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2010年11月04日

北東アジア(37)-瀟湘八景

 
 漁村夕照図  伝・牧谿筆 (国宝 根津美術館蔵)

 (旧暦  9月28日)

 度支(たくし)員外郎、宋迪(そうてき)は畫(画)に工(たくみ)なり。尤(もつと)も平遠山水を善くす。其の意を得たる者に平沙雁落、遠浦帆歸、山市晴嵐、江天暮雪、洞庭秋月、瀟湘夜雨、煙寺晚鐘、漁村落照有り。之を八景と謂ふ。好事の者多く之を傳ふ。
 
 往歳、小窰村の陳用之、畫(画)を善くす。迪(てき)、其の畫(画)、山水を見て、用之に謂ひて日く、
 「汝は畫(画)、信(まこと)に工(たくみ)なり、但、天の趣少し。」
 用之其の言に深く伏して日く、
 「常に其の古人の者に及ばざるを患(うれ)ふ、正に此に在り。」 

 迪、日く、
 「此(これ)は難(かた)からず。汝先ず當(まさ)に一つの敗牆(壊れた土塀)を求め、絹素を訖(ことごとく)張り、之を敗牆(壊れた土塀)の上に倚(よ)りて、朝夕之を觀よ。之を觀ること既に久しく、素を隔て敗牆(壊れた土塀)の上に高平曲折を見るは、皆、山水の象と成る。
 心を目に存して想はば、高き者は山と為り、下の者は水と為り、坎(あな)は谷と為り、缺ける者は澗(かん、谷川)と為り、顯(あきら)かなる者は近と為り、晦(くら)き者は遠と為る。
 神領を意(こころ)に造り、避免(避ける)して然も其の人禽(人や鳥)、草木の飛動往來、這象の有るを見る。瞭然として目に在り。則ち意に隨ひて筆に命じ、默して以て神に會ふ。自然と境(画境)は皆天に就き、人の爲(い、行い)に類せず、是を活筆と謂ふ。」

 用之此れ自(よ)り畫格進む。

 『夢溪筆談卷十七 書畫』 嘉穂のフーケモン 拙訳


 北宋(960〜1127)の文人画家で度支(たくし)員外郎(正七品官の寄禄官)という官職にあった宋迪は絵がたくみで、とりわけ平遠山水(中国山水画の遠近法の様式の一つで、前景、中景、遠景の比率を大きくして、丘陵や平原の広さ、奥深さを強調しようとする構図)に秀でていた。その得意とするものに、
 平沙雁落、遠浦帆歸、山市晴嵐、江天暮雪
 洞庭秋月、瀟湘夜雨、烟寺晩鐘、漁村夕照
があって、これを八景といった。好事家は、多くこれを伝えている。
 
 何年か前のこと、小窰村の陳用之【第4代皇帝仁宗の天聖年間(1023〜1031)に画院祗候に任ぜられ、小窰鎮に住んでいた】は絵をよくした。
 迪はその山水画を見て用之に言った。
 「おまえの画は確かにたくみだ。ただ、自然の趣が欠けている。」
 用之はその言葉に深くひれ伏して言った。
 「常々古人に及ばないと悩んでいる点は、正にそこなのです。」
 
 迪は言った、
 「これは別に難しくはない。おまえはまず崩れた墻(ついじ)を探し、白絹を張ってそれにもたれかけさせ、朝な夕なに見つめるのだ。
 長い間見つめていると、白絹ごしに眺めた崩れた墻(ついじ)の上の高低曲折が、すっかり山水のかたちになる。

 高いところが山、低いところが水、落ちくぼんだところが谷、削れたところが澗(たにがわ)、はっきりしたところは近景、ぼんやりしたところは遠景と、心と目でしっかり覚え込むのだ。

 心の琴線に感じとり、人間や動物、草木がはっきりとあらわれ、しかと目に写ったならば、意のままに筆を走らせる。深く精神で会得すれば、自然に画境はすべて天の働きに近づき、人間業でなくなる。これを活筆というのだ。」

 用之はこののち、画の格調が日ましに上がった。
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2009年04月26日

北東アジア(36)-中國正史日本傳(2)-後漢書東夷列傳

 

 福岡県福岡市東区志賀島金印公園のモニュメント
  

 (旧暦  4月 2日)

 『後漢書』は中国二十四史の一つで、漢王朝(B.C.206~8)の皇族劉秀(光武帝、在位25~57)が、安漢公王莽(B.C.45~23)に滅ぼされた漢を再興して立てた後漢王朝(25~220)について書かれた歴史書です。

 本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の全百二十巻からなる紀伝体で書かれ、成立は南北朝時代(439~589)の南朝宋(420~479)の時代で、編者は宣城(安徽省)太守范曄(はんよう、398~446)です。

 さて、この『後漢書』の倭に関する記述は、卷八十五東夷列傳第七十五の中で、教化すべき「化外の地」に住む野蛮人として、夫余(ふよ)、挹婁(ゆうろう)、高句麗、東沃沮(とうよくしょ)、濊(わい)、三韓(馬韓、辰韓、弁辰)のあとに記されています。

 倭在韓東南大海中、依山島為居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統、其大倭王居邪馬臺國、樂浪郡徼去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘裏、其地大較在會稽東冶之東、與朱崖儋耳相近、故其法俗多同。

 倭は韓の東南大海中に在りて、山島に依りて居と為し、凡(およ)そ百餘國。武帝の朝鮮を滅ぼせし自り、使驛(訳)の漢に通ずる者は三十國許(ばか)り。國ごとに皆な王を稱し、世世に統を傳ふ。

 其の大倭王は邪馬臺國に居る。樂浪郡の徼(けう、国境)は其の國を去ること萬二千里、其の西北界の拘邪韓國を去ること七千餘裏。其の地は大較(おほむね)會稽東冶(福建省福州)之東に在りて、朱崖(しゆがい、海南省瓊山の東南)、儋耳(たんじ、海南省儋州の西北)と相ひ近く、故に其の法俗は多く同じ。


