2006年06月11日
パイポの煙(29)−危急存亡の秋(4)

京劇の諸葛孔明(俳優は魯大鳴氏)。扮装や化粧は「三国志演義」における人物描写をふまえている。
(旧暦 5月16日)
パイポの煙(28)−危急存亡の秋(3)のつづき
「出師の表」の第3段では、諸葛亮は先帝劉備の恩義を慕って共に歩んだ21年間を追憶し、現在における自分の決心すなはち2代蜀帝劉禪に対して同じ忠誠を献げようとする信念を披瀝します。
臣は本(もと)布衣(ふい、庶民)、躬(みづか)ら南陽に耕(たがや)す。
苟(いや)しくも性命を亂世に全うせんとし、聞達(ぶんたつ、名声が上がること)を諸侯に求めず。
先帝、臣の卑鄙(ひひ、身分が低い)なるを以てせず、猥(みだ)りに自ら枉屈(おうくつ、謙遜)し、臣を草盧の中(うち)に三顧し、臣に諮(と)うに当世の事を以てせり。
是に由りて感激し、遂に先帝に許すに駆馳(くち、人のために奔走して働く)を以てす。
後、傾覆(けいふく、長阪橋の敗戦を指す)に値(あ)い、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず。
爾来二十有一年なり。
先帝、臣が謹慎(まじめに良く気をつけること)を知る。故に崩ずるに臨んで臣に寄するに大事を以てせしなり。
命を受けて以来、夙夜(しゅくや、日夜)憂歎(ゆうたん)し、付託(ふたく、委任)の效(こう)あらずして、以て先帝の明を傷(そこな)わんことを恐る。
故に五月瀘(ろ、瀘水)を渡り、深く不毛(不毛の地雲南地方)に入れり。
今、南方已に定まり、兵甲(軍備)已に足る。
当(まさ)に三軍を奨帥(しょうすい)し、北のかた中原を定むべし。
庶(こいねが)わくは駑鈍(どどん、自分の能力に対する謙称)を竭(つく)し、姦凶(かんきょう、魏の文帝曹丕を指す)を攘除(じょうじょ、討ち払う)し、漢室を興復(こうふく)し、舊都に還(かえ)さんことを。
此れ臣の先帝に報いて、陛下に忠なる所以の職分なり。 続きを読む
2006年06月10日
パイポの煙(28)−危急存亡の秋(3)

Zhuge Liang(諸葛亮)
An artist impression of Zhuge Liang holding his trademark feather fan.
(旧暦 5月15日)
源信忌、惠心忌 平安中期の天台宗の僧源信の寛仁元年(1017)の忌日。 比叡山横川の恵心院に隠棲したので惠心僧都とも呼ばれ、寛和元年(985)、『往生要集』を著した。
平安末期の歌人藤原清輔(1104〜1177)が保元三年(1158)に著した和歌の百科全書とも云うべき『袋草紙』によれば、
恵心僧都は、和歌は狂言綺語なりとて読み給はざりけるを、恵心院にて曙に水うみを眺望し給ふに、沖より舟の行くを見て、ある人の、「こぎゆく舟のあとの白浪」と云ふ歌を詠じけるを聞きて、めで給ひて、和歌は観念の助縁と成りぬべかりけりとて、それより読み給ふと云々。さて廿八品(法華経二十八品をそれぞれ和歌に詠んだもの)ならびに十楽の歌(極楽浄土で受ける十の楽しみを詠んだ歌)なども、その後読み給ふと云々。
法華経薬草喩品の心をよみ侍りける
大空の雨はわきてもそそがねど うるふ草木はおのがさまざま (千載1250)
パイポの煙(27)−危急存亡の秋(2)のつづき
諸葛亮、字は孔明、琅邪陽都(現在の山東省臨沂市沂南県)の人なり。漢の司隸校尉(首都洛陽・長安を含む州の長官)諸葛豐の後なり。父は珪、字は君貢、漢の末に太山郡(現在の山東省泰安市)の丞(副長官)と為る。
亮(諸葛亮)早く孤(孤児)にして、從父(父方の叔父)玄(諸葛玄)、袁術(後漢末期の群雄)の署する所の豫章太守(揚州豫章郡の長官、現在の江西省南昌市)と為り、玄(諸葛玄)亮及び亮弟均(諸葛均)を將(ひき)いて官に之(いた)る。 続きを読む
2006年06月09日
パイポの煙(27)−危急存亡の秋(2)

