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2017年08月28日

奥の細道、いなかの小道(30)− 象潟(2)

 
  

  貝原九兵衛篤信(號:益軒、1630〜1714)

    (旧暦閏7月6日)

    益軒忌

    『大和本草』『菜譜』『花譜』といった本草書、教育書の『養生訓』『大和俗訓』『和俗童子訓』『五常訓』、紀行文の『和州巡覧記』など、その生涯
    に六十部二百七十余巻の著作を残した江戸前期の本草学者・儒学者、筑前福岡藩士貝原九兵衛篤信(號:益軒、1630〜1714)の正徳四年(1714)年
    旧暦八月二十七日の忌日。
      越し方は一夜ばかりの心地して    八十あまりの夢をみしかな



    奥の細道、いなかの小道(29)− 象潟(1)のつづき

      十七日 朝、小雨。昼ヨリ止テ日照。朝飯後、皇宮山蚶彌(満)寺へ行。道々眺望ス。帰テ所ノ祭渡ル。過テ、熊野権現ノ社へ行、躍等ヲ見ル。
      夕飯過テ、潟へ船ニテ出ル。加兵衛、茶・酒・菓子等持参ス。帰テ夜ニ入、今野又左衛門入来。象潟縁起等ノ絶タルヲ歎ク。翁諾ス。弥三郎低耳、
      十六日ニ跡ヨリ追来テ、所々ヘ随身ス 。
        『曾良旅日記』  
      

  翌六月十七日(陽暦八月二日)、朝の内は小雨でしたが、昼頃には止んで日が射してきました。朝食後、芭蕉翁一行は、皇后山干満珠寺を訪れ、道々の眺望をたのしみました。戻った後、地元の熊野神社の御渡りがあり、その後社に赴き、踊りなどを見物しました。また、夕飯後、今野嘉兵衛が茶・酒・菓子などを持参し、象潟橋の船着き場から納涼をかねて象潟に舟をうかべ、能因島などを訪れています。
  遊覧から戻ると、名主今野又左衛門が宿を訪れ、象潟縁起などが絶えたことを嘆き、芭蕉もそれに同情しています。


      先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、

  芭蕉が私淑する能因法師(988〜1058頃)の遺跡と云われる能因島は、蚶滿寺の南方約四百米にあった小島で、現在は面積約六百坪の小丘となっています。

        いではのくにに、やそしまに行て、三首
      よのなかはかくてもへけりきさがたや    あまのとまやを我宿にして
        島中有神宮蚶方
      あめにますとよをかびめにことゝはん    いくよになりぬきさがたの神

      わび人はとつくにぞよきさきてちる    はなのみやこはいそぎのみして
        『能因法師集』

  能因法師が象潟へ下向した事があることは事実のようですが、三年幽居したことは確認できないようです。平安末期の歌人、従四位下太皇太后宮大進藤原清輔(1104〜1177)が、保元年間(1156〜1159)に著した歌論書『袋草紙』には、以下のような記述があります。

      能因實ニハ不下向奧州、爲詠此歌、竊ニ籠居シテ下向奧州之由ヲ風聞云々、二度下向ノ由アリ、於一度者實歟、書八十島記、
        『袋草紙』三


      「一度に於いては實か、八十島の記を書けり」とのことです。
    

      むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし櫻の老木、西行法師の記念をのこす。

        象潟の櫻は波に埋もれて    花の上漕ぐあまの釣り船


  この歌は西行法師の作としての確証は無いとのこと。しかし、以下に記す様々な記載が残されています。

      巳に六江を立て、保呂波山に通夜して、本城の船津を過ぎ、鳥海山の腰を廻る、当山は功名の霊地なれども、いまだ雪深く禅頂の時ならねば、不参
      し侍り、漸々蚶象にいり、蚶満寺欄前、湖水を眺望す、向に鳥海山高々と聳、花のうへこぐ蜑の釣船とよみしも、げにとうちゑまるゝ、寺院の伝記
      什物見て、西行ざくら木陰の闇に笠捨たり
        毛を替ね雪の羽をのす鳥の海
        波の梢実のるや蚶が家ざくら
        『日本行脚文集』 天和三年の条 大淀三千風


    
      此浦のけしき、櫻は浪にうつり、誠に花の上漕ぐ蜑の釣舟と読しは此所ぞと
        『好色一代男』三ノ六 井原西鶴
    
      出羽の國蚶瀉といふ所は、世に隠れなき夕暮のおもしろき海辺なり。汐越の入江々々、八十八潟・九十九森、皆名にある所也。蚶滿寺の前に、古木
      の櫻あり。是ぞ花のうへこぐ海士の釣ぶねと、読しむかしを今見て、替る事なし。
        『名殘之友』 三ノ五 井原西鶴

      花の上漕とよみ給ひけむ古き櫻もいまだ蚶滿寺のしりへに殘りて、陰波を浸せる夕晴、いと涼しければ
        ゆふばれや    櫻に涼む波の花      芭蕉
        『繼尾集』  潜淵庵不玉撰



      江上(こうしょう)に御陵あり。神功皇宮の御墓と云。寺を干滿珠寺と云。此処に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。