 土宜禾稻麻紵蠶桑、知織績為縑布。出白珠青玉。其山有丹、土氣溫暖、冬夏生菜茹。無牛馬虎豹羊鵲、其兵有矛楯木弓、其矢或以骨為鏃。男子皆黥面文身、以其文左右大小別尊卑之差。其男衣皆橫幅結束相連。女人被髪屈紒、衣如單被、貫頭而著之、竝丹朱坌身、如中國之用粉也。有城柵屋室。父母兄弟異處、唯會同男女無別。飲食以手、而用籩豆。俗皆徒跣、以蹲踞為恭敬。人性嗜酒、多壽考、至百餘歲者甚眾。國多女子、大人皆有四五妻。其餘或兩或三。女人不淫不妒。風俗不盜竊、少爭訟。犯法者沒其妻子、重者滅其門族。其死停喪十餘日、家人哭泣、不進酒食、而等類就歌舞為樂。灼骨以卜、用決吉凶。行來度海、令一人不櫛沐、不食肉、不近婦人、名曰持衰。若在塗吉利、則雇以財物、如病疾遭害、以為持衰不謹、便共殺之。

 土は禾稻(かとう、稲)、麻紵(まちよ、麻)、蠶桑(さんそう、桑)に宜(よ)く、織績して縑布(けんふ、絹布)を為(つく)ることを知る。白珠、青玉を出(いだ)す。其の山に丹(丹砂)有り。土氣は溫暖にして、冬夏に菜茹(さいじよ、野菜)を生ず。牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)無し。

 其の兵には矛、楯、木弓有りて、其の矢は或ひは骨を以て鏃と為す。男子は皆な黥面文身(げいめんぶんしん、顔と体に入れ墨をする)し、其の文(もよう)の左右大小を以て尊卑の差を別つ。其の男の衣は皆な橫幅結束して相ひ連ぬ。女人は被髪屈紒(ひはつくつけい、ざんばら髪で横向きに髪を結う)し、衣は單被(一枚の布切れ)の如く、頭を貫きて之を著け、竝(なら)びに丹朱(朱色の顔料)もて身に坌(ぬ)ること、中國の粉(白粉)を用うるが如し。

 城柵、屋室有り。父母兄弟は異處し、唯だ會同するに男女別無し。飲食するに手を以てし、而して籩豆(へんとう、祭り用の器)を用ふ。俗は皆な徒跣(とせん、裸足)にして、蹲踞(うずくまる)を以て恭敬と為す。人は性として酒を嗜(たしな)み、多く壽考(長寿)にして、百餘歲に至る者甚だ眾(おほ)し。

 國には女子多く、大人は皆な四、五妻有り。其の餘も或ひは兩、或ひは三なり。女人は淫ならず妬ならず。風俗は盜竊せず、爭訟少なし。法を犯す者は其の妻子を沒し、重き者は其の門族を滅ぼす。

 其の死するや、喪を停(とど)むること十餘日、家人は哭泣して酒食を進めざるも、而れども等類(仲間)は就きて歌舞して樂しみを為す。骨を灼(や)ひて以て卜し、用(もつ)て吉凶を決す。

 行來して海を度(わた)るには、一人をして櫛沐(しつもく、櫛を入れ沐浴する)せず、肉を食らわず、婦人を近づけざらしめ、名づけて持衰(じさい)と曰ふ。若し塗に在りて吉利なれば、則ち雇(つぐな)ふに財物を以てし、如し病疾し害に遭へば、以て持衰謹まずと為し、便(すなは)ち共に之を殺す。
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2009年01月10日

北東アジア(35)-リットン報告書(3)

 
 
 関東軍司令官本庄繁大将 (1876〜1945)

 (旧暦 12月15日)

 北東アジア(34)-リットン報告書(2)のつづき

 さて、同報告書は、日中両国の紛争解決に向けて、第10章で大きく分けて以下のような提議を行っています。

 1. 東三省(遼寧省・吉林省・黒竜江省=満洲)は、中国中央政府の権力と自治地方政府の権力とを区分すべきである。この自治政府には、外交、税関、郵便等の中央政府に帰属する管理を除き、充分なる行政権が帰属される。

 2. 満洲は漸次非武装地帯とし、外国人教官の協力のもとに特別憲兵隊を組織すべきである。この憲兵隊は、東三省に於ける唯一の武装隊であるべきである。

 3. 自治政府の執政は適当数の外国人顧問を任命すべく、その内日本人が充分なる割合を占めることが必要である。しかし、これらの外国人顧問及び官吏の任用は、中国政府の受諾し得るべき形式により、中国の主権に合致する方法に於いて選任せらるべきである。

 4. 南満洲鉄道及び日本国民の既得権を保障しつつ、日中両国は「不可侵条約」、「通商条約」を結ぶべきである。もしソビエト連邦政府がこれに参加を求めるのであれば、別途三国協定中に適当なる条項を包含させればよい。

 
 こうして、245頁にわたる英文報告書は次のように結びます。

 Our work is finished.
 Manchuria for a year past has been given over to strife and turmoil.
 The population of a large, fertile and rich country has been subjected to conditions of distress such as it has probably never experienced before. ・・・・・・・・・・


 吾人の任務は終了せり。
 満洲は過去一年間争闘及び混乱に委せられたり。
 広大、肥沃且つ豊穣なる満洲の人民は恐らく曾て経験したることなき悲惨なる状態に遭遇せり。
 日支両国間の関係は仮装せる戦争関係にて将来に付いては憂慮に堪えざるものあり。
 吾人は右の如き状態を創造せる事情に関し報告せり。
 何人と雖も連盟の遭遇せる問題の重大性及び其の解決の困難に付き充分了知する所なり。
 吾人は其の報告を完了せんとする際新聞紙上において日支両国外務大臣の二個の声明を閲読せるが其の双方に付き最も重大なる一点を抜粋すべし。
 八月二十八日羅文幹(外交部長:外務大臣、1888~1941)は南京に於いて左の如く声明せり。  

 「支那は現事態の解決に対する如何なる合理的なる提案も連盟規約、不戦条約及九国条約の条章及び精神並びに支那の主権と両立すべきものたるを要し又極東に於ける永続的平和を有効に確保するものたるを要すと信ず。」

 八月三十日内田伯(外務大臣・伯爵内田康哉、1865~1936)は東京に於いて左の如く声明せりと伝えらる。

 「帝国政府は日支両国関係の問題は満蒙問題より更に重要なりと思惟す。」

 吾人は本報告書を終了するに当り右両声明の基調を為す思想を再録するを以て最も適当と思考するものなり。右思想は吾人の蒐集せる証拠、問題に関する吾人の研究、従って吾人の確信と正確に対応するものにして吾人は右声明により表示せられたる政策が迅速 且つ有効に実行せらるるに於ては必ずや極東に於ける二大国及び人類一般の最善の利益に於いて満州問題の満足なる解決を遂げ得べきを信ずるものなり。
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2009年01月09日

北東アジア(34)-リットン報告書(2)

 

 満鉄線柳条湖爆破現場 by Wikipedia.

