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2012年04月17日

となり村名所あんない(34)−文京村(4)−水戸藩上屋敷

 
 
 
 Bunken Edo oezu : kan / Fusai Mori. Ansei 5 [1858] 分間江戸大絵圖 安政5年 小石川水戸藩邸上屋敷
 
 (旧暦3月27日)
 
 家康忌
 神君徳川家康公の元和二年(1616)四月十七日の命日。家康が亡くなったのは、天ぷらによる食中毒ではなく、胃がんで亡くなったという説が主流となっている。

 文京村の小石川の地には、江戸時代には常陸水戸藩徳川家35万石の上屋敷がありました。敷地面積101,831坪。現在は、東京ドームや後楽園遊園地などの娯楽施設がありますが、当時の名庭園「後楽園」も残されています。

 旧水戸藩上屋敷は、神田川より山の手台地の一部である小石川台地の南端が神田川沿いの低地に臨むところまで、横は水道橋、小石川橋から飯田橋の近くまでの広大な敷地を有していました。

 威公上曾て代官町御邸に御座なされ候節、山水を好ませたまひて、江府の御邸に山水を経營せむとおぼしめしたまひ、德大寺左兵衛(上杉右近大夫宇都宮弥三郎と同じく並びてこれを高家といふ)に命ぜられ、その宜き地形をえらばしめたまふに、小石川本妙寺吉祥寺の邊、山水のいとなみ然るべき地形なりといふ。則将軍家へ請はせられければ、台命有て、やがて本妙寺を丸山へ、吉祥寺を駒込へうつさせたまひて、本藩の御邸となる。(小石川御中屋敷と称す) そのときこの地数百年の喬木しげりて、當時人力の及ぶべからざる形勢なり。
 (後略)
 後樂紀事  源眞興撰


 小石川の水戸藩上屋敷は、徳川家康の十一男、水戸徳川家の藩祖徳川頼房(1603〜1661)が徳川二代将軍秀忠に願い出て、寛永六年(1625)に7,6689坪の敷地を与えられたことに始まります。
 この上屋敷は、当初は中屋敷として建築されました。もともと徳川御三家の邸宅は江戸城本丸から紅葉山の背面にかけて配置されていましたが、明暦三年(1657)の大火を契機に城外に移され、水戸家は小石川の中屋敷を上屋敷と定めた経緯があります。
 
 また、江戸初期の大名庭園である「後楽園」は、藩祖威公(徳川頼房)が造営を命じ、二代藩主徳川光圀(1628〜1701)の代に完成しています。
「後楽園」の名前の由来は、中国北宋の政治家、文人であった范仲淹(989〜1052)が著した『岳陽楼記』の一節から、光圀に招聘された明の遺臣朱舜水(1600〜1682)が名付けたと云われています。

 (前略)
 明遺民舜水(朱之瑜)に命ぜられて、御園の名をえらばせられし時に、宋の范文正の、士當先天下之憂而憂、後天下之樂而樂の語をとりて、後樂園と名付けられて、御屋形より御園への唐門にも右の三字を書して扁額となせり。
 (後略)
 後樂紀事  源眞興撰


 嗟夫、予嘗求古仁人之心、或異二者之為、何哉。不以物喜,不以己悲。居廟堂之高、則憂其民、處江湖之遠、則憂其君。是進亦憂、退亦憂。
 然則何時而樂耶。其
必曰先天下之憂而憂、後天下之樂而樂歟。噫微斯人、吾誰與歸。
  『岳陽樓記』   范仲淹


 嗟夫(ああ)、予(われ)、嘗(かつ)て古仁人之心を求むるに、或はニ者之爲(しわざ)に異なるは、何ぞや。物を以て喜ばず、己を以て悲しまず。廟堂之高きに居らば、則ち其の民を憂へ、江湖之遠きに處らば、則ち其の君を憂ふ。是れ進むも亦憂へ、退(しりぞ)くも亦憂ふ。

 然らば則ち何(いづ)れの時にしてか樂しまん。其れ必ず天下の憂(うれへ)に先んじて憂へ、天下の樂(たのしみ)に遅れて樂しむと曰はんか。噫(ああ)斯の人微(な)かりせば、吾誰と與(とも)にか歸せん。

 范仲淹(989〜1052)は、字は希文、蘇州呉縣(江蘇省蘇州市)の人。北宋の端拱二年(989)八月二日、武寧軍(徐州)節度掌書記であった范墉の第三子として、徐州の官舎に生まれました。
 仲淹二歳の時に父を喪い、後妻であった母謝氏は夫の故郷蘇州に帰ることができず、長山(淄州長山縣、山東省)の朱氏に再嫁したのでその姓に従って名を説と改めましたが、長ずるに及んでその出自を知り本姓の范氏に戻しています。

 大中祥符四年(1011)、應天府書院に入学して苦学し、大中祥符八年(1015)の進士科に九十七番目(中間)の順位で合格して、廣德軍(安徽)司理参軍となり獄訟の処理を担当しました。
 当時、科挙の進士科に及第した者は、状元(一甲第一名)、榜眼(一甲第二名)、探花(一甲第三名)の三名が直ちに正官(京官)に任官し、他は幕職州縣官という官僚見習いからスタートしました。

 その後、正式の官員となって本格的に政治の舞台で活躍しようとした矢先に、母である謝氏の死に会い、5年間の喪に服すことになります。
 仲淹はこの喪中、左遷されて知宣州(宣州知事)となり、間もなく南京留守として應天府に来た著名な晏殊(991〜1055)と知り合うことになり、晏殊に請われて母校である應天府學の教鞭を執ります。

 每感激論天下事、奮不顧身、一時士大夫矯厲尚風節、自仲淹倡之。
 (宋史 卷314 列傳第73 范仲淹) 


