2012年06月28日
秋津嶋の旅(18)ー北陸道(1)ー金澤

金沢城の3層3階の菱櫓と橋爪門続櫓をつなぐ2層2階の五十間長屋
(旧暦5月9日)
芙美子忌 小説家林芙美子の昭和26年(1951)年の忌日。

自伝的小説『放浪記』や底辺の庶民を慈しむように描いた作品などにより戦前の文壇で活躍した。
花の命は短くて苦しきことのみ多かりき
板橋村にかつてあった加賀藩下屋敷の関係から友好姉妹都市締結をしている石川県金沢市からのご招待で、金沢百万石まつりに行ってきました。
現在の金沢市中心部はかつて石浦郷七ヶ村(石浦村・笠舞村・保島村・朱免野村・木新保村・今市村・山崎村)と呼ばれた地域で、この地域は交通の要所であり古くからの繁華街でもある現在の武蔵ヶ辻付近から犀川の左岸に至る広大な面積を有していました。
室町時代の後期、第百三代後土御門天皇(在位1464〜1500)の御代、第九代将軍足利義尚(在職:1473〜1489)在職中の長享(1487)のころ、現在の金沢城の地に浄土真宗本願寺の御山御坊が置かれたことで寺内町として発展し、南町、西町、松原町、安江町、近江町、堤町、金屋町、材木町といった町が成立しました。これを総じて尾山八町、或いは単に「尾山」と呼んでいました。
なお、「尾山」という地名は、白山よりこの地まで山が続いて始めてこの地で終わるので、終り山という意味を略して「をやま」と云った、あるいは白山の尾という意味で尾山と呼ぶとも云われています。
文禄元年(1592)、藩祖前田利家(1538〜1599)の命により、世子前田利長(1562〜1614)がそれまで土築であった尾山城を壘石で編築し、小立野の方を斫(き)り抜いて地底に陰樋を設け、水路を引き通してより改めて金澤城と号するようになったとされています。
○金城名號來因
金澤・尾山・御山三名一城にして、當國の都城也。蓋し尾山は古記に考ふるに、石川郡山崎山の尾先に在るゆゑかく號すとなり。又云ふ、當城地は白山より是まで山續き綿々として斷えず。此の城地に至りて始めて終るに因りて、終り山と云ふ義を畧(略)してヲヤマと唱へ、又白山の尾と云ふ意にて尾山とも呼ぶと也。
(中略)
蓋し當城地は暦應(1338〜1341)康永(1342〜1344)の比(ころ)を歴て、享徳二年(1454)癸酉(みずのととり)に至りて漸く城地となる。而して又三十餘年を經て、長享元年(1487)丁羊(ひのとひつじ)の比(ころ)城地漸く固くなり、本願寺の釋徒(門徒)推崇して加賀の御山と稱すと云ふ。
天正八年(1580)庚辰(かのえたつ)、佐久間盛政御山を改めて尾山の字に作ると見ゆ。然れども此の年に佐久間氏新に尾山の字を造り出すにはあらじ。本願寺僧徒の長享(1487)以來御山と唱へ來りしを、佐久間氏之を忌むゆゑ古號の尾山の文字に復せし成るべし。但し天正前後の軍記に、尾山・御山互に相記して差別なき者は敢て筆者の罪に非ず。其の比(ころ)の人の各々言ふがまゝに書する也。
金澤の號は、按ずるに、古への庄號の後に國都の名と成りたるならん。其の故は加州の古への莊名に金澤庄あり。金谷門より蓮池の亭地・學校邊を云ふと也。
南敵樓(敵を見張るための楼閣)の下に沸水あり。古へ是を金洗澤と呼ぶ、後人畧(略)して金の澤と云ふと也。
老人の談柄(話の種)に、往古芋掘藤五郎と云ふ者あり。沙金を堀り釆りて此の澤水にて洗ふより、金澤の美號起るともいへり。
且金澤城と呼ぶこと、文禄元年瑞龍公(初代藩主前田利長)始めて稱號を建て玉ふと、本藩の古録にあれど明了ならず。
(後略)
『越登賀三州志』 來因概覧附録巻之一

金城霊澤

この芋掘藤五郎の伝承は、加賀藩人持組二千五百石富田景周(1746〜1828)が文化二年(1805)にまとめた『越登賀三州志』 來因概覧附録巻之一の「金城名號來因」の項に金澤の名称の由来として収録されています。
芋掘藤五郎
相傳ふ。古へ當國石川郡山科村に藤五郎と號せる道人(俗事を捨てた人)あり。加賀介藤原吉信(鎮守府将軍藤原利仁の孫)の末裔なりと云ふ。薯蕷(しよよ、やまのいも)を堀り釆り、之を市に鬻(ひさ)ぎて一身の生計となすゆゑ、時人(じじん:その時代の人)芋堀藤五郎と呼ぶ。
爲人(ひととなり)寡欲にして奢らず。家に四壁なく、衡門(こうもん、粗末な門)三尺に盈(み)たざれども蔬食を甘んじて心晏如(安らかで落ち着いている)たり。羲皇(古代中国神話に登場する伝説上の帝王)上の人の風致(おもむき)あり。
爰に和州(大和国)初瀬里に生玉右近萬信と云巨富の人あり。居恒子(後継ぎ)なきを恨んで、長谷の觀世音に祈り一女子を産することを得たり。その女(むすめ)美にして艶也。名を和五と呼ぶ。破瓜(はか、16歳)の年に至れば、右近其の婿を擇(えら)ぶに、一夜觀世音夢裡に示現して宣ふ。彼が女(むすめ)婿となる者は加州の芋堀藤五郎也と。右近夫婦即ち佛告に随ひ、巨萬の財寶を従者に荷擔せしめ、和五を携へて遙々藤五郎の家に到るに、纔(わずか)に容膝(ようしつ、狭い)の小廬(粗末な家)也。