 (旧暦 12月14日)

 青々忌  ホトトギス派の俳人松瀬青々の昭和12年(1937)年の忌日。
 その句は子規にも認められ、明治34年(1901)、武石巨石、湯村月村らと俳誌「宝船」を創刊、大正14年(1925)、「宝船」を「倦鳥」と改め、没するまで編集し、西村白雲卿、塚本虚名、武定巨石、古屋秀雄らの俊英を育てた。芭蕉研究にも努めた。 

   友禅を着たる使や 菊の花
   風呂吹の とろりと味噌の流れけり 
   七草の粥のあをみや いさぎよき 


 北東アジア(33)-リットン報告書(1)のつづき

 リットン報告書は、中国側の主張をかなり認めていますが、一方、当時の国際連盟の常任理事国であった大日本帝国(The Empire of Japan)側の主張にも配慮しています。

 1. 中国側の日本製品不買運動が広範囲の日本側世論の対中国感情に惨憺たる反響を起こした点については、物質的影響に劣らず重大である。この日本製品不買運動が、日中関係を深く悪化させた原因のひとつであることは疑う余地がない。

 The psychological effect of the boycott on Sino-Japanese relations, although even more difficult to estimate than the material effect, is certainly not less serious in that it has had a disastrous repercussion on the feelings of large sections of Japanese public opinion towards China.

 Anyway there is no doubt that the boycott has been amongst the causes which have profoundly embittered the relations between China and Japan in recent years.
 CHAPTER Ⅶ.
 JAPANESE ECONOMIC INTERESTS AND THE CHINESE BOYCOTT. (P-206)


 2. 日中両国の貿易上の相互依存と両国の利益のためには経済的近接が必要だが、両国の政治的関係が険悪で一方が兵力を、他方が不買運動という経済的武器を用いる間は、かくの如き接近は不可能である。

 The interdependence of the trade of these two neighbouring countries and the interests of both call for an economic rapprochement, but there can be no such rapprochement so long as the political relations between them are so unsatisfactory as to call forth the use of military force by one and the economic force of the boycott by the other.
 CHAPTER Ⅶ.
 JAPANESE ECONOMIC INTERESTS AND THE CHINESE BOYCOTT. (P-211)
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:06Comments(0)歴史/北東アジア

2009年01月07日

北東アジア(33)-リットン報告書(1)

 

 Lytton Commission members in Shanghai (Lord Lytton wearing coat in center of photo).

 (旧暦 12月 12日)

 夕霧忌 日本三大遊郭の一つ京都島原の遊女で、大坂新町の扇屋に引き抜かれた実在の名妓夕霧が病死した延宝6年(1678)の忌日。
 初代坂田藤十郎((1647~1709))は和事の創始者として知られ、特に代表的な役が傾城夕霧との情話で有名な藤屋伊左衛門である。
 その第一作「夕霧名残の正月」は延宝6年(1678)、夕霧がなくなった翌月に初演されたといわれているが、台本が残っていないので、詳しい内容はわかっていない。

 

 昭和7年(1932)10月10日初版発行の国際連盟協会叢書百十五輯(しゅう)、外務省仮訳による『リットン報告書』(国際連盟協会発行)の復刻版を、となり村の中央図書館で見つけました。

 『リットン報告書』とは、正式名称を『日支紛争に関する国際連盟調査委員会の報告』(The Report of the Commission of Enquiry into the Sino-Japanese Dispute)と云い、国際連盟によって満州事変や満州国の調査を命ぜられたイギリスのヴィクター・リットン卿(Victor Alexander George Robert Bulwer-Lytton, 2nd Earl of Lytton, 1876~1947)を団長とする、国際連盟日支紛争調査委員会より派遣された調査団の報告書です。

 満洲事変(Manchurian Incident)は、昭和6年(1931)9月18日夜22時20分、奉天(瀋陽)郊外の柳条湖で、旧帝国陸軍の関東州(遼東半島)駐劄部隊である関東軍の一部が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満洲(中国東北部)全土の占領を経て、昭和8年(1933)5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争を指し、中国側では九一八事變と呼ばれています。

 戦後明らかになった事実では、満鉄線路の爆破という謀略で武力発動の口火をきる任務は、奉天(瀋陽)北方約20kmの虎石台に駐屯していた独立守備歩兵第二大隊第三中隊(中隊長川島正大尉)の担当であり、実際に爆破工作にあたったのは、隊付将校河本末守中尉と小杉喜一軍曹ほか5名であったとされています。

 1932年1月に国際連盟(League of Nations)によって結成されたリットン調査団の委員は次の5名でした。

 face01 ヴィクター・リットン卿 (イギリス) 56歳 :枢密顧問官、元インド総督
 face02 アンリ・クローデル陸軍中将 (フランス) 62歳 :フランス植民地軍総監
 face03 アルドロバンディ伯爵 (イタリア) 56歳 :外交官
 face04 ハインリッヒ・シュネー博士 (ドイツ) 61歳 :国会議員、元ドイツ領東アフリカ総督
 face05 フランク・ロス・マッコイ陸軍少将 (アメリカ) 59歳
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:20Comments(0)歴史/北東アジア

2008年11月19日

北東アジア(32)-奉天討胡檄(2)

  

 A scene of the Taiping Rebellion.

 (旧暦 10月21日)

 一茶忌 信濃が生んだ江戸期を代表する俳人一茶小林弥太郎の文政10年(1828)の忌日。
       
 門の木も 先つゝがなし夕涼         寛政三年辛亥  (二十九歳) 
 是がまあ つひの栖(すみか)か雪五尺  文化九年壬申  (五十歳)


 勇忌、かにかく忌  耽美頽唐な歌風を築いた歌人、脚本家、小説家にして、元薩摩藩士吉井友実の孫、元伯爵吉井勇の昭和35年(1960)の忌日。
       
 かにかくに 祇園は恋し寝るときも 枕の下を水の流るる

 北東アジア(31)-奉天討胡檄(1)のつづき

 キリスト教を基にした宗教教団の拝上帝会が、太平天国を名乗って挙兵したのは、道光30年(1850)12月10日のことでした。

 そして拝上帝会から「太平天国」になった決起軍の中には、「女営」と呼ばれる婦人部隊も含まれていました。男性軍隊とは隔離され、男性が女営に近づいたり、女性と会ったりすれば、それが夫婦、兄弟であっても死罪となる大変厳しい軍律が科せられていました。