    神功皇后は、第十四代仲哀天皇の皇后で、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。帝崩御の後、軍を督して三韓を親征(親カラ征ク)、凱旋後應神天皇を生んだと『古事記』『日本書紀』に伝えられる説話的主人公です。

      抑〻神功皇后、百済國の夷をしたがへ日の本に軍をかへしおはしますとき波風にはなたれたまひ、此島に暫くうつろひたまひぬとかや。其後、其處
      には八幡宮を安置し、今に神々し奉りけるなり。然るに、皇后尋常御肌にいたゞかせ給ふ干滿の二珠によそえ、皇后山干滿寺とはつたへ侍るとか
      や。いつのころより、かの蚶の字にはなし侍りけむ、いといぶかし。しかし、此潟に蚶といふ貝あまた侍れば、かくはいへりけるにや。これをさへ
      さだかならねば、是非の境をわきまへずなりぬ。世々所にいひふらしたる故実なむかきよせて、  
        蜑のかるもの跡たゑじと、爰にはしるし侍る也。
        『繼尾集』  潜淵庵不玉撰


      寺を干滿珠寺と云。

    此の寺は、道鏡(700?〜772)の暴戻により新羅にのがれた僧昭機が、神功皇后の霊夢を蒙り、この地にたどり着いて皇后殿蚶方寺を建て、みずから蚶方法師と称したのに始まり、仁寿三年(853)慈覚大師(天台座主円仁)これを再興して蚶滿寺と改称、さらに正嘉元年(1257)八月、鎌倉幕府五代執権北条時頼(最明寺入道)が象潟を訪れて、この地を「四霊の地」と定め二十町歩の寺領を寄進し再興、大伽藍を建立して天台宗より曹洞宗に改め、寺名を干滿寺と改めたと云います。

      簾を捲ば、

    簾を巻き上げて眺望するの意で、『圓機活法』遊眺門・江樓晴望の大意に「捲レ簾」とあり、詩文に眺望を叙する場合の常套語になっています。

      風景一眼の中に尽て

    象潟の風景が一望の内に見渡されての意で、『圓機活法』地理門・遠山に、
      樓高一望究千里    樓高クシテ一望千里ヲ究ム
同じく『圓機活法』宮室門・樓に、以下のようにあります。
      樓高納萬象    樓高クシテ萬象ヲ納ム    

      蚶滿寺欄前、湖水を眺望ス。向に鳥海山高々と聳え
        『日本行脚文集』 天和三年の条 大淀三千風

      方丈に簾をあぐれば、巫山の十二峯底に臨み
        『繼尾集』  潜淵庵不玉撰

      其陰うつりて江にあり


      望湖樓下水浮天    望湖樓下水天ニ浮カブ
        『聯珠詩格』十一

      浪打入る所を汐こしと云。

      汐こしは、あら海より象潟へ、潮の往来する川の名にて、橋あり。しほこし橋と名づく。此南北の人家を、汐越町と云て、秋田へ往還の駅宿なり。
        『奥細道菅菰抄』蓑笠庵梨一

      松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。


    松島は太平洋に臨んだ開放的で明るい感じであり、象潟は日本海を控えた閉鎖的で暗い感じを述べたものです。

      地勢魂をなやますに似たり。

    その地のありさまは心に悩みを抱いている美女の姿を思わせるの意で、蘇軾の詩「飮湖上初晴後雨」にいう西施の傷心の姿を連想したものと解されています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 08:42おくの細道、いなかの小道

2017年08月23日

奥の細道、いなかの小道(29)− 象潟(1)

  

  「一遍聖絵」第七巻 京極四條釋迦堂

  (旧暦閏7月2日)

  一遍忌、遊行忌
  鎌倉中期の僧、時宗の開祖一遍上人(1239〜1289)の正応二年(1289)旧暦八月二十三日の忌日。

    旅ころも木の根かやの根いづくにか 身の捨られぬ処あるべき

  

  一遍上人像  鎌倉來迎寺藏  『集古十種』古畫肖像之部  (五)二十七

    江山水陸の風光數を盡して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真 
    砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作して「雨も又奇也」とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。其朝 
    天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こ
    ぐ」とよまれし櫻の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功皇宮の御墓と云。寺を干滿珠寺と云。此処に行幸ありし事いまだ聞ず。いか
    なる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの關、路をかぎり、東
    に堤を築て、秋田にかよふ道遙に、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如
    く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
      象潟や雨に西施がねぶの花
      汐越や鶴はぎぬれて海涼し
        祭礼
      象潟や料理何くふ神祭                              曾良
      蜑の家や戸板を敷て夕涼      みのゝ國商人  低耳
        岩上にみさごの巣を見る
      波こえぬ契ありてやみさごの巣                    曾良


    ○十五日 象潟へ趣。朝ヨリ小雨。吹浦ニ到ル前ヨリ甚雨。昼時、吹浦ニ宿ス。此間六リ、砂浜、渡シ二ツ有。左吉状届。晩方、番所裏判済。
        『曾良旅日記』

 
  旧暦六月十五日(陽暦七月三十一日)、朝から小雨が降る中を、象潟の景色を一日でも早く見物したいと、芭蕉翁一行は酒田を旅立ちました。
  酒田の湊から磯伝いの羽州浜街道を能登興屋(のどごや:酒田市高砂)〜宮海を経て日向川を舟で渡り、服部興野から吹浦までの六里にも及ぶ庄内砂丘を北上しました。