然れども佛告に背かず、藤五郎に此の旨を謀る。藤五郎元より之を辭すといへども、固く乞うて之に嫁せしめて、右近夫婦は歸國せるが、長谷の觀音は守本尊なれば、和五其の像を恒に懐にし、夫に仕へて貞節の令聞あり。藤五郎奢(おごり)を憎めば、其の財寶を近鄕の貧民に盡(ことごと)く分與し、其の身は愈(いよいよ)薯蕷を堀りて食ふのみ也。
或日右近の方より沙金一包を贈るに、藤五郎之を腰に夾みて山に行き、田の雁を見て之を投げつけて歸る。和五其のことを聞き、驚きて云ふ。過大の沙金一朝にして抛(なげう)つこと其の故いかにと。藤五郎笑ひて云ふ。沙金は我が薯蕷を掘るの地に多し。何ぞ之を惜しまん。取り皈(かへ)り與へんと。明日齎(もたら)し來ること若干也。其の沙金を洗ひし澤を後に金洗澤と稱す。即ち今學校境中の金澤是也と云ふ。
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2011年07月09日
秋津嶋の旅(17)ー東山道(1)ー旧制松本高等学校
あがたの森公園 旧制松本高等学校跡地
(旧暦6月9日)
鴎外忌 明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、劇作家、陸軍軍医総監であった文豪森鴎外の大正11年(1922)年の忌日。
遺言
余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリコヽニ死ニ臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ手続ハソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス
大正十一年七月六日
早稲田大学マニフェスト研究所の議会改革調査部会による議会改革度調査2010総合ランキングで日本一に輝いた松本市議会出張のついでに、若き日のあこがれの地、信州松本の旧制松本高等学校跡地を訪れました。
旧制松本高等学校は、フランス文学者中島健蔵(1903〜1979)、文芸評論家唐木順三(1904〜1980)、小説家臼井吉見(1905〜1987)、フランス文学者辻邦生(1925〜1999)、小説家北杜夫(1927〜)などの錚々たる文学者を輩出していますが、私「嘉穂のフーケモン」が尊敬する東洋史学者で、『科挙』『九品官人法の研究』などの著作でも有名な宮﨑市定博士(1901〜1995)やトーマス・マンの翻訳で知られるドイツ文学者望月市恵先生(1901〜1991)の出身校でもあります。
また、「ヒルさん」、「蛭公」の愛称で慕われた名物教授、蛭川幸茂先生(1904〜1999)が数学の教鞭を執っておられたことでも知られています。
旧制高校と旧制高校生をこよなく愛し、陸上競技部の部長でもあった蛭川先生は、東京帝国大学理学部数学科を卒業してすぐの大正15年(1926)4月に松本高等学校に赴任していますが、松高赴任時は満22歳で、日本で一番若い旧制高等学校の先生であったそうです。そのために、32名もの年上の生徒が在籍していたそうですが・・・。
「ヒルさん」のエピソードについては、北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』に詳しく描かれていますが、その一節に、
蛭川幸茂というその先生は、生徒からヒルさん、或いはヒル公という愛称でしか呼ばれなかった。身なり風体をかまわぬこと生徒以上であった。伝説であろうが、松高に赴任してきたとき、物売りと間違えられ、受付で追い払われたと伝えられている。
(中略)
服装はもっとも悪い。荒縄を帯代りにして着物をしばっていたこともある。私もこの先生をはじめて見たときは乞食だと思った。ヒルさんは陸上競技部の部長であったから、校庭で砲丸を投げたり走ったりしている。乞食がなんであんな真似をしているのか、さすが高等学校というところは変った場所だと思った。ヒルさんはインターハイなどへ行っても、グラウンドでムシロをかぶって寝たりするので、頻々と乞食と間違えられた。
とあります。
以前、中日新聞社にお勤めの蛭川先生のお孫さん(女性)が書かれた本があったかと思いますが、その本に載せられていた蛭川先生の容貌は、とても高等学校の先生とは思えないような、あえて言えば山賊のような容貌であったと記憶しています。
北杜夫は、蛭川先生のことを「髭づらで容貌は野武士のごとくである。」と書いていますが、それは恩師だから遠慮したのであって、この先生が着物を荒縄でしばって現れると、本当に乞食か山賊としか思えない容貌でしたね。
そういえば我らが農学校時代の応援団顧問の先生も、名物と云えば名物。
北海道帝国大学予科最後の教授というのが自慢であり、その後新制北海道大学で長く統計学の教鞭を執られた「やまげん」こと山元周行先生に関しては、下記のような論文まであります。
前略
「統計学」の教科書は今で もときどき見ることがある。ご担当の山元周行先生の試験問題に解答できないときは、 「明治45年度恵迪寮歌 都ぞ弥生」の1番から5番までを漢字で書けば単位を下さる、という噂があったが、真偽のほどは確かめていない。