 天下の事を論ずる毎に感激し、身を顧りみず奮ひ、一時士大夫を矯厲(欠点を改めつとめはげむ)し風節を尚(たつと)び、仲淹自ら之を倡(とな)ふ。

 その後、晏殊の推薦によって宮廷図書館の書籍を校勘する秘閣校理となり、ようやく四十にして念願の朝廷で勤めることになります。
 范仲淹は宋代士風の形成者の一人とされ、儒教中興の祖である朱熹(1130〜1200)が撰した《五朝名臣言行錄》にも文章が収められています。
 六経(易、書、詩、礼、楽、春秋)に通じ常に天下を論じては感激して、一身を顧みず奮い立ったと云います。文章に優れ、『范文正公詩余』、『范文正公集』 24巻などがあります。


 岳陽樓記       范仲淹
 慶曆四年春、滕子京、謫守巴陵郡。越明年、政通人和、百廢具興。乃重修岳陽樓 、增其舊制、刻唐賢今人詩賦於其上、屬予作文以記之。

  予、觀夫巴陵勝狀、在洞庭一湖。銜遠山、吞長江、浩浩湯湯、橫無際涯、朝暉夕陰、氣象萬千。此則岳陽樓之大觀也。前人之述備矣。
 然則北通巫峽、南極瀟湘、遷客騷人、多會於此。覽物之情、得無異乎。

  若夫霪雨霏霏、連月不開、陰風怒號、濁浪排空、日星隱耀、山岳潛形、商旅不
行、檣傾楫摧、薄暮冥冥、虎嘯猿啼、登斯樓也、則有去國懷鄉、憂讒畏譏、滿目蕭然、感極而悲者矣。
  至若春和景明、波瀾不驚、上下天光、一碧萬頃、沙鷗翔集、錦鱗游泳、岸芷汀蘭、郁郁靑靑、而或長煙一空、皓月千里、浮光躍金、靜影沈璧、漁歌互答此樂何極。登斯樓也、則有心曠神
怡、寵辱偕忘、把酒臨風、其喜洋洋者矣。

  嗟夫、予嘗求古仁人之心、或異二者之為、何哉。不以物喜,不以己悲。居廟堂之高、則憂其民、處江湖之遠、則憂其君。是進亦憂、退亦憂。
 然則何時而樂耶。其
必曰先天下之憂而憂、後天下之樂而樂歟。噫微斯人、吾誰與歸。

 時六年九月十五日。


 慶暦四年春、滕子京、謫(たく)せられて巴陵郡に守たり。越えて明年、政(まつりごと)通じ人和し、百廢具(とも)に興(おこ)る。乃ち岳陽樓を重修し、其の舊制を增し、唐賢今人の詩賦を其の上に刻し、予に屬(しよく)して文を作りて以て之を記せしむ。

 予、夫(か)の巴陵の勝狀を觀るに洞庭の一湖に在り。遠山を銜(ふく)み、長江を呑み、浩浩湯湯(しやうしやう)として、横(ほしいまま)に際涯無く、朝睴夕陰、氣象萬千。此れ則ち岳陽樓之大観なり。前人之述備はれり。

 然れば則ち北のかた巫峡(ふけふ)に通じ、南のかた瀟湘(せいしやう)を極めて、遷客騒人、多く此に會す。物を覽(み)るの情、異なること無きを得んや。

 夫の霪雨(いんう)霏霏(ひひ)として、連月開けず、陰風怒號し、濁浪空を排し、日星曜(ひかり)を隱し、山岳形を潛(ひそ)め、商旅行かず、檣傾き擑(しふ)摧(くだ)け、薄暮冥冥、虎嘯き猿啼くが若き、斯の樓に登らんか、則ち國を去り鄉を懷(おも)ひ、讒を憂へ譏を畏れ、滿目䔥然として、感極りて悲しむ者有らん。

 春和(やはら)ぎ景明かに、波欄驚かず、上下天光、一碧萬頃、沙鷗翔集し、錦鱗游泳し、岸芷汀蘭、郁郁靑靑として、或は長煙一空、皓月千里、浮光金を躍らせ、靜影璧(たま)を沈め、漁歌互に答ふるが若きに至りては、此の樂(たのしみ)何ぞ極らん。斯の樓に登らんか、則ち心曠く神(しん)怡(よろこ)び、寵辱皆忘れ、酒を把(と)りて風に臨み、其の喜(よろこび)洋洋たる者有らん。

 嗟夫(ああ)、予(われ)、嘗(かつ)て古仁人之心を求むるに、或はニ者之爲(しわざ)に異なるは、何ぞや。物を以て喜ばず、己を以て悲しまず。廟堂之高きに居らば、則ち其の民を憂へ、江湖之遠きに處らば、則ち其の君を憂ふ。是れ進むも亦憂へ、退(しりぞ)くも亦憂ふ。
 
 然らば則ち何(いづ)れの時にしてか樂しまん。其れ必ず天下の憂(うれへ)に先んじて憂へ、天下の樂(たのしみ)に遅れて樂しむと曰はんか。噫(ああ)斯の人微(な)かりせば、吾誰と與(とも)にか歸せん。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:10Comments(0)となり村名所あんない

2011年06月16日

となり村名所あんない(33)−台東村(3)−子規庵

 

 子規庵表門

 (旧暦5月15日)

 台東村の根岸2丁目5番11号にある子規庵は、明治を代表する俳人、歌人である子規こと正岡常規(1867〜1902)が、明治27年(1894)2月に故郷松山より母八重(1845〜1927)と妹律(1870〜1941)を呼び寄せて移り住んだ場所として有名です。