  白木〜靑塚を経て十里塚付近にさしかかると天候が俄に一変して、潮風が砂塵を吹き上げ、豪雨が沛然と降りだし、出羽富士鳥海山も朦朧と雨に煙って隠れてしまいました。
  天候の恢復は望めず、一行は月光川を徒にて渡り、昼時に吹浦に着いて、ここに宿泊することにしました。

  当時の吹浦は、南側の宿町と北側の横町に分かれていましたが、芭蕉翁一行が泊まった跡は不明とのことです。

  ここで羽黒手向の近藤佐吉(呂丸)から書簡が届き、夕刻には番所の通判(通行手形)に裏判(通行の承認)を済ませました。吹浦の番所は、大物忌神社の鳥居前を左折した横町の大組頭津右衛門屋敷の南に上の番所、北に下の番所がありました。

    ○十六日 吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿。是 より難所。馬足不通。 番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄
       内預リ番所也。入ニハ不レ入手形。塩越迄三リ。半途ニ関ト云村有(是より六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成ト云。此間、雨強ク甚濡。船小ヤ入テ休。
    ○昼ニ及テ塩越ニ着。佐々木孫左衛門尋テ休。衣類借リテ濡衣干ス。ウドン喰。所ノ祭ニ付 而女客有ニ因テ、向屋ヲ借リテ宿ス。先、象潟橋迄行而、雨
       暮気色ヲミル。今野加兵へ、折々来テ被レ訪。
          『曾良旅日記』

 
  豪雨のため吹浦で一泊した一行は、早朝に吹浦を出立して象潟へ向かいました。吹浦番所を通り過ぎた頃から、また雨が降り出しました。御殿坂を登って山道に入り、しばらくして坂を下ると湯の田に出、さらに海岸に沿って浜街道を北上して女鹿に到ります。

  さて、女鹿までは庄内藩領ですが、先の小砂川からは庄内藩預かりの幕府領となり出国の手続きが必要でした。そのため曾良は酒田で通判(通行手形)を購入し、吹浦番所の通行許可の承認印(裏判)を捺してもらう必要があったため、前日の晩に吹浦番所で裏判を済ませていました。

  女鹿の人改番所では出手形を提出しましたが、手続き料が必要だったといいます。番所を過ぎると、「是ヨリ難所。馬足不レ通」といわれる三崎峠が待ち構えていました。観音崎、大師崎、不動崎という3つの岬からなる三崎峠は、鳥海山噴火の際の溶岩流の崖が日本海の荒波の浸食を受けて奇岩や怪石として連なり、その険しさは羽州浜街道第一の難所でもありました。

  五十五歳から足かけ十七年をかけて日本全国を徒歩で測量し『大日本沿海輿地全図』を作成した伊能忠敬(1745〜1818)は、享和二年(1802)、三崎峠の難所ぶりを測量日記に以下のように記しています。

    『此の村より外迄七八丁ハ道も上下よし、長持ちハ小砂川より女鹿村迄舟廻にす、馬荷にも亦同し、夫より道途曲々、且狭く、其上丸石岩石おほく、
    上下度々ありて其の行路難し、駕籠も人夫大勢ニ捧げて通るなり、馬・駕籠ニに乗ることならざる所なり、海へ出岬を大師崎と言、亦三崎共言、里人
    言、観音、不動、勢至ノ三仏ニ似たる岩石あるニよりて號スと、其脇を通る、此所則鳥海山の麓の流(スソ)なり、大師崎の上ニ大師堂あり、由利郡・
    飽海郡の界・これよい南庄内領となる』



  三崎峠の難所を超えると羽州浜街道は砂地となり、一里半程で小砂川に至ります。ここには庄内藩の預番所がありましたが、旅人には手形は不要だったようです。小砂川を過ぎ、象潟まで三里余り、大須郷、川袋、大砂川、洗釜、中野澤、關までの街道沿いの集落は幕府直轄領で、庄内大山代官所が支配していました。

  また、このあたりは古代の有耶無耶の関があった所と伝えられ、歌枕にも詠まれていますが、芭蕉の時代にはすでに正確な場所は不明であったようです。

  永久四年(1116)の歌合で、従四位上源俊頼(1055〜1129)が詠んだ歌が最も早いとされています。

    すぐせやななぞいなむやのせきをしも    へだてて人にねをなかすらむ                    
                   『散木奇歌集』  源 俊頼

    もののふのいづさいるさにしおりする    とやとやとおりのむやむやの關             
                   『夫木和歌集』  詠み人知らず

    たのめこし人の心は通ふやと    問いても見ばやうやむやの關                      
                   『土御門院御集』 土御門院


  關に着く前あたりから雨脚が強くなり、一行はずぶ濡れとなって船小屋で雨宿りをしました。

  昼過ぎに塩越(象潟)に着きました。芭蕉にとって、敬慕する能因法師と西行法師の遺跡に富む象潟は、心から憧れていた所であったと云います。

  塩越は本庄藩六郷氏二万石の領地でした。六郷氏は室町中期に、出羽国仙北郡六郷邑より興り、同地を本拠とした一族で、工藤氏流六郷氏の系統に属します。その後裔六郷政乘(1567〜1634)が、元和九年(1623)最上氏が改易された後、常陸国府中藩(石岡)一万石から最上氏の旧領である出羽国本荘に二万石で加増移封され、本庄藩を立藩しました。芭蕉翁一行が訪れたときは、四代政晴(1675〜1741)の代でした。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:19Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年08月15日