静岡県立大学短期大学部 一般教育研究会誌(1)-2 (2001)
『私の一般教育 My Liberal Arts』 原田 茂治 HARADA Shigeharu
(http://oshika.u-shizuoka-ken.ac.jp/faculties/liberal_arts/005/upimg/1_2_harada.pdf)
ちなみに、私「嘉穂のフーケモン」は山元先生にはお世話になりましたが、先生の「統計学」は受講していないので、やはり、真偽のほどは明らかではありませぬ。
かつて、昭和の御代に北大創起百年記念祭があり、大学から大通り公園まで提灯行列を行いましたが、そのときに山元先生が、「いや〜○○君(私のこと)、札幌で提灯行列を行うのは南京陥落以来ですよ。」とおっしゃられたのを、昨日のことのように思い出します。
南京陥落は昭和12年12月13日だったから、北大創起百年記念祭当時でも40年近く経っており、「先生はえらい昔のことをおっしゃるものだ。」と妙に感心したのが記憶に残っています。
ところで山元先生は、『競争均衡分析における均衡存在定理』(Equilibrium existence theorems in competitive equilibrium analysis)という論文で理学部数学科の博士号を取られている偉い先生のようですが、酒を飲んで寮歌を歌っている姿しか見かけたことはありませんな。 続きを読む
2010年06月24日
秋津島の旅(15)−畿内(3)−石山御坊(1)

大阪城大手門と天守
(旧暦 5月13日)
大阪に出張したので、早朝、大阪城まで散歩してみました。
南森町のホテルから大阪天満宮、造幣局、大川(旧淀川)の河岸を散歩して自転車・歩行者専用の川崎橋を渡り、日経新聞大阪本社の大きな茶色の社屋を右手に見ながら寝屋川橋を渡って、京橋口から内濠を廻り極楽橋から天守へ向かいました。
大阪城は、かつて上町(うえまち)台地にあった浄土真宗の寺院である石山本願寺の跡地に、天正11年(1583)から豊臣秀吉(1537〜1598)によって築城が開始されました。秀吉が死去するまでの15年間に二の丸、三の丸、総構えが建設され、三重の堀と運河によって囲まれる堅固な防御設備が施されました。
徳川幕府が成立した後は、豊臣秀頼(1592〜1615)は大坂城に留まり摂津、河内、和泉を知行する約65万石の一大名として存続していましたが、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で大坂城が落城して豊臣氏が滅亡した後は、元和元年(1620)から2代将軍徳川秀忠(1579〜1632)によって大坂城の再建が始められ、3期にわたる工事を経て1629年(寛永6年)に完成しています。
その徳川大阪城も、幕末の慶応3年12月9日(1868年1月3日)に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜(1837〜1913)が移り居城していましたが、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの形勢が不利と見るや、徳川慶喜は軍艦開陽丸で江戸へ退却、大坂城は新政府軍に開け渡されてしまいます。
しかしこの前後の混乱のうちに出火し、城内の建造物のほとんどが焼失してしまいました。
さて、石山御坊(大坂本願寺)は摂津国大坂(現大阪城所在地)にあった浄土真宗の寺院で、当初は本願寺第8世蓮如(1415〜1499)が明応5年(1496)に坊舎を建てて隠居所としたことに始まるとされています。
寺地は上町台地(うえまちだいち)の北端にある小高い丘にあったと推定されていますが、豊臣秀吉(1537〜1598)がその跡地に大坂城を築いて城下町を建設したため、大坂本願寺の規模や構造などはほとんどわからないそうです。
上町台地は更新世(180万年前〜1万年前)に形成された平坦面がその後隆起したことで形成された台地で、ヴュルム氷期(7万年前〜1万年前)には河内湾(約6000年前〜約5000年前ごろの縄文海進により海水が河内平野へ進入し、現在の枚方市付近を最奥部として、上町台地の東部に河内湾と呼ばれる湾が形成された)に突き出した半島状の台地であったと想定されています。
上町台地の北では旧淀川と旧大和川が合流し、その付近にあった渡辺津(窪津)は、旧淀川、大和川水系や瀬戸内海の水運の拠点で、また住吉・堺や和泉・紀伊方面と京都や山陽方面をつなぐ陸上交通の要地でもありました。
上町台地にそった坂に町が形成されたことから、この地は「小坂」、後に「大坂」と呼ばれたそうですが、本願寺を領主とし、その下で町民が行政を行い、周囲の海、川といった天然の要害に加えて土塁、堀などを巡らせた防護施設を備えていたと云います。 続きを読む
2009年05月14日
秋津嶋の旅(14)-西海道(2)-阿蘇火山
高千穂峡真名井の滝
(旧暦 4月20日)
長い黄金週間、皆さんは「どげんされよんなさった」ですかの?