 いつもの通りジョギングで、板橋村から王子、田端を経て、皇居へ向かう途中に立ち寄りました。 
 
 昭和27年(1952)に東京都文化史蹟に指定されて現在に至っている子規庵の建物は、財団法人子規庵保存会のHP(http://www.shikian.or.jp/)によれば、「旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋といわれています。」とのことです。

 旧前田侯と云えば加賀藩102万5千石を領していた旧前田侯爵家だし、下屋敷と云えば板橋村の我らが下屋敷以外に考えられないし、「なに〜い!いったい、どないなってんねん!」と怒りを覚えつつも不明を恥じながら調べてみました。

 「根岸倶楽部」の立案及び国語学者大槻文彦博士(1847〜1928)の編集により、根岸の道しるべの図として明治34年(1901)に刊行された『東京下谷根岸及近傍圖』(東京都立中央図書館特別文庫室蔵)では、子規庵がある上根岸82番地は前田家と記載されていました。
 
 『東京下谷根岸及近傍圖』は、東京都立中央図書館では貸出不可、閲覧注意となっているため、わざわざ港村南麻布の有栖川宮記念公園内にある都立中央図書館特別文庫室まで確認に行きましたがな。

 この図には、現在の台東区根岸及び荒川区東日暮里4〜5丁目付近の旧地番と主な旧跡や店舗名等が記載されており、地図の余白には40の項目で旧跡や名物の解説を行っています。

 ここで「根岸倶楽部」とは、小説家、演劇評論家饗庭篁村(1855〜1922)、翻訳家森田思軒(1861〜1897)を中心に、演劇評論家幸堂得知(1843〜1913)、日本画家高橋應眞(1855〜1901)、児童文学者高橋太華(1863〜1947)、東京美術学校第2代校長岡倉天心(1863〜1913)、日本画家川崎千虎(1837〜1902)、随筆家中井錦城(1864〜1924)、小説家宮崎三昧(1859〜1919)、小説家幸田露伴(1867〜1947)、日本新聞社長陸羯南(1857〜1907)、小説家須藤南翠(1857〜1920)などの根岸に住む文人たちの集まりの総称で、根岸派、根岸党とも云われていました。

 また、日本初の近代的国語辞典『言海』の編纂者として著名な言語学者、帝国学士院会員大槻文彦博士(1847〜1928)は、明治17年(1884)に根岸に移り住み、明治34年(1901)に金杉258番地(現在の荒川区東日暮里四丁目21番地)に家を新築。その後、昭和3年(1928)に亡くなるまでここで暮らしています。

 荒川区日暮里、台東区根岸を中心に土地の歴史を、江戸時代から現代まですこしずつ掘り下げてゆき、その報告の場としているHP、『ディープに迫る!日暮里と根岸の里』http://nippori-negisi.seesaa.net/)では、下記のように解説しています。

 前田家(上根岸82)
 加賀前田侯爵家。本間家から明治初期に購入したもののようである。
 板塀にそふて飛び行く蛍哉   <子規 明治27>
 加賀様を大家に持って梅の花  <子規>


 なるほど、それならば納得。

 加賀藩の下屋敷は、我が板橋村以外にはありませんぞ! 文京村の上屋敷(東京大学)、何するものぞ!  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:15Comments(0)となり村名所あんない

2009年01月04日

となり村名所あんない(32)−港村(8)−愛宕山

 

 「品川 日乃出」 歌川広重 『東海道五十三次』 by Wikipedia
 御殿山の麓を通過する大名行列の最後尾を描いている。現在、海は埋め立てられて、当時の月の名所の面影はない。

 (旧暦 12月 9日)

 我が板橋村より、となり村の名所の方が多く、書くことにも事欠かないのは仕方のないことですが、となり村の名所を書くためには、基本的にはランニングで現地まで行っているため、このところ、遠くまで走らなければなりません。
 しか~し、旧東京市内(23区内)ならば、何とかなるでしょう。

 と云うことで大晦日の早朝、走り納めに板橋宿からライバルの品川宿までLSD(Long Slow Distance:ゆっくりと長い時間をかけて一定距離を走るトレーニング)をしてきました。
 板橋宿(上宿)から日本橋までは2里25町33間(10.643km)、日本橋から品川宿(北宿)まで2里(7.855km)だから、あれこれ寄り道しながら20km程度走ったのでしょう。

 徳川家康は、天正18年(1590)、当時葦の生い茂る寒村に過ぎなかった江戸に入国して以来、諸街道の整備を進めてきました。
 江戸日本橋を基点として、1里を36町(4km弱)に統一し、江戸を中心とした東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五街道に榎を植えた一里塚を築かせ、これを全国に広げました。

 また、江戸四宿と呼ばれる日本橋に最も近い宿場町を整備させました。

 face03 東海道品川宿 
   慶長6年(1601年)に中世以来の港町、品川湊の近くに設置され、北宿、南宿、新宿にわかれていました。

 face07 甲州街道内藤新宿
   当初、甲州街道には慶長7年(1602)に高井戸宿が設けられましたが、日本橋から4里(16km)余りもあり、距離が長く、旅人は難儀をしたとのことです。
   その後、寛永3年(1625)には住民の願いにより太宗寺門前の町屋(新宿2丁目)ができ、これを内藤宿と呼ぶようになりました。
   元禄11年(1698)、当時の浅草安倍川町の名主であった喜兵衛ほか同志4人が5,600両の上納とともに宿場開設を願い出て、翌年、内藤家の中屋敷の敷地を一部利用して宿場が開設されました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:19Comments(0)となり村名所あんない

2008年11月27日

となり村名所あんない(31)-文京村(3)-三四郎池

 

 三四郎池 (育徳園心字池)

 (旧暦 10月30日)