 そのような切迫した情勢の中で蜂起した民衆にとっては、奉天討胡檄の激越な文章は、多くの人々を煽動し興奮させました。

 夫れ中國には中國の形像有り、今、滿洲は悉く削發(削髪:髪をそる)を令し、一長尾(辮髪)を後に拖(ひ)く、是れ中國の人をして變じて禽犬と為す也。

 そもそも中国には中国の形象があるのに、今満洲はことごとく髪を剃らせ、辮髪を後ろに垂らさせている。これは中国の人を禽獣に変えるものだ。

 中國には中國の衣冠有り、今、滿洲另(わか)ちて頂戴(ちんたい:官吏の等級のしるし)を置く、胡衣猴冠、先代の服冕(ふくべん:服と冠)を壞(こは)す、是れ中國の人をして其の根本を忘(ばう)す也。

 中国には中国の衣冠(装束)があるのに、今満洲は頂戴(ちんたい:官吏の帽子の頂に、珠玉、金石をつけてその等級を区別するしるし)を設け、胡の服、猿の冠をつけさせて、先代の衣冠を壊した。これは中国の人にその伝統を忘れさせるものだ。
 
 中國には中國の人倫(人種)有り、前の偽妖(ぎよう:偽帝)康熙、暗(ひそか)に韃子(だつし:韃靼人)一人に令して十家を管(くわん:管理する)し、中國の女子を淫亂せしむ、是れ中國の人をして盡(ことごと)く胡種と為すを欲する也。

 中国には中国の人種があるのに、前の偽帝妖王康熙帝(清の第4代皇帝、在位1661~1722)は、密かに満洲人一人に中国人の家十戸を管理させ、中国の婦女子を犯させた。これは中国の人をことごとく満洲人にしようとするものだ。
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2008年11月14日

北東アジア(32)-中國正史日本傳(1)-宋書倭國傳

 

 5世紀後半の韓半島 (by Wikipedia)


 亀井勝一郎忌  『大和古寺風物誌』(1943年 天理時報社)や『親鸞』(1944年 新潮社 日本思想家選集)などの宗教論、美術論、人生論、文明論、文学論などに多くの著作を残した函館出身の評論家、亀井勝一郎の昭和41年(1966)年の忌日。

 正史とは、主に国家によって公式に編纂された王朝の歴史書のことで、中国では二十四史が代表的なものとされています。

 二十四史は、清の第6代乾隆帝(在位1735~1795)によって定められた中国王朝の正史二十四書のことで、司馬遷の『史記』130巻から明史332巻までの24の王朝の興亡が、伝説上の帝王「黄帝」から明滅亡の1644年まで記載されています。
 
 辛亥革命(1911)後、中華民国政府によって正史に加えられた『新元史』および中華民国政府時代の編纂による『清史稿』、戦後の台湾の国民政府が編纂した『清史』を加えて、二十八史とすることもあるようです。

 その中国二十八史のなかで、我が日本の傳(言い伝え)を載せるものは十八史あります。ここでは、お隣中国の正史に著された日本傳(主に東夷傳)についてたどってみましょう。

 『宋書』(そうじょ)は、中国南朝の宋(420~479)に関して、宋・斉・梁に仕えた政治家、文学者沈約(chén yāo:441~513)が斉の武帝に命ぜられて編纂した本紀(歴代帝王の事跡)10巻、列傳(人々の伝記)60巻、志(天文・地理・礼楽などを記述したもの)30巻、計100巻からなる紀伝体の歴史書です。

 宋書 列傳第五十七 夷蠻

 倭國は高驪(高句麗)の東南大海の中に在り、世(よよ、代々)貢職(貢ぎ物)を修む。

 高祖(南朝劉宋第1代武帝:在位420~422)の永初二年(421)、詔(みことのり)して曰く、「倭贊(さん:第16代仁徳天皇に比定)、萬里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、除授を賜ふべし」と。

 太祖(第3代文帝:在位425~453)の元嘉二年(425)、贊、又司馬曹達を遣はして表(上書)を奉り方物(地方の産物)を獻ず。贊、死して、弟珍(第17代履中天皇に比定)、立つ。使ひを遣はして貢獻し、自ら使持節都督倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王と稱し、表(上書)して除正(叙任)せられんことを求む。詔(みことのり)して安東將軍、倭國王に除す。珍、又倭隋等十三人を平西、征虜、冠軍、輔國將軍の號に除正せられんことを求む。詔(みことのり)して並びに聽す。
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2008年11月03日

北東アジア(31)-奉天討胡檄(1)

 

 Extent of Taiping control in 1854 (in red).
 太平天国の主要支配地域

 ( 旧暦 10月 6日)

 「檄」とは、敵の罪悪などを挙げて自分の信義を述べ、衆人に告げる文書(広辞苑)のことで、古来から数々の有名な檄文が残されています。
 台湾では「檄文教典」なる書籍も出版されており、その中に、「奉天討胡檄」なる一文が載せられています。

 「奉天討胡檄」は、天を奉じて胡(えびす:満洲族)を討つという意味の極めて民族意識の強い檄文で、清末の咸豊2年(1852)、湖南と湖北で猖獗を極めた太平天国の乱において、湖南の湘南拡軍の指導者である広西省桂平出身の客家、東王楊秀清(Yang Xiuqing :1821~1856)と広西省武宣県河馬郷出身の西王蕭朝貴(Xiao Chaogui :1820頃~1856)の名で発せられました。

 太平天国の乱(1850~1864)は、広東省広州福源水村出身の客家、洪秀全(hóng xìu qúan:1814~1864)が、キリスト教を基にした宗教教団、拝上帝会を興して天王を自称し、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって清に反旗を翻して南京を首都と定め、国号を太平天国と称した叛乱です。この乱により、一説には約4,000万人の犠牲者を出したとも云われています。

 

 洪秀全(hóng xìu qúan:1814~1864)

 「奉天討胡檄」のテキストは、初版本と改訂本の二種類があり、ここでは改訂本を基に、東大の東洋史学科で中国近代史を専攻し、博士過程を修了されて金沢大学、富山大学等で教鞭を執られた西川喜久子先生の訳を参考にしてみます。

  真天命太平天國禾乃(かだい:洪秀全と楊秀清の秀を分解したもので、「禾(か)」は稲なので飢饉を救うことができ、「乃(だい)」は救うという意味)師贖病(しょくびょう:庶民に代わって病を贖い人々を救う)主左輔正軍師 東王楊、右弼又正軍師 西王簫、天を奉じて胡を討たんが為に、四方に檄す。すなはち曰く、

