
 
 古い文献には熱雲などとして紹介されているそうですが、1902年のカリブ海西インド諸島にあるマルチニーク島のプレー火山の噴火を調査したフランスの火山学者アルフレッド・ラクロワ(Alfred Lacroix, 1863〜1948)により、"Nuée ardente"(ニュエ・アルダント―燃える雲=熱雲)と名づけられたのが、科学的に取り上げられた最初で、英語では"Glowing cloud"と呼ばれています。

 古代ローマの文人、政治家小プリニウスことガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Caecilius Secundus, 61〜112)が、友人である古代ローマ最大の歴史家コルネリウス・タキトゥス(Cornelius Tacitus, 55頃〜120頃)の求めに応じて伯父が死んだ日の様子を語った書簡は、、ナポリの南東に位置する標高1,281mのヴェスヴィオ火山の噴火の様子を知る貴重な資料となっています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:12Comments(0)その他

2006年04月17日

クラシック(17)−ブラームス(4)−ハイドン変奏曲

 

 Haydn portrait by Thomas Hardy, 1792.

 (旧暦  3月20日)

 家康忌  正一位太政大臣徳川家康の元和2年(1616)の忌日。死因は、鷹狩で献上された鯛の天ぷらを食べて以来食事がとれなくなり、胃癌又は梅毒性ゴム腫で死亡したとされている。
       嬉やと再び覚めて一眠り 浮世の夢は暁の空


 ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms, 1833〜1897)は、ハイドン研究家として著名なカール・フェルディナント・ポール(Carl Ferdinannd Pohl:1819〜1887)がまだウィーン楽友協会の司書をしていたときに親交を結び、毎日レストラン「赤いはりねずみ」で昼食を共にしていました。

 1870年のある日、ブラームスはこのポールから、ハイドンの未出版作品の楽譜を見せられました。それは、まだ当時はハイドンの作曲とされていた《ディヴェルティメント変ロ長調Hob.?.46》の写譜でしたが、ブラームスはその第2楽章「聖アントニウスのコラール」と題された主題が気に入り、自分のノートに書き留めました。

 この「聖アントニウスのコラール」の旋律を主題として流用したのが、「ハイドンの主題による変奏曲」(Variationen uber ein Thema von Joseph Haydn op.56a)で、そのため、「聖アントニウスのコラールによる変奏曲」の別称でも親しまれています。

 のどかで田舎じみた感じのこの主題は、20世紀になって真の作曲者はハイドンではないことが明らかにされましたが、では一体誰なのかは長い間謎とされていました。
 しかし近年になって、オーストリア出身の古典派音楽の作曲家であるイグナス・プレイエル(Ignatz Joseph Pleyel, 1757〜1831)である可能性が推測されているようです。
 プレイエルは、今日では、ヴァイオリンやフルートの教則本の二重奏曲などの練習曲の作曲家として知られています。

 この変奏曲は、1873年の夏、ブラームスがドイツ南部のバイエルン山中にあるシュタールンベルガー湖のほとりのトゥッツィンクという町に滞在している間に書き進めたもので、その年の秋に完成していますが、先に2台のピアノのための版が完成してこちらがop.56b、管弦楽版がop.56aで、管弦楽版のほうが有名です。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:57Comments(0)音楽/クラッシック

2006年04月16日

国立故宮博物院(6)−毛公鼎

 

 毛公鼎 故宮博物院

 (旧暦  3月19日)

 康成忌  小説家川端康成の昭和47年(1972)の忌日。

 毛公鼎(もうこうてい)は、清朝末期の道光30年(1850)に陝西省岐山県で出土した高さ53.8㎝、口径47.9㎝、重さ34.7㎏の西周晩期の銅器で、その内面には32行、497文字の銘文が刻まれています。

 その銘文の内容は、周の宣王(B.C.827〜B.C.782)の時代に王の叔父にあたる毛公という人が王から国政の全権を委託され、その功績によって銅器、玉器、馬など数々の恩賞を賜ったため、鼎を鋳して子々孫々に伝え永遠の宝としたと云うものです。

 毛公鼎は出土後多くの人の間を渡り、1941年には上海で売りに出されて日本人も購入しようとした経緯があるようですが、結局中国人が黄金三百両で買い取り、中華民国政府に納められて故宮博物院に入りました。

