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2007年12月06日

板橋村あれこれ(21)-国立極地研究所(1)

 

 国立極地研究所 南極観測船「宗谷」模型

 (旧暦 10月27日)

 昭和58年(1983)に劇場公開された映画「南極物語」の樺太犬タロ(1955~1970)とジロ(1955~1960)の実話物語は日本中に大きな感動を呼び起こしましたが、なんと昨年(2006)にはあのディズニーが、登場人物を米国人として新たに製作(リメイク)した映画「Eight Below」が公開されているから驚きです。

 タロとジロは昭和30年(1955)に稚内市で生まれましたが、その名前の由来は、明治45年(1912)に日本人として初めて南極大陸を探検した陸軍中尉白瀬矗(しらせ のぶ、1861~1946)の隊の犬ぞりの先導犬として活躍した樺太犬、タロとジロにちなむとされています。

 昭和31年(1956)、タロとジロは弟サブロとともに稚内市に生まれましたが、この年南極地域観測隊での樺太犬による犬ぞりの使用が決定されると、当時北海道にいた樺太犬約1,000頭のうち犬ぞりに適したタロ、ジロ、サブロの3頭の兄弟を含む23頭が集められ、稚内で訓練が行われました。

 たまたま当時、農学校の理学部地球物理学科の1期生として在学していたわれらが愛すべきS先輩(この先輩は昭和29年入寮だが、今でもお元気に寮の同窓会に出席される昭和9年入寮の旧制予科の大先輩や戦前の大先輩がご健在なので、新制大学の先輩は未だに中先輩程度である)が指名されて稚内に行き、23頭の樺太犬の訓練のアシストをしたと先日語られていたのには、正直、びっくりいたしました。

 昭和31年(1956)11月8日、日本の「岩石磁気学」の開祖とされる東大理学部の永田武教授(1913~1991)を隊長とする第1次南極予備観測隊が南極観測船「宗谷」(満載排水量4,600トン、4,800馬力)に乗船し、観測隊員53名、タロ、ジロを含む22頭の樺太犬と共に東京港を出港しました。

 ちなみに、農学校からは、第1次南極予備観測隊に海洋担当の理学部低温研(低温科学研究所)の楠宏(くすのき こう、1921~  )先生、第1次予備観測越冬隊では設営担当の農学部の佐伯富男氏(1929~1990)が参加されていました。

 南極では、隊員のうち11名が第1次予備観測越冬隊として選抜され、タロ、ジロを含む19頭の犬たちが、昭和32年(1957)の第1次予備観測越冬隊において犬ぞりに使役されました。

 昭和33年(1958)2月、第2次観測隊は厚い海氷と悪天候に阻まれて昭和基地に上陸することができず、2月10日、橇付ビーバー機により、11名の第一次予備観測越冬隊員と3匹のカラフト犬を宗谷に収容するのがやっとだったということです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:23Comments(0)板橋村あれこれ

2007年04月30日

板橋村あれこれ(20)-野口研究所

  

 野口研究所正門

 (旧暦  3月14日)

 荷風忌  明治から昭和にかけて耽美的(美を唯一最高の理想とし、美の実現を人生の至上の目的とする芸術上の立場)な作風で活躍した小説家・随筆家永井荷風の昭和34年(1959)の忌日。
 『地獄の花』1902年刊、『あめりか物語』1908年刊、『ふらんす物語』1909年(発売禁止)、『つゆのあとさき』1931年刊、『濹東綺譚』1937年刊、『断腸亭日乗』などの作品を残している。
 戦後は転居先の市川から浅草に通い、ストリップ劇場の楽屋にも出入りしていたため、踊り子達と写った有名な写真も残されている。


 板橋村の入り口、板橋3,4丁目、加賀1,2丁目の地は、加賀藩102万5千石、5代藩主従三位・左近衛権少将兼加賀守・前田綱紀(1643~1724)が、下屋敷として延宝7年(1679)、4代将軍徳川家綱(1641~1680)から6万坪の敷地を板橋宿平尾に賜り、別邸を建てたことに始まります。

 明治の世になり、この地には陸軍の板橋火薬製造所(昭和15年に東京第二陸軍造兵廠と改称)が建てられました。もちろん軍施設として民間人は立ち入り禁止区域で、昭和10年(1936)からは、強力な威力を有する「マーズ猟用無煙火薬」を製造していたと言うことです。

