2014年05月18日
歳時記(24)−春(7)− song of a brook
髙野辰之博士(1876〜1947)
(旧暦4月20日)
小川の歌は、日本においては、文部省唱歌「春の小川」でも有名ですが、欧米でも小川の調べは多くの詩歌にうたわれています。
ちなみに、文部省唱歌「春の小川」は、東京音楽学校教授高野辰之(1876〜1947)が作詞し、明治45年(1912)に『尋常小学唱歌第四学年用』に掲載されました。
一、
春の小川はさらさら流る。
岸のすみれやれんげの花に、
にほひめでたく、色うつくしく、
咲けよ咲けよと、ささやく如く。
昭和16年(1941)、国民学校令(昭和16年3月1日勅令第148号)の施行に伴って教科書が改訂され、当時の国民学校令施行規則では、国語で文語文を教えるのは5年生以上と定められていたため、詩人林柳波(1892〜1974)が歌詞を口語体に変えたとされています。
一、
春の小川は、さらさら行くよ。
岸のすみれや、れんげの花に、
すがたやさしく、色うつくしく
咲いてゐるねと、ささやきながら。
戦後の昭和22年(1947)、最後の文部省著作音楽教科書である『三年生の音楽』では再び歌詞が次のように改められました。
一、
春の小川は、さらさら行くよ。
岸のすみれや、れんげの花に、
すがたやさしく、色うつくしく
咲けよ咲けよと、ささやきながら。
この歌詞は、私たちが習った歌詞ですね。
髙野辰之は、長野県下水内郡永田村(現中野市)に生まれ、長野県師範学校卒業後、東京帝国大学教授上田万年に師事し、国語・国文学を学んでいます。明治42年(1909)に文部省小学校唱歌教科書編纂委員を嘱託された髙野は、今もわたしたちの心に残る有名な唱歌を次々と発表しています。
1. 明治44年(1911) 35歳 尋常小学唱歌第一学年用に「日の丸の旗」を掲載
尋常小学唱歌第二学年用に「紅葉」を掲載
2. 明治45年(1912) 36歳 尋常小学唱歌第三学年用に「春がきた」を掲載
尋常小学唱歌第四学年用に「春の小川」を掲載
3. 大正 3年(1914)37歳 尋常小学唱歌第六学年用に「故郷」、「朧月夜」を掲載
さて、イギリスにおいても、次のような ‘song of a brook’ があります。
When primroses are out in Spring,
And small, blue violets come between;
When merry birds sing on boughs green,
And rills, as soon as born, must sing;
春、サクラソウが花をつけ、
かわいい、うす紫のスミレがその間に咲くとき;
陽気な小鳥が緑のこずえにさえずり、
細い溝が、流れ出るやいなや、歌をうたわなければならぬとき;
When butterflies will make side-leaps,
As though escaped from Nature's hand
Ere perfect quite; and bees will stand
Upon their heads in fragrant deeps;
蝶たちが横の跳躍を行うとき、
まるで自然の手から逃れるように
まったく完全なものの前に;そして蜂たちは飛び立ち
香りがある深みの中を彼らの頭の上に;
When small clouds are so silvery white
Each seems a broken rimmèd moon—
When such things are, this world too soon,
For me, doth wear the veil of Night.
小さな雲がとても銀白色であるとき
それぞれが壊れた縁取りの月のように
そのようなものがそうであるとき、この世界はあまりにもすぐに
私にとって、夜の覆いをまとう。
(嘉穂のフーケモン拙訳)
William H. Davies. 1870 − ‘ Days Too Short ’
William Henry Davies(1871〜1940)
William Henry Davies or W. H. Davies (3 July 1871– 26 September 1940)was a Welsh poet and writer. Davies spent a significant part of his life as a tramp or hobo, in the United Kingdom and United States, but became one of the most popular poets of his time. The principal themes in his work are observations about life's hardships, the ways in which the human condition is reflected in nature, his own tramping adventures and the various characters he met. Davies is usually considered one of the Georgian poets, although much of his work is atypical of the style and themes adopted by others of the genre.