奥の細道、いなかの小道(28)− 酒田

  

  山口素堂(1642〜1716)

  (旧暦6月24日)

  素堂忌
  江戸前期の俳人山口素堂(1642〜1716)の享保元年(1716)旧暦八月十五日の忌日。
  甲府魚町で家業の造り酒屋を営んでいたが、向学の志止みがたく、弟に家督を譲り、江戸に出て林羅山の三男、林春斎(1618〜1680)に漢学を学び、和 
  歌・書・能楽にも通じ、生涯を江戸でおくった。松尾芭蕉とは同門で、親交があり、蕉風の確立に寄与したといわれている。

    目には青葉山ほととぎす初鰹
    名もしらぬ小草花咲野菊哉
    うるしせぬ琴や作らぬ菊の友


  
 
  長山重行邸


    羽黒を立ちて、鶴が岡の城下、長山氏重行といふもののふの家にむかへられて、誹諧一巻あり。左吉もともにに送りぬ。川舟に乗りて酒田の湊に下る。
    淵庵不玉といふ医師のもとを宿とす。
      あつみ山や吹浦かけて夕すずみ 
      暑き日を海にいれたり最上川

    ○十日 曇。飯道寺正行坊入来、会ス。昼前、本坊ニ至テ、蕎切・茶・酒ナド出。未ノ上刻ニ及ブ。道迄、円入 被レ迎。又、大杉根迄被レ送。祓川ニシテ
     手水シテ下ル 。左吉ノ宅ヨリ翁計馬ニテ、光堂迄釣雪送ル。左吉同道。々小雨ス。ヌルヽニ不レ及。申ノ刻、鶴ケ岡長山五良右衛門宅ニ至ル。粥ヲ
     望、終テ眠休シテ、夜ニ入テ発句出テ一巡終ル。
      『曾良旅日記』


  旧暦六月十日(陽暦七月二十六日)、芭蕉翁一行の出立を知った近江飯道寺の僧、正行坊円入が南谷の別院に別れの挨拶に来ました。その後、芭蕉翁一行は昼前に本坊の若王寺寶前院に赴き、別当代会覚阿闍梨に辞去の挨拶をし、蕎麦切り、茶、酒などで歓待され、未ノ上刻(午後二時過ぎ)に羽黒山を出立しました。

  正行坊円入が見送りに来て、一の坂を下って大杉(爺杉)まで同道しました。芭蕉は祓川で手水をして幽邃閑寂なる羽黒山境内に別れを告げ、図司呂丸(近藤佐吉)宅からは馬に乗り、曾良と呂丸が付き添って鶴岡へ向かいました。また、羽黒山南谷玄陽院で思いがけず再会した観修坊釣雪が正善院黄金堂まで同道しました。
  黄金堂の前で釣雪に別れを告げた一行に呂丸が同道し、手向を旅立って羽黒街道を鶴岡目指して西進して行きました。

  野荒町−荒川−三ツ橋を経て、赤川の手前から北上し、三川橋の所で船に乗り、従四位下庄内藩主酒井忠真(第4代藩主)の城下町鶴岡に入りました。

  庄内藩14万石は領内に米どころ庄内平野を有し、且つ領内の酒田の湊は、寛文年間(1661〜1673)に政商河村瑞賢(1618〜1699)によって開かれた北前船の西廻り航路の基点として栄えたために財政的に裕福で、一説に実収入は30万石以上ともいわれていました。

  酒井家は松平氏、德川氏最古参の譜代筆頭で、元来、三河國碧海郡酒井郷あるいは同國幡豆郡坂井郷の在地領主であったと考えられています。

  庄内藩は、元和八年(1622)、出羽山形藩57万石藩主最上義俊(1605〜1632)が改易された後、越後高田藩主酒井家次(1564〜1618)の嫡男忠勝(1594〜1647)が、信州松代藩10万石から移封され、出羽田川、飽海郡内において13万8千石を領して立藩されています。

  一行は申ノ刻(午後四時過ぎ)に、荒町裏大昌寺の脇小路に住む長山五郎右衛門重行宅(鶴岡市山王町十三)に着きました。

  
    「重行、姓長山、仮名五郎左衛門。藩中歌人也。荒町裏東側の小路に住す。今に長山小路といふ。東都在勤の折、深川はせを庵に遊び玉ひしゆかりによ
    りて、翁奥羽行脚の節、此亭に留杖したまひ、初茄子の高吟に俳諧一巻あり。其後、東花坊奥羽行脚せられし頃、呂図司案内して御山をめぐり、夫より
    重行亭に旅寝し、初茄子の遺詠を感じ、橘の香をとゞめし俳諧一巻あり」
      『於保伊頭美』(天保十五)

