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2012年01月30日

陶磁器(14)−琺瑯彩(景徳鎮官窯)

 

 清雍正 黃地琺瑯彩梅花紋碗 高6.2cm、口径12cm、足径4.6cm

 (旧暦1月8日)

 景徳鎮官窯の発展に多大な貢献を成した景徳鎮御器廠督陶官唐英(1682〜1756)は、一時、官窯を去る雍正13年(1735)に、御器敞のなかに「陶成紀事碑」という記念碑を建立しました。

 それによれば、景徳鎮官窯の一年間の経費には淮安板閘関銭糧八千両(テール)が用いられ、工価、飯食、泥土、釉料は民間の時価に照らして公平に採資して、少しも不正が無いように努めていたと云います。

 ちなみに、清朝は銀を秤量貨幣(品位・量目を検査してその交換価値を計って用いる貨幣)として用いていましたが、その秤量の重さの単位「両(Tale)」は、地域や役所によって基準が異なり、その主なものだけでも、
  face03庫平両=37.3125g 
  face05海関両(関平両)=37.679g 
  face02上海両(申漕平両)=33.824g
などの差異がありました。

 1庫平両(清朝政府の納税標準)=37.3125gとして、淮安板閘関銭糧八千両は銀298.5㎏と試算されますが、銀の現在価値80円/g(平均値)とすると、淮安板閘関銭糧八千両は2,388万円に相当します。

 余談ですが、日清戦争後の下関条約における清国からの軍事賠償金・庫平銀2憶両(当時の邦貨換算2億9,930万金円)とその後の三国干渉による遼東半島還付代償金・庫平銀3,000万両(当時の邦貨換算4,490万金円)は合計857.9万㎏となり、現在価値では6,863億円、当時の日本の国家予算約8000万円の4倍強の3億4400万円以上を日本は清国に対して3年分割で英ポンド金貨で支払わせています。

 20世紀初頭の清国の歳入は約8,800万両と云われており、2億3,000万両は清国の国家予算の3倍弱に相当する膨大な金額でした。
 
 陶成したる廠器は、每歲秋、冬の二季に船隻・夫役(運搬夫)を雇ひ覓(もと)め、圓、琢器皿六百餘桶を解送(護送)す。歲例(例年)、盤、碗、鍾(壺)、碟(皿)等上色の圓器、一二寸の口麵(口径)由り以て二三尺の口麵(口径)に至るものは一萬六七千件。其の選に落ちたるの次色は、尚六七千件有り、一並(一緒)に裝桶して京(北京)に解(護送)し、以て備賞(賜与)に用ふ。其の瓶、罍(らい、雷雲の文様の酒樽)、樽、彝(い、酒器)等上色の琢器、三四寸の高さ由り以て三四尺の高さに至る大なるものは、亦た歲例(例年)二千餘件。尚ほ選に落ちたる次色有り二三千件に等しからず、一並(一緒)に裝桶して京(北京)に解し、以て備賞に用ふ。
 《陶成紀事》 唐英撰 嘉穂のフーケモン拙訳


 また毎年秋、冬の二季に焼成された敞器は船や運搬夫を雇い、円琢器皿は六百余桶を北京に護送した。盤・碗・鐘(壺)・碟(小皿)などの高品質の円器(円い平面的な磁器)で口径一・二寸から口径二・三尺のものは一万六・七千件の外、選に落ちた次位のものは六・七千件あり、一緒に桶に収蔵してを京師(北京)に送り、皇帝からの下賜の用に供した。
 其の瓶、罍(らい、雷雲の文様の酒樽)、樽、彝(い、酒器)等の高品質の琢器(瓶、樽などの立体的な磁器)で、三・四寸の高さから三・四尺の高さに至る大きな磁器は、亦た例年二千餘件。なお選に落ちた次位のものは二・三千件以上あり、是も亦一緒に桶に収蔵してを京師(北京)に送り、皇帝からの下賜の用に供した。
 《陶成紀事》 唐英撰


 「琺瑯」は日本では七宝焼として知られていますが、金、銀、銅などの金属を素地(胎)として、表面にシリカ(二酸化ケイ素)を主成分とするガラス質の釉薬を高温で焼き付けたもので、中国には北宋の時代(12世紀頃)にヨーロッパから伝わったとされています。

 七宝とは法華経見宝塔品第十一の

 其の諸の幡蓋(ばんがい)は、金(こん)・銀(ごん)・瑠璃(るり)・碼碯(めのう)・眞珠(しんじゅ)・玫瑰(まいえ)の七宝を以て合成(ごうじょう)し、高く四天王宮に至る。

に拠り、その七宝に匹敵するほど美しいことから名称がつけられたと伝えられています。

 宋代までの中国の陶磁器は、「玉の神秘な色の再現」を追及していたために、白磁、青磁などの純色なものが尊ばれていました。そのため、ガラス質の琺瑯は、その多彩な発色故に異端視されていました。
 