 さて、野口研究所がある加賀1丁目8番の地は、東京第二陸軍造兵廠の時代には、火薬の研究や燃焼実験、弾道実験等が行われていた場所で、研究所の敷地内には、当時の建物がかなり残されています。

 私「嘉穂のフーケモン」が初めて野口研究所の表札を見たときには、黄熱病や梅毒の研究で有名な細菌学の世界的権威、野口英世博士(1876~1928)の研究所かと勘違いしました。

 この野口研究所は、昭和16年(1941)、旧日窒コンツェルンの創始者で日本窒素肥料株式会社社長野口遵(したがう、1873~1944)氏が、私財2,500万円(現在の価値で約250億円)を拠出して、化学工業を調査研究するために創設した研究所を母体としています。
 当初は、横浜、延岡、興南(現朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道咸興市)の3ヶ所に研究所を開設しましたが、昭和21年(1946)に現在地に移転統合されて今日に至っています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:19Comments(0)板橋村あれこれ

2006年10月26日

板橋村あれこれ(19)-東上鉄道記念碑

 
 
 東上鉄道記念碑(下板橋駅構内)

 (旧暦  9月 5日)

 板橋村の東武東上線下板橋駅構内(板橋2丁目4番地)には、東上鉄道の記念碑が建っています。
 通称「東武東上線」と呼ばれる「東上本線」は、豊島村の池袋駅から彩の国大里郡寄居町の寄居駅までを結ぶ75.0kmの東武鉄道株式会社(TOBU Railway CO.,LTD)の鉄道路線です。

 碑文には、「東上鉄道は内田三左衛門ほか10名の有志が、東京渋川(群馬県)間、さらに越後長岡までの敷設を予定して明治36年(1903)12月23日逓信省にて東上鉄道の仮免許申請書を提出、明治41年(1908)に桂太郎内閣により敷設仮免許受けて起工し、千辛万苦百難の末、大正3年(1914)5月竣工なり、開業に至った」と記してあります。
 さらには、「今日の盛況は、内田氏の熾烈な公共心と高潔なる犠牲的精神に職由する」とその功労を讃えています。

 この碑は、もともと東上線池袋駅西口にあったそうですが、デパート建設によりこの地に移転されました。
 なお、東上線の名前に由来は、帝都東京から群馬県渋川を結ぶ計画だったことから、東京と上野国の頭文字を取って「東上」としたそうです。

 大正3年(1914)5月1日、池袋~田面沢間(池袋~下板橋間2.2km、川越~田面沢間2.3kmは軽便鉄道、下板橋~川越間29kmは私設鉄道)が開通し、旅客・貨物運輸営業を開始しました。
 開業に当たり、蒸気機関車3両を鉄道省から、2両を高野登山鉄道から購入し、また、高野登山鉄道から客車13両、貨車35両を購入、東武鉄道からも蒸気機関車を借り入れています。

 その後、第一次世界大戦の影響で物価が急騰して営業費が増加したため、大正9年4月27日、開業線池袋~坂戸町間40.6km、未開業線坂戸町~高崎間62.8kmのすべてをあげて東武鉄道と対等合併し、東武東上鉄道となりました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:23Comments(0)板橋村あれこれ

2006年05月09日

板橋村あれこれ(18)−千川上水(3)

 

 国税庁醸造試験場跡 (北村滝野川2-6-30)
 明治37年(1904)、この地に大蔵省醸造試験所が創立され、平成7年(1995)に広島に移転した。

 (旧暦  4月12日)

 泡鳴忌  明治、大正期の詩人、小説家岩野泡鳴の大正9年(1920)の忌日。田山花袋、島村抱月に次ぐ自然主義文学者として活躍した。
 苦痛があればあるだけ
 その苦痛にモッと深入りしたいと
 もがくのが生命だ                『憑き物』


 板橋村あれこれ(17)−千川上水(2)のつづき

 千川上水跡の記述がある『新編武蔵風土記稿』は、大学頭(幕府の最高教育官)述斎林衡(まもる)の建議により、徳川幕府官撰地誌として昌平坂学問所が編纂に携わり、文化7年(1810)に久良岐郡(現横浜市の一部)に稿を起こし、文政11年(1828)新座郡(にいくらぐん)を以て完成し、天保元年(1830)に幕府に献上されています。全266巻(うち付録1巻)。