 
  長山氏(生没年未詳)は、庄内藩士で大工改め役、百五十石取りと『庄内人名辞典』で紹介されています。

  芭蕉は長山宅に着いたときに、三山巡礼の疲れから、すぐに粥を所望して、食べた後に仮眠をとりました。
  夜になって、句筵興行が催され、芭蕉の

     めづらしや山をいで羽の初茄子

を発句に、重行・曾良・露丸と一巡四句を詠んだところで、芭蕉の体調をいたわって、この日の聯句は終了しました。
  この句は、長山重行宅の食膳に供されたこの地方名産の茄子の風味が心に残り、長山氏の厚遇に感謝の意を表した発句であるとされています。またこの茄子は、小ぶりな姿とほどよく締まった肉質が特徴の民田茄子といわれ、民田地域の八幡神社の社殿を作る際に京都の宮大工が種を持ち込んだと言われています。
 
    ○十一日 折々村雨ス。俳有。翁、持病不快故、昼程中絶ス。
  
    ○十二日 朝ノ間村雨ス。昼晴。俳、歌仙終ル。
    ○羽黒山南谷方(近藤左吉・観修坊、南谷方也)・且所院・南陽院・山伏源長坊・光明坊・息平井貞右衛門。○本坊芳賀兵左衛門・大河八十良・梨水・
     新宰相。
    △花蔵院△正隠院、両先達也。円入(近江飯道寺不動院ニテ可レ尋)、七ノ戸南部城下、法輪陀寺内淨教院珠妙。
    △鶴ケ岡、山本小兵へ殿、長山五郎右衛門縁者。図司藤四良、近藤左吉舎弟也。
     『曾良旅日記』

  翌十一日(陽暦七月二十七日)、この日も聯句を再開しましたが、芭蕉は持病(痔疾あるいは胃痙攣)が出て気分が勝れず、昼頃に中止しています。

  十二日(陽暦七月二十八日)、「めづらしや」四吟歌仙は三日がかりで満尾となりました。

    一 十三日 川船ニテ坂田ニ趣。船ノ上七里也。陸五里成ト。出船ノ砌、羽黒より飛脚、旅行ノ帳面被レ調、被レ遣。又、ゆかた二ツ被レ贈。亦、発句共
     も被レ為見。船中少シ雨降テ止。申ノ刻 より曇。暮ニ及テ、坂田ニ着。玄順亭へ音信、留主ニテ、明朝逢。

    ○十四日 寺島彦助亭へ 被レ招。俳有。夜ニ入帰ル。暑甚シ。
     『曾良旅日記』


  旧暦六月十三日(陽暦七月二十九日)、芭蕉翁一行は長山重行、図司呂丸らの見送りを受けて、長山宅のすぐ南にあった内川河岸(大泉橋左岸)から川船に乗って酒田湊へ向かいました。

  出船の際に羽黒山から飛脚が来て、会覚阿闍梨から新しい旅行の帳面と浴衣二枚、そして餞別の発句が届けられました。

   忘るなよ虹に蝉鳴山の雪  会覚

 羽黒山の別当代という地位のある人が、遊歴の一俳諧師に対してこれほどまでの心遣いをすることは並大抵のことではないとされています。

 川船に乗った一行は内川を北東に下り、まもなく赤川に合流しました。赤川を北に向かって下り、横山−押切−黒森を過ぎて、当時は飯森山の東で最上川に合流していました。川船では七里の道程でした。

  
  大正二年(1913)酒田地形図

 現在の赤川は、大正十年に最上川から分離するための放水路開削工事が開始され、昭和十七年まで継続されて、最終的には昭和二十八年に最上川と赤川が分離する締め切り工事が完成し、日本海に直接放流する赤川新川が完成しています。

 陸路は羽州浜街道を北上して、横山−押切−広野をへて最上川を渡り酒田に向かう五里の道のりでした。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:22Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年08月09日

奥の細道、いなかの小道(27)− 羽黒(2)

  
  

  炭太祇(1709〜1771)


  (旧暦閏6月18日)

  太祇忌(不夜庵忌)
  江戸中期の俳人、炭太祇(不夜庵)(1709〜1771)の明和八年(1771)旧暦八月九日の忌日。
  はじめ水國(?〜1734)に師事し、水國が没した後は紀逸(?〜1761)に学び、江戸座の宗匠となった。寛延元年(1748)に太祇と号す。
  宝暦元年(1751)京に上り、紫野大徳寺真珠庵にて仏門に帰依するもほどなく還俗、宝暦四年(1754)、京島原の妓楼桔梗屋主人呑獅(?〜1789)の支援により島原遊郭の中に不夜庵を結んで住み、妓楼の主人や遊女に俳諧を教えた。
  与謝蕪村(1716〜1784)とも親交が厚く、明和俳壇の中心な存在として活躍した。

    足が出て夢も短き蒲団かな
    寝て起きて長き夜にすむひとり哉
    行く程に都の塔や秋の空


  奥の細道、いなかの小道(26)− 羽黒(1)のつづき

  八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引きかけ、宝冠に頭を包、強力といふものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、息絶身こゞえて頂上に臻れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出でて雲消れば、湯殿に下る。
  谷の傍に鍛冶小屋と云有。此國の鍛冶、霊水を撰て、爰に潔斎して劔を打、終「月山」と銘を切て世に賞せらる。彼竜泉に釗を淬とかや。干將・莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる櫻のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の哥の哀れも爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣じて、此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍てて筆をとゞめて記さず。坊に歸れば、阿闍梨の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。