 そのような琺瑯が重用されるようになったのは、明の第7代皇帝景泰帝(在位1450〜1457)であったと云われています。 
 景泰帝は朝廷内に琺瑯作をつくり、門外不出の技術として琺瑯を制作させました。古くは「銅胎摘絲琺瑯」と呼ばれていた琺瑯は、朝廷の手厚い保護のもと発展し、中国独特の琺瑯芸術へと成長しました。当時の器物の多くは藍釉が下地になっていたので、「景泰藍」と呼ばれました。

 清代に入り、白磁の表面に琺瑯を焼き付ける「琺瑯彩」の技術が開発されました。「琺瑯彩」に魅せられた清の第4代康煕帝(在位1662〜1722)は、康煕57年(1718)、琺瑯作を内廷の養心殿に移し、制作体制を強化しました。
 当時、琺瑯彩の釉薬はすべて国外から調達していましたが、色彩が九彩しかなく、また表面が滑らかな白磁には剥落しやすいという弱点がありました。
 
 多くの資金と職工が投入されましたが、新しい琺瑯彩の技術は、第5代雍正帝(在位1722〜1735)に引き継がれ、試行錯誤の末、雍正6年(1728)に実用化されました。剥落についても、芸香油という特殊な油を用いることにより改善されました。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:41Comments(0)陶磁器

2012年01月04日

陶磁器(13)−粉彩(景徳鎮官窯)

 
 
 黄釉粉彩八卦如意転心套瓶 (清 乾隆窯)
 高さ19.5cm、口径6.1cm、足径6.8cm

 (旧暦12月11日)

 明けましておめでとうごわす。今年もヨロピクでごわす。
 
 さて、この「転心套瓶」は、外側の瓶と内側の瓶の二重になっているのが特徴で、外側の瓶の腹部に透かし彫りされた八卦の隙間(鏤空)から、内部の筒の模様を見ることができます。

 外側の瓶は首と本体が如意雲紋で上下二つに分けられており、外側の瓶の首を回すと内側の瓶も回転するようになっています。分かれているようで互いに繋がりがあって、そこには「交泰瓶」の精神があり、天下の往来や国民の安泰を願う象徴的な意味が込められていると解説されています。

 この瓶は、内側の瓶、外側の瓶の上部、外側の瓶の下部の三つに分けて焼成されています。あらかじめ絵付けして焼いた上で、内側の瓶と外側の瓶の上部を接着し、それを外側の瓶の下部にはめ込んで、陶土を巻いて抜き取れないようにして素焼きし、再度釉薬を塗って低温で焼いて仕上げているそうです。

 解説すると簡単なようですが、三つに分けた部品が焼成の途中で変形すると組み立て不能となるし、三回焼成しても釉薬の発色を一定に保つための周到な温度管理が必要であり、「鬼斧神工」(神業さながら、入神の技の冴え)と云われるだけの高度な技術を要する名品です。

 中国の歴代王朝にあっては、陶磁器の色彩は権威の象徴でもありました。清朝の後宮の女性達が用いる陶磁の色は、下記のように決められていました。

 1. 皇后(一人)       黄色  
 2. 皇貴妃(一人)      白地に黄色
 3. 貴妃(二人)と妃(四人) 黄色地に緑の龍
 4. 嬪(六人)        藍地に黄色の龍
 5. 貴人(無定数)      緑地に紫の龍
 6. 常在(無定数)      緑地に赤い龍


 従って、『黄釉粉彩八卦如意転心套瓶』は皇后のものに相当するようです。

 中華人民共和国成立以前の中国の歴史において、清代は最も文化の高揚した時期であり、とりわけ前半期の清朝第4代康煕帝(在位1662〜1722)、第5代雍正帝(在位1722〜1735)、第6代乾隆帝(在位1735〜1796)の三代が繁栄期であったと云われています。

 この時期に清朝は、科学の分野で発展をみせていたヨーロッパ文化を積極的に取り入れ、漢文化と融合させた高度な文化を築きました。
 陶磁器の歴史においても、ヨーロッパの七宝(銅胎七宝)の顔料を用いた「粉彩」や各種の色釉などは清代を代表する技法でもあり、中国陶磁技術の頂点を示すものと評価されています。

 明代から発展、繁栄してきた景徳鎮は、清初の動乱で戦渦に巻き込まれて衰退しましたが、康煕19年(1680)9月、御器焼造の命が下され、内務府総官の広儲司郎中・徐廷弼、内務府主事の李廷禧、工部虞衡司郎中・臧応選、筆帖式・車爾徳の4人が景徳鎮に派遣されることになりました。清朝は徐廷弼を事務の総監として、臧応選を現業の総監として景徳鎮官窯の再建に当たらせようとしました。
 翌、康煕20年(1681)2月、彼らは景徳鎮に着任して督造を開始しています。

 1. 臧窯  康煕20年(1681)〜康煕27年(1688)
 特に工部虞衡司郎中、臧応選は、荒廃した景徳鎮官窯の復興整備と人材育成、焼成技術の向上に努め、清代官窯の基礎を築いたと云われています。
 臧応選が景徳鎮で督理製造に携わっていた康煕20年(1681)から康煕27年(1688)までの官窯を「臧窯」と呼び、青花五彩技術がさらに成熟をふかめ、「茶葉末」などの単色釉の作品に優れていました。

 