 元治元年(1864)、幕府は沿岸防備のため、精度が高く飛距離の長い洋式野砲の砲身を鋳造する反射炉(耐火煉瓦を用いた溶解炉)を滝野川(元大蔵省醸造試験場)に設置し、その砲口を穿孔するための動力として水車を利用する計画を立てました。

 ここに千川上水は天明6年(1786)以来78年ぶりに拡張工事が行われ、慶応元年(1865)9月中旬からから約2ヶ月半を要して大砲製造所建設予定地(北区滝野川 2-6)まで開削されました。

 結局、この大砲製造所の建設は幕末の混乱で中断されたようですが、この建設計画による周辺整備が明治以降この地に近代産業を導入する大きな役割を果したとされています。

 明治5年(1872)、滝野川反射炉跡地に建設された繰綿問屋鹿島万平による民間で最初の紡績工場(鹿島紡績所)が操業を開始し、千川上水を撚糸器の水車に利用しました。
 また、実業家渋沢栄一(1840〜1931)が明治6年(1873)に設立した王子の抄紙会社(後の王子製紙)や板橋の火薬製造所(明治6年、旧加賀藩下屋敷内)などの水車の動力として利用され始めました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:55Comments(0)板橋村あれこれ

2006年05月08日

板橋村あれこれ(17)−千川上水(2)

 

 千川上水分配堰跡(北村滝野川 6-9-1)

 (旧暦  4月11日)

 板橋村あれこれ(16)−千川上水(1)のつづき

  「江戸六上水」の一つである千川上水は、白山御殿(5代将軍徳川綱吉が将軍就任以前の上州館林藩主時代の屋敷で、もと白山神社の跡であったので白山御殿といわれ、また地名をとり小石川御殿ともいわれた)、湯島聖堂(幕府学問所)、上野東叡山寛永寺(徳川家の菩提寺)、浅草御殿(金龍山浅草寺、徳川家の祈願寺)の4ヶ所の御成御殿へ上水を供給する目的で開設されました。

 新座郡上保谷新田地内(西東京市新町)において玉川上水の水を分流し、豊嶋郡関村、多摩郡井草村、豊嶋郡中村、中新井村、長崎村、下板橋宿、滝野川村を経て巣鴨村堀溜(豊島区西巣鴨2丁目39番7号「千川上水公園」内「六義園給水用千川上水沈殿池」)までの「五里二拾四町三十間」(約22.3?)を開鑿して設けた水路(開渠)です。
 
 当時、土木工事で名を馳せていた河村瑞賢(1617〜1699)の設計により、江戸の商人徳兵衛、太兵衛の両人が工事を請け負い、元禄9年(1696)に完成しました。
 徳兵衛、太兵衛の両人は、玉川上水と同様に予算以上の多額の工費を費やし、482両の私財を投じてようやく完成したと伝えられています。
 両人はその功によって名字帯刀を許され、千川の姓を賜り、小石川白山前に邸宅を下され、千川上水役を仰せけられて子孫は永くこの役を務めました。

 千川上水は掘留(分配堰)以降は木樋で通水されて前記4ヶ所の御成御殿へ上水を供給し、更に余水を神田上水以北の小石川、本郷、湯島、外神田、下谷、浅草までの大名、小名、旗本、武家、寺家、町家にいたるまでの飲料水として掛渡しました。その範囲は、江戸府中の3分の1にあたる地域を潤しました。また、他の一流は王子飛鳥山に向かい、音無橋付近で音無川(石神井川)に落ちていました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:49Comments(0)板橋村あれこれ

2006年05月07日

板橋村あれこれ(16)−千川上水(1)

 

 飛鳥山台上より新幹線架線越しに、25m下の東京低地(旧荒川氾濫原)を望む

 (旧暦  4月10日)
 
 健吉忌 評論家山本健吉の昭和63年(1988)の忌日。明治期の評論家、小説家、俳人、弁護士、県会議員(長崎県)の石橋忍月(貞吉、1865〜1926)の三男として生まれ、慶應義塾大学国文科卒。在学中に折口信夫に師事して民俗学の方法を学び、卒業後は改造社に入社。「俳句研究」の発刊、編集に携わり、中村草田男らを世に送り出し、昭和24年からは評論家として、文芸評論のほか、俳句の評論や鑑賞を執筆した。 代表作は『芭蕉−その鑑賞と批評』、『古典と現代文学』、『柿本人麻呂』、『最新俳句歳時記』他。