(From Wikipedia)
ウィリアム・H・ディビス(1871〜1940)は、ウエールズ出身の詩人であり作家です。
注)ウエールズ(Weles): グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)を構成する4つの国の一つで、グレートブリテン島の南西に位置する。
ディビスは、彼の人生の重要な時期をイギリス連合王国とアメリカ合衆国で、放浪者あるいは渡り労働者として過ごしましたが、その時代の最も人気のある詩人の一人となりました。彼の著作における主要なテーマは、人生の苦難に対する観察ですが、
人々の状況が本質的に反映されるこの方法は、彼が出会った自身の放浪人生と様々な特色が反映されているものでもあります。
ディビスは、通常、ジョージ王朝時代風の詩人の一人と思われていますが、彼の著作の多くは、不定形の様式であり他のジャンルに採用されるテーマでもあります。
(ウィキペディアより) 続きを読む
2014年05月04日
天文(17)− メシエ天体(1)
The Great Comet of 1744
(旧暦4月6日)
五四中国青年節
五四運動 (1919)
1919年のヴェルサイユ条約の結果に不満を抱いて発生し、中華民国時代の北京から全国に広がった抗日、反帝国主義を掲げる大衆運動の記念日。
「五四運動」の愛国、民主と科学的精神の継承と発揚を目指して、中国の中央人民政府政務院は1949年12月、毎年五月四日を中国の青年節にすると正式に発表した。
世界の目が第一次世界大戦の主戦場であるヨーロッパに向けられているこの時こそ、日本の対中利権拡大の絶好の機会ととらえた第二次大隈内閣の外務大臣加藤高明は、大正4年(1915)1月18日、在北京の駐華公使日置益を介して、当時の中国中央政権と見られていた袁世凱政権に五項目二十一ケ条からなる「通牒」を突きつけた。
これこそが、日本の歴史に汚点を残し、後に中国国民をして排日運動の原点とも言わしめたいわゆる『対華二十一箇条要求』であった。
大正8年(1919)1月、パリのヴェルサイユ宮殿で講和会議が始まったが、中国政府が要求した二十一ヵ条(実際には13ヵ条と3交換公文)の取り消し、外国軍隊及び警察の撤退、関税自主権獲得等の諸要求は却下され、議題に持ち出されさえしなかった。
その上、参戦国でありながら、自国領山東半島の権益を取り戻すことさえも出来なかった。ちなみに、山東半島の膠州湾一帯は、大正3年(1914)、日本が青島のドイツ軍要塞を陥落させて軍政を布いたが、大正11年(1922)2月のワシントン会議における「中国に関する九カ国条約」(Nine Power Treaty)により返還された。
パリ講和会議で山東半島の権益返還が絶望になったニュースは5月1日に報道され、北京大学ではすぐに学生代表緊急会議が開かれ、5月3日には全体学生会議が開かれた。そして、明日にでも中国人民の意志を各国の公使館に伝えようということになった。
5月4日午後1時、北京大学など10余校の学生3,000余人は北京の天安門前で抗議集会を開き、交通総長曹汝霖、幣制局総裁陸宗輿、駐日公使章宗祥ら親日派官僚の罷免、21か条要求の撤廃、パリ講和条約調印拒否、日貨排斥(日本商品のボイコット)などを要求した。
ついで「外争国権、内懲国賊」と連呼しながらデモ行進を行い、それがやがて中国全土に及ぶ帝国主義反対の愛国運動と民主、科学を求める封建主義反対の「新文化運動」まで発展した。
フランスの天文学者シャルル・メシエ(Charles Messier 、1730~1817)は、彗星の探索に際して、彗星と紛らわしい103個の天体のカタログを作り、1781年から1784年にかけて発表しました。これが、今日、メシエ天体(Messier object)と呼ばれているものです。
1781年、M1〜M45までを "Mémoires de l'Academie"に発表。
1783年、M46〜M68までを "Connaissance des Temps"に発表。(後にM69とM70を増補)
1784年、M71〜M103までを" Connaissance des Temps"に発表。
Charles Messier (1730~1817)
メシエはカタログ作成の動機を、1801年版のフランスの天文年鑑『Connaissance des Temps』の中で次のように説明しています。
"What caused me to undertake the catalog was the nebula I discovered above the southern horn of Taurus on September 12, 1758, while observing the comet that year.. had such a resemblance to a comet, in its form and brightness, that I endeavoured to find others, so that astronomers would not confuse these same nebulae with comets just beginning to shine."
(Messier Connaissance des Temps 1800/1801 recorded in DSB).
「私がこのカタログの作成に取りかかったのは、1758年9月12日、その年に見つかった彗星を観測中に、牡牛座の南側の角の上に発見した星雲が原因である。・・・この星雲はその形といい明るさといい、あまりにも彗星によく似ていたので、私は他にもこのようなものを見つけて、天文学者がこれらの同じ星雲を、ちょうど輝き始めた彗星と混同することのないようにしようとした。」
Messier was born in Badonviller in the Lorraine region of France, being the tenth of twelve children of Françoise B. Grandblaise and Nicolas Messier, a Court usher. Six of his brothers and sisters died while young and in 1741, his father died. Charles' interest in astronomy was stimulated by the appearance of the spectacular, great six-tailed comet in 1744 and by an annular solar eclipse visible from his hometown on 25 July 1748.
In 1751 he entered the employ of Joseph Nicolas Delisle, the astronomer of the French Navy, who instructed him to keep careful records of his observations. Messier's first documented observation was that of the Mercury transit of 6 May 1753.
In 1764, he was made a fellow of the Royal Society, in 1769, he was elected a foreign member of the Royal Swedish Academy of Sciences, and on 30 June 1770, he was elected to the French Academy of Sciences.