 五彩雉雞牡丹紋瓶 清 康熙 高45cm、口徑12.3cm、足徑14cm

 2. 郎窯  康煕44年(1705)〜康煕51年(1712)
 康煕44年(1705)からは江西巡撫を兼ねた漢軍鑲黃旗人出身の郎廷極(1663〜1715)が景徳鎮御器廠督陶官を命ぜられました。
 郎廷極は康煕51年(1712)に転任するまでの8年間、各種の陶磁を監督して製作せしめましたが、特に深い色調の銅紅色釉が著名となり、後年、この銅呈色の単色釉磁を「郎窯」と呼ぶようになりました。

 

 郎窯紅釉琵琶尊 清 康熙 高36.6cm、口徑12.6cm、足徑13.6cm

 3. 年窯 雍正4年(1726)〜乾隆元年(1736)
 雍正年間(1723〜1735)に景徳鎮御器廠督陶官を命ぜられたのは漢軍鑲黃旗人出身の内務府総管、年希堯(?〜1738)でした。1726年から1736年の間の景徳鎮官窯の陶磁には「年窯」という名称が与えられ、粉彩技法と単色釉技法の精練を図り、南宋官窯の模倣とみられる秞面に貫入がはいる青磁に優れたものを残しています。

 

 粉彩桃花紋直頸瓶 清 雍正 高37.6cm、口徑4.1cm、足徑11.6cm

 4. 唐窯 乾隆元年(1736)〜乾隆21年(1756)
 年希堯は江蘇省淮安の板閘関督理(税務管理)も兼務していたため、景徳鎮にあって実務を担当していたのは漢軍正白旗人出身の内務府員外郎、唐英(1682〜1756)でした。
 唐英は雍正6年(1728)に景徳鎮御器廠督陶官に任ぜられ、乾隆21年(1756)に退任するまでの28年間に、宋代、明代等の昔日の官窯の模倣作の製造や57種類にものぼる新しい釉薬、粉彩をはじめとする各種技法の開発を行うほか、《陶冶圖說》、《陶成紀事》、《瓷務事宜示諭稿》などの陶務に関する記述など、多くの功績を残しています。

 

 青釉鏤空粉彩描金夔鳳紋套瓶 清 乾隆 高32.8cm、口徑7.2cm、足徑11cm
 
 彼は《瓷務事宜示諭稿序》の中で、「陶器の製造に関する経験も無く、知識も持ち合わせていなかったが、門を閉ざし交遊を絶ち、精神を集中して苦心し、力を尽くして工匠と食をともにすること3年、雍正9年(1731)に至って物料、火加減等すべてを知るとは言えないまでも、変化の生じる理由をおおよそは会得した」と記しています。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:21Comments(0)陶磁器

2010年08月29日

陶磁器(12)−郎窯紅(景徳鎮官窯)

 
 宝石紅観音尊 (清 康煕官窯) Ruby-red Kuan-yin Tsun Vase  Height: 25.6 cm, rim diameter: 7.3 cm, base diameter; 11.1 cm

 In the period from 1705 to 1712, during the K'ang-hsi reign, Lang T'ing-chi, the Governor of Kiangsi, was ordered to go to Ching-te-chen and manage the firing of ceramics at the imperial kiln works. Among the porcelains produced there was a red-glazed vessel in imitation of one that goes back to the Hsüan-te reign (1426-1435) in the Ming dynasty. Its strikingly beautiful color is especially attractive. Since Lang T'ing-chi oversaw the production of ceramics there, it became known as "Lang-ware Red". The shape of this vessel is similar to the purification vase seen held in the hand of the Buddhist figure Kuan-yin, which is why it is also known as a Kuan-yin tsun-vase. The irregular shedding of the glaze at the mouth here is typical of the style of Lang-ware red.
Text: Yu P'ei-chin 

 (旧暦  7月20日)

 磁器を生産する窯場が繁栄する条件には、素地や釉薬の原料、焼成のための燃料が豊富なこと、製品運搬のための交通が至便なことがあげられています。

 北宋(960〜1127)の景徳年間(1004〜1007)、それまでの昌南鎮という地名から年号により改名された景徳鎮は、江西省東北部に位置し、東は浙江省、北は安徽省の省境に近い山間にあります。
 すでに漢代から陶磁器生産が始まっていたとされ、豊富な製磁原料、特に明代末期以降に用いられた安徽省で産出する祁門土(きもんど)と云われる原料に恵まれていました。

 景徳鎮はまた昌江の河沿いに形成された街で、昌江は鄱陽湖(ポーヤン湖)、さらには長江(揚子江)へと通じ、この水運は重要な交通手段としてごく近年まで利用されてきました。

 

 清朝の康煕年間(1661~1722)にイエズス会の宣教師として布教の名目で2度にわたって景徳鎮を訪れ、磁器の製造技術をフランスに送ったダントルコール神父の書翰によれば、当時の景徳鎮は次のように記述されています。

 景徳鎮には一万八千戸有之候。巨商の住居は広大の地域を占め、驚くべく多数の職工を包含致し候。而して通説には、人口百万ありて、日々米一万俵と豚一千頭以上を消費せらると申し候。また景徳鎮は、美しき河の岸に沿いて、延長一里を十分に超え申し候。