おいどんは、亡父の法事を兼ねて筑紫の国に下向しておりもしたが、妹が「ぜひに」というもので、高千穂~阿蘇~熊本~太宰府と中部九州を大旅行してきましたぞ。
国の名勝、天然記念物に指定されている高千穂峡谷の見事さに、なぜこの様な峡谷ができたのかを調べてみました。
それによると、約27万年前頃から始まった阿蘇外輪火山の大規模な4回の噴火活動の内、後半の今から約12万年前(Aso-3)と約9万年前(Aso-4)の噴火により流出した火砕流が五ヶ瀬川に沿って30km以上の帯状に流出し、その堆積物が600℃以上の高温と自重のために圧縮溶結して溶結凝灰岩(welded tuff)と呼ばれる堆積岩に変成した。
この火砕流堆積物の溶結した部分は、冷却される際に体積が減少することから地表面に亀甲状の割れ目ができ、直径1m前後の大きな柱状節理(columnar joint)と呼ばれる柱状の構造を形成した。
また、この溶結凝灰岩は川などによって侵食されやすいため、しばしば深い谷や滝など特徴的な地形を形成するが、これが五ヶ瀬川の浸食によってV字峡谷となったものが高千穂峡であり、高さ80m~100mにものぼる断崖が20kmにわたって続いている。
なるほど。阿蘇から30km以上離れているのに、あれだけ巨大なV字峡谷を作るとは、噴出した火砕流堆積物も莫大な量だったのでしょう。
さて、推古天皇15年(607)、隋に派遣された小野妹子が携えた国書、「日出づる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙無しや、云々」で有名な『隋書』東夷俀國傳の前文の記述には、下記のような阿蘇山の記述があります。
有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以爲異、因行祷祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵、夜則有光、雲魚眼精也。
『隋書』 卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國
阿蘇山有り。その石、故無くして火起こり、天に接する者、俗を以って異と為し、因って祷祭を行う。意の如くなる宝珠有り、その色青く、大きさは鶏卵の如し、夜は則ち魚の眼精のごとき光あり。
「アソ」という言葉は、アイヌ語の「火を噴く山」という意味で、同じ意味をアイヌ語で「アサマ」、「アソウマイ」などとも言うそうです。
また、『日本書紀』の景行天皇十八年の記述には、
到阿蘇國也。其國郊原曠遠、不見人居。天皇曰、是國有人乎。時有二神。曰阿蘇都彦、阿蘇都媛。忽化人以遊詣之曰、吾二人在、何無人耶。故號其 國曰阿蘇。
『日本書紀』 巻七 景行天皇十八年六月丙子
阿蘇國に到る也。其の國、郊の原曠(ひろ)く遠くして、人の居(いへ)を見ず。天皇の曰く、「是の國に人有りや」とのたまふ。時に、二(ふたはしら)の神有す。阿蘇津彦(あそつひこ)、阿蘇津媛(あそつひめ)と曰ふ。忽(たちまち)に人に化(な)りて遊詣(いた)りて曰く、「吾二人在り。何(あ)ぞ人無けむ。」とまうす。故(かれ)、其の国を號(なづ)けて阿蘇といふ。
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2008年12月19日
秋津嶋の旅(13)-西海道(1)-太宰府
西鉄太宰府駅から天満宮に向かう参道
(旧暦 11月22日)
菅贈太政大臣道真
ふる雪に 色まどはせる梅の花 鶯のみやわきてしのばむ (新古今集1442)
不出門 門を出でず
一従謫落在柴荊 一たび謫落(たくらく:左遷)して柴荊(さいけい:貧しい住まい)に在りてより
萬死兢兢跼蹐情 萬死兢兢たり跼蹐(きょくせき:天地の間に身の置き所がないこと)の情
都府樓纔看瓦色 都府樓纔(わずか)に瓦色(がしょく)を看
観音寺只聴鐘声 観音寺は只(ただ)鐘声を聴く
中懐好逐孤雲去 中懐(ちゅうかい:心の中)好し孤雲を逐(お)ふて去り
外物相逢満月迎 外物(がいずつ)相(あい)逢(お)ふて満月を迎ふ
此地雖身無險繋 此の地身に險繋(けんけい:束縛)無しと雖も
何為寸歩出門行 何為(なんすれ)ぞ寸歩(すんぽ)も門を出でて行かん
ひとたび大宰府に左遷されて、配所の貧しき住まいに入ってからは、罪万死にあたるを思い、戦々兢々として身の置き所が無く、ひたすら謹慎している。
都府楼は瓦の色をわずかに望見するだけで、観音寺もただ鐘の声を聞くだけである。
心は孤雲の行方を追って都へと向かうが、外から見えるは満月ばかり。
この地では、束縛されることはないが、たとえ寸歩であってもこの門を出てゆくなどということをしようか。
太宰府と云えば、菅原道眞公(845~903)を祭る太宰府天満宮として有名ですが、ここ最近の2005年10月16日に太宰府天満宮所有の丘陵地に開館した九州国立博物館もこのところの観光スポットになっているようです。
先日、お袋のお見舞いに筑紫の国に帰還していた私「嘉穂のフーケモン」は、一日、約40年ぶりに太宰府を訪れました。
太宰府天満宮の参道には、名物の「梅が枝餅」を売るお店が軒を連ねていますが、昔よりはおしゃれなお店が多くなっていたような気がしました。
昌泰4年(901)1月25日、右大臣、右近衛大将如元(元の如し:元の官職のまま)菅原道眞公が、大宰権帥に左遷されて悄然としていたときに、太宰府にかつてあった安楽寺の門前で餅を売っていた老婆が、道眞公を励ますために餅を供し、その餅が道眞公の好物になったことがありました。
道眞公の死後、老婆が餅に梅の枝を添えて墓前に供えたのが「梅が枝餅」の始まりとされているそうです。 続きを読む
2008年11月22日