 本郷の東京大学構内のほぼ中央部の谷地にある三四郎池は、正式には「育徳園心字池」と呼ばれ、利根川の前身である古東京川の支流が山手台地を浸食した谷に湧出する泉です。

 更新世(洪積世)の最終氷期(Last glacial period、約7万年前~約1万年前:ヨーロッパではヴュルム氷期、北アメリカではウィスコンシン氷期)末期には、海水面は現在より80メートル程度低くなって浦賀水道の辺りまで退き、東京湾は陸化して古東京川が流れていたことが分かっています。

 さて、加賀藩前田家102万5千石の江戸屋敷は、慶長10年(1605)、2代藩主前田利常(1594~1658)が徳川家康(1543~1616)より江戸城和田倉門外の辰口(たつのくち:丸の内1丁目)に7,500坪の屋敷地を賜ったのが始まりで、明暦3年(1657)の大火によりその拝領屋敷辰口邸が焼失したため、神田筋違橋(すじかいばし:現在の万世橋)付近の筋違邸(8,843坪)に移されますが、この屋敷も天和2年(1682)暮の大火で焼失し、その翌年からそれまで下屋敷であった本郷邸(103,822坪)が上屋敷に改められました。

 つまり、他の場所の上屋敷が焼失してしまったので、本郷邸が上屋敷に昇格したんですな。

 この本郷屋敷地を拝領した正確な時期は不明で、大坂の陣の後、元和2~3(1616~1617)のこととされているようです。その後しばらくは放置されていて、寛永3年(1626)頃になって、ようやく周囲を木柵で囲んだとする史料があるそうです。

 と云うことで、我が板橋村の下屋敷のライバル、文京村の東京大学の上屋敷の敷地もかつては下屋敷の時代があり、その期間は、2代藩主前田利常(1594〜1658)が3代将軍徳川家光(在職:1623~1651)の御成を迎えるために豪奢な御成御殿や数寄屋を新築し、庭園を整備した寛永6年(1629)頃から天和2年(1682)の間のことでした。

 寛永3年(1626)、幕府より3代将軍徳川家光(在職:1623~1651)御成(将軍が家臣などの邸へ訪れること)の内命を受け、3年かけて殿舎、庭園の造営にあたり、寛永6年(1629)4月26日には将軍家光を、同じく4月29日には大御所徳川秀忠を迎えています。

 この時の御相伴衆(お供)として水戸藩初代藩主徳川頼房(1603~1661)、伊勢津藩初代藩主藤堂高虎(1556~1630)、筑後柳河藩初代藩主立花宗茂(1567~1643)など錚錚たる大名が随行しています。

 これに対して前田家側は当主利常(2代藩主)、長男光高(3代藩主:1616~1645)、次男利次(富山藩祖:1617~1674)、三男利治(大聖寺藩祖:1618~1660)、長女亀鶴姫(森忠広室)、次女満姫(浅野光晟正室)、三女富姫(八条宮智忠親王妃)、母千代保の方(寿福院)以下、御目見として、家臣本多安房守政重(1580~1647)、横山山城守長知(ながちか:1568-1646)ほか12名でした。

 このとき完成した庭園が後に第4代藩主前田綱紀(1643~1724)によって「育徳園」と命名されていますが、「育徳」の名前の由来は、中国の周代(B.C.1046~B.C.771)に成立した易学書『周易(しゅうえき:Zhōu Yì)』に載る卦(け)の蒙(もう、méng)から取られ、君子育徳の象(かたち)を意味するからとされています。

 『境の勝は八(様子の盛んなるは八)、景の美は八(景色の美しいのは八)、合せて之を名づけて育徳の園と曰ふ。周易の蒙を取る所謂(いはゆる)君子育徳の象(かたち)なり。』

 寛永15年(1638)には大築造が施され、その後さらに修築や補修が加えられて、第4代藩主前田綱紀(1643~1724)の代になって完成を見ています。
 育徳園は泉水、築山、小亭などの八境、八景の景勝により、江戸諸侯邸の庭園中第一の名園といわれています。
 また、池の形は「心」という文字をかたどっているところから、「育徳園心字池」と呼ばれます。

 しかしこの上屋敷本郷邸も、幕末の安政2年(1855)10月2日の夜10時頃に起きたM6.9の安政江戸地震で大損害を受け、また明治元年(1868)4月の火事では殿舎の大部分が類焼して、明治7年(1874)に東京医学校(医学部の前身)へ移管される直前には、「荒漠タル原野」と化していたと云われています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:22Comments(0)となり村名所あんない

2008年05月25日

となり村名所あんない(30)-台東村(3)-東叡山寛永寺

 

 東叡山寛永寺根本中堂

  (旧暦4月21日)

 有無の日  第62代村上天皇(在位946~967)の康保4年の忌日。
 村上天皇が緊急の事案のほかは政治を行わなかったことに由来するそうですが、実際は藤原家の摂関政治や母穏子や兄である先代の朱雀法王の政治関与等もあり、天皇親政はままならなかったようです。
 しかし、『後撰集』の編纂を下命するなど歌人としても歌壇の庇護者としても後世に評価され、平安文化を開花させた天皇との評価もあります。
 なお、末裔は有名な村上源氏として、その名を歴史に残しています。

 徳川家康の懐刀として「黒衣の宰相」とも称せられた天海大僧正(1536?~1643)は、寛永元年(1624)、家康の命を受けて武蔵野の洪積層台地の先端である上野の丘陵地を選び、寛永寺創建に着手しました。

 この地を選んだのは、江戸城北東の鬼門に当たり、徳川幕府鎮護の地として京都御所の比叡山になぞらえ、また不忍池を琵琶湖に見立てて、関東の天台宗総本山を造営し、幕府の天台宗支配を実現することだったとされています。