 そは家屋の集積に過ぎざらんと想像さるべく候えども、決してさならず、街路は縄墨に則り区劃されて、等距離に交叉し、諸坊皆空地なく、家竝は狭きに過ぎ申し候。町を行けば恰も市場の中央に在る如く、四方八方より担夫の道を払う叫声喧しく聞こえ申し候。(中略)

 『浮梁県志』によれば、往昔は景徳鎮に窯数三百を算えしに過ぎざるに、現今は其の数三千にも及び候。(中略)

 景徳鎮は、高き山嶽に囲まれたる平地に位せるが、その東方に在りて鎮のよりかかれる者は、その外側に一種の半円形を形成致し候。その傍の山丘よりは二川流れ出でて、やがて合流致し候。その一川の寧ろ小なるに対し、一川は甚だ大にして、約一里に亙り水勢緩やかなる広き良港を現出致し候。時としては、此の広大の水面に小舟の舳艪接して、二、三列にも竝び居り候こと、有之候。斯くの如きが、峡谷の一より港へ進入致し候時に看らるる景色に御座候。

 即ち、火焔は諸方より渦巻き上がり、一望直ちに景徳鎮の広袤(こうぼう、広さ)と奥行と輪郭とを示し居り候。夜ともなれば、恰も全市火に包まれたる一巨邑を観る如く、又は多くの風孔ある一大炉を視る如き感、致し候。恐らくは、この山嶽に囲繞されたる地形が瓷器の制作に好適せるならんかとも被存候。                            
 ダントルコール著・小林太市郎訳注 『支那陶瓷見聞録』 第一書房 1943
 佐藤雅彦補注 『中国陶瓷見聞録』 平凡社東洋文庫363


 
 清朝第4代康熙帝(こうきてい、在位1661〜1722)の康煕13年(1674)、景徳鎮は平西親王として平西藩(雲南・貴州)に封じられていた清朝入関の功臣、呉三桂(Wú Sānguì、1612〜1678)の兵乱により戦渦に巻き込まれ、鎮の房舎の半分以上が焼失するという壊滅的な被害により、磁器の生産活動は停滞してしまいました。
 
 康煕十三年の変乱により、鎮の房舎は半ば以上焼失し、窯戸は悉くその資を失ひ、窯を業とする者は十に僅かに二、三に留る。
 『饒州府志』 康煕二十二年重修
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:49Comments(0)陶磁器

2009年08月12日

陶磁器(11)-青瓷盤口鳳耳瓶(南宋/龍泉窯)

 
 青瓷盤口鳳耳瓶(南宋/龍泉窯)

 (旧暦  6月22日)

 龍泉窯(りゅうせんよう)が陶磁の世界に台頭してきたのは、北宋(960~1127)の後期とされています。
 もともと民窯として越州窯(えっしゅうよう;漢代から唐・五代にかけて良質の青磁を焼いた窯で、浙江省慈渓県の上林湖周辺一帯に分布する)のながれをくみ生活雑器を製造して販路を拡大していましたが、南宋(1127~1279)が紹興8年(1138)、正式に臨安府(浙江省杭州)を都と定めて移転してきたために、朝廷から直接注文が来るようになり、その後諸外国にも多数輸出されるようになりました。

 元の至治3年(1323)、寧波(浙江省)から博多に向かう途中に朝鮮半島西南海上にある道徳島沖で遭難、沈没した大型交易船が1976年に発掘され(新安沈没船)、約1万点にも及ぶ龍泉窯青磁が引き上げられていますが、龍泉窯青磁が南宋期だけではなく元代にも製造されていたことの証拠にもなっています。

 龍泉窯の釉薬の色は青緑色を帯び、高台の素地は赤く焦げることが多く、また装飾では、蓮弁は先が丸くなり、各弁は櫛目で空間を埋める略体描法が目立つという特色があります。
 梅子青(ばいしせい)、葱翠青(そうすいせい)と呼ばれる龍泉窯の青磁の色は、古来から中国で尊ばれてきた古玉に例えられています。

 南宋の蒋祈(生没年不明)の表した世界最古の陶磁器生産の専門書『陶記』によると、宋代の定窯の「紅磁」、景徳鎮窯の「饒玉」(饒州景徳鎮で焼かれた玉のごとき白磁)、龍泉窯の「青秘」を宋磁の三絶としていますが、この青秘こそが日本において珍重される「砧青磁」とよばれる澄んだ青みをたたえた青磁をさしているものと考えられています

 この砧青磁の色の秘密は釉薬にあります。
 青磁は鉄の呈色であり、釉に鉄分を含んだ雲母が混ざっていて、酸欠状態で窯をたくと酸化鉄が還元されて微妙な青を発色させ、また、長石の含有量が多いために焼成によってできる細かい気泡が光を乱反射させて、深みのある落ち着いた色合いをつくるのだと云われています。

 碧玉に近い気韻縹渺(きいんひょうびょう)たる釉色は、宋代官窯青磁とともに中国青磁史に残る卓越した存在として、今日まで不動の評価を保っています。

 さて、砧青磁の語源は、ある鯱耳(しゃちみみ)の花生(はないけ)にヒビがあり、これを砧(きぬた;布を槌で打って柔らかくし、つやを出すのに用いる木または石の台)を打つ響きに因んで利休が名付けたとする説、東山慈照院にあった花生(はないけ)の形が絹を打つ砧(きぬた)に似ていたという説などがあるようです。