秋津嶋の旅(13)-蝦夷が嶋(3)-すぐに来ちゃった函館
1909年(明治42)に再建された赤煉瓦倉庫群より函館山を望む
(旧暦 10月25日)
近松忌、巣林忌 江戸元禄期に活躍した浄瑠璃、歌舞伎狂言作家、近松門左衞門の享保9年(1724)年の忌日。
元禄16年(1703) 曽根崎心中
正徳元年(1711) 冥途の飛脚
正徳5年(1715) 国姓爺合戦
享保5年(1720) 心中天網島
残れとは 思ふも愚か埋み火の 消ぬ間徒なる朽木書きして
函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花
一握の砂 315
潮かをる北の浜辺の砂山の かの浜薔薇(はまなす)よ 今年も咲けるや
一握の砂 304
薄幸の歌人石川啄木(1886~1912)が函館に逗留していたのは、明治40年(1907)5月5日から9月12日までのわずか132日間でした。
啄木は、明治39年(1906)に函館の青柳町で結成された文学愛好者の集まりである苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)同人、松岡蕗堂(政之助)をたより、函館の地を訪れました。
そして、同じく苜蓿社同人の吉野白村(章三)の世話で、6月11日に函館区立弥生尋常小学校の代用教員(月給12円)に採用され、7月7日には妻子(妻節子、長女京子)を呼び寄せ、青柳町18番地に新居を構えています。
その後、啄木は8月18日には代用教員在職のまま、苜蓿社同人宮崎郁雨(大四郎)の紹介により函館日日新聞の遊軍記者となっていますが、8月25日、東川町から出火した函館大火により、弥生尋常小学校も函館日日新聞社も焼失、同人誌『紅苜蓿』(べにまごやし)への寄稿もしていた札幌の向井永太郎の斡旋で、北門新報社の校正係となることが決まり、9月12日には弥生尋常小学校へ退職願を提出、翌9月13日、単身で札幌に向かっています。
ところで、苜蓿社同人には札幌農学校出身で、函館遺愛女学校、私立函館英語学校で教鞭をとり、私立清和女学校の講師の傍ら新詩社の社友として「明星」に短歌を発表していた大島野百合(経男)という人がいました。
大島野百合(経男)は、教え子との結婚の破綻や人生に対する懐疑から同人誌『紅苜蓿』(べにまごやし)の編集を啄木に託して明治40年(1907)7月、故郷日高に帰っていますが、「友の恋歌 矢ぐるまの花」という歌のモチーフは、かの大島野百合(経男)のことをさしているのでしょうか。
明治四十年八月二十五日夜の函館大火は驚くべき惨劇を演出して一時殆ど区の生命を絶てり。予当時弥生尋常小学校に代用教員たり薄給僅かに十二金遂に一家数人の口を糊すべからず。
乃ち函館日々新聞の招に応じ未だ校を辞せざるに暑中休暇を幸とし入りて同社に遊軍たり給十五金の約成る。生れて初めて新聞記者となり僅かに八日を経。火起りて社先づ焼け学校亦烏有に帰す。社は容易に立つ能はざるものの如く学校亦無資格者淘汰の噂頻りなり。
九月に入り札幌に在る詞友夷希微向井永太郎君より飛電あり来りて北門新報社に入れ月十五金を給せむと。乃ち其月十三日夕星黒き焼跡に名残を惜みて秋風一路北に向ひ翌十四日札幌に着き向井君の宿なる北七条西四丁目四、田中方に仮寓を定む。
秋風紀より
と云うわけで、出張で函館に行ってきました。 続きを読む
2008年07月14日
秋津島の旅(12)-吾妻の国(3)-生麦事件の碑
旧東海道沿いの生麦事件の碑
(旧暦 6月12日)
小暑のさなかの土曜日、JR東日本柔道部のA女史のご案内をいただき、家内を伴ってJR東日本柔道部のお歴々と京浜急行生麦駅から徒歩10分程度にあるキリンビール横浜工場を見学してきました。
京急生麦駅からキリンビール横浜工場に向かう途中、横浜市鶴見区生麦一丁目の国道15号線と旧東海道が合流する地点に、後の薩英戦争の引き金となり、その結果大藩薩摩が攘夷主義を捨てて明治維新の原動力となる遠因となった生麦事件の碑があります。
生麦事件は、文久2年(1862)旧暦8月21日、武蔵国橘樹(たちばな)郡生麦村の東海道において薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件です。
第12代薩摩藩主島津茂久(もちひさ:1840~1897)の父、島津久光(1817~1887)の行列にはからずも乗馬のまま乗り入れてしまった上海のイギリス商人C.L.リチャードソンら4人のイギリス人のうち、リチャードソンは供頭の奈良原喜左衛門(1831~1865)に左胴から腹にかけて斬り下げられ、はみ出した腸を押さえながら逃げる途中で久木村利久という家士に同じ箇所をさらに抜き打ちに斬られて落馬、駆けつけた海江田信義(1832~1906)ら数名の薩摩藩士によってとどめを刺されました。
この碑のある場所は、C.L.リチャードソンが海江田信義ら数名の薩摩藩士によってとどめを刺され絶命した場所だということです。
この碑は、当時、橘樹(たちばな)郡区制の第三大区四小区の副戸長をしていた黒川荘三によって、明治16年(1885) に建てられたものです。
碑文には、この地で非業の死を遂げた英国商人リチャードソンの死を悼む歌が記されています。 続きを読む
2007年12月23日
秋津嶋の旅(11)−畿内(3)−伏見(2)
月桂冠大倉記念館中庭
伏見の銘酒「月桂冠」は、寛永14年(1637)に初代大倉治右衛門が、京都府南部の笠置町から伏見に出て来て創業。屋号を「笠置屋」、酒銘を「玉の泉」と称したのが始まり。
(旧暦 11月14日)
秋津嶋の旅(10)−畿内(2)−伏見(1)のつづき