昭烈帝 劉備(161〜223)
(旧暦 5月14日)
パイポの煙(26)−危急存亡の秋(1)のつづき
此誠危急存亡之秋也 「此れ誠に危急存亡之秋(とき)也」の一節は、故事成語として大変有名ですが、「秋」を「とき」と読むのは、米、麦、粟、豆、黍(きび)または稗(ひえ)の五穀が実る秋は農民にとって重要な時期であることから、「大切なとき」、「重大なとき」の意があるためで、国家や団体などの集団に対して使うことが多く、英語では、critical hourないしは critical moment とも云うようです。
章武三年(A.D.223)春、先主(初代劉備)永安に於いて病篤(あつ)く、亮(諸葛亮)を召して成都(蜀の首都、四川省の省都)に於いて、以て後事を屬(しょく)す。
亮に謂ひて曰く、「君の才は曹丕(187〜226、魏の初代皇帝、曹操の長子)に十倍す、必ずや能く國を安んずべし。終りに大事を定む。若し嗣子(2代劉禪)輔(たす)く可けんば之を輔(たす)け、如(も)し其の才に不(あらざ)れば、君自ら取る可し」と。
亮(諸葛亮)涕泣して曰く、「臣敢(あへ)て股肱(自分の手足のように信頼している忠義な家臣)之力を竭(つ)くし、忠貞之節を效(いた)す、死を以て之を繼がん」と。
先主(初代劉備)又詔敕を為して後主(2代劉禪)に曰く、「汝丞相(諸葛亮)與(と)事に從ひ、之の事父の如(ごと)し」と。
[三國志卷三十五 蜀書五 諸葛亮傳第五]
劉備玄徳は臨終の際に諸葛孔明に後事を託し、「嗣子の禪が補佐するに足り得るならば補佐して欲しい。しかし、その器でないならば、君が代わって蜀の帝位を継いで欲しい」と云いました。
また、子の劉禪に対しては、「丞相孔明の教えに従い、丞相を父と思え」と遺言しました。 続きを読む
2006年06月08日
パイポの煙(26)−危急存亡の秋(1)

三国鼎立図(A.D.220〜A.D.280) The Three Kingdoms state
A.D. :ラテン語Anno Domini(「主の年に」の意)
(旧暦 5月13日)
長明忌 平安末期から鎌倉初期にかけて歌人、楽人(琵琶などの奏者)として名を馳せた鴨長明の忌日。京都下鴨神社の禰宜(ねぎ)長継の次男としてうまれたが、下鴨神社内摂社(本社と末社とのあいだに位し、本社の祭神とかかわりをもつ神などを祭る神社)河合社(ただすのやしろ)の禰宜(ねぎ)の地位につくことが叶わず、神職としての出世の道を閉ざされて出家したと伝えられている。
建暦元年(1211)には公家、歌人飛鳥井雅経(1170〜1221)と共に鎌倉に下向し、3代将軍源実朝と会見している。
[吾妻鑑 建暦元年10月13日 辛卯]
鴨社の氏人菊大夫長明入道(法名蓮胤)、雅経朝臣の挙に依って、この間下向す。将軍家に謁し奉ること度々に及ぶと。而るに今日幕下将軍の御忌日に当たり、彼の法華堂に参り念誦読経の間、懐旧の涙頻りに相催す。一首の和歌を堂の柱に註す。
草も木もなひきし秋の霜消て むなしき苔をはらふ山風
翌年の建暦2年(1212)に和漢混淆文による文芸のひとつとして名高い『方丈記』を著し、前後して随筆風の歌論書『無名抄』を著している。
思二世恋といふ事を
我はただ来ん世の闇もさもあらばあれ 君だに同じ道に迷はば (新続古今1292)
中国西晋(265〜316)の人陳寿(233〜297)により西暦280年〜290年頃に編纂された紀伝体の歴史書に『三國志』があります。
『三國志』は、『魏志』30巻(「本紀」4巻、「列傅」26巻)、『蜀志』15巻、『呉志』20巻の計65巻から成っていますが、その『蜀志』(蜀書)の諸葛亮傅に、諸葛亮孔明(181〜234)が魏との決戦を目前に悲愴な決意で第2代蜀帝劉禪(207〜271)に奉った上奏文(表)である「出師の表」が載せられています。 続きを読む