 当時この地には伊勢津藩藤堂家、陸奥弘前藩津軽家、越後村上藩堀家の下屋敷がありましたが、元和8年(1622)、2代将軍徳川秀忠(在職1605~1623)がそれらを公収して寺地にあてたものです。

 寛永2年(1625)、現在の東京国立博物館の敷地に本坊(貫主の住坊)圓頓院が建立され、当時の年号をとって寺号を「寛永寺」と称し、京都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して「東の比叡山」という意味で山号が「東叡山」と名付けられました。そして、幕府祈禱寺として天台宗総支配という特権が与えられたのです。

 その後、寛永4年(1627)には法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮などが、寛永8年(1631)には清水観音堂、五重塔などが建立され、開創から70年以上経った元禄11年(1698)、5代将軍徳川綱吉(在職1680~1709)の時に、浅草観音堂に似せてこれを遙かにしのぐ規模の根本中堂(現在の大噴水広場)が建立されました。

 その寺域は、江戸後期の最盛期には30万5千余坪、寺領11,790石を有し、祠堂32宇、子院36坊(現存するのは19坊)にも及びました。現在の上野恩賜公園は旧寛永寺の境内ですが、最盛期の寛永寺は現在の上野恩賜公園の約2倍の面積の寺地を有していました。

 またこの地は元禄年間(1688~1704)から江戸の庶民にも開放され、奈良吉野山から移植した桜の名所として、江戸庶民の目を楽しませたようです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 10:01Comments(0)となり村名所あんない

2007年07月07日

となり村名所あんない(29)-江東村(1)-旧商船学校

 

 東京海洋大学越中島キャンパス構内の明治丸

 (旧暦  5月23日)

 照りもせぬ曇りもせぬ 春のおぼろ月
 いたずらに去り行く 人生の春を嘆く
 乙女ならずも耳を傾けて 聞くであろう
 さらば歌わん我等が唄を 白菊の歌
 
 かすめるみ空に消えのこる おぼろ月夜の秋の空
 身にしみわたる夕風に 背広の服をなびかせつ

 紅顔可憐の美少年が 商船学校の校内の
 練習船のメンマスト トップの上に立ち上り

 故郷の空を眺めつつ ああ父母は今いずこ
 我が恋人は今いかに 少年左手(ゆんで)に持つものは

 月の光に照らされて 傍(かたえ)の友に語るよう
 もとこのものは故郷(ふるさと)の 外山(とやま)のかげに咲き残る

 後(おく)れ咲きたる白菊を 吾れ故郷(ふるさと)を出(い)づる時
 君が形見と贈られし 真心こめしこのしおり

 海山遠くへだつとも 彼が形見を思い出(い)で
 朝な夕なにながめつつ いわんとすれど悲しやな

 (旧商船学校 白菊の歌)


 旧商船学校の白菊の歌は有名な歌で、私「嘉穂のフーケモン」も若かりし頃あこがれて歌っておりましたが、お袋から「商船学校だけはだめだ」と大反対され、やむなく札幌の農学校に進路を変更した懐かしい思い出があります。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:00Comments(0)となり村名所あんない

2006年09月13日

となり村名所あんない(28)−港村(7)−開拓使仮学校跡 B

 

 William Smith Clark (1826〜1886)

 (旧暦閏-7月21日)

 白雄忌 蕉風復興に生涯をかけ江戸天明期に活躍した俳人で、与謝蕪村とならび称される加舎白雄(かやしらお)の寛政3年(1791)の忌日。

 人恋し 火とぼしころを さくらちる


 となり村名所あんない(27)−港村(6)−開拓使仮学校跡(1)のつづき

 札幌農学校の1期生の卒業名簿によれば、

 佐藤昌介(農政、植民学、北大初代総長) 
 荒川重秀(社会学、演劇家)
 大島正健(英文学、音韻学、農学校教師)
 伊藤一隆(水産業)
 渡瀬寅次郎(実業家)等


 2期生では、

 内村鑑三(思想家)
 新渡戸稲造(農政、植民、一高校長、東大教授) 
 宮部金吾(植物学、北大教授) 
 南鷹次郎(農学、北大第2代総長) 
 廣井勇(土木工学、東大教授) 
 岩崎行親(英語学、七高校長)


 等の諸氏が名を連ねています。

 札幌農学校 北大東京同窓会30年(社)東京エルム会30年史 「第一編 松井栄一氏執筆分」によれば、

 「これより先、札幌学校から専門科に進み得る学力のある者は数名に過ぎない見込みであったので、明治8年(1875)12月に黒田長官名で文部省に対し、東京英語学校(東京大学予備門の前身)や開成学校(東京大学の前身)の学生を分けることを申し入れてあった。」

とあります。  続きを読む

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2006年09月12日

となり村名所あんない(27)−港村(6)−開拓使仮学校跡 A

 

 開拓使仮学校跡の碑

 (旧暦閏-7月20日)

 保己一忌  江戸中期の盲目の国学者で、寛政5年(1793)、幕府に願い出て和学講談所を開設し、ここを拠点として『群書類従』を編纂した塙保己一の文政4年(1821)の忌日。

 《我らが魂の故郷のふるさと》

 明治政府はロシアの南下を警戒し北海道を日本の版図として開拓するため、明治2年(1869)、開拓使を設置しました。

 開拓使では開拓次官黒田清隆(1840〜1900)を中心に北海道開拓の専門技術者養成を目的とする学校の設置を計画しましたが、建設間もない札幌は十分に基盤が整っていなかったため、明治5年(1872)4月15日(陰暦)、東京芝の増上寺本坊に開拓使仮学校を開校しました。

