2005年10月12日
新生代(11)−第三紀(9)−マストドン

Mounted mastodon skeleton, Museum of the Earth.
(旧暦 9月10日)
芭蕉忌 松尾芭蕉の元禄7年(1694)の忌日
新生代第三紀における哺乳類の進化の中で、私「嘉穂のフーケモン」が特に興味を惹かれるのは、鯨目(Cetacea)と長鼻目(Proboscidea)です。
特にアフリカは約2,500万年前の漸新世(Oligocene)の後期(Chattian)には長鼻目(Proboscidea)の進化の中心で、そこからヨーロッパとアジアに進出し、後に北アメリカへと渡っていきました。そして約180万年前の第四紀更新世(Pleistocene)までには世界中のほとんどの地域に広がり、南米や東南アジアの島々にも到達していました。
唯一の例外はオーストラリアで、彼らはまったく足を踏み入れることはできなかったようです。
というのも、オーストラリア大陸は、今から約5000万年前の新生代始新世(Eocene)の頃には南極大陸から分裂して完全に孤立した大陸となったため、他の大陸とは完全に生物進化の過程が異なっていました。
約2300万年前から500万年前までの中新世(Miocene)の間に優勢であった長鼻類はマストドン類(Mastodonts)でしたが、180万年前からの更新世にはマンモス類(Mammoths)に取って代わられました。
マストドン類(Mastodonts)の進化の内その出発点にあるパレオマストドン属(Palaeomastodon)はエジプト北部ナイル川左岸のオアシスFayum(ファユーム)の漸新世(Oligocene)の地層(3370万年前〜2380万年前までの期間)から発見され、体長2m弱、肩高1m、頭は比較的大きくも鼻はまだ短い状態でした。 続きを読む
2005年10月11日
漢詩(8)−陶淵明(1)−九日間居

陶淵明『晩笑堂竹荘畫傳』より。絃のない琴を抱えるのは、昭明太子蕭統の 「陶淵明伝」に記された故事による。
(旧暦 9月 9日)
余、間居して重九(九月九日の重陽の節句)の名を愛す。秋菊は園に盈(み)つるに、而も醪(ろう、酒)を持するに由靡(よしな)し。空しく九華(九月九日の花、菊)を服して、懷(おもい)を言に寄す。
世短意常多 世 短くして 意 常に多く
斯人樂久生 斯(こ)の人 久生(長生き)を樂(この)むt
日月依辰至 日月 辰(とき)に依(よ)りて至るも
舉俗愛其名 俗を舉(あ)げて 其の名を愛す
露淒暄風息 露 淒(しげ)くして 暄風(けんぷう) 息(や)み
氣澈天象明 氣 澈(す)みて 天象明かなり
往燕無遺影 往きし燕は 遺影無く
來雁有餘聲 來たれる雁は 餘聲有り
酒能祛百慮 酒は能(よ)く 百慮を祛(はら)ひ
菊爲制頽齡 菊は 頽齡(たいれい、老化)を制すと爲す
如何蓬廬士 如何(いか)んぞ 蓬廬(ほうろ、茅屋)の士
空視時運傾 空く 時運の傾くを視んや
塵爵恥虚罍 塵爵(ぢんしゃく、塵が積もった杯)は 虚罍(きょらい、空酒樽)に恥ぢ
寒華徒自榮 寒華(菊を指す)は 徒(いたづ)らに自ら榮(さか)ゆ
歛襟獨閒謠 襟を歛(をさ)め 獨り閒謠(静かに謡う)せば
緬焉起深情 緬焉(めんえん、遙かに)として 深情(深い思い)起る
棲遲固多娯 棲遲(せいち、隠棲) 固(もと)より娯(たのしみ) 多く
淹留豈無成 淹留(えんりゅう、久しく留まる)すれど 豈(あ)に成る無からんや 続きを読む
2005年10月10日
北東アジア(21)−武昌起義