 帝都東京といっても家康の江戸入府以前は、今の隅田川以東の墨田、江東は干潟と葦原が続く湿地帯および古利根川、古隅田川の氾濫原でした。
 
 また、渋谷、新宿、文京、豊島などの高台(淀橋台、本郷台など)は、新生代第四紀更新世(洪積世:180万年前〜1万年前)の間氷期の海進によって堆積された「東京層」と呼ばれる砂礫からなる海成層のうえに古富士火山(武蔵野ローム)やその後の箱根火山(立川ローム)の火山灰が堆積した関東ローム層が5〜8m堆積し、水はけが良くて飲用水や灌漑用水を確保するのが難しく、多くの人口を養うことができない不毛の土地でした。

 反対に、古くから発達した京都や奈良などは水利に恵まれた肥沃な土地でした。

 北条氏政(1538〜1590)を亡ぼして天下統一を成し遂げた豊臣秀吉(1536〜1598)により、武蔵、上野、下総、上総、相模、伊豆6ヵ国約240万石の太守となって関東へ転封させられた徳川家康(1543〜1616)は、江戸を関東支配の本拠地と定めて天正18年(1590)8月1日に入国しましたが、入国した当時の江戸は、現在の皇居外苑一帯は汐入りの茅原で「日比谷入江」と呼ばれ、「江戸前島」と呼ばれる標高4〜5mの低い半島(現在の京橋、銀座)がつき出していました。

 深川あたりは満潮になると海面下に没する湿地帯で、また、西方と北方は淀橋台、本郷台、豊島台、成増台といった一面の草原が果てしなく武蔵野に連なっていました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:20Comments(0)板橋村あれこれ

2006年01月03日

板橋村あれこれ(15)−加賀藩下屋敷跡

 

 加賀前田家下屋敷築山跡

 (旧暦 12月 4日)

 板橋村の板橋3、4丁目、加賀1、2丁目一帯は江戸時代、加賀藩前田家の下屋敷があった所です。

 前田家の上屋敷跡は有名な東京大学で、東大の代名詞にもなっている赤門(御守殿門)は、文政10年(1827)に11代将軍家斉の第34子(21女)溶姫(やすひめ、1813〜1868)が13代藩主前田斉泰(1811〜1884)に嫁入りしたときに建てられましたが、下屋敷の赤門は、現在も板橋3丁目25番地の真言宗豊山派の寺院如意山観明寺山門として使用されています。

 もともとこの門は、下屋敷通用門として旧中山道と国道17号線(新中山道)とが交差している板橋4丁目13番地あたりにあったようですが、明治になって下屋敷跡地が陸軍の火薬製造所(後の東京第二陸軍造兵廠)建設のために接収されたので、一部の建物が観明寺に移築されたもののようです。

 ところで我が板橋村のライバル、文京村の東京大学の敷地もかっては下屋敷の時代があったようです。その期間は、3代藩主利常(1594〜1658)が2代将軍秀忠(1579〜1632)から屋敷を拝領した慶長19年(1614)から天和2年(1682)の間でした。
 
 さて我が板橋村の下屋敷は、5代藩主綱紀(1643〜1724)が、延宝7年(1679)、4代将軍家綱(1641〜1680)から6万坪の敷地を板橋宿平尾に賜り、別邸を建てたことに始まります。

 そもそも上屋敷、中屋敷、下屋敷といった区分けは、江戸城の天守、本丸等多くの櫓、門を焼失し、大名屋敷500、旗本屋敷770、寺社300、蔵約9,000、橋60、町屋400町、死者10万7,046人といわれている明暦3年(1657)1月18日におきた明暦の大火によりそれまでの拝領屋敷が焼失したため、緊急避難場所或いは緩急時の藩兵の駐屯場所としての屋敷を確保する爲に区分けされたと云われています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:03Comments(0)板橋村あれこれ

2005年11月27日

板橋村あれこれ(14)−近藤局長終焉の地

 

 近藤勇昌宣之墓 

 (旧暦 10月26日)

 慶応4年4月3日、東山道軍斥候隊として総州流山で賊徒の取り調べに当たった東山道先鋒総督府副参謀の薩摩藩士有馬藤太(1837〜1924)らに投降した近藤さんは、当初大久保大和と名乗って部隊の兵器を差し出し恭順の意を示していましたが、彦根藩士渡辺九郎佐衛門に見破られ、囚われの身となってしまいました。