 120年後の平成4年(1992)、北海道大学東京同窓会は創立50周年を記念して、帝都港村芝公園内の北東の一角(芝公園3-2)に「開拓使仮学校跡」石碑を建立し、11月15日に除幕式をおこないました。

 その碑文には、下記のように記されています。

 「北海道大学の前身である開拓使仮学校は、北海道開拓の人材を養成するために増上寺の方丈の25棟を購入して、明治5年3月(陰暦)この地に開設されたもので、札幌に移して規模も大きくする計画であったから仮学校とよばれた。
 
 生徒は、官費生、私費生各60名で、14歳以上20歳未満のものを普通学初級に、20歳以上25歳未満のものを普通学2級に入れ、さらに専門の科に進ませた。
 明治5年9月、官費生50名の女学校を併設し、卒業後は北海道在籍の人と結婚することを誓わせた。

 仮学校は明治8年7月(陰暦)札幌学校と改称、8月には女学校とともに札幌に移転し、明治9年8月14日には札幌農学校となった。」
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2006年04月29日

となり村名所あんない(26)−新宿村(1)−学習院旧正門

 

 重要文化財 学習院旧正門
 昭和48年(1973)6月2日 文部大臣指定
 所在地 戸山三丁目二十番一号
 所有者 学校法人 学習院

 (旧暦  4月 2日)

 連休初日、板橋村から豊島村池袋、明治通り(東京都道305号芝新宿王子線)を南下して戸山、新宿御苑経由、四谷4丁目から新宿通り(旧甲州街道)を四谷、半蔵門、内堀通りを降って桜田門まで約12?強をトレーニングを兼ねて走ってきましたが、途中、諏訪町交差点を過ぎて100mばかり走った戸山3丁目20番の道路脇に、日章旗を掲げた古めかしい鋳鉄製の門が建っていました。

 この鋳鉄製の門は、現在、学習院女子大学、学習院女子高等科、学習院女子中等科の正門として使用されている門で、はじめは明治10年(1878)に華族学校(学習院)が神田錦町に開かれた時に正門として建てられたものだそうです。

 製作は埼玉県川口市の鋳物工場で、唐草文様をあしらった和洋折衷の鉄門は、左右に脇柱と袖塀をもち、本柱と本柱の間は5.54メートル、本柱と脇柱の間は1.7メートルと規模の大きなもので、明治初期の文明開化時の様式と技術を伝える貴重な文化財であるとして、国の重要文化財に指定されています。

 学習院の沿革は、弘化4年(1847)、第120代仁孝天皇(1800〜1846)の意を受けて京都御所内に設けられた公家を対象とした教育機関である「学習所」を淵源とし、明治維新を経て明治10年(1877)に華族学校が創立、10月17日に明治天皇、皇后親臨のもと開業式が行われ、勅諭により「学習院」の名称が定まり、後に勅額が下賜されたとのこと。

 明治19年(1886)に神田錦町の校舎の中心部が火災により焼失したため、学習院は明治21年(1888)に麹町区三年町(現在の港区虎ノ門)に移転、さらに明治23年(1890)には四谷区尾張町(現在の新宿区四谷)に移転、その後、明治41年(1908)に中等学科、高等学科は北豊島郡高田村(現在の豊島区目白)への移転しましたが、初等学科は四谷にとどまり、学習院初等科として現在に至っています。  続きを読む

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2006年01月21日

となり村名所あんない(25)−荒川村(1)−隅田川

 

 尾竹橋 荒川村町屋

 (旧暦 12月22日)

 久女忌  俳誌「ホトトギス」の同人として優れた才能を発揮し、俳句に新しい可能性をもたらした女流俳人杉田久女の昭和21年(1946)の忌日。
 晩年、精神を病み昭和11年(1936)にホトトギス同人を除され、俳句界に受け入れられないまま死を迎えた。
 
 蝶追うて春山深く迷ひけり



 春のうらゝのすみた河
 上り下りのふな人か
 かいのしつくも花とちる
 眺めをなにゝたとふへき

 見すやあけほの露あひて
 われにものいふさくら木を
 みすやゆふくれ手をのへて
 われさしまねくあを柳を

 錦おりなす長堤に
 暮るれば昇るおほろ月
 けに一刻も千金の
 なかめをなにゝたとふへき


 滝廉太郎(1879〜1903)作曲の名曲として親しまれている「花」は、明治33年(1900)に発表された「歌曲集 四季」の4曲の中の1曲で、「歌曲集 四季」は、「二重唱/花」 「独唱/納涼」 「混声四部合唱/月」 「混声四部合唱/雪」から成っています。

 作詞の武島羽衣(1872〜1967)は、美文調韻文詩の創始者落合直文(1861〜1903)の系統をひく人で、明治29年(1896)に東京帝国大学国文科を卒業し、東京音楽学校教授、東京女子高等師範学校教授、日本女子大学教授等を歴任し、宮内省御歌所寄人としてもその名を残しています。
 東京音楽学校の教授であったその当時、助教授に滝廉太郎がいて、「花」の歌詞に曲を付けたとのことです。  続きを読む

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2006年01月08日

となり村名所あんない(24)−台東村(2)−黒門

 

 旧因州鳥取藩池田屋敷表門

 (旧暦 12月 9日)

 「赤門」といえば東京大学のシンボルですが、「黒門」といえば東叡山寛永寺の「黒門」の方が一般的に知られているようです。
 明治元年(1868)5月15日、旧幕臣の渋沢成一郎や天野八郎らにより結成された彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で行われた上野戦争で黒門口(広小路周辺)が激戦となり、この「黒門」は焼失は免れましたが弾丸の跡がたくさん残り、今でも荒川村の南千住1-59-11の円通寺に保存されています。