武昌市街 新軍(蜂起軍)侵攻図
(旧暦 9月 8日)
素逝忌 俳人長谷川素逝の昭和21年(1946)の忌日
遠花火 海の彼方にふと消えぬ
光緒20年(1894)、李氏朝鮮(1392〜1910)において起きた東学党の乱(甲午農民戦争)を契機として介入した清、日本の対立から中日甲午戦争(明治二十七八年戦役)が勃発しましたが、翌光緒21年(1895)、この戦争に敗れた清朝では、西洋式の訓練に基づく新式陸軍の必要性が論じ始められました。
当初は、光緒21年(1895)3月に広西按察使で中日甲午戦争の兵站を担当した胡燏棻(hú júfén)という人が、天津以南原盛軍駐地小站において、成年男子を募集して十営を編成し、「定武軍」と名づけてドイツ人教官ハンネケンの指導の下に訓練を始めました。
その後、胡燏棻(hú júfén)の転出に伴い、同年10月には袁世凱(1859〜1916)が継承して、「新建陸軍」と改名されました。また、両広総督などを歴任した張之洞(1837〜1909)によって南洋新軍も創設され、光緒26年(1900)の義和団事変を経た光緒29年(1903)に清朝は正式に新軍三十六営の各省設置を図りましたが、実際に設置されたのは二十六営と云われています。
特にこの国軍の根幹である新軍には、現状に対して不満をもつ人々が数多く応募し、心情的には満州族の清朝に反感をもつ漢族が圧倒的に多数を占めていたため、清朝の正規軍でありながら、革命派と反革命派の二面性を有し、武昌起義以後の各地の革命運動では、地方の新軍が重要な役割を担いました。 続きを読む
2005年10月09日
物語(4)−平家物語(1)−那須與一の事

『平家物語絵巻』巻十一、屋島の戦い「扇の的」
(旧暦 9月 7日)
九郎判官義経(1159〜1189)の伝説は全国各地に残されており、最近では大手出版社から義経の波乱万丈の生涯とゆかりの地を30冊にわたって紹介する分冊百科も出ているようですから、その根強い人気には感心させられます。
壽永2年(1183)7月25日、安徳天皇、建礼門院を奉じて都落ちした平家一門は、一旦は九州まで落ち延びましたが、再び東上して壽永3年(1184)1月にはかって遷都した摂津福原に戻り、播磨との国境の一ノ谷に城郭を構えて源氏に備えていました。
壽永3年(1184)2月7日早朝、義経率いる三千餘騎は背後の鵯越えから奇襲して平家の陣を混乱させ、兄範頼の軍と共に激戦の末平家の軍勢を駆逐しました。
海上に逃れた平家の軍勢は、さらに四国讃岐の屋島に逃れて陣を築き再興を図っていましたが、翌年の元暦2年(1185)2月16日、義経は摂津国渡邊、福島から暴風の中五艘、僅か五十騎を率いて海を渡って阿波の国勝浦に上陸、18日には背後から屋島の平家本営を攻撃し大激戦となりました。
「今日は日暮れぬ、勝負を決すべからず」とて、源平互に引退く処に、沖の方より尋常にかざりたる小舟一艘、汀(みぎは)へ向ひて漕ぎ寄せ、渚より七八段(70〜80m)ばかりにもなりしかば、舟をよこさまになす。「あれはいかに」と見る程に、船のうちより、年の齢十八九ばかりなる女房の、柳の五衣(いつつぎぬ)に、紅の袴着たるが、皆紅(くれない)の扇の、日出したるを、舟のせがいに鋏み立て、陸(くが)へ向つてぞ招きける。 『平家物語 流布本 巻11』 続きを読む
2005年10月08日
秋津嶋の旅(7)−南海道(1)−讃岐
玉藻公園(旧高松城)
(旧暦 9月 6日)
讃州高松に行ってきました。2泊3日の日程で、昨日やっと帝都に帰ってきました。
ここは、律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である令制国の五幾七道の内の南海道に属し、中央から派遣された国司が治める国の一つでした。
令制国の確実な成立は、大宝元年(701)に制定された大宝律令からとされていますが、その成立は大化元年 (645) の大化の改新から大宝元年(701)の間の段階的な制度変化の結果であった可能性も高いとされています。
そもそも、古代の日本は、土着の豪族である国造(くにのみやつこ)が治める国と、大和政権の代理人としてその地方を祭司していた県主(あがたぬし)が治める県(あがた)が並立した段階があったようですが、律令制施行以後は、国司が治める令制国に移行していきました。
さて讃岐の国ですが、国府は現在の坂出市に有ったそうですが、まだその遺跡は見つかっていないとのことです。
讃岐高松藩は、豊臣氏の家臣生駒親正(1526〜1603)が、秀吉の四国平定後の天正15年(1587)に、讃岐一国17万3千石を与えられたことに始まりますが、4代高俊の寛永17年(1640)にお家騒動(生駒騒動)により改易、出羽国矢島藩に転封となってしまいました。
その後、寛永18年(1641)西讃地域に山崎氏が入って丸亀藩5万石が興り、翌寛永19年(1642)に東讃地域に、常陸国下館藩より御三家の水戸徳川家初代・徳川頼房の長男・松平頼重が12万石で入封し、明治維新までつづく高松藩松平家が成立しました。 続きを読む
2005年10月05日
数学セミナー(9)−相対性理論(2)−特殊相対性理論(2)