 この龍泉窯の青磁は時代によって呼び名が変遷し、大別して南宋期のものを「砧青磁」、元末明初期のものを「天竜寺青磁」、明末期のものを「七官青磁」と呼び分けています。
 中国元末から明初にかけて龍泉窯でつくられた青磁は、大量生産による原料の質の低下に伴い、釉色が黄味のある沈んだ青緑色を呈し、従来の砧青磁とは様相を異にしました。

 花瓶や香炉といった大作が多く、室町初期に足利尊氏が京都嵯峨に天竜寺を建立する際に資金を集める手段として元(1271~1368)との交易を企てて天竜寺船を造り、この手の青磁を多く輸入したので船名に因んで名付けたとする説や生涯にわたり、夢窓国師・正覚国師・心宗国師・普済国師・玄猷国師・仏統国師・大円国師と7度にわたり国師号を歴代天皇から賜与され、七朝帝師とも称される臨済宗の禅僧夢窓国師(1275~1351)が天龍寺に伝えたといわれる浮牡丹手の香炉がある事から、この手の色合いのものを寺名に因んで名付けたとする説等も知られています。

 また、明代後期に龍泉窯を中心として焼かれた青磁は「七官(しちかん)青磁」と呼ばれ、透明性のつよい淡い翠青色を呈し、概して貫入があるのが特徴とさています。彫塑的な技法が多くみられ、陰刻・陽刻・押型などが用いられましたが、名の由来は明朝の七官(しちかん)という者が将来したとも、明朝の七品官の役人が日本に伝えたからとも言われています。

 ところでこの龍泉窯は浙江省南西部、福建省に接する武威山系の山間部に位置する龍泉県に窯が集中し、大窯、金村、渓口、王湖、安福、安仁口、梧桐口、周垟、王庄、道太、小白岸、楊梅嶺、王石坑、坳頭、新亭、岱根など二十数カ所の窯が知られています。

 龍泉窯とはこれら諸窯の総称ですが、その他にも麗水県、雲和県、遂昌県、永嘉県にも窯が分布し、1956年から1961年にかけて浙江省文物管理委員会によって行われた分布調査によれば、浙江省南部から東海岸にかけての広大な地域に同一系統の窯が分布していることがわかり、これらも広義の龍泉窯とよんでいる学者もいるそうです。
 南宋期(1127~1279)の頃から東西貿易が盛んになり、南宋は金銀の流出を恐れて絹と陶磁器の輸出しか許しませんでした。その結果、龍泉窯は中国を代表する交易品として当時の世界に行き渡り、「CHINA」の名声を広めました。

 龍泉の地の窯は互いに技術を競って隆盛を極めましたが、時代が下るに付けて「青花」などの染め付けの陶磁器がもてはやされ、明代には景徳鎮官窯が設けられて、龍泉窯は廃れて行きました。
 故宮博物院に残る龍泉窯の磁器は、康煕51年(1712)の銘文のあるものを最後とするようです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 13:10Comments(0)陶磁器

2009年02月06日

陶磁器(10)-五彩天馬蓋罐(明/嘉靖窯)

  

 五彩天馬蓋罐(明/嘉靖窯) 

 (旧暦  1月12日)

 句佛忌  本願寺23代法主で伯爵でもあった俳人大谷光演(法名彰如)の昭和18年(1943)の忌日。俳号句佛は、「句を以って佛徳を讃嘆す」の意。明治期の京都画壇の重鎮幸野楳嶺(1844~1895)やその弟子として「楳嶺四天王」の筆頭と呼ばれ、戦前の京都画壇を代表する大家竹内栖鳳(1864~1942)に日本画を学び、優れた日本画を残すなど、多彩な才能を発揮した。

 いずこより なれ呼ぶ声を秋のくれ
 (信濃川分水路を見て)
 禹に勝る 業や心の花盛  


 嘉靖帝(在位1521~1566)は明朝第12代の皇帝ですが、第11代皇帝の正徳帝(在位1505~1521)には皇子がいなかったために、正徳帝の崩御と共に湖廣安陸州(湖北省鍾祥市)に封じられていた第10代弘治帝( 在位1487~1505)の異母弟の興献王(朱祐杭、1476~1519)の次子(長子は逝去)である朱厚熜(Zhu Houcong)が迎立されて即位し、世宗嘉靖帝となりました。

 内閣大学士楊廷和(1459~1529)は、皇位を正当化するために礼部(礼樂・儀式を司る)で検討し、第10代弘治帝を「皇考」、嘉靖帝の実父興献王を「皇叔考興獻大王」、実母を「皇叔母興國大妃」とすることを進言しましたが、嘉靖帝は実父である興献王を「興獻帝」、実母を「興國太后」とすることを強く主張し、南京刑部主事の張璁(1475~1539)および同僚の桂萼(?~1531)等は嘉靖帝の意向を支持して大論争に発展しました。これを世に、「大禮の議」と呼んでいます。