 ちなみにこの円通寺との関係は、上野の戦場に散乱放置されていた賊軍の彰義隊の遺体を、当時の和尚が処罰覚悟で供養し、その後埋葬の許可が下りたことから遺骸266体をこの寺に埋葬したことに依るそうです。

 さて、こちらの「黒門」、正式名称は「旧因州池田屋敷表門」と言い、因幡・伯耆32万石の旧鳥取藩池田家江戸上屋敷の正門でした。
 もともとは、旧丸の内大名小路(丸の内3丁目、日比谷濠に面した東京會舘)の辺りにありましたが、明治になって当時の東宮御所(いまの高輪の高松宮邸)の正門として移築され、昭和28年(1953)に上野恩賜公園の東京国立博物館構内に移築・保存され現在に至っています。

 国立科学博物館から芸大の方向に向かって歩いていくと、博物館に面した道路沿いからもその重厚で立派な門を見ることができます。堂々とした風格から、通称「上野の黒門」と呼ばれているそうです。  続きを読む

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2005年11月30日

となり村名所あんない(23)−千代田村(8)−日比谷入江

 

 江戸城日比谷濠(日比谷入江跡)

 (旧暦10月29日)

 天正18年(1590)、小田原城を落城させて北条氏政を亡ぼし天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、北条氏とも縁戚関係にあった徳川家康を、三河、駿河、遠江、甲斐、信濃を含む東海5ヵ国約140万石の太守から、武蔵、上野、下総、上総、相模、伊豆の6ヵ国約240万石を領する関東へと転封させました。

 家康が入国した当時の江戸は、葦の生い茂る寒村に過ぎなかったといわれていますが、少なくとも太田道灌(1432〜1486)の時代までは隣接する門前町浅草や品川湊と並んで日明貿易の硫黄や鉄など鉱産物の集積地として栄えた江戸湊がありました。入り江に恵まれた江戸湊には、西国からの大船や関東内陸部からの川船などが集まって賑わっていたということです。

 中世の江戸は、現在の皇居のある丘陵地帯の東南側に大きく海が入り込み、その東側に「江戸前島」と呼ばれる標高4〜5mの低い半島がつき出す地形になっていました。 当時、丸の内一帯は浅い入り江で、この入り江は「日比谷入江」と呼ばれていましたが、この入江には、北から平川(神田川の旧名)が流れ込み、本郷台地を隔てた東側には、不忍池からまっすぐ南下して隅田川河口部に注ぐ旧石神井川がありました。  続きを読む

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2005年08月05日

となり村名所あんない(22)−千代田村(7)−交通博物館

 

 模型鉄道パノラマ運転場

 (旧暦  7月 1日)

 千代田村の神田須田町1丁目25番地にある交通博物館は、大正10年(1921)に鉄道開業50周年記念事業として「鉄道博物館」という名前で開館しましたが、戦後は交通博物館と名前を変え、自動車、船舶、航空機など交通全般(駕籠もあるでよ)に渡って展示してあります。

 私「嘉穂のフーケモン」も、たしか昭和38年の小学校4年生になる春休みに、5年間の根釧原野開拓生活(叔母のところに預けられていたため)に別れを告げて、蝦夷地から懐かしの九州筑豊に戻る途中、お袋に連れて行ってもらった思い出の場所です。

 ところがこの交通博物館は、来年の春で85年の歴史に終止符を打ち、さいたま市に移転して新たに「鉄道博物館」として2007年秋にオープンするのだとか。
 それではぜひ閉館する前に行ってみようと云うことで、暑い最中わざわざ神田まで出かけてきました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:38Comments(0)となり村名所あんない

2005年07月25日

となり村名所あんない(21)−千代田村(6)−スカイバス

 

 スカイバス TOKYO

 (旧暦  6月20日)

 不死男忌  俳人秋元不死男の昭和52年(1977)の忌日

 帝劇(帝国劇場)の9階(千代田村丸の内3-1-1)にある出光美術館で、宋代に発展し元・明代に隆盛した民窯(朝廷専用の窯である官窯に対し、民間で使用される磁器を焼成した窯)の雄と云われる磁州窯の特別展をお母ちゃん(妻です)と見た帰り、丸ビルの辺りを散歩しているとおしゃれな二階建てオープンバスを見かけたとです。

 何でもこのバスは、日の丸自動車が運行している日本初の2階建てオープンバス『スカイバス TOKYO』で、北の丸・桜田濠などの皇居を一周し、霞ヶ関官庁街、国会議事堂、銀座、丸の内などを短時間に巡回する観光バスだそうです。

 乗り場は東京駅丸の内南口三菱ビル前(丸ビルとなり)で、料金は大人 (12歳以上) 1, 200円、こども (4歳以上12歳未満) 600円となっています。
 出発時間は午前10:00から1時間おきに18:00まで運行しており、ちょっとお高いかも知れませんが、彼女もとい奥さんとのたまのデートにはとても良かとじゃごわさんか。  続きを読む

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2005年07月10日

となり村名所あんない(20)−北村(4)−松橋弁財天洞窟跡

 

 石神井川 松橋弁財天洞窟跡

 (旧暦  6月 5日)

 軍兵是より打渡して、武蔵国豊島の上、滝野河松橋と云所に陣を取。其勢既十万余騎、懸りければ八箇国の大名、小名、別当、庄司、検校、允、介なんど云までも、二十騎三十騎五十騎百騎、白旗白じるし付つゝ、此彼より参集。佐殿(すけどの:頼朝)はいとゞ力付給て、先(まず)当国六所大明神に御参詣ありて、神馬を引上矢を奉られたり。
 『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第23 「源氏隅田河原取陣事」