Hendrik Antoon Lorentz(1853〜1928)
(旧暦 9月 3日)
レモンの日 高村光太郎の妻智恵子の昭和13年(1938)の忌日。
相対性理論(1)−特殊相対性理論(1)のつづき
マクスウェルの方程式は真空中では次のようになります。

ベクトル公式

を使って、Bを消去し、Eについての式を解くと、

また、ベクトル公式より


従って、

この形の微分方程式は「波動方程式」と呼ばれており、その解は、任意の波動関数が時間によって形を変えずに空間を移動してゆくことを表しています。 続きを読む
2005年10月04日
詩歌(5)−雪の夜

北大農場より恵迪寮を望む
(旧暦 9月 2日)
素十忌 俳人高野素十の昭和51年(1976)年の忌日
秋風や くわらんと鳴りし幡の鈴
人はのぞみを喪(うしな)っても生きつづけてゆくのだ。
見えない地図のどこかに
あるいはまた遠い歳月のかなたに
ほの紅い蕾(つぼみ)を夢想して
凍てつく風の中に手をさしのべている。
手は泥にまみれ
頭脳はただ忘却の日をつづけてゆくとも
身内を流れるほのかな血のぬくみをたのみ
冬の草のように生きているのだ。
遠い残雪のような希みよ、光ってあれ。
たとえそれが何の光であろうとも
虚無の人をみちびく力とはなるであろう。
同じ地点に異なる星を仰ぐ者の
寂寥とそして精神の自由のみ
俺が人間であったことを思い出させてくれるのだ。
『きけわだつみのこえ』 田辺利宏 「雪の夜」より
高校時代の倫理・社会の先生が、この詩を教えてくれました。
その先生は、私「嘉穂のフーケモン」の年の離れた従兄弟と旧制中学の同級生で、先生は旧制の第七高等学校造士館へ、従兄弟は第五高等学校に進んだとのことでした。
先生は大学を卒業して、旧大蔵省の役人をしていたそうですが、ある時、台風の最中に老朽化した校舎を倒壊させようと、校長以下地域の人達が校舎に綱を掛けて引っ張っているのを目撃し、憤慨して大蔵省を辞職したと聞いたような記憶があります。
辞めた理由は他にも色々あったのでしょうが、旧制高校のロマン派の生き残りのような人(バンカラ派ではありません)で、能く授業を脱線して、文学や哲学を語ってくれました。 続きを読む
2005年10月03日
数学セミナー(8)−相対性理論(1)−特殊相対性理論(1)

James Clerk Maxwell(1831〜1879)
(旧暦 9月 1日)
蛇笏忌 俳人飯田蛇笏の昭和37年(1962)年の忌日
芥川龍之介氏の長逝を深悼す
たましひの たとへば秋のほたるかな
19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、物理学はそれまでの理論では説明することのできない様々な現象に遭遇しました。
その一つが、力学の理論的な結論であるニュートン力学と、電磁気学の理論的な結論であるマクスウェルの方程式が相矛盾することで、当時の大きな問題となっていました。
ニュートン力学によれば、例えば一定速度Vで動いている電車を座標系Rとし、地上を座標系Sとすると、電車の中で速度V(R)で運動しているボールは、地上から見るとV(R)+Vで運動しているように見えます。
つまり、

の関係が成り立ちます。
これは、ガリレイ変換( Galilean transformation)と呼ばれ、ある慣性系(運動の法則が成り立つ所)における物理現象の記述を、別の慣性系での記述に変換するための座標変換の方法の一つです。
つまり、電車の中の座標系Rでも地上の座標系Sでも、同じ運動の法則が成り立つことから、「ニュートン力学から導かれる力学の法則はガリレイ変換に対して不変である」(ガリレイ不変)ことが知られていました。
これに対しマクスウェルの方程式は、真空中の光(電磁波)の速度は、座標系によらずに一定であることを示していました。つまり、マクスウェルの方程式からは、電車の中からみた光の速度V(R)と、地上から見た光の速度V(S)も電車の速度に関係なく共に等しく、

でなければならないと云うものでした。
例えば、光速に限りなく近い宇宙船の中での光速は、地球上から見れば古典力学では、

となるはずですが、実際は

となってしまいます。 続きを読む