 嗟(ああ)爾(なんじ)有眾(ゆうしゆう:人々)よ、明らかに予が言を聽け。予惟(おも)ふに天下なる者は上帝(中国)の天下にして、胡虜(こりよ:満洲族)の天下に非(あら)ざる也。衣食は上帝の衣食にして、胡虜の衣食に非(あら)ざる也。子女民人は上帝の子女民人にして、胡虜の子女民人に非(あら)ざる也。
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2008年02月21日

北東アジア(30)-宦官

 

 老いたる宦官

 (旧暦  1月 15日)

 泰忌  高濱虛子の六女章子と結婚、俳誌「春潮」を創刊して主宰し、戦後の「ホトトギス」では新感覚派として特異な存在となった俳人上野泰の昭和48年(1973)年の忌日
 竹を伐る 人にやむなし雪解雨
 秋晴や 太鼓抱へに濯ぎもの
 入学す 戦後飢餓の日生れし子


 日本は中国から政治制度を始めとする様々な文化を学びましたが、科挙制度と宦官の制度だけはついに取り入れませんでした。

 科挙制度については、京都学派の中心人物として戦後の東洋史学界をリードし、『九品官人法の研究』などの著作で有名な故宮崎市定先生(1901~1995)の『科挙史』(東洋文庫、平凡社)に詳しく述べられています。

 また、宦官については、京都支邦学の創設者にして京都帝国大学の学宝とまで呼ばれた内藤湖南博士(1866~1934)および「塞外史」のうち特に「西域史」の研究において日本の西域史学の確立に貢献した後の京都帝国大学総長羽田亨博士(1882~1955)に師事し、戦後は立命館大学で教鞭を執った三田村泰助博士(1909~1988)の著作『宦官-側近政治の構造』 (中公新書、中央公論新社)が著名です。

 第115回(平成8年7月)直木賞候補作、浅田次郎氏の長編小説『蒼穹の昴』でも描写されていますが、湖北大学教授顧蓉博士および同葛金芳博士の共著による『霧横帷牆<古代宦官群体的文化考察>』(陝西人民教育出版社、1992)、訳書名『宦官<中国四千年を操った異形の集団>』(尾鷲卓彦訳、徳間書店)でも、三田村博士の著作を参考にしながら浄身(去勢手術)の様子など近代中国における宦官の実態が詳しく記述されています。

 三田村博士によれば、1870~80年代にイギリス人ステントが宦官の実態について北京で調査した際、紫禁城の南西部西華門外に「廠子(chǎng zǐ)」と呼ばれるみすぼらしい建物があり、そこが宦官となる人の手術場であったそうです。
 「廠子(chǎng zǐ)」には、無給だが清朝公認の「刀子匠(dāo zǐ jiàng)」と呼ばれる執刀人が数人いて、手術料一人銀6両(テール)であり、すっかり治癒するまでの責任を負ったと云います。
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2006年10月16日

北東アジア(29)-高句麗・広開土王碑(3)

 

 広開土王碑拓本


 (旧暦 8月25日)

 北東アジア(28)-高句麗・広開土王碑(2)のつづき

 広開土王碑の拓本を持ち帰った酒匂景信は、嘉永3年(1850)に宮崎県都城に生まれ、明治4年(1871)に徴兵により陸軍に入隊しています。
 その後、酒勾景信は佐伯有清先生が著された『広開土大王碑と参謀本部』(吉川弘文館、1876)に引用された「官員録」によれば、砲兵科の将校として明治10年(1877)に少尉に任官し、明治15年(1882)に中尉、明治19年(1886)に大尉に進級しています。

 明治7年(1874)12月に皇城の西北市ヶ谷台に陸軍士官学校が開校され、翌明治8年(1875)2月に士官生徒第1期生が入校しましたが、酒匂景信もそのうちのひとりでした。
 教育制度はフランス式で、修学期間は兵科によって異なり、歩兵科と騎兵科が2年、砲兵科と工兵科が3年でしたが、明治9年(1876)には4年、明治14年(1881)には5年に延長されています。
 少尉に任官した後も在校したので、生徒少尉と称されましたが、士官生徒は11期生まで続き廃止されています。

 酒匂景信は明治13年(1880)から参謀本部に出仕して2年間勤務し、明治17年(1884)から士官学校の教官になっているので、清国に派遣されていたのは、明治15年(1882)3月から明治17年(1884)6月までの期間であろうと推定されています。

 当時の参謀本部は兵要地誌の調査(諜報活動)のため、明治12年(1879)から十数人の陸軍将校を駐在武官や語学教師として清国に派遣して防諜活動を展開させていますが、現役軍人が現地人に偽装して潜入しており、酒匂景信中尉もその一人であったようです。  続きを読む

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2006年09月20日

北東アジア(28)−高句麗・広開土王碑(2)

 

 広開土王碑文(酒匂本)

 旧暦閏-7月28日

 「百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以辛卯年來渡□破百殘□□新羅以爲臣民」
 (□は不明文字)


 百殘(百済)新羅 舊(もと)より是れ屬民にして、由来、朝貢せり。而るに倭、辛卯の年を以て來たり、□を渡りて百殘(百済)を破り、新羅を□□し、以て臣民と爲す。

 昭和48年(1973)、農学校に入りたての日本史の講義で、在日韓国人の歴史学者である李進煕(イ・ジンヒ)氏の『広開土王陵碑の研究』(吉川弘文館、1972年)が紹介され、広開土王碑の拓本が明治16年(1883)に陸軍参謀本部の酒匂景信中尉によって持ちかえられたこと、日本陸軍による意図的、組織的な石灰塗布により碑文は改竄されているとの説を聞きました。

 この説を紹介したのは、当時の文学部教授佐伯有清先生(1925〜2005)でしたが、私「嘉穂のフーケモン」は理科系の学生でもあり、日本史も教養課程の選択科目であったため、「そんな事もあったんだ」程度の認識しかありませんでした。

 佐伯先生とはその後お会いする機会もありませんでしたが、残念ながら昨年に亡くなられたようです。
 先生は東大の大学院で国史学を専攻され、農学校の文学部教授を退官された後は、成城大学文芸学部教授を務められ、『研究史邪馬台国』、『魏志倭人伝を読む』、『最後の遣唐使』などの著作を残されています。