 そして4月5日、総督岩倉具定(岩倉具視の第3子、1851〜1910)、参謀板垣退助(1837〜1919)率いる中山道御総督(東山道軍)の本陣がある中山道板橋宿の仲宿脇本陣の豊田一右衛門宅に護送され軟禁されました。
 
 有馬藤太は近藤さんの一軍の将としての人物を惜しみ、上司に自分が戻るまで近藤さんの処分を保留し相応の待遇を頼むという内容の手紙を送りましたが、当時坂本龍馬を暗殺したのは新選組であるとして復讐の念に萌えていた土佐藩士で後に西南戦争では熊本鎮台司令官として西郷軍の攻撃から52日間にわたって熊本城を死守した谷守部(干城、1837〜1911)や軍監の水戸脱藩香川敬三(1841〜1915)らの強硬な姿勢に押され、近藤さんは斬首の刑となってしまいました。

 4月24日、近藤さんは滝野川三軒家(北村)の石山亀吉邸で今生最後の夜を過ごし、翌4月25日、中山道平尾一里塚の馬捨て場で、ついに斬首されてしまいました。斬首の太刀取りは、美濃揖斐で5,300石を領する直参旗本岡田家の武術指南役横倉喜三次という人物でした。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 14:38Comments(0)板橋村あれこれ

2005年07月06日

板橋村あれこれ(13)−板谷公園

 

 板谷公園

 (旧暦  6月 1日)

  サラダ記念日

 板橋村の旧加賀藩下屋敷跡の一角に、1600坪を上回る板谷公園があります。
 この公園は、大正13年(1924)に2代目宮吉を襲名した海運王板谷宮吉氏の長男真吉氏により、昭和11年(1936)に東京市に寄贈されました。

 公園の入り口にはその経緯を示す旧い銘板が残っています。

 本園附近一帯ハ石神井流域三合野原ノ一部ニシテ、寛文年中加賀前田候ノ邸地トナリシヨリ金澤ト呼バレ由來近郊ノ閑地タリシカ、昭和十一年五月土地区画整理ニ際シ所有者板谷宮吉氏ハ此地千六百餘坪ヲ公園地トシテ寄付セラレ、乃チ本園ノ完成ヲ見ルニ至レリ
茲ニ開園ニ際シ、園地ノ來由ヲ記シ以テ寄贈者ノ芳志ヲ永ク後世ニ傳フ
昭和十二年四月  東京市

 海運王・板谷宮吉氏は、明治26年(1893)英国から購入した2隻の貨物船で海運業に進出しましたが、翌年の日清戦争でその2隻が政府用船になり、また日露戦争では持ち船が軍用船となって戦後に大発展、明治45年(1912)に株式会社「板谷商船」を設立しています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:47Comments(0)板橋村あれこれ

2005年06月15日

板橋村あれこれ(12)−常盤台

 

 東武直營 常盤臺住宅地御案内 昭和11年

 (旧暦  5月 9日)

 季吟忌  歌人・俳人・古典学者の北村季吟の宝永2年(1705)の忌日。

 豊島村の南長崎(元椎名町)にあったトキワ荘は、漫画の神様手塚治虫や赤塚不二夫、石ノ森章太郎など日本の漫画界を担った錚々たる人たちが住んでいたアパートでしたが、板橋村の常盤台は、豊島村の池袋から彩の国の寄居の間を結ぶ東武東上線沿線にある高級住宅街です。

 板橋村の教育委員会が、平成11年(1999)に出版した「常盤台住宅物語」によれば、常盤台一帯は、昔は北豊島郡上板橋村字向屋敷/字原と呼ばれ、富士見街道沿いに民家が2,3軒あるだけの「前野っ原」と呼ばれる農地でした。
 大正3年(1914)に東上鉄道(現東武東上線)が開通しましたが停車駅はありませんでした。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:55Comments(0)板橋村あれこれ

2005年06月06日

板橋村あれこれ(11)−戸田橋

 

木曾街道 蕨之驛 戸田川渡 渓斎英泉筆

 (旧暦  4月30日)

 板橋村の北境と彩の国の戸田村の間を流れる一級河川「荒川」に架かる戸田橋は、全長519m、幅員21mの鉄筋コンクリート製の4代目の橋で、昭和52年(1977)12月に開通し、彩の国と帝都東京を結ぶ重要な役割を担っています。