この文久2年(1862)旧暦4月23日に起きた薩摩藩尊皇派等への上意討ち事件は、「寺田屋騒動」とも呼ばれ、海音寺潮五郎(1901~1977)の歴史小説「寺田屋騒動」 や司馬遼太郎(1923~1996)の長編歴史小説「竜馬がゆく」第3巻にも詳しく記述されています。
激論数回の後、9名の鎮撫使(鈴木勇右衞門の配下上床源介が懇願して同行)のひとり道島五郎兵衞が「上意」と叫んで抜き打ちに勤王倒幕急進派の田中謙助の眉間を切り割ったことから乱闘が始まります。
結局、階下で最初に対面していたリーダーの有馬新七および柴山愛次郎、橋口壯助が闘死、眉間を割られた田中謙助は両眼から眼球が飛び出し昏倒して気絶、乱闘中に2階から降りてきた弟子丸龍助、西田直五郎は即死、重傷を負った橋口傳藏、森山新五左衞門は後に蘇生した田中謙助とともに、翌日、伏見の薩摩屋敷に移され、君命違背の罪に依り屠腹、山本四郎は27日京都で自刃して結局9名の犠牲者を出しました。
鎮撫使側でも、道島五郎兵衞が即死、森岡善助、江夏仲左衞門、山口金之進の3名が重傷を負うという凄惨な事件となりました。
東京帝国大学文学部国史学科出身で、鹿児島市立鹿児島女子高校や玉龍高校の校長、鹿児島県立図書館長などを務められた芳即正(かんばし のりまさ)先生の著書『島津久光と明治維新』(新人物往来社)によれば、
この事件は、道島五郎兵衞の「上意」の叫び声から始まったことから、当時の薩摩藩の事実上の最高権力者で、第12代藩主島津忠義(1840~1897)の実父である島津久光(1817~1887)の命令による「上意討ち」と一般には理解されているが、実は「勅命」(天皇の命令)であった。(趣旨)
と云うことです。
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2007年12月22日
秋津嶋の旅(10)−畿内(2)−伏見(1)
史蹟寺田屋(手前)と明治に再建された旅館寺田屋
(旧暦 11月13日)
京へ来たなら 一度はお寄り 伏見寺田屋 坂本龍馬 昔白刃の 裏梯子
京都市伏見区南浜町に、維新史の上で有名な「寺田屋事件」の舞台となった「寺田屋」があります。
しかし、当時の建物は戊辰戦争(1868~1869)の初戦に当たる鳥羽・伏見の戦い(1868年1月27日~30日)で京都南郊の上鳥羽、下鳥羽、竹田、伏見が主戦場となったために焼失しており、現在の南浜町263番地にある建物は当時の敷地の西隣に後になって建てられたものだそうです。
な~んだ、今の建物の2階の柱などに「弾痕」や「刀傷」と表示してあったので、当時のそのままの建物であるかのように錯覚しておりました。
したがって、当時の建物の敷地は、現在の建物の東隣にある南浜町262番地なのです。どおりで、庭のような入り口に、「史蹟寺田屋」の石碑が建っており、奥には「薩藩九烈士遺蹟志」の石碑があったのですね。
紛らわしいなあ!
さてこの伏見の薩摩藩の定宿「寺田屋」では、幕末に通称「寺田屋事件」と呼ばれる2つの事件が起きています。
1.文久2年(1862)に起きた、薩摩藩尊皇派等への上意討ち事件(勅命)
2.慶応2年(1866)に起きた、伏見奉行所配下による坂本龍馬襲撃事件
話は変わりますが、京都大学吉田キャンパスの総合博物館西側のスロープを上がったところに、「尊攘堂」と呼ばれる建物があります。
この建物は、松下村塾出身の子爵品川弥二郎(1843~1900)が維新後、恩師吉田松陰(1830~1859)の遺書『留魂録』に記されていた遺志を汲んで、明治20年(1887)3月、京都高倉通錦小路上ルの元典薬頭三角氏の別邸約七百余坪を購入して別荘とし、これを増築して邸内の一室に尊攘志士の遺墨・遺品を蒐集し、神牌を祭り「尊攘堂」と称したことに由来しています。
現在の建物は、品川弥二郎の死後、京都帝國大學に寄贈された松蔭の遺墨類をおさめるため、明治36年(1903)に建てられたものだそうです。
この尊攘堂史料20種の中に、『京都維新史跡寫眞帖』(全48画像で各写真に参考引用文献つき)があり、現在は、京都大学附属図書館「維新資料画像データベース」としてインターネット上に公開されています。
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/kanren/sonjo_index_shashin.html
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2006年05月23日
秋津嶋の旅(9)−蝦夷が嶋(2)−キャラメル

ご当地キャラメル
(旧暦 4月26日)
丈山忌 漢詩人、書家石川丈山の寛文12年(1672)の忌日。江戸初期における漢詩の代表的人物で、儒学、書道、茶道、庭園設計にも精通していた。
三河国泉郷(愛知県安城市和泉町)の徳川家に仕える譜代武士の家に生まれ、慶長3年(1598)15歳で徳川家康の近侍となり、大阪夏の陣(慶長20年、1615)では一番乗りで敵将佐々十左衛門を討ち取り功名を得たが、先陣争いを禁ずる軍律に触れ、家康の命令により京都妙心寺で蟄居した。
浪華合戦の時、御麾下に従ひ奉り、天王寺口にありけるが、人並々の軍せんも見所あらじと、将帥の命をまたず、夜をこめて只一騎営中を忍びいでゝ敵城に攻かゝり、桜の門といふ所にて佐々十左衛門と渡り合て、佐々が首をとる。
其郎等其場をさらず切かゝりしをも、又鎗の下に伏て、大手を走り過、打取し首を実検に備へしに、其武勇は深く感じ思召けれども、軍令に背きたる罪其まゝに見許しがたく、殊にかねて寵臣のことなれば、依怙の御沙汰も穏ならずと訳、惜ませ給ひながら勘当し給ふ。
さてぞ武門を離れて日枝の山のふもと一乗寺むらによを避、詩仙堂を創し、自ら六々山人と号し、山水花月に情を慰む。
[続近世畸人伝巻之一 石川丈山]
や〜、久しぶりだね!