 古代中国において鼎は、王位や権威の象徴とされていました。史書に最初に現れる宝物は神鼎、宝鼎、九鼎(きゅうてい)です。

 聞く、昔、大帝(史記の伝える三皇五帝の最初の伏犠氏)、神鼎(しんてい)一(いつ)を興せりと。一(いつ)とは一統(天下統一)なり。天地萬物の終(をはり)を繋(か)くる所なり。黄帝(史記の伝える五帝の最初の帝王)、宝鼎三を作れり。天地人を象(かたど)るなり。禹(う:中国古代の伝説的な帝で、夏王朝の創始者)、九牧(九つの地方の長官)の金(銅)を収めて九鼎を鑄(い)たり。皆嘗(かつ)て上帝鬼神に鬺烹(しやうほう:いけにえを煮て祀る)せり。
 [史記 孝武本紀第十二]


 中国では、漢代以前は銅のことを金と呼んでいました。三皇五帝の後に夏王朝を創始した帝王禹は、冀州、沇州、豫州、靑州、徐州、揚州、荊州、梁州、雍州の九州の長官である九牧の献上した金(銅)を収めて九鼎を鋳造しました。
 この青銅製の九鼎こそ、夏に始まり殷(商)周(西周)三代の宗廟(祖先の霊を祀ってあるところ)の国宝となったもので、国家の最も重要な宝器、王朝継承の証拠となる重宝として伝えられました。
 日本で云えば、八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の三種の神器といったところでしょうか。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:23Comments(0)国立故宮博物院

2006年04月12日

北東アジア(27)−第一次上海事変(4)


 

 肉弾三勇士

 (旧暦  3月 15日)

 北東アジア(26)−第一次上海事変(3)のつづき

 上海戦線における中国軍は対共産軍作戦で再三悩まされた「鉄条網と偽装陣地」を周到に配置し、縦横に広がるクリークで囲まれた地形にソ連軍式およびドイツ軍式の塹壕、掩体からなる防禦陣地を縦深に構築して抵抗しました。
 日本軍はそのような堅固な陣地に対して日露戦争型の突撃を繰り返したため、鉄条網に阻止され損害を重ねていきました。

 2月22日未明、江湾鎮西北の廟行鎮を攻撃目標とされた第二十四旅団は、福岡歩兵第二十四聯隊第一大隊を主攻兵力とし、鉄条網爆破に工兵第二中隊第二小隊を振り向けて突撃路を開こうとしましたが、第一斑三組が失敗し、第二斑第一組の三名は導火索がくすぶる破壊筒を抱えて鉄条網に突進しましたが、先頭の北川一等兵が敵弾を受けて転倒、後ろの二人も転倒してしまいました。
 
 しかし三人はまた立ち上がって鉄条網に突進し破壊筒を突きだしたとたんに爆発、三名の一等兵は鉄条網もろとも爆死してしまいます。この事が、後に、『爆弾三勇士』、『肉弾三勇士』として称えられることになります。

 廟行鎮の敵の陣
 我の友隊すでに攻む
 折から凍る二月(きさらぎ)の
 二十二日の午前五時
 
 作詩 与謝野寛  作曲 辻 順治
 昭和7年 大阪毎日・東京日日新聞募集当選歌 「爆弾三勇士」


 2月28日、朝日新聞(東京、大阪)と毎日新聞(大阪毎日、東京日々)はこの三勇士の歌を懸賞募集すると発表、朝日新聞は「肉弾三勇士の歌」、毎日新聞は「爆弾三勇士の歌」として賞金1等500円の第1面社告を出しました。
 朝日新聞の「肉弾三勇士の歌」には12万4561通、毎日新聞の「爆弾三勇士の歌」にも総数8万4177編の応募があり、この中から鉄幹与謝野寛の作品が選ばれて読者を驚かせています。
 「爆弾三勇士の真実=軍国美談はこうして作られた!」(前坂俊之静岡県立大学国際関係学部教授)
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~maesaka/021226_contents/040228_bakudannsannyuushi.pdf

 

 東京芝・青松寺に築かれた肉弾三勇士の像  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:33Comments(0)歴史/北東アジア

2006年04月11日

北東アジア(26)−第一次上海事変(3)

 

 上海派遣軍(司令官;白川義則大将)侵攻図 9D;第9師団(金沢、植田謙吉中将)、11D;第11師団(善通寺、厚東篤太郎中将) 

 (旧暦  3月 14日)

 北東アジア(25)−第一次上海事変(2)のつづき

 上海における中国第十九路軍の抵抗は烈しく、海軍陸戦隊は苦戦していました。このような緊迫した状況の中、昭和7年(1932)2月1日、海軍大臣大角岑生大将から提出された陸軍出兵の議は、芳沢謙吉外相、荒木貞夫陸相との三相協議で合意され、金沢の第九師団と久留米の第十二師団混成第二十四旅団が派遣される事になりました。

