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2010年06月24日

秋津島の旅(15)−畿内(3)−石山御坊(1)

 
 大阪城大手門と天守

 (旧暦 5月13日)

 大阪に出張したので、早朝、大阪城まで散歩してみました。
 南森町のホテルから大阪天満宮、造幣局、大川(旧淀川)の河岸を散歩して自転車・歩行者専用の川崎橋を渡り、日経新聞大阪本社の大きな茶色の社屋を右手に見ながら寝屋川橋を渡って、京橋口から内濠を廻り極楽橋から天守へ向かいました。

 大阪城は、かつて上町(うえまち)台地にあった浄土真宗の寺院である石山本願寺の跡地に、天正11年(1583)から豊臣秀吉(1537〜1598)によって築城が開始されました。秀吉が死去するまでの15年間に二の丸、三の丸、総構えが建設され、三重の堀と運河によって囲まれる堅固な防御設備が施されました。

 徳川幕府が成立した後は、豊臣秀頼(1592〜1615)は大坂城に留まり摂津、河内、和泉を知行する約65万石の一大名として存続していましたが、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で大坂城が落城して豊臣氏が滅亡した後は、元和元年(1620)から2代将軍徳川秀忠(1579〜1632)によって大坂城の再建が始められ、3期にわたる工事を経て1629年(寛永6年)に完成しています。

 その徳川大阪城も、幕末の慶応3年12月9日(1868年1月3日)に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜(1837〜1913)が移り居城していましたが、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの形勢が不利と見るや、徳川慶喜は軍艦開陽丸で江戸へ退却、大坂城は新政府軍に開け渡されてしまいます。
 しかしこの前後の混乱のうちに出火し、城内の建造物のほとんどが焼失してしまいました。

 さて、石山御坊(大坂本願寺)は摂津国大坂(現大阪城所在地)にあった浄土真宗の寺院で、当初は本願寺第8世蓮如(1415〜1499)が明応5年(1496)に坊舎を建てて隠居所としたことに始まるとされています。
 寺地は上町台地(うえまちだいち)の北端にある小高い丘にあったと推定されていますが、豊臣秀吉(1537〜1598)がその跡地に大坂城を築いて城下町を建設したため、大坂本願寺の規模や構造などはほとんどわからないそうです。

 上町台地は更新世(180万年前〜1万年前)に形成された平坦面がその後隆起したことで形成された台地で、ヴュルム氷期(7万年前〜1万年前)には河内湾(約6000年前〜約5000年前ごろの縄文海進により海水が河内平野へ進入し、現在の枚方市付近を最奥部として、上町台地の東部に河内湾と呼ばれる湾が形成された)に突き出した半島状の台地であったと想定されています。

 上町台地の北では旧淀川と旧大和川が合流し、その付近にあった渡辺津(窪津)は、旧淀川、大和川水系や瀬戸内海の水運の拠点で、また住吉・堺や和泉・紀伊方面と京都や山陽方面をつなぐ陸上交通の要地でもありました。
 上町台地にそった坂に町が形成されたことから、この地は「小坂」、後に「大坂」と呼ばれたそうですが、本願寺を領主とし、その下で町民が行政を行い、周囲の海、川といった天然の要害に加えて土塁、堀などを巡らせた防護施設を備えていたと云います。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:17Comments(0)秋津嶋の旅