 戸田川とも呼ばれた荒川の旧中山道の渡し場は、現在の戸田橋の下流約150mの所にあり、中山道が出来た天正年間(1573〜92)にはすでに存在していたと云うことです。

 江戸期を通して明治の初めまで、仮設の舟橋以外は架橋されませんでした。その訳は、江戸を守るための軍事的・政治的な理由と、一度出水すると、川幅が約2里(8?)にも広がり、橋の役目を果たせなかったためと云われています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:25Comments(0)板橋村あれこれ

2005年05月01日

板橋村あれこれ(10)−二輪草

 

 ニリンソウ 学名:Anemone flaccida

 (旧暦  3月23日)

 ニリンソウは、昭和55年(1980)に板橋村の花に指定されました。
 この花は村内の林の中にごく普通に自生していましたが、戦後の都市化により自生する環境がほとんど失われたため、かつての武蔵野の自然を偲び、残された自然地を未来への貴重な財産として継承していくために、村の花に選ばれました。

 キンポウゲ科イチリンソウ属に分類され、学名はAnemone flaccida、北海道から本州、四国、九州地方の山野湿ったところに群生しています。

 1本の茎から通常2個の花が咲き、花期は4〜5月で、若芽は食べられますが、しばしば野生の「トリカブト」の葉と誤認され中毒事件を起こしています。

 1本の茎から2個の花が咲くことから「二輪草」と名付けられていますが、実際には3個以上の花がつくこともあるようです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:52Comments(1)板橋村あれこれ

2005年03月15日

板橋村あれこれ(9)−渋沢栄一翁銅像

 

 渋澤榮一翁像(1840〜1931)

 (旧暦  2月 6日)

 栄町35番地の板橋養育院内には、渋沢栄一翁の銅像があります。

 渋沢栄一(1840〜1931)は、天保11年(1840)武州榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)に生まれましたが、実家は豪農で、少年の頃は尊皇攘夷思想に走り、高崎城を乗っ取り、横浜を焼き討ちにして、幕府を倒す計画をたてたこともありました。

 しかし、7歳より漢籍を学んだ従兄の尾高惇忠の弟長七郎の説得により中止します。その後京都に向かい、元治元年(1864)には一橋家家臣の平岡円四郎の推薦により一橋慶喜に仕えることになります。

 慶応3年(1867)、徳川慶喜の弟徳川昭武が万国博覧会使節になったため、随行して欧州に渡り、欧州で近代産業を学び帰国。明治2年(1869)、明治新政府に招聘され、大蔵省租税司となり税制改革などを担当しました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:40Comments(0)板橋村あれこれ

2005年03月05日

板橋村あれこれ(8)-高島平

 

 高島秋帆 徳丸原演習

 (旧暦  1月25日) 

 高島平は、古くは一面の沼や低湿の原野で、徳丸ヶ原と呼ばれていました。また、江戸時代の初期から幕府の直轄領で、歴代将軍の鷹狩の地でもありました。

 5代将軍綱吉によって禁止されていた鷹狩りは、8代将軍吉宗が復活し、江戸の周囲5里の範囲を葛西・岩淵・戸田・目黒・品川の六筋に分けて将軍の鷹場に指定しましたが、徳丸ヶ原も戸田筋に組み込まれ鷹狩りの場所として代々の将軍が訪れました。

 享保4年(1719)に御鉄砲町技・渡辺長左衛門が「からくり筒」の試射を行い、下って寛保年間(1741〜1743)に幕府の御鉄炮御稽古場となりましたが、寛政4年(1792)には、「鉄砲調練錬場」と定められました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:02Comments(0)板橋村あれこれ

2005年02月07日

板橋村あれこれ(7)-中山道(2)

 

 江戸名所圖絵 板橋驛

 (旧暦 12月29日)  

 瓜人忌

 板橋村あれこれ(6)-中山道(1)からのつづき

 大名行列の人数は多い時代では1000人を超え、その後幕府が随行者数の制限を定めて20万石以上は400人強、10万石以上で200人強という非常に大きな規模で、これに現地で調達した人足・馬が加わります。

 寛永19年(1643)の参勤交代制度細目の通達により、外様大名は4月、譜代大名は6月と交代月が決められていたため、この時期に集中して大名行列が街道を通過しました。