   涼しさやほの三か月の羽黒山
   雲の峰幾つ崩て月の山 
   語られぬ湯殿にぬらす袂かな 
   湯殿山錢ふむ道の泪かな      曽 良


  月山を目指した芭蕉翁一行は、木綿(ゆふ)しめという、紙のこよりを麻の代わりに用いて編んだ修験袈裟を襟にかけ、宝冠という白木綿で頭を包み、強力という登山の案内先達に導かれて、雲や霧が立ちこめる山中を氷雪を踏み、標高1984mの山頂目指して登っていきました。旧暦6月8日(新暦7月22日)ころは、夏とはいえ山肌にかなりの残雪の残る時期です。また、当時山駆けをする者は、潔斎中から下山後の精進おろしまで木綿(ゆふ)しめを襟にかけるのが習わしでした。

   〇六日 天気吉。登山。三リ、強清水、二リ、平清水。二リ、高清。是迄馬足叶道(人家、小ヤガケ也)。彌陀原、こや有。中食ス。(是ヨリフダラ、ニ
     ゴリ沢・御濱ナドヽ云ヘカケル也。)難所成。御田有。行者戻リ、こや有。申ノ上尅、月山ニ至。先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ來
     光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。

    『曾良旅日記』

  実際には旧暦六月六日、南谷の別当寺の別院を出立して東へ「お渡り道」を進み、羽黒山の奥の院荒澤寺を経て半合目の傘骨、海道坂が一合目、大満原が二合目で小月山神社があり、ここからは女人禁制でした。ここの掛茶屋では餅やところてん、蕎麦などを売っていたそうです。神子石が三合目で、巫女石とも書き、むかし禁制を破って月山に登ろうとした巫女がここでたちまち石に化してしまったと伝えられている所です。強清水が四合目で、坂の左の岩の間から清水が湧いていました。五合目の狩籠(かりごめ)から右の峰伝いに六合目の平清水へ向かい、急坂の連続後に七合目の合清水(高清水)に着きます。ここから上は馬の乗り入れが禁止されていたので、馬返し小屋と呼ばれていました。

  羽黒山から月山山頂までの登拝路は実際には六里半ほどの道のりながら、古くから「木原三里、草原三里、石原三里」と言われてきました。七合目の合清水まではブナなどの原生林の木原で、八合目の彌陀原からはニッコウキスゲなどの高山植物が群生する草原三里となっています。

  芭蕉翁一行は、彌陀原の中に鎮座する月山神社中之宮(御田原神社)に参拝し、ここで昼食をとりました。御田原神社は体力的にも時間的にも月山山頂に登ることができない人の遙拝所(御田原参籠所)になっていました。

  その後、東の斜面を下りて東補陀落に向かいました。当時は、東補陀落で観音・弥陀・薬師の三尊や立岩の三宝荒神などを拝したのち彌陀原まで戻り、それから月山を目指すのが順路だったそうです。

  


  『曾良旅日記』に「フダラ、ニゴリ沢・御濱」」と記されているのがこの東補陀落で、月山神社中之宮から左へ3㎞程下った「補陀落・濁沢・御濱池」という修験者が峰入修行を行う場所で、絶壁を鉄梯子で下る難所の先に、弁財天を祭る御濱池があります。

  彌陀原まで戻った一行は、月山山頂を目指してさらに登りました。無量坂を越えて九合目の佛水池(ぶすいえ)に至り、さらに進んで登りにかかるところが「行者返し」といわれる急斜面です。
  昔、修験道の開祖とされる役行者(634伝〜701伝)が月山山頂を目指したときに、開祖蜂子皇子(562?〜641?)に仕える除魔童子と金剛童子が現れ、「湯殿山で修行してからでないと月山には登ってはならぬ」と押し戻したところと伝えられています。

  最後になだらかなモックラ坂の岩場を越えると、月山頂上(標高1984m)です。
  芭蕉翁一行は、申ノ上尅(午後3時半ころ)山頂に到着し、まず、豪雪と強風を避けるために石垣に囲まれた御室と呼ばれる月山神社本社に参詣しました。

  月山神社は天照大神の弟神の月読命(つきよみのみこと)を祀っていますが、月山、羽黒山、湯殿山の三つの山の総称である出羽三山は元来、日本古来の自然崇拝の山岳信仰に仏教が習合し、さらには密教などの要素も加味されて成立した「修験道」の霊場でした。

  一行は参詣を終えて、頂上より少し下った角兵衛小屋に泊まることになりましたが、夕刻頃には「日没て月顕る」状況でした。角兵衛小屋は、当時の月山山頂に七軒あった小屋の一つで、五軒が宿泊用、二軒が酒屋と菓子屋だったとされています。

  一行は笹を鋪(しき)、篠を枕として、翌日の御来迎を待ちましたが、残念ながら御来迎は拝めなかったようです。

  月山は、約70万年前から火山活動が始まり、最後に噴火したのは約30万年前で、以前は楯状火山(shield volcano)に分類されていましたが、現在では成層火山(stratovolcano)が侵食や爆発によりなだらかになったものであるという説が有力です。