 治承4年(1180)10月2日、平家討伐の兵を挙げた兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝の軍勢は隅田川を渡り、武蔵国豊島の滝野河松橋に陣を構えました。
 その場所が、この写真のあたりと云うことになります。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:50Comments(0)となり村名所あんない

2005年06月26日

となり村名所あんない(19)−中央村(1)−ライオン7丁目店

 

  銀座ライオン7丁目店1階ビアホール

 (旧暦  5月20日)

 帝都東京は梅雨時なのに晴れの日が続き、30℃を超える毎日にウンザリしています。これも地球温暖化の影響なのでしょうか。
 こんな時は、忙しい合間にちょっと息抜きして、銀座ライオン7丁目店の1階ビアホールで、ビアホールウィンナー(720円)などをつまみに、麦芽100%のヱビス樽生とヱビス黒樽生をかけ合わせたハーフ&ハーフ大ジョッキ(970円)を傾けるのも大人の楽しみのひとつですね。

 店内には1,000ℓの大型タンクが4基あり、海老原清氏というベテランの副支配人が生ビールの品質管理を担当しながら、毎日500杯以上のビールをジョッキに注いでいますが、この人目当てに通う常連さんも多いとか。

 ライオン銀座7丁目店は、昭和9年(1934)4月8日にサッポロビールやアサヒビールの前身である大日本麦酒(株)が、本社ビル竣工と同時に1階に東京美術学校の出身で旧新橋演舞場などを設計した菅原栄蔵が作成したモザイク大壁画を装飾したビヤホールを開店し、今日に至っています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:34Comments(0)となり村名所あんない

2005年05月27日

となり村名所あんない(18)−北村(3)−名主の滝

 

 名主の滝公園

 (旧暦  4月20日)

 JR京浜東北線王子駅北口から北に向かって徒歩約10分で、「名主の滝公園」に着きます。
 洪積世台地である武蔵野台地と荒川の氾濫源であった低湿地の境にある王子には、かつて7つの滝がありましたが、今はこの名主の滝だけが残っています。

 北村の案内板によると、
 名主の滝は、王子村の名主畑野孫六が、その屋敷内に滝を開き、茶を栽培して、一般の人々が利用できる避暑のための施設としたことによるもので、名称もそれに由来しています。

 その時期は、嘉永3年(1850)の安藤広重による「絵本江戸土産」に描かれた「女滝男滝」が名主の滝にあたると思われるので、それ以前のことと考えられています。

 その後、明治の中頃、畑野家から貿易商である垣内徳三郎氏の所有となり、垣内氏は、好んでいた那須塩原(栃木県)の景色に模して、庭石を入れ、楓を植え、渓流をつくり、奥深い谷の趣のある庭園として一般の利用に供しました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 05:05Comments(0)となり村名所あんない

2005年05月19日

となり村名所あんない(17)−千代田村(5)−松之大廊下跡

 

 江戸城本丸 松之廊下跡

 (旧暦  4月12日)

 大手町1丁目のパレスホテルの向かいにある大手門を入り、さらに進むと両側に石垣を残した大手下乗門(大手三の門)にさしかかります。 この門の前には、戦前の地図には水濠がありましたが、現在は埋め立てられてます。
 江戸時代は、徳川御三家以外の大名は、この門の前で駕籠を降りました。

 大手下乗門をさらに進むと、左側に百人番所があります。伊賀組、甲賀組、根来(ねごろ)組、二十五騎組の4組が交代で護りを固めていましたが、各組には同心百人ずつが配属されていたところから百人番所の名が生まれました。

 百人番所から左に見えるのが大手中の門跡です。この門では、徳川御三家の大名でも駕籠を降りました。この坂を登ると書院門(中雀門)跡で、本丸の玄関前です。  続きを読む

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2005年05月14日

となり村名所あんない(16)−千代田村(4)−丸の内仲通り

 

 丸の内中通り

 (旧暦  4月 7日)
 
 帝都東京の玄関東京駅の西側に広がる丸の内、その丸の内でも平成14年(2002)9月に新装改築なった丸の内ビルと郵船ビルに挟まれた丸の内仲通り一帯は、いまおしゃれなスポットに変身しました。

 休祭日は車の通りも少なく、ぱらぱらと人が歩いているこの通りには、花のオブジェが数十メートル間隔で飾ってあり、所々に花壇のコンテストでもやっていたのでしょうか、きれいで斬新なデザインの花の作品が展示されていました。

 後でしらべたところ、これは「丸の内仲通りフラワーギャラリー2005」と銘打ったイベントの企画で、コンペ方式で選ばれた15組のガーデナー達により制作された、幅約1.5m 長さ約10mのフラワーガーデンが仲通りを色鮮やかに引き立てていました。
 
 実行委員会の思惑通り、仲通りが花と緑であふれる都会のオアシスになっていましたが、残念ながら5月3日から15日までの企画です。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:33Comments(0)となり村名所あんない

2005年04月12日

となり村名所あんない(15)−千代田村(3)−桜田門外

 

 桜田門外の変

 (旧暦  3月 4日)

 安政7年(3月18日に万延と改元)3月3日は上巳の節句(陰暦3月の最初の巳の日)で、江戸在府の大名は総登城する決まりでした。

 この日は桃の節句だというのにめずらしく大雪で、登城の時刻の五つ半(朝9時頃)には降雪が激しく、登城する各大名の供廻りの者は一人残らず刀の柄に柄袋をはめていたようです。

 近江彦根藩35万石井伊家の行列も例外ではなく、このため、水戸藩士関鉄之介を総指揮者とした水戸藩および薩摩藩の浪士が襲撃した際には、咄嗟に対応できなかったと云われています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:59Comments(0)となり村名所あんない