 旅団長下元熊弥少将指揮の混成第二十四旅団は、久留米第十二師団に所属する歩兵第十四聯隊第二大隊(小倉)、歩兵第二十四聯隊第一大隊(福岡)、歩兵第四十六聯隊第一大隊(大村)と野戦重砲兵第二旅団の独立山砲兵第三聯隊第二大隊(久留米)を基幹として編成されていました。
 旅団は、巡洋艦5隻、駆逐艦6隻に分乗して、2月7日上海に到着し、呉淞(ウースン)鉄道桟橋から上陸しました。

 一方、師団長植田謙吉中将指揮下の金沢第九師団は2月9,10日に宇品港を出港し、第一梯団は2月13日から、第二梯団は2月14日から、長江と黄浦江との合流点に位置する上海港および呉淞(ウースン)鉄道桟橋から上陸しました。

 植田師団長は英国公使ランプソンの斡旋で、師団参謀長田代皖一郎少将をフランス租界の『中国聯誼社』に派遣して第十九路軍参議范其務(はんきむ)と会見させ、中国側の自発的撤退を勧告させましたが、当然のことながら中国側は日本側の撤兵要求には一切応じませんでした。

 2月18日、植田師団長は第十九路軍長蔡廷鍇に対し、2月20日午前7時までの第一線からの撤退と夕刻午後5時までの各租界の境界線より20㎞の地域外への撤退を求める最後通牒を通告しましたが、「第十九路軍は中華民国政府の指揮下に属し、軍の行動に関しては中国政府以外に命令する権利を有するものなし。」との回答が届けられました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:12Comments(0)歴史/北東アジア

2006年04月09日

板橋村ゆかりの人々(5)−源頼朝(2)

 

 中山道板橋宿板橋

 (旧暦  3月12日)

 板橋村ゆかりの人々(4)−源頼朝(1)のつづき

 源義経とその主従を中心に書いた軍記物語で、南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられている『義経記』巻第三「頼朝謀反の事」の記述によれば、かつて従五位下右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ:内裏周辺を警備する右兵衛府の次官)の官位を持っていた頼朝は、治承4年(1180年)9月11日、軍勢8万9千人を従えて「武蔵と下野の境なる松戸庄市河と言ふ所」に着きますが、満々と水をたたえた墨田河に行く手を阻まれました。

 兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝は、江戸太郎重長に命じます。江戸氏は治承4年(1180)に頼朝が挙兵したときには武蔵国内の最有力の武家の一角を担っており、初めは頼朝と対立して頼朝方の三浦氏を伐ちましたが、後に和解して鎌倉幕府の御家人となっています。

 佐殿(すけどの:頼朝)仰せられけるは、「江戸太郎八ケ国の大福長者と聞くに、頼朝が多勢此の二三日水に堰(せ)かれて渡し兼ねたるに、水の渡に浮橋を組んで、頼朝が勢武蔵国王子板橋に付けよ」とぞ宣(のたま)ひける。

 ここで初めて、『板橋』の地名が文献に現れます。

 江戸太郎承りて「首を召さるるとも如何でか渡すべき」と申す所に千葉介葛西兵衛を招きて申しけるは、「いざや江戸太郎助けん」とて、両人が知行所、今井、栗川、亀無、牛島と申す所より、海人の釣舟を数千艘上せて、石浜と申す所は江戸太郎が知行所なり。折節西国船の著きたるを数千艘取り寄せ、三日がうちに浮橋を組んで、江戸太郎に合力す。佐殿(頼朝)神妙なる由仰せられ、さてこそ太日、墨田打ち越えて、板橋に著(つ)き給ひけり。 (義経記 巻第三 頼朝謀反の事)

 ということで、板橋村と源頼朝のゆかりは、頼朝の軍勢が鎌倉に討ち入る道すがら『板橋』に陣を敷いたというだけで、ま、それだけのことです。すんません。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 14:55Comments(0)板橋村ゆかりの人々

2006年04月07日

板橋村ゆかりの人々(4)−源頼朝(1)

 

 絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵)

  (旧暦  3月10日)

 放哉忌  俳人尾崎放哉(ほうさい)の大正15年(1926)の忌日。季語を含めない自由律俳句の代表的俳人として、同じ萩原井泉水門下の種田山頭火と並び称される漂白俳人。山頭火と同様に酒に溺れて身を持ち崩し、不遇の晩年を送る。山好きの山頭火に対して海好きの放哉、作風は「動」の山頭火に対して「静」の放哉と評されている。
 これでもう外に動かないでも死なれる 放哉

 鎌倉幕府の初代征夷大将軍に任じられた源頼朝(1147〜1199)は、武家源氏の主流だった河内源氏嫡流の源義朝(1123〜1160)の三男として生まれ、父義朝が第77代後白河天皇(在位1155〜1158)の寵臣藤原信頼(1133〜1160)に加担した平治の乱(1159)で平清盛(1118〜1181)に敗れたため、13歳で伊豆国蛭ヶ小島に流されました。