  ちなみに我々の世代になじみの深い火山の分類法は、ドイツの地理学者カール・シュナイダー(Karl Schneider)が1911年に火山を地形によって分類したものですが、形成過程が全く異なるのに浸食などによって同じような地形になる例が次々と発見されてシュナイダーの分類が現状にそぐわなくなったために、現在では使われていないとのことです。
  例)トロイデ(鐘状火山)、コニーデ(成層火山)、アスピーテ(楯状火山)
    ホマーテ(臼状火山)
  
  また、近年の火山学の発展に伴い過去1万年間の噴火履歴で活火山を定義するのが適当であるとの認識が国際的にも一般的になり、2003年に火山噴火予知連絡会は、「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」を活火山と定義し直し、活火山の数は現在111となっています。

  
 

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:59Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年08月02日

奥の細道、いなかの小道(26)− 羽黒(1)

  
  上島鬼貫(1661〜1738)

  (旧暦閏6月12日) 

  鬼貫忌
  江戸中期の俳人上島鬼貫(1661〜1738)の元文三年旧暦八月二日の忌日。
  鬼貫(おにつら)とは、「鬼の貫之」の意味だという。

  摂津国川辺郡伊丹郷でも有数の酒造業油屋の三男として生まれ、幼少期より俳諧に親しみ、十三歳で松江重頼(1602〜1680、通称は大文字屋治右衛門、俳号は維舟)に入門、その後、西山宗因(1605〜1682)の談林派に入門する。

  八になりけるとし
  こいこいといへど蛍がとんでゆく 
                  『仏兄七久留萬』

 貞享二年(1685)、二十五歳で医学を志して大坂に出、当代の名医大久保道古に学んだと考えられている。やがて仕官を求めて貞享四年(1687)、筑後三池藩に三十人扶持で仕え、元禄二年(1689)に辞めた後は元禄四年(1691)に大和郡山藩に三十人扶持で仕えている。

  寛文元年辛丑年四月四日辰の上刻、摂州川辺郡伊丹郷に生まる。童名竹松、長て利左衛門宗邇と称(なの)る。追て藤九郎と改む。又半蔵と改む。常に懐ふ我れ世々武種(ものだね)にして今何ぞ野処に安んぜん哉。有縁の主人を求めて武名を立てて祖を顕さん。是又人に議(はか)らずしては得難しと先ず學門の爲にと大坂に出て浪人又醫の中を徘徊す。
                  『藤原宗邇傳』 原漢文


  藤原宗邇とは武士としての名乗りだが、風流人として生きると共に武士としても生きた。

  この間、鬼貫は『俳諧大悟物狂』なる一冊の俳書を世に出した。

  によつぽりと秋の空なる不尽の山
                  『俳諧大悟物狂』



  元禄八年(1695)、三十五歳で大和郡山藩を致仕した後は、宝永五年(1708)に四十八歳で越前大野藩に仕えて、京屋敷の留守居役を務めた。

  俳諧の道においては、蕉門の八十村路通(1649頃〜1738頃)などと親交があり、彼らを通じて松尾芭蕉(1644〜1694)を強く意識するようになった。


  その後、享保三年(1718)、五十八歳の鬼貫は俳論『獨言(ひとりごと)』を刊行したが、その中で「貞享二年の春、まことの外に俳諧なし」と自覚したと述べるに至っている。
  しかし、まことの俳諧を旗印にした芭蕉が、
 
  古池や蛙飛び込む水の音

と詠んで蕉風を開くのが貞享三年(1686)、鬼貫がまことに目覚めたとされる一年後なので、鬼貫研究者を悩ましているという。

  明和六年(1769)、炭太祇(1709〜1771)選の『鬼貫句選』が刊行されたが、太祇は『鬼貫句選』の序において、その本を刊行する意義を次のように述べている。

  鬼つらのおにたる無碍自在を見もし學びもせば、わが芭蕉翁にこの翁を東西に左右し、延宝より享保にいたるこの道の盛世をてらし見て、けふこの道にゆく人のこゝろの花のにほひに足り、心の月の影とゝきて、はいかいの幸大いならんかし。

  元文三年(1738)、大坂鰻谷にて死去。享年七十八。墓所は大阪市天王寺区の鳳林寺と伊丹市の墨染寺にある。

  明治三十六年(1903)、子規門下の双璧、河東碧梧桐(1873〜1937)が雑誌「ホトトギス」で、募集句の題を「鬼貫忌」として以後、秋の季語として定まった。


  六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋ねて、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎して憐愍の情こまやかにあるじせらる。

  四日、本坊にをゐて誹諧興行。

   有難や雪をかほらす南谷

  五日、権現に詣。当山開闢能除大師は、いづれの代の人といふことをしらず。延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。羽州黒山を中略して羽黒山と云にや。出羽といへるは、「鳥の毛羽をこの国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。月山、湯殿を合て三山とす。当寺武江東叡に属して、天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にして、めで度御山と謂つべし。


  