 広開土王(374〜412、在位391〜412)は高句麗の第19代国王で、東部鮮卑の前燕(337〜370)の圧迫を受け国都丸都城(中国吉林省通化専区揖安県)を失って衰退していた高句麗(B.C.37〜668)を再興し、後燕(384〜407)と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って領土を大きく拡張しました。  続きを読む

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2006年04月12日

北東アジア(27)−第一次上海事変(4)


 

 肉弾三勇士

 (旧暦  3月 15日)

 北東アジア(26)−第一次上海事変(3)のつづき

 上海戦線における中国軍は対共産軍作戦で再三悩まされた「鉄条網と偽装陣地」を周到に配置し、縦横に広がるクリークで囲まれた地形にソ連軍式およびドイツ軍式の塹壕、掩体からなる防禦陣地を縦深に構築して抵抗しました。
 日本軍はそのような堅固な陣地に対して日露戦争型の突撃を繰り返したため、鉄条網に阻止され損害を重ねていきました。

 2月22日未明、江湾鎮西北の廟行鎮を攻撃目標とされた第二十四旅団は、福岡歩兵第二十四聯隊第一大隊を主攻兵力とし、鉄条網爆破に工兵第二中隊第二小隊を振り向けて突撃路を開こうとしましたが、第一斑三組が失敗し、第二斑第一組の三名は導火索がくすぶる破壊筒を抱えて鉄条網に突進しましたが、先頭の北川一等兵が敵弾を受けて転倒、後ろの二人も転倒してしまいました。
 
 しかし三人はまた立ち上がって鉄条網に突進し破壊筒を突きだしたとたんに爆発、三名の一等兵は鉄条網もろとも爆死してしまいます。この事が、後に、『爆弾三勇士』、『肉弾三勇士』として称えられることになります。

 廟行鎮の敵の陣
 我の友隊すでに攻む
 折から凍る二月(きさらぎ)の
 二十二日の午前五時
 
 作詩 与謝野寛  作曲 辻 順治
 昭和7年 大阪毎日・東京日日新聞募集当選歌 「爆弾三勇士」


 2月28日、朝日新聞(東京、大阪)と毎日新聞(大阪毎日、東京日々)はこの三勇士の歌を懸賞募集すると発表、朝日新聞は「肉弾三勇士の歌」、毎日新聞は「爆弾三勇士の歌」として賞金1等500円の第1面社告を出しました。
 朝日新聞の「肉弾三勇士の歌」には12万4561通、毎日新聞の「爆弾三勇士の歌」にも総数8万4177編の応募があり、この中から鉄幹与謝野寛の作品が選ばれて読者を驚かせています。
 「爆弾三勇士の真実=軍国美談はこうして作られた!」(前坂俊之静岡県立大学国際関係学部教授)
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~maesaka/021226_contents/040228_bakudannsannyuushi.pdf

 

 東京芝・青松寺に築かれた肉弾三勇士の像  続きを読む

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2006年04月11日

北東アジア(26)−第一次上海事変(3)

 

 上海派遣軍(司令官;白川義則大将)侵攻図 9D;第9師団(金沢、植田謙吉中将)、11D;第11師団(善通寺、厚東篤太郎中将) 

 (旧暦  3月 14日)

 北東アジア(25)−第一次上海事変(2)のつづき

 上海における中国第十九路軍の抵抗は烈しく、海軍陸戦隊は苦戦していました。このような緊迫した状況の中、昭和7年(1932)2月1日、海軍大臣大角岑生大将から提出された陸軍出兵の議は、芳沢謙吉外相、荒木貞夫陸相との三相協議で合意され、金沢の第九師団と久留米の第十二師団混成第二十四旅団が派遣される事になりました。

 旅団長下元熊弥少将指揮の混成第二十四旅団は、久留米第十二師団に所属する歩兵第十四聯隊第二大隊(小倉)、歩兵第二十四聯隊第一大隊(福岡)、歩兵第四十六聯隊第一大隊(大村)と野戦重砲兵第二旅団の独立山砲兵第三聯隊第二大隊(久留米)を基幹として編成されていました。
 旅団は、巡洋艦5隻、駆逐艦6隻に分乗して、2月7日上海に到着し、呉淞(ウースン)鉄道桟橋から上陸しました。

 一方、師団長植田謙吉中将指揮下の金沢第九師団は2月9,10日に宇品港を出港し、第一梯団は2月13日から、第二梯団は2月14日から、長江と黄浦江との合流点に位置する上海港および呉淞(ウースン)鉄道桟橋から上陸しました。

 植田師団長は英国公使ランプソンの斡旋で、師団参謀長田代皖一郎少将をフランス租界の『中国聯誼社』に派遣して第十九路軍参議范其務(はんきむ)と会見させ、中国側の自発的撤退を勧告させましたが、当然のことながら中国側は日本側の撤兵要求には一切応じませんでした。

 2月18日、植田師団長は第十九路軍長蔡廷鍇に対し、2月20日午前7時までの第一線からの撤退と夕刻午後5時までの各租界の境界線より20㎞の地域外への撤退を求める最後通牒を通告しましたが、「第十九路軍は中華民国政府の指揮下に属し、軍の行動に関しては中国政府以外に命令する権利を有するものなし。」との回答が届けられました。  続きを読む

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2006年02月03日

北東アジア(25)−第一次上海事変(2)

 
 
 加賀飛行隊、左から生田乃木次中尉、黒岩利雄三等飛行兵曹、武雄一等飛行兵。

 1932年2月22日、航空母艦「加賀」飛行隊の生田乃木次大尉は三式艦上戦闘機の小隊3機を率い、一三式艦上攻撃機小隊3機とともに出撃、蘇州上空においてアメリカ人義勇兵のロバート・ショート操縦するボーイング218と交戦してこれを撃墜。日本の陸海軍を通じて初の空中戦闘による撃墜を記録した。

 (旧暦  1月 6日)

 光悦忌  近衛信尹(1565〜1614)、松花堂昭乗(1584〜1639)とともに寛永の三筆の一人として称えられ、画家、刀剣の鑑定、陶芸、漆芸、出版、茶の湯などにも多彩な才能を発揮した本阿彌光悦の寛永14年(1637)年の忌日
 代表作
 • 楽焼片身替茶碗 銘「不二山」(国宝 サンリツ服部美術館蔵)
 • 舟橋蒔絵硯箱(国宝 東京国立博物館蔵)
 • 鶴下絵和歌巻(光悦書、宗達下絵)(重要文化財 京都国立博物館蔵)
 • 鹿蒔絵笛筒(重要文化財 大和文華館蔵)
 • 黒楽茶碗 銘「雨雲」(重要文化財 三井文庫別館蔵)