(From Wikipedia)
シャルル・メシエ(Charles Messier 、1730~1817)は、フランスのロレーヌ地方バドンヴィレに、フランソワーズ B. グランブレイゼと裁判所の門衛、ニコラス・メシアの間の12人の子どもの10番目として生まれました。彼の兄弟のうち6人は若くして亡くなり、1741年には父親も亡くなりました。シャルルの天文学における興味は、1744年の壮大な「大きな六本の尾を持つ彗星」(クリンケンベルグ彗星)の出現と1748年7月25日の彼の故郷から見ることができた金環食によって刺激されました。
1751年、メシエはフランス海軍の天文学者ジョゼフ−ニコラ・ドリル(Joseph-Nicolas Delisle、1688〜1768)に雇用され、ドリルの観測を慎重に記録するように教育されました。メシエの最初に記録に残された観測は、1753年5月6日の水星の日面通過でした。
1764年、メシエは王立協会のフェローとなり、1769年にはスウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に選出され、1770年6月30日に、フランス科学アカデミーに選出されました。
(ウィキペディアより)
13歳のメシエが大きな感動を覚えたクリンケンベルグ彗星は、英語圏では「1744年の大彗星」(The Great Comet of 1744)とも呼ばれており、1743年から1744年にかけて現れた大彗星であり、近日点に達した後に現れた扇状の6本の尾が特に有名でした。
The Great Comet of 1744
The Great Comet of 1744, whose official designation is C/1743 X1, and which is also known as Comet de Chéseaux or Comet Klinkenberg-Chéseaux, was a spectacular comet that was observed during 1743 and 1744. It was discovered independently in late November 1743 by Jan de Munck, in the second week of December by Dirk Klinkenberg, and, four days later, by Jean-Philippe de Chéseaux. It became visible with the naked eye for several months in 1744 and displayed dramatic and unusual effects in the sky. Its absolute magnitude — or intrinsic brightness — of 0.5 was the sixth highest in recorded history. Its apparent magnitude may have reached as high as -7, leading it to be classified among what are called the "Great Comets". This comet is noted especially for developing a 'fan' of six tails after reaching its perihelion.
The comet reached perihelion about March 1, 1744, when it was 0.2 astronomical units from the sun. At about this time it was bright enough to be observed in daylight with the naked eye. As it moved away from perihelion, a spectacular tail developed — extending well above the horizon while the comet's head remained invisible due to the morning twilight. In early March 1744, Chéseaux and several other observers reported an extremely unusual phenomenon — a 'fan' of six separate tails rose above the horizon.
The tail structure was a puzzle to astronomers for many years. Although other comets had displayed multiple tails on occasion, the 1744 comet was unique by having six. It has been proposed the 'fan' of tails was generated by as many as three active sources on the cometary nucleus, exposed in turn to solar radiation as the nucleus rotated. It also has been proposed that the tail phenomenon was a very prominent example of the "dust striae" seen in the tails of some comets, such as Comet West and C/2006 P1 (McNaught).
(From Wikipedia)
正式名称はC/1743 X1、またはシェゾー彗星、クリケンベルグ-シェゾー彗星として知られている「1744年の大彗星」は、1743年から1744年にかけて観測された壮大な彗星でした。
この彗星は、1743年の11月下旬にヤン・デ・ミュンク(Jan de Munck)、12月の第二週にディルク・クリンケンベルク(Dirk Klinkenberg、1709〜1799)、その4日後にジャン−フィリップ・ロワ・ド・シェゾー(Jean-Philippe de Chéseaux、1718〜1751)によって、それぞれ個別に発見されました。1744年に入るとこの大彗星はは数カ月間肉眼で見えるようになり、空を劇的に飾りました。この大彗星の絶対等級、あるいは固有の明るさは、歴史上6番目の明るさとなる0.5等級でした。この彗星の見かけの等級は-7等級に達した可能性があり、大彗星と呼ぶにふさわしい明るさでした。この彗星は、近日点に到達した後には扇形の6本の尾を発達させたため、特に書き留められています。
この彗星は、1744年3月1日ころに近日点に到達し、太陽から0.2天文単位(地球と太陽との平均距離)の距離でした。この頃になると、彗星は日中に肉眼でも観測できるほどに輝きました。彗星は近日点から遠ざかるにつれて、壮大な尾を発達させました。朝の薄明かりのために彗星の頭は見えませんでしたが、尾は地平線の上に広がっていました。1744年3月上旬には、シェゾーや他の幾人かの観察者が、地平線上に6本の尾が扇形に広がって現れるというとても珍しい現象を報告しました。
この尾の構造は、長い間天文学者を悩ませました。他の彗星でも、時には複数の尾を見せることはありましたが、この1774年の彗星のように6本の尾を持つ彗星は他に類を見ないものでした。この現象については、扇形の尾が彗星の核の上で3つの活発な源(ガス・ちり)によって発生したこと、そして、核が回転したので、順番に太陽輻射にさらされたことが示唆されました。この彗星の尾の現象は、ウェスト彗星やマックノート彗星などの彗星に見られるような、「塵の脈理」の顕著な例であるという説が提案されています。
(ウィキペディアより) 続きを読む