先輩が定年で農学校やめるんで、その祝賀会に出るために札幌に行ってきたのさ!ついでに、子どもが農学校の寮にいるんで、久しぶりに会ってきたんだわ!
帰る日に、散歩していて道庁横にあった雪印の喫茶店に入ってみたっけ、おみやげ売り場に近ごろ帝都東京でも有名になったキャラメルが沢山(33種類?)あったのさ。
しばらく前、日テレ(日本テレビ)で土曜日の昼12:00〜13:30に放送している「メレンゲの気持ち」にゲストで出た松山千春が、北海道のおみやげとして紹介したキャラメルの内、最もまずいキャラメルと云っていた「ジンギスカンキャラメル」もあったんで、おもしろくなって数種類買ってきたんだべさ。 続きを読む
2005年11月21日
秋津嶋の旅(8)−陸奥(3)−銀山温泉
銀山温泉能登屋
(旧暦 10月20日)
八一忌 早稲田大学名誉教授、東洋美術史学者であるとともに、歌人、書家としても足跡を残した秋艸道人(しゅうそうどうじん)会津八一の昭和31年(1956)の忌日
むさしのの くさにとはしるむらさめの いやしくしくに くるるあきかな
波郷忌 俳誌「鶴」を創刊し、主宰者として活躍した俳人石田波郷の昭和44年(1969)の忌日
琅玕(ろうかん)や 一月沼の横たはり
琅玕:中国の玉の名称で、青竹色をしている
銀山温泉は、奥羽本線大石田駅から車で約40分くらいの山間に位置する静かな温泉郷です。ニジマスが泳ぐ銀山川の両側に13軒の木造3層、4層の旅館が軒を連ね、大正時代の古きよき面影を今に残しています。
昭和58年(1983)にNHK連続テレビ小説「おしん」の舞台として紹介され、以来温泉地としてだけでなく観光面でも有名になりました。ドラマの中でおしんのお母さん(泉ピン子)が働いていた旅館は、写真の「能登屋」だったとか。
この木造旅館は、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」の中で八百万の神々が集う湯屋「油屋」のモデルになったのではとも聞きましたが、江戸東京たてもの園の子宝湯がモデルだともされているため、定かではありません。きっとこのようなさまざまな建築物を参考にしてデザインされたのでしょう。 続きを読む
2005年10月08日
秋津嶋の旅(7)−南海道(1)−讃岐
玉藻公園(旧高松城)
(旧暦 9月 6日)
讃州高松に行ってきました。2泊3日の日程で、昨日やっと帝都に帰ってきました。
ここは、律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である令制国の五幾七道の内の南海道に属し、中央から派遣された国司が治める国の一つでした。
令制国の確実な成立は、大宝元年(701)に制定された大宝律令からとされていますが、その成立は大化元年 (645) の大化の改新から大宝元年(701)の間の段階的な制度変化の結果であった可能性も高いとされています。
そもそも、古代の日本は、土着の豪族である国造(くにのみやつこ)が治める国と、大和政権の代理人としてその地方を祭司していた県主(あがたぬし)が治める県(あがた)が並立した段階があったようですが、律令制施行以後は、国司が治める令制国に移行していきました。
さて讃岐の国ですが、国府は現在の坂出市に有ったそうですが、まだその遺跡は見つかっていないとのことです。
讃岐高松藩は、豊臣氏の家臣生駒親正(1526〜1603)が、秀吉の四国平定後の天正15年(1587)に、讃岐一国17万3千石を与えられたことに始まりますが、4代高俊の寛永17年(1640)にお家騒動(生駒騒動)により改易、出羽国矢島藩に転封となってしまいました。
その後、寛永18年(1641)西讃地域に山崎氏が入って丸亀藩5万石が興り、翌寛永19年(1642)に東讃地域に、常陸国下館藩より御三家の水戸徳川家初代・徳川頼房の長男・松平頼重が12万石で入封し、明治維新までつづく高松藩松平家が成立しました。 続きを読む
2005年07月21日
秋津嶋の旅(6)−畿内(1)−大津
左端膳所城を望む大津市街
(旧暦 6月16日)
所用のため、上方の近江大津に行って来ました。
大津は、東海道五十三次の53番目、中山道六十九次の69番目の最後の宿場町で、往時は琵琶湖の湖上交通や陸路の要衝であり近江商人の町として栄えていたそうです。
江戸時代は大津代官支配の幕府直轄領で、旅籠71軒、本陣2軒、家屋数3,650軒、人口15,000人弱の街道一とも云われる宿場町でした。