 参勤交代で街道を通る大名や上級家臣は宿駅の本陣または脇本陣に宿泊し、一般の随行者たちは旅籠屋や大きな寺社に宿泊しました。

 文政4年(1821)に中山道を通る大名は、102万石の加賀前田家をはじめとして、越前・越中・越後・信濃・美濃・上野・武蔵などの39家と定められていました。
東海道、中山道どちらでも良いのは、彦根の井伊家をはじめとする9家でした。
 大名の行列は、多人数が移動するため、各宿駅の負担は大きなものがありました。

 加賀藩の場合、文化10年(1813)には、直臣185名、陪臣830名、雇用人686名、宿継人足86人で都合1787名、その他に家中の馬匹32疋、駅馬188疋を数えています。  続きを読む

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2005年02月06日

板橋村あれこれ(6)-中山道(1)

 

 木曾街道 板橋之驛 渓斎英泉筆

 (旧暦 12月28日)

 句仏忌

 中山道は、板橋を起宿として、武蔵・上野・信濃・美濃の諸国を通過し、近江の国・守山から東海道の草津につながる街道で、その間、129里10町8間、67宿が設けられていました。

 中山道は、「中仙道」とも書かれましたが、幕府は享保元年(1716)、公式に「中山道」と記すことを命じています。

 東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五街道は、幕府の公用旅行者や御用荷物、大名の参勤交代が優先し、その利便を考えた施設が設けられていました。

 中でも、中山道は、大名の参勤交代のほか日光例幣使などが通行し、山間部の多い道ではありますが、東海道に比べ川止めがないのが利点とされ、女性は中山道を利用することが多かったといわれています。  続きを読む

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2004年12月22日

板橋村あれこれ(5)-志村一里塚

 

 志村一里塚

 志村一里塚は、板橋村志村1丁目の国道17号線中山道の傍らに、肩身の狭い思いで残されています。 

 天正18年(1590)、小田原の役により北条氏政を攻略して小田原城を落城させ天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、北条氏と縁戚関係にある徳川家康を関東に移封しました。

 家康は、当時葦の生い茂る寒村に過ぎなかった江戸に入国して以来、街道の整備を進めてきましたが、慶長9年(1604)、3男の秀忠に命じて、江戸を中心とした東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五街道に榎を植えた一里塚を築かせ、これを全国に広げました。  続きを読む

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2004年12月12日

板橋村あれこれ(4)-大和町交差点

 

 大和町交差点

 板橋村本町と大和町にまたがる通称「大和町交差点」は、国道17号線中山道、環状7号線、首都高速5号池袋線が立体交差した3重構造になっており、1日約24万台の自動車が通過します。

 また、沿道には中高層ビルが連立しており、半閉鎖的な空間になっていることもあり、二酸化窒素(NO2)濃度が全国ワースト1位、浮遊粒子状物質(SPM)が全国ワースト3位となっているなど、大気汚染がチョー厳しい状況となっています。  続きを読む

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2004年12月02日

板橋村あれこれ(3)-板橋宿本陣跡

 

 板橋宿本陣跡

 寛永12年(1635)に参勤交代制および2年後に本陣制が定められて、大名などと一般庶民の旅館が区別され、本陣には多くの大名や格式の高い人が宿泊しました。

 この板橋本陣の当主は代々名主を勤め、飯田新左衛門を名乗りました。

 また、旧邸敷地には97坪の邸宅があり、玄関式台が中山道に向かっていました。  続きを読む

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2004年11月22日

板橋村あれこれ(2)-石神井川(しゃくじい川)

 

 石神井川遊歩道 加賀の散歩道

 石神井川は、 小平市花小金井南町から西東京市・練馬区・板橋区を流れ北区堀船で隅田川に合流する延長25.2kmの河川です。

 昭和の始め頃には、巣鴨方面から何軒もの牧場が移転してきて牛乳の生産を始め、戦後しばらくまできれいな流れを湛えていました。

 高度成長期と共に水質が悪化し悪臭を放つドブ川と化していましたが、昭和48年以降大規模な河川改修で川底は深く掘削され、昔日の面影をしのぶことはできなくなりました。
 
 現在は雨水の放水路として水もきれいになり、水鳥が憩い人々が散策する遊歩道も整備され、私の住む旧加賀藩下屋敷跡付近では桜の名所になっています。

 木々の間からは、旧陸軍第二造兵廠(火薬)跡地に立つ加賀の億ションが見えています。  

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