 北東アジア(24)−第一次上海事変(1)のつづき


 中央大学人文科学研究所偏『日中戦争』に納められている論文「上海事変と日本人居留民」−日本人居留民による中国人民衆虐殺の背景−のなかで、現日本大学大学院総合社会情報研究科高綱博文教授は、「1932年の1月から5月まで国際都市上海に激変をもたらした上海事変は、日中両軍の苛烈な戦闘と極めて錯綜した外交過程を通じて、近代東アジアにおける帝国主義戦争の一典型ともいうべき歴史的性格を備えたものであった」と論じています。

 第一次上海事変は、昭和6年(1931)9月18日の九・一八事変(満洲事変)を契機として激化した排日運動の一環として起こった日貨(日本から輸出された商品)ボイコット運動に端を発し、日本政府、出先外交当局、居留民の抗議、圧殺策動と中国政府の弁明あるいは反批判を生み出しつつ、1932年の1月9日付け中国国民党機関紙『民国日報』の「不敬」報道(1月8日、東京で朝鮮人李奉昌が天皇座乗の乗用車に手榴弾を投擲した事件)、1月18日の日本人僧侶殺傷事件、1月20日の三友実業社襲撃事件といった激しい抗日運動と日本人居留民との対立激化の形態をとって、1月29日の日中両軍による武力衝突へと発展し、3月3日に戦闘停止(停戦協定調印は5月5日)するまでに日本軍がはじめて激烈な市街戦を経験した戦争でした。  続きを読む

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2006年02月01日

北東アジア(24)−第一次上海事変(1)

 

 上海市街図 1933年

 (旧暦  1月 4日)

 碧梧桐忌  正岡子規に師事し、子規の俳句の革新運動を助けましたが、子規の没後、子規門下の双璧と謳われ、守旧派として伝統的な五七五調俳句を擁護する高浜虚子と激しく対立、新傾向俳句から更に進んだ定型や季題にとらわれずに生活感情を自由に詠い込む自由律俳句に移行した俳人河東碧梧桐の昭和12年(1937)の忌日。

 赤い椿白い椿と落ちにけり
 春寒し水田の上の根なし雲


 昭和7年(1932)1月29日午前零時5分、日本租界[上海北部の虹口(ほんきゅう)地区を日本租界と呼んでいたが、虹口(ほんきゅう)地区は日本人居留者が多く居住しているだけで正式の租界ではなかった]警備のために編成された帝国海軍上海特別陸戦隊三個大隊1,833名のうち土山広端中尉指揮する第一大隊第一中隊主力は、上海市街北部閘北(ざほく)横浜路で中国第十九路軍第七十八師第百五十六旅第六団と武力衝突し、第一次上海事変が勃発しました。

 前年の昭和6年(1931)9月18日に関東軍の謀略により惹起された九一八事変(満洲事変)ののち、中国の抗日、反日、排日気運の中心的かつ指導的地位を占めていた上海では、年末までの3ヶ月の間に上海日本人居留民の商社、商店、個人に対する掠奪、暴行などの被害件数は200件を超え、特に通学児童に対する妨害、悪戯は700余件にも達して、日本側は反発を強めていたと記録されています。

 しかし、中国側の日本人居留民に対する反感は、中国人の民族意識の高揚と日本の武力進出政策への抵抗を基幹としていました。  続きを読む

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2005年12月23日

北東アジア(23)−貞観政要(2)

 

 房玄齢 『前賢故実』より(菊池容斎画)

 (旧暦 11月22日)

 北東アジア(22)−貞観政要(1)のつづき

 さてこの『貞観政要』の問答で有名な臣下に、「人生意氣に感ず」という漢詩「述懐」でも馴染みのある魏徴(580〜643)がいますが、「創業と守成いずれが難きや」との太宗皇帝と魏徴のやりとりはよく知られていますね。

 貞観十年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、帝王の業、草創と守文と孰(いず)れか難き、と。尚書左僕射房玄齢對(こた)へて曰く、天地草昧(そうまい)にして、群雄競ひ起る。攻め破りて乃ち降し、戦ひ勝ちて乃ち剋(か)つ。此に由りて之を言へば、草創を難しと為す、と。
 魏徴對(こた)へて曰く、帝王の起るや、必ず衰亂を承(う)け、彼(か)の昏狡(こんかう)を覆(くつがへ)し、百姓、推すを楽しみ、四海、命に帰す。天授け人与ふ、乃ち難しと為さず。然れども既に得たるの後は、志趣驕逸(けういつ)す。百姓は静を欲すれども、徭役(えうえき:労役)休まず。百姓凋残(てうざん)すれども、侈務(しむ)息まず。国の衰弊は、恆(つね)に此(これ)に由りて起る。斯(これ)を以て言へば、守文は則ち難し、と。 (巻第一 君道第一 第三章)


 太宗皇帝が臣下に対し、「帝王の業、草創と守文と孰(いず)れか難(かた)き」と問うたのに対し、尚書(詔勅の実行機関)の左僕射(副長官だが、唐朝では長官が欠番となり実権を行使した)の房玄齢は「創業が困難」としたのに対し、秘書監の魏徴は、「守分(維持)は則ち難(かた)し」として以下のような理由を述べました。

 1. 帝王の地位を得た後は、志向が気ままになる。
 2. 臣民は安静な生活を望むのに、労役が休(や)まない。
 3. 臣民は疲れ果てていても、帝王の使役は息(や)まない。
 4. 国が亡びるのは、常にこのような原因によって起きるので、完成されたものを維持していくことの方が困難である。


 このところ、企業の2代目経営者に会う機会が増えていますが、どの分野でも2代目は大変ですね。  続きを読む

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2005年12月22日

北東アジア(22)−貞観政要(1)

 

 唐の第2代皇帝太宗(598〜649)

 (旧暦 11月21日 冬至)

 唐の第2代皇帝太宗(598〜649)が、臣下の房玄齢(578〜648)や杜如晦(585〜630)、魏徴(580〜643)等と共に唐王朝を創業した後、彼らと治国安民の政策についてかわした問答集『貞観政要』は、我が国には、唐朝から伝来した真本と称される鈔本(原本の一部を抜粋したもの)が藤原南家と菅原家に伝承されています。

