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2008年11月27日

となり村名所あんない(31)-文京村(3)-三四郎池

 となり村名所あんない(31)-文京村(3)-三四郎池

 三四郎池 (育徳園心字池)

 (旧暦 10月30日)

 本郷の東京大学構内のほぼ中央部の谷地にある三四郎池は、正式には「育徳園心字池」と呼ばれ、利根川の前身である古東京川の支流が山手台地を浸食した谷に湧出する泉です。

 更新世(洪積世)の最終氷期(Last glacial period、約7万年前~約1万年前:ヨーロッパではヴュルム氷期、北アメリカではウィスコンシン氷期)末期には、海水面は現在より80メートル程度低くなって浦賀水道の辺りまで退き、東京湾は陸化して古東京川が流れていたことが分かっています。

 さて、加賀藩前田家102万5千石の江戸屋敷は、慶長10年(1605)、2代藩主前田利常(1594~1658)が徳川家康(1543~1616)より江戸城和田倉門外の辰口(たつのくち:丸の内1丁目)に7,500坪の屋敷地を賜ったのが始まりで、明暦3年(1657)の大火によりその拝領屋敷辰口邸が焼失したため、神田筋違橋(すじかいばし:現在の万世橋)付近の筋違邸(8,843坪)に移されますが、この屋敷も天和2年(1682)暮の大火で焼失し、その翌年からそれまで下屋敷であった本郷邸(103,822坪)が上屋敷に改められました。

 つまり、他の場所の上屋敷が焼失してしまったので、本郷邸が上屋敷に昇格したんですな。

 この本郷屋敷地を拝領した正確な時期は不明で、大坂の陣の後、元和2~3(1616~1617)のこととされているようです。その後しばらくは放置されていて、寛永3年(1626)頃になって、ようやく周囲を木柵で囲んだとする史料があるそうです。

 と云うことで、我が板橋村の下屋敷のライバル、文京村の東京大学の上屋敷の敷地もかつては下屋敷の時代があり、その期間は、2代藩主前田利常(1594〜1658)が3代将軍徳川家光(在職:1623~1651)の御成を迎えるために豪奢な御成御殿や数寄屋を新築し、庭園を整備した寛永6年(1629)頃から天和2年(1682)の間のことでした。

 寛永3年(1626)、幕府より3代将軍徳川家光(在職:1623~1651)御成(将軍が家臣などの邸へ訪れること)の内命を受け、3年かけて殿舎、庭園の造営にあたり、寛永6年(1629)4月26日には将軍家光を、同じく4月29日には大御所徳川秀忠を迎えています。

 この時の御相伴衆(お供)として水戸藩初代藩主徳川頼房(1603~1661)、伊勢津藩初代藩主藤堂高虎(1556~1630)、筑後柳河藩初代藩主立花宗茂(1567~1643)など錚錚たる大名が随行しています。

 これに対して前田家側は当主利常(2代藩主)、長男光高(3代藩主:1616~1645)、次男利次(富山藩祖:1617~1674)、三男利治(大聖寺藩祖:1618~1660)、長女亀鶴姫(森忠広室)、次女満姫(浅野光晟正室)、三女富姫(八条宮智忠親王妃)、母千代保の方(寿福院)以下、御目見として、家臣本多安房守政重(1580~1647)、横山山城守長知(ながちか:1568-1646)ほか12名でした。

 このとき完成した庭園が後に第4代藩主前田綱紀(1643~1724)によって「育徳園」と命名されていますが、「育徳」の名前の由来は、中国の周代(B.C.1046~B.C.771)に成立した易学書『周易(しゅうえき:Zhōu Yì)』に載る卦(け)の蒙(もう、méng)から取られ、君子育徳の象(かたち)を意味するからとされています。

 『境の勝は八(様子の盛んなるは八)、景の美は八(景色の美しいのは八)、合せて之を名づけて育徳の園と曰ふ。周易の蒙を取る所謂(いはゆる)君子育徳の象(かたち)なり。』