 嘉靖3年(1524)7月15日、左順門(現在の北京故宮協和門)に集まって嘉靖帝の方針に不満をとなえた220名の官員は、嘉靖帝の逆鱗に触れて主だった8人が逮捕されてしまいます。
 さらにこれを慟哭した従五品員外郎の馬理をはじめとする五品官以下134名が錦衣衛(禁衛軍)の獄に繋がれ、四品官以上86名が停職、7月20日には四品官以上は俸給停止、五品官以下は廷杖(棒打ちの刑)で、その内16名は廷杖が原因で死亡してしまいます。

 嘉靖三年(1524)秋七月
 戊寅(ぼいん、15日)、廷臣闕(けつ、宮城)に伏(ひれ伏す)して固爭(こそう、つよく諫める)し、員外郎馬理等一百三十四人は錦衣衛(禁衛軍)の獄に下る。癸未(きび、20日)、馬理等廷に杖す、死者十有六人。
 明史 巻十七 本紀第十七 世宗一


 この後、嘉靖帝はだんだんと政治に意欲を失い、道教を尊崇して長生不老之術を好み、治世後半の27年間は、臣下に謁見したのはたった4回だけだったと伝えられています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:57Comments(0)陶磁器

2008年05月05日

陶磁器(9)-成化の鬪彩

 

 鬥彩纏枝蓮紋罐 明成化 通高8.3cm、口径4.3cm、足径6.5cm、蓋口径5.6cm

 (旧暦  4月 1日)

 明の第9代憲宗成化帝(在位1464~1487)の時代、「北虜南倭の禍」により国力は衰え、その国力が再興するのは、約100年の後の16世紀後半、第14代神宗万暦帝(在位1572~1620)の時代まで待たなければなりませんでした。

 北虜とは、北のモンゴル高原の東部にかけて居住するオイラト(Oirads, Oyirads)部族や元の崩壊により北に逃れたモンゴル(Tatars、韃靼)部族などによるたび重なる国境侵犯であり、南倭とは、明の東南沿岸部に侵攻して奪略し、猛威を振るった倭寇の騒乱のことを指します。

 第9代憲宗成化帝は、第6代英宗正統帝(在位1435~1449)の皇太子でしたが、正統14年(1449)、明領に侵攻してきたオイラトの首長エセンに対して、自ら親征を行った英宗正統帝が土木堡(河北省張家口市懐来県)の地でエセンに大敗を喫し、正統帝自身も捕虜となったため(土木の変)、後を継いだ叔父の第7代代宗景泰帝(在位1449~1457)によって廃され、紆余曲折を経て、15年後に16歳の若さで帝位についた皇帝でした。

 成化帝は、生まれたときから萬氏という女性が子守りとしてそばにいて、大きな影響を与えていました。帝が16歳で即位したとき、萬氏はすでに35歳になっていました。
 成化帝より19歳も年長であった萬氏は、女性でありながら、皇帝に扈従するときには、鎧をつけ、剣を佩びていました。

 憲宗、年十六にして即位、妃は已に三十有五、機警(きけい、物事の悟りがはやい)、善く帝の意を迎(むかえ)、遂に讒(そし)りて皇后吳氏を廢す。六宮(天子の後宮)に希みて進御(しんぎょ、天子のそばにはべる)を得、帝の遊幸每に、妃は戎服(軍服)にて前驅す。
 『明史 列傳 卷一百十三 列傳第一 后妃一 憲宗后妃 萬貴妃』


 成化2年(1466)正月、萬氏は成化帝の子を産み貴妃に封ぜられますが、その皇子は夭折してしまい、嫉妬深い萬貴妃は、ほかの妃が妊娠したのを知ると、薬を飲ませて流産させました。
 また成化帝は、神経質でひどい吃音で、対人恐怖症でもあり、臣下との接触は貴妃となった萬氏にすべて頼っていたとも云われています。  続きを読む

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2007年12月31日

陶磁器(8)-青花龍文扁壺(明/永楽窯)

 

 A Ming Dynasty blue-and-white porcelain dish with depiction of a dragon from Wikipedia.
 明代 青花龍文盤

 (旧暦 11月22日)

 寅彦忌 物理学者、随筆家、俳人寺田寅彦の昭和10年(1935)年の忌日。
       好きなもの イチゴ 珈琲 花美人 懐手(ふところで)して宇宙見物

 一碧楼忌 五七五調に囚われない自由な俳句を作り出し、俳誌『海紅(かいこう)』を主宰した俳人中塚一碧楼の昭和21年(1946)年の忌日。
       胴長の 犬がさみしき 菜の花が咲けり

 中国の宋代(960~1279)に発達した磁器の技術は、元代(1279~1368)の後期に「青花」および「釉裏紅」といった彩色された文様の出現により、いっそう進化しました。
 「青花」は、白磁の素地にコバルト系の顔料で文様を描いた後、半透明の白い釉薬をかけて焼成した技術様式です。白地に鮮やかな青の発色をもった文様は、中国陶磁器の代名詞ともなっています。
 また、「釉裏紅」は同じように、白磁の素地に銅系の顔料で文様を描いた後、半透明の白い釉薬をかけて焼成した技術様式で、白地に赤の発色が美しくあらわれます。