 もともと、この『貞観政要』は、太宗の没後50年ぐらい後、唐の第6代中宗(在位705〜 710)、第9代玄宗(在位712〜756)時代の史臣呉競(663?〜749)によって、40篇にまとめられました。

 しかし、一般に流布されている刊本(印刷された本)は、元の至順4年(1333)に戈直(かちょく)が校訂注釈をなし、『新唐書』の編纂などで著名な北宋の政治家・学者欧陽脩(1007〜1072)や294巻からなる編年体の歴史書『資治通鑑』などを著した北宋の政治家・学者司馬光(1019〜1086)などの諸家の論説を加えた「戈直本」と呼ばれる集論本が底本になっています。

 現在この原本は存在しませんが、明朝の第9代憲宗成化帝(1447〜1487、在位1464〜1487)が、成化元年(1465)に儒臣に命じてこの「戈直本」を校訂させて覆刻したことにより、この本が広く中国や日本に広まりました。  続きを読む

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2005年10月10日

北東アジア(21)−武昌起義

 

 武昌市街 新軍(蜂起軍)侵攻図

 (旧暦  9月 8日)

 素逝忌  俳人長谷川素逝の昭和21年(1946)の忌日
 
 遠花火 海の彼方にふと消えぬ

 光緒20年(1894)、李氏朝鮮(1392〜1910)において起きた東学党の乱(甲午農民戦争)を契機として介入した清、日本の対立から中日甲午戦争(明治二十七八年戦役)が勃発しましたが、翌光緒21年(1895)、この戦争に敗れた清朝では、西洋式の訓練に基づく新式陸軍の必要性が論じ始められました。

 当初は、光緒21年(1895)3月に広西按察使で中日甲午戦争の兵站を担当した胡燏棻(hú júfén)という人が、天津以南原盛軍駐地小站において、成年男子を募集して十営を編成し、「定武軍」と名づけてドイツ人教官ハンネケンの指導の下に訓練を始めました。

 その後、胡燏棻(hú júfén)の転出に伴い、同年10月には袁世凱(1859〜1916)が継承して、「新建陸軍」と改名されました。また、両広総督などを歴任した張之洞(1837〜1909)によって南洋新軍も創設され、光緒26年(1900)の義和団事変を経た光緒29年(1903)に清朝は正式に新軍三十六営の各省設置を図りましたが、実際に設置されたのは二十六営と云われています。

 特にこの国軍の根幹である新軍には、現状に対して不満をもつ人々が数多く応募し、心情的には満州族の清朝に反感をもつ漢族が圧倒的に多数を占めていたため、清朝の正規軍でありながら、革命派と反革命派の二面性を有し、武昌起義以後の各地の革命運動では、地方の新軍が重要な役割を担いました。  続きを読む

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2005年09月24日

北東アジア(20)−九一八事変(2)

 

 満州事変要図

 (旧暦  8月21日) 
 
 言水忌 俳人池西言水の享保7年(1722)の忌日
 南洲忌 南州西郷隆盛先生が明治10年(1877)鹿児島の城山で自決された忌日

 北東アジア(19)−九一八事変(1)のつづき

 満蒙という呼び方は日本のみの俗称で、その地域は満洲いわゆる中国の東三省である奉天省【民国17年(1928)遼寧省に改称】、吉林省、黒竜江省と満内蒙古と呼ばれる熱河省を含めた広大な地域でした。

 昭和6年(1931)1月の第59帝国議会の衆議院本会議において、野党政友会の新人代議士松岡洋右の代表質問によって発せられた「生命線」という造語は、同年9月18日に関東軍の謀略により惹起された柳条湖事件(関東軍の満鉄線爆破とともに発動された軍事行動)とその後の全満洲へと拡大された軍事行動によって、当時の国民の注目が満洲に集まったこと、および大阪毎日新聞および東京日日新聞が同年10月27日付けで行った4ページ全面特集の「守れ満蒙−帝国の生命線」という一大キャンペーンによって広く国民に喧伝されました。

 また、柳条湖事件の真相は国民には秘匿され、中国軍(東北軍第20師第7旅)の満鉄線爆破と日本軍(独立守備歩兵第2大隊第3中隊)への攻撃によって引き起こされたという虚構が宣伝されたため、国民の大半は正義の自衛戦争と熱狂しました。

 特に当時の新聞は、関東軍の虚偽の発表を国民に真実であると思いこませる役割を果たしました。そして事変の拡大を正当化して軍の奮戦勝利を称賛し、中国への侮蔑と憎悪を助長させ、国際連盟を非難する記事を掲載しました。  続きを読む

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2005年09月21日

北東アジア(19)−九一八事変(1)

 

 事件直後の柳条湖爆破現場

 (旧暦  8月18日)
 
 宮澤賢治忌  童話作家、詩人宮澤賢治の昭和8年(1933)の忌日
 廣津和郎忌  小説家、社会評論家廣津和郎の昭和43年(1968)の忌日
 宇野浩二忌  小説家宇野浩二の昭和36年(1961)の忌日

 中国における抗日戦争の発端となった「九一八事変」(満洲事変)から74年がたちましたが、事変勃発15年後の昭和21年(1946)5月3日から東京市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂で審理が開始された極東国際軍事裁判(The International Military Tribunal for the Far East)により、当時の関東軍高級参謀板垣征四郎大佐(1885〜1948)や関東軍作戦主任参謀石原完爾中佐(1889〜1949)等を中心とする関東軍首脳部の謀略により、武力発動が計画されたことが明らかになりました。

 

 関東軍高級参謀板垣征四郎大佐(1885〜1948)

 

 関東軍作戦主任参謀石原完爾中佐(1889〜1949)

 しかし、この極東国際軍事裁判(東京裁判)にしても事件の正確な全容は解明できず、石原中佐等の謀略と事件の実際の経過が明らかになったのは、当時奉天特務機関員であった花谷正少佐が昭和31年(1956)に「満洲事変はこうして計画された」(http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/thisei_0.htm)という回想を雑誌(「別冊 知性」 昭和30年12月号 河出書房)に発表してからのことであったと云うことです。

 

 日露戦争の勝利によりロシアから譲渡された関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権及びロシアが自ら施設した東清鉄道の内、旅順−長春間の南満州支線(772?、1903年1月に完成)と付属地の炭鉱の租借権こそが、その後の日本の運命を大きく左右することになろうとは、日本全権小村寿太郎も伊藤博文をはじめとする当時の指導者達も想像すら及ばなかったことでしょう。  続きを読む

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