  元禄二年(1689年)旧暦六月一日、大石田の最上川河畔、船持荷問屋髙野一榮(1636〜1725)宅を出立した芭蕉翁一行は、陸路馬で舟形まで送られ、新庄の渋谷風流(甚兵衛)宅(新庄市上金沢町5-33)へ赴いて二泊し、歌仙一巻その他を巻いています。さらに三日、元合海から乗船して清川まで下りました。しかし、清川河岸で上陸する際に、関手形に添方の名前を忘れたため船から降りられなくなりましたが、まもなく上陸を許可されました。


 〇六月朔 大石田を立。辰刻、一栄・川水、弥陀堂迄送ル。馬弐匹、舟形迄送ル。ニリ。一リ半、舟形。大石田ヨリ出手形ヲ取、ナキ沢ニ納通ル。新庄ヨリ出ル時ハ新庄ニテ取リテ、舟形ニテ納通。両所共に入ニハ不構。ニリ八丁、新庄。風流ニ宿ス。 
 
  二日 昼過ヨリ九郎兵衛ヘ被招。彼是、歌仙一巻有。盛信、息、塘夕(澁谷仁兵衛、柳風共)、孤松(加藤四良兵衛)、如流(今藤彦兵衛)、木端(小村善衛門)、風流(渋谷甚兵ヘ)。 
 
 〇三日 天気吉。新庄ヲ立。一リ半、元合海。次良兵へ方へ甚兵へ方ヨリ状添ル。大石田平右衛門方ヨリも状遣ス。船、才覚シテノスル。
 
 一リ半、古口ヘ舟ツクル。合海ヨリ禅僧二人同船、清川ニテ別ル。毒海チナミ有。是又、平七方へ新庄甚兵ヘヨリ状添。関所、出手形、新庄ヨリ持参。平七子、呼四良、番所ヘ持行。舟ツギテ、三リ半、清川ニ至ル。酒井左衛門殿領也。此間ニ仙人堂・白糸ノタキ、右ノ方ニ有。
 
 平七ヨリ状添方ノ名忘タリ。此間ニ仙人堂・白糸ノタキ、右ノ方二有。状不添シテ番所有テ、船ヨリアゲズ。一リ半、雁川。三リ半、羽黒手向荒町。申ノ刻、近藤左吉ノ宅ニ着。本坊ヨリ帰リテ会ス。本坊若王寺別当執行代和交院へ、大石田平右衛門 より状添。露丸子へ渡。本坊へ持参、再帰テ、南谷へ同道。祓川ノ辺 よりクラク成。本坊ノ院居所也。
 
 『曾良旅日記』


  清川から陸路狩川をへて旧暦六月三日申の刻(午後五時頃)、芭蕉翁一行は羽黒山山麓の門前町手向(とうげ)村荒町在の近藤佐吉宅に到着します。

  

  近藤佐吉( ? 〜 1693)はもと鶴岡の人で本姓を図司といったのを、羽黒移住に際し、母方の姓近藤を称したものかとされています。俳号を呂丸と称し、山伏の法衣を染める染屋を生業としたものと推定されており、この地方の宗匠格だったとされています。元禄五年(1692)、上洛の旅の途次、江戸で芭蕉より『三日月日記』稿本を贈られ、翌六年二月二日、京で客死しています。

  さて、別当代ですが、本来別当とは、一山の主権者として衆徒を支配する者をいいます。羽黒山においては、五十代別当兼執行の天宥(1592〜1674)がその運営をめぐって羽黒衆徒と対立し、ついには幕府を巻き込んだ裁判沙汰にまで発展して、寛文八年(1668)四月、伊豆新島に流されて以後、別当は東叡山の重職にある印家(皇族および貴族身分出身の僧侶)の中から補任されることに定められました。しかし、別当は東叡山でも重職を帯びていたため羽黒には赴任せず、名代の者をして執務させたものが別当代であり、当時の別当は東叡山の執当大円覚院公雄でした。

  芭蕉が対面した別当代会覚阿闍利( ? 〜 1707)、諱は照寂、院号は和合院、会覚はその徳号とされています。東叡山勧学院出身で権大僧都。貞享四年(1687)八月、羽黒山別当代に補任され、元禄六年(1693)八月、美濃国谷汲山華厳寺の塔頭地蔵院に転住し、宝永四年(1707)六月五日に同地で没しています。

  南谷は羽黒山の中腹、三の坂下から右へ約400mほど入った台地で、別院とは別当寺の別院、高陽院紫苑寺をさし、前の別当天宥の時代、寛文二年(1662)より起工して別当寺寶前院を建てましたが、延宝元年(1673)の失火で焼失し、その後規模を縮小して再建した寺院を貞享元年(1684)以後執行寺とし、同時にこれを別当寺の別院としました。これが芭蕉翁一行が宿泊した寺院とのことです。

  


  芭蕉翁一行が訪れた旧暦六月四日の申の刻、近藤呂丸(左吉)は本坊に赴いて留守でしたが、帰ると再び高野一榮からの紹介状を持って本坊に登り、会覚の指図を受けて芭蕉らを南谷の別院へ案内しています。芭蕉が高野一榮の紹介による会覚の賓客であったことや、呂丸の家が宿を提供する宿坊を営んでいなかったにせよ、夕刻に三の坂までの二十余丁(約2キロ)の山坂を何度も往復したことは、芭蕉をしてその篤実な性格に信頼を寄せたことは故無きことではないとされています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:33Comments(0)おくの細道、いなかの小道