 元代の「青花」は民間の窯で焼かれていましたが、中国の雲南、浙江、江西などで産出したコバルト系の顔料は鉄やマンガンなどの不純物が多いために全体的に黒ずんでしまい、青が薄く、発色も鮮やかではありませんでした。

 その後、明を建国した洪武帝朱元璋(1328~1398、在位:1368~1398年)は、洪武2年(1369)に「朝廷で使う祭器はすべて磁器を用いる」旨の詔勅を発しました。
 そしてその設置年代については諸説ありますが、考古学発掘調査によれば永楽年間(1403~1424)に江西省景徳鎮の珠山に官窯(御器廠)が設置され、その後中国の陶磁器生産がほぼ景徳鎮窯に集約されることになります。

 この官窯で焼かれた瓷器は、代々の皇帝の治世の年号をとった年号款が入るようになりますが、その特徴は「永樂款少、宣德款多、成化款肥、弘治款秀、正德款恭、嘉靖款雜」とも評され、また特に永樂款については、篆書の「永楽年製」4文字のみで、楷書および「大明永楽年製」という六文字年款は無いそうです。
 くれぐれも、お間違いなきように。  続きを読む

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2006年01月29日

陶磁器(7)−木葉天目碗(南宋/吉州窯)

 

 木葉天目碗 南宋吉州窯 口径14.7cm

 (旧暦  1月 1日)

 草城忌 都会的でモダンな新しい素材を積極的に導入した近代俳句のさきがけとして、また、昭和初期、俳句誌『旗艦』を主宰して旧態打破、無季容認という態度を明確にした新興俳句運動の一翼を担い、戦後は、病床から生み出された、命を慈しみ、温かで穏やかな俳句によって広く知られた俳人日野草城の昭和31年(1956)の忌日。
 物の種 にぎればいのちひしめける
 をさなごの ひとさしゆびにかかる虹 


 中国宋代(960〜1279)の五大名窯とされているのは、1.汝窯(河南省宝豊県)、2.定窯(河北省曲陽県)、3.南宋官窯(浙江省杭州市)、4.哥窯(浙江省龍泉県)、5.鈞窯(河南省禹県)ですが、南宋(1127〜1279)〜元(1271〜1368)代に天目茶碗の製造で発展した産地に福建省建陽県水吉鎮の建窯と双璧をなす江西省吉安県永和鎮の吉州窯があります。

 天目というのは浙江省杭州西方、浙江省と安徽省の間に広がる海抜1400m程度の山群の総称である天目山という山の名前に由来し、南宋末期(鎌倉前期)のころにこの山中にある臨済宗の名刹では福建省建陽県水吉鎮の建窯で焼かれた茶碗を抹茶に用い、建盞 (けんさん:盞は碗・椀の意)と呼んでいました。
 
 この茶碗を留学僧たちが日本に持ち帰り、その後日本では天目茶碗とよんで尊んできたと云われています。
 鉄分を多く含む黒色、褐色の荒い胎土に漆黒の釉薬が厚くかかっているのが特徴で、焼成時の釉表面の結晶の出方によって、兎毫[とごう、禾目(のぎめ)とも云う]、油滴、曜変などの変化を見せます。  続きを読む

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2005年08月27日

陶磁器(6)−青磁輪花鉢(南宋/官窯)

 

 青磁輪花鉢 南宋官窯 高9.1㎝、口径26.1㎝、底径7.1㎝

 (旧暦  7月23日)

 益軒忌  『養生訓』を著した儒学者貝原益軒の正徳4年(1714)の忌日

 建隆元年(960)、後周の殿前都点検(近衛軍長官)であった趙匡胤(927〜976)が後周の最後の皇帝恭帝から禅譲を受けて建国した北宋が開封(河南省)に都を定め、政府直営の窯である「北宋官窯」が設けられましたが、現在に至ってもはっきりとした北宋官窯の窯跡は発見されていません。

 167年後の靖康2年(1127)、北宋の第9代皇帝欽宗(在位1125〜1127)が女真族の金によって首都開封から東北(現在の黒龍江省)に連れ去られて(靖康の変)北宋が滅亡した後、欽宗の弟趙構は南に移って南京で即位して宋を再興し高宗(在位1127〜1162)となって、紹興8年(1138)には臨安(浙江省杭州)を都に定めました。

 そしてこの臨安に磁器の職人を北から呼び集めて、朝廷専用の御器を焼く窯「南宋官窯」が開かれました。
 南宋の『担斎筆衡』には、南宋官窯について以下の記述があります。

 「故京の遺製を襲いて窯を修内司(しゅうないじ)に置きて青器を造り、内窯と名づく。澄泥(ちょうでい)を範と為しその精緻を極む。油色宝澈にして世の珍と為る。後郊壇下(こうだんした)に新窯を立つ」  続きを読む

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2005年06月27日

陶磁器(5)−粉青魚耳炉(宋代/哥窯)

 

 青釉魚耳爐 南宋哥窯 高9cm、口径11.8cm、足径9.6cm

 (旧暦  5月21日)