 寛永15年(1638)には大築造が施され、その後さらに修築や補修が加えられて、第4代藩主前田綱紀(1643~1724)の代になって完成を見ています。
 育徳園は泉水、築山、小亭などの八境、八景の景勝により、江戸諸侯邸の庭園中第一の名園といわれています。
 また、池の形は「心」という文字をかたどっているところから、「育徳園心字池」と呼ばれます。

 しかしこの上屋敷本郷邸も、幕末の安政2年(1855)10月2日の夜10時頃に起きたM6.9の安政江戸地震で大損害を受け、また明治元年(1868)4月の火事では殿舎の大部分が類焼して、明治7年(1874)に東京医学校(医学部の前身)へ移管される直前には、「荒漠タル原野」と化していたと云われています。
 度重なる災害にも育徳園の心字池と樹木は残存し、夏目漱石(1867~1916)の小説『三四郎』の主人公、小川三四郎が散策したり、華麗な女性里見美禰子と出会った場所の舞台となったため、誰言うとなく「三四郎池」と呼ばれるようになったということです。
 
 「三四郎池」の南東の高台には、私「嘉穂のフーケモン」が若き頃遠征に来て七帝戦柔道の試合(寝技だらけの高専ルール)をした武道場「七徳堂」があります。

 この「七徳堂」は、昭和13年(1938)に建設された純日本式御殿造りの武道場で、都選定歴史的建造物にも指定されており、『春秋左氏傳』の宣公十二年の「武有七徳」から、東京帝国大学文学部支那文学科の塩谷温(しおのや おん:1878~1962)教授により命名されています。

 となり村名所あんない(31)-文京村(3)-三四郎池

 三四郎池 (育徳園心字池)

 西の方へ傾いた日が斜めに広い坂を照らして、坂の上の両側にある工科の建築のガラス窓が燃えるように輝いている。空は深く澄んで、澄んだなかに、西の果から焼ける火の炎が、薄赤く吹き返してきて、三四郎の頭の上までほてっているように思われた。

 横に照りつける日を半分背中に受けて、三四郎は左の森の中へはいった。その森も同じ夕日を半分背中に受けている。黒ずんだ青い葉と葉のあいだは染めたように赤い。太い欅の幹で日暮らしが鳴いている。三四郎は池のそばへ来てしゃがんだ。

 非常に静かである。電車の音もしない。赤門の前を通るはずの電車は、大学の抗議で小石川を回ることになったと国にいる時分新聞で見たことがある。三四郎は池のはたにしゃがみながら、ふとこの事件を思い出した。電車さえ通さないという大学はよほど社会と離れている。
 
 たまたまその中にはいってみると、穴倉の下で半年余りも光線の圧力の試験をしている野々宮君のような人もいる。野々宮君はすこぶる質素な服装(なり)をして、外で会えば電燈会社の技手くらいな格である。それで穴倉の底を根拠地として欣然とたゆまずに研究を専念にやっているから偉い。しかし望遠鏡の中の度盛りがいくら動いたって現実世界と交渉のないのは明らかである。野々宮君は生涯現実世界と接触する気がないのかもしれない。
 要するにこの静かな空気を呼吸するから、おのずからああいう気分にもなれるのだろう。自分もいっそのこと気を散らさずに、生きた世の中と関係のない生涯を送ってみようかしらん。

 三四郎がじっとして池の面を見つめていると、大きな木が、幾本となく水の底に映って、そのまた底に青い空が見える。三四郎はこの時電車よりも、東京よりも、日本よりも、遠くかつはるかな心持ちがした。しかししばらくすると、その心持ちのうちに薄雲のような寂しさがいちめんに広がってきた。そうして、野々宮君の穴倉にはいって、たった一人ですわっているかと思われるほどな寂寞を覚えた。

 熊本の高等学校にいる時分もこれより静かな竜田山に上ったり、月見草ばかりはえている運動場に寝たりして、まったく世の中を忘れた気になったことは幾度となくある、けれどもこの孤独の感じは今はじめて起こった。

  『三四郎 (二)』 より


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Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:22│Comments(0)となり村名所あんない
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