街のタクシーの運転手さんによると、「織田信長の時代の坂本城、羽柴秀吉の時代の大津城、徳川時代の膳所城がありますが、江戸時代の膳所城などは新し過ぎて話にならん。そもそも近江の大津京は天智天皇が・・・・・」と、話しがえらく旧くなって、江戸や帝都東京などと悦に入っているのは、関東の田舎者だと云わんばかりの解説でした。 続きを読む
2005年05月29日
秋津嶋の旅(5)−陸奥(2)−プランドーム一番町
プランドーム一番町
(旧暦 4月22日)
白櫻忌 歌人・詩人の與謝野晶子の昭和17年(1942)の忌日。 歿後に出された最後の歌集『白櫻集』に因み、「白櫻忌」とも呼ばれる。
ケヤキ並木が美しく街全体が緑に覆われていることから、「杜の都仙台」と呼ばれていますが、戦前は第二師団司令部が旧仙台城内にあり、また郊外の榴岡(つつじがおか)には歩兵第4聯隊などがあり、仙台は「軍都」でもありました。
さらには、明治27(1894)年「高等学校令」の公布により、明治20(1887)年4月に設置された第二高等中学校は第二高等学校に改称、そして明治40年(1907)に「東北帝国大学」も創設され、仙台は「学都」とも呼ばれていました。
しかし、仙台は東北地方の商業の中心地でもあり、商都仙台でもありました。その商都仙台を代表する繁華街である東一番町通りは、南からサンモール一番町、プランドーム一番町、一番町四丁目買物公園が連なり、南北約1Km以上に渡るおしゃれな商店街に生まれ変わっています。この東一番町通りの商店街は、私「嘉穂のフーケモン」の最も好きなスポットです。 続きを読む
2005年03月29日
秋津嶋の旅(4)−吾妻の国(2)-横浜ランドマークタワー

スカイガーデンからの夜景
(旧暦 2月20日) 立原道造忌 詩人立原道造の昭和14年(1939)の忌日。
平成16年2月1日、横浜高速鉄道株式会社を事業主体とする「みなとみらい線」が開通し、横浜から元町・中華街が直接結ばれるようになりました。
また、板橋村の住人も、都営三田線と東急東横線および「みなとみらい線」との相互直通運転により、武蔵小杉経由で「みなとみらい線」の終点元町・中華街まで、約1時間20分ほどで行くことができるようになり、横浜中心部がより身近となりました。
ということで、筑紫の国から妹が上京してきたこともあり、初めて横浜ランドマークタワーと中華街に行ってきました。 続きを読む
2005年01月31日
秋津嶋の旅(3)-吾妻の国(1)−房総「妙の浦」

特別天然記念物、鯛の浦タイ生息地。海面に浮上した真鯛の群れ。
(旧暦 12月22日)
しばらく房総に旅に出かけていました。
菜の花やレンゲの花が咲く季節には早すぎたので、何となく寒々しい旅でした。
千葉県安房郡天津小湊町小湊にある内浦湾の東側に、深海性回遊魚の鯛が群生する珍しい海域があり、国の特別天然記念物に指定されています。
内浦湾内、日蓮大聖人(1222〜1282)の誕生寺前の船着場から東南方へ船で5分くらいの海域で、伊貝島、弁天島などの近海に多数のタイが群生するので、「妙の浦」と呼ばれています。
ここに集まるタイは大部分がマダイで、他にクロダイ、メジナ、イスズミなどが混じっているそうです 続きを読む
2004年11月25日
秋津嶋の旅(2)-蝦夷が嶋(1)-髭のニッカ
札幌すすきの交差点
この夏、札幌市中央区南4条西4丁目のすすきの交差点でひときわ目に付くニッカウヰスキーのネオン看板に久しぶりで会いました。
卒業以来ですから、26年振りでしょうか。なつかしいなあ・・・ 続きを読む
2004年11月19日
秋津嶋の旅(1)-陸奥(1)-弘高生青春之像
旧制弘前高等学校青春の像
青森県弘前市文京町の弘前大学のキャンパス内には、昭和24年3月まで旧制弘前高等学校がありました。
旧制弘前高等学校は、太宰治(津島修二)の母校であり(昭和2年入学)、鈴木健二元NHKアナウンサーの母校(昭和20年入学)でもあります。
北大予科の最年少の教授で旧制高校の終焉を看取り、新制の北大で教鞭をとられた山元先生(通称ヤマゲン)曰く、「当時文科系の高等学校が北海道になかったので、文科志望の学生の多くは弘前高校を目指したんです」とのこと。
共産党委員長から転向して戦後は右翼の大物になった田中清玄氏や鈴木健二氏の実兄で映画監督の鈴木清順氏などユニークな人もいました。
北溟寮の寮歌「都も遠し」も有名ですね。
大正十二年 北溟寮寮歌 「都も遠し」
作詞 脇本 忠信 作曲 菅 知巳
壱
都も遠し津軽野に あふるる生気若人の
胸に希望の春は来て 高なる血潮紅に
咲くは理想の花の色 潜むや大鵬みちのおく