 秋成忌 国学者上田秋成の文化6年(1809)の忌日

 中国浙江省龍泉県にあったといわれる宋代の青磁「哥窯」の窯跡は、未だに発見されていません。
 「哥窯」の磁器は灰色がかった白磁(米色)または青磁(粉青)ですが、全面に大きな貫入(ヒビ割れ)が入っているのが特徴です。
 哥窯は、宋代には尊重されず、明代になってにわかに脚光を浴びて、収集家の間で持て囃されたようです。

  『浙江通史』という地方史によれば、南宋の時代(1127〜1279)、浙江省龍泉県の近くに章生一、生二という兄弟の陶工がいましたが、兄生一の方がいい作品を作るので、弟の生二はその秘密を知るために、ある日、まだ熱い兄の窯を開けて内部を見ようとしました。  続きを読む

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2005年05月18日

陶磁器(4)−玫瑰紫花盆(宋代/鈞窯)

 

 玫瑰紫釉葵花式花盆 宋 鈞窯 高15.8cm 口径22.8cm 足径11.5cm

  (旧暦  4月11日)

 汝窯、定窯、官窯、哥窯、鈞窯を宋の五大名窯と云いますが、宋代までの中国の陶磁器は、祭器に用いられる青銅器の形を模し、神秘な霊力を持つと信じられた玉の色を再現しようとする努力によって発展してきたとされています。

 古代中国の文化は「玉(ぎょく)の文化」と云われても差し支えないほど、人々の生活と玉(ぎょく)は密接な繋がりを持っていました。
 玉には、邪を打ち払い、人の道を正し、死をも免れる霊力があるものと信じられ、金銀に勝るものとして尊ばれました。

 ちなみに、中国で尊重された古代の玉は軟玉で、英語ではネフライト(Nephrite)、鉱物的には透閃石(Tremolite)と言われる鉱物です。

 宋代の磁器は、白磁、青磁といった単色釉が多いのですが、それは玉の色の再現が求められたためで、上記五つの窯のうち鈞窯だけは例外で、窯変(花釉)による発色が貴ばれました。  続きを読む

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2005年03月16日

陶磁器(3)−白磁刻花蓮花文洗(宋代/定窯)

  

 劃花纏枝蓮紋葵瓣口碗 宋 定窯 高6.8cm 口径19.2cm 足径5.7cm

 (旧暦  2月 7日)
 
 北京から京漢線(北京〜漢口)に沿って走るハイウエイで南西に向かって約250kmほど行くと、河北省曲陽県に定州市があります。
 この地は、晩唐から五代十国(907〜960)のころは、中原防衛の重要拠点であったため、たびたび戦禍にみまわれ、街は何度も焼き尽くされましたが、北宋が統一を果たすと、交通の要衝にあるため、人馬文物が往来して商工業が発展しました。

 この街に、宋の五名窯の一つである定窯と呼ばれる白磁の技術が発達しました。

 磁器の色は、胎土(陶磁器の素地となる土)と釉薬の成分で決まるとされていますが、鉄や銅などの不純物が含まれていると、焼成したときに発色して白くならないので、鉄分を取り除く精錬と不純物を含まない素地を練り上げることに大変な技術がいるようです。  続きを読む

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2005年02月05日

陶磁器(2)-粉青蓮花式碗(宋代/汝窯)

  

 北宋 汝窯 蓮花型温碗 高10.4cm 口径16.2cm 高台経8.1cm 深さ7.6cm 重量465g 

 (旧暦 12月27日)

 中国の陶磁器の歴史は、古くは周代(B.C1046〜B.C771)や春秋時代(B.C770〜B.C403)までさかのぼることができますが、本格的には後漢(25〜220)の末に、浙江省北部の海岸沿いに位置する寧波(にんぽう)一帯で青磁が焼造されはじめたことが判明し、この方面が戦国時代の越の国にあたるところから越州窯(えっしゅうよう)と称されました。

 その後、宋代(北宋:960〜1127)のころまでには、青磁なら先にあげた南方の浙江省の越州窯、白磁なら北方の河北省の邢州窯(けいしゅうよう)とのブランドが定着していました。

 唐の陸羽(733?〜803)が著した『茶経』の中にも、「邢瓷(けいじ:邢州窯の磁器)は銀に類し、越瓷(えつじ:越州窯の磁器)は玉に類す」とあるように、越州窯の青磁が玉(軟玉:neprite)のような緑色やクリーム色の光沢(千峰の翠色)に例えられる秘色(ひそく)を備えていると褒め称えています。  続きを読む

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2004年12月31日

陶磁器(1)-ロイアル・コペンハーゲン

 

 ロイアル・コペンハーゲン2005イヤープレート

 ロイアル・コペンハーゲンは、1775年、王室および親交のある他の王室への贈答用の陶磁器を製造する王室御用達製陶所として、皇太后Juliane Marieおよびデンマーク王室の援助の下に、コペンハーゲンに発足しました。

 シンボルマークの大冠と3本の波型は、皇太后Juliane Marie自身の提案によるもので、大冠は王室との結びつきを、3本の波型はデンマークを囲む3つの海峡をあらわしているそうです。  続きを読む

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