 治承4年(1180年)、後白河天皇の第三皇子以仁王(1151〜1180)が平家追討を命ずる令旨[りょうじ:皇太子、三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命令を伝えるために出した文書]を諸国に雌伏する源氏に発し、4月27日、伊豆国の頼朝にも、叔父の源行家(1145〜1186)より令旨が届けられます。

 以仁王は源頼政(1104〜1180)らと5月に挙兵しましたが、宇治川の戦いで平清盛の四男平知盛(1152〜1185)の平家軍2万に破れ、以仁王、頼政の長男仲綱らが討死、頼政は平等院で自害してしまいました。

 清盛は令旨を受けた諸国の源氏を討とうとしますが、頼朝は逆に伊豆国司平時忠の目代に任ぜられ、現地に流されていた頼朝の監視役となった山木兼?(?〜1180)を討ち、平家打倒の兵を挙げる決意を固めます。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:54Comments(0)板橋村ゆかりの人々

2006年04月05日

史記列傅(3)−管晏列傅第二(2)

 

 明十三陵の首陵、長陵の稜恩殿(北京市昌平区長陵鎮)

 (旧暦  3月 8日)

 達治忌  詩人、翻訳家三好達治の昭和39年(1964)の忌日。
 市岡中学二年から陸軍幼年学校、陸軍士官学校へすすむも中退し、第三高等学校、東京帝国大学文学部仏文科を卒業。大学在学中に梶井基次郎らとともに同人誌『青空』に参加。その後萩原朔太郎と知り合い、詩誌『詩と詩論』創刊に携わる。昭和4年(1929)シャルル・ボードレール(Charles Baudelaire)の散文詩集『巴里の憂鬱(Le Spleen de Paris)』を翻訳、翌昭和5年(1930)、初の詩集『測量船』を発行。ともに高い評価を受けた。

 史記列傅(2)−管晏列傅第二(1)のつづき

 鞭を執ると雖も忻慕する所なり

 晏平仲(名は嬰)は莱(らい)の夷維(いい:山東省高密県)の人で、斉の霊公(B.C581〜554在位)、荘公(B.C553〜548在位)、景公(B.C547〜490在位)の三代に仕え、費用を節約することと努力して事を行うことで重んぜられました。
 宰相となってからも、食事の際には肉料理を二品とは用いず、家の女性には絹を着せないという倹約をしました。

 朝廷においては、君主から下問されたときは正しい意見を述べ、下問されないときは正しい行いをしていました。国家に正しい政治が行われているときには君命に従い、正しい政治が行われていないときには君命を慎重に検討し、行うべき事を行うようにしました。
 
 このように晏平仲が斉の政治を補佐したので、霊公、荘公、景公の三代は列国にその名をひびかせました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:13Comments(0)史記列傅

2006年04月04日

史記列傅(2)−管晏列傅第二(1)−管鮑の交わり

 

 明十三陵

 (旧暦  3月 7日)

 晏子(晏嬰)は儉(けん:つつましやか)にして、夷吾(管仲)は則ち奢(しゃ:贅沢)なり。齊(せい)桓(かん)以て霸(は:覇者)たり、景公以て治む。よって管晏列傳第二を作る。(太史公自序)

 晏子(?〜B.C500)は慎ましやかであり、管仲(?〜B.C645)は贅沢に暮らした。しかし、斉の桓公は管仲に補佐されて天下の覇者となり、景公は晏子によってその国を良く治めることができた。そこで、管仲と晏嬰の列傅第二を作る。(太史公自序:司馬遷の序文)

 管仲(名は夷吾)は、若いときいつも鮑叔(名は牙)と付き合っていました。鮑叔は管仲の優れた才能を認めていました。
 管仲は貧乏であったためよく鮑叔を騙しましたが、鮑叔はいつも気にかけず、一言も苦情を言いませんでした。

 時が経って鮑叔は斉の公子小白(しょうはく)に仕え、管仲は公子糾(きゅう)に仕えました。その小白が斉候の位について桓公(B.C685〜643在位)となり、公子糾はこれと争って殺され、管仲も囚われの身となりました。

 しかし鮑叔はさまざまに管仲を桓公に推薦したので管仲は桓公に用いられ、斉の政治を委ねられることになり、その結果斉の桓公は管仲の補佐によって天下の覇者となりました。
 桓公が度々諸侯を糾合し、天下を周の下に秩序立てたのは、管仲のはかりごとによるものでした。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:36Comments(0)史記列傅