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2017年09月26日

奥の細道、いなかの小道(34)− 一振、邦古の浦(2)

  

    葛飾北斎畫 芭蕉之像

    (旧暦8月3日)

    奥の細道、いなかの小道(33)− 一振、邦古の浦(1)のつづき

    ○担籠の藤浪 
    担籠は歌枕で、汐を汲む桶のことを指しますが、地名としては、現在の富山県氷見市に「田子浦藤波神社」があって、その辺りとされています。
    同じく『類字名所和歌集』元和三年(1617)刊には、歌枕『多枯浦』は六首が挙げられています。

    多枯浦   磯   入江   越中   射水郡   駿河同名有

    拾遺夏                    多枯浦の底さへ匂ふ藤波を  かざして行かむ見ぬ人のため            柿本人麿
    新古今雑上             をのが波に同じ末葉ぞしをれぬる  藤咲くたこの恨めしの身や         慈圓
    玉葉雑一                沖つ風吹きこす磯の松が枝に  あまりてかかる多枯の浦藤              前關白左大臣
    新後拾遺雑春          早苗取たこの浦人此ころや  も塩もくまぬ袖ぬらすらむ                   前左兵衛督教定
    新續古今春下          此のころはたこの藤波なみかけて  行てにかさす袖やぬれなむ       土佐門院
        『類字名所和歌集』 巻三

    
  

    『類字名所和歌集』元和三年(1617)刊 巻三 多枯浦

    多胡の浦  景物  藤を専によめり
        『國花萬葉記』 巻十二

    那古、担籠は、皆越中射水郡の名處にて、那古の湖は、放生津と云。濱町の北に有。名處方角抄には、奈古と書り。なごの海の汐のはやひにあさりにし
    出んと鶴は今ぞ鳴なる。〈此の外古歌多し〉

    担籠は、歌書に多古、多胡等の字を用ゆ。〈たこの二字すみてよむべし。駿河の田子の浦に紛るゝ故なり〉海邊氷見の町の北、布施の湖のほとり、〈布
    施のうみも名處なり〉今田となる。拾遺、多胡のうら底さえ匂ふ藤なみをかざして行ん見ぬ人のため、人丸(麻呂)。此藤のかたみとて、今猶しら藤あ
    り。此上の山に、大伴家持の館の跡あり。

    友人靑木子鴻の説に、たこは、担籠と書を正字とすべし。担籠は、潮汲桶の名。此處は、海邊なれば担籠にて潮をくみ、焼て塩となす。故に担籠のう
    らと稱す。塩やく浦といふ心也。多古、多胡、多枯等は、皆仮名書なり。駿河の田子の浦も、是に同じ。故に續日本紀ニ、駿河國従五位下楢原造東等、
    於部内廬原郡多枯浦濱獲黃金献之、と有。然れば、たこの浦は、越中、駿河ともに何れの字を用ても苦しからず、と見えたり、といへり。
        『奥細道菅菰抄』 簑笠庵梨一 撰



    ○初秋(はつあき)の哀とふべきものを
    たとい古歌に詠まれている藤の花咲く春ではなくとも、今の初秋の情趣を尋ねて一見すべき値打ちはあろうものを、との意。

    ○蜑の苫ぶき
    漁師の苫葺きの家。

    ○蘆の一夜
    「蘆の一節(ひとよ)」に「一夜」を言い掛けたもの。

    千載集戀三    難波江の蘆のかり寝のひとよゆゑ  身をつくしてや戀ひわたるべき    皇嘉門院別當

    ○わせの香や分入右は有磯海

    季語は「早稲」で、秋七月。「わせの香」は、熟した早稲の穂から漂ってくるかすかな香りで、米所越中の国土の豊かさを、細やかな感覚で表したも
    の。

    「有磯海」は「荒磯海」の約で、岩が多く波の荒い海岸を控えた海の意味を表す普通名詞だったが、『萬葉集』などの詠により、歌枕としての固有名詞
    とされるに至ったもの。

  

    有磯海

   
    可加良牟等 可祢弖思理世婆 古之能宇美乃 安里蘇乃奈美母 見世麻之物能乎
    かからむとかねて知りせば越の海の  荒磯の波を見せましものを    大伴宿禰家持

    之夫多尓能 佐伎能安里蘇尓 与須流奈美 伊夜思久思久尓 伊尓之敝於母保由
    澁谿の崎の荒磯に寄する波  いやしくしくに古へ思ほゆ            大伴宿禰家持

    伏木の浦は、奈古の入江に續きて、北の方は有磯の濱近し。此處よりすべてありそ海といふなるべし。
        『白扇集』寶永六年刊 浪化上人

 
    ○十四日 快晴。暑甚シ。富山カヽラズシテ(滑川一リ程来、渡テトヤマへ別)、三リ、東石瀬野(渡シ有。大川)。四リ半、ハウ生子(渡有。甚大川
    也。半里計)。 氷見へ欲レ行、不レ往。高岡へ出ル。二リ也。ナゴ・二上山・イハセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻着テ宿。翁、気色不レ勝。 暑極テ甚。不
    快同然。
        『曾良旅日記』


  旧暦七月十四日(陽暦八月二十八日)、快晴で残暑が厳しい中、芭蕉翁一行は滑川を出立して北國街道を西進し、上市川を徒歩で渡りました。滑川の次の宿場水橋は、北前船や千石船(辨財船)の寄港地水橋湊として重要な海運港でした。

  曾良は「富山カヽラズシテ」と記しているように、水橋から富山城下への道はとらずに、白石川を渡り、水橋辻ヶ堂から海岸に沿って氷見まで通ずる「濱街道」を通り、常願寺川を舟で渡って東岩瀬に向かいました。

  神通川河口の岩瀬は、江戸期には加賀藩の御蔵が置かれ、北前船で米や木材などを大阪や江戸などに運んでいました。

  そしてこの旧上新川郡東岩瀬町より旧上新川郡浜黒崎村横越に及ぶ富山湾沿いの海浜に面する総計約二里の「古志の松原」は、慶長六年(1601)に加賀藩第二代藩主前田利長(1562 〜1614)がその植樹を命じたもので、かつてのこの一帯は「越中舞子」と呼ばれる白砂青松の風光明媚な景勝地でした。

  一行は東岩瀬宿から神通川を舟で渡り、四方、海老江の集落を経て放生津に到り、放生津八幡宮を参詣しました。
  放生津の北の「越の海」一帯が放生津潟(越の潟)で、古くは「奈呉浦」と呼ばれ、伏木の浦から西方氷見に至る一帯が有磯海と考えられています。
  放生津の放生津八幡宮(射水市八幡町二丁目)は社伝によれば、天平十八年(746)、越中國司大伴家持(718頃〜785)が豊前國宇佐八幡宮から勧請した奈呉八幡宮を創始として、嘉暦三年(1328)に放生津の地名が定められ、以降、放生津八幡宮として現在に至っていると伝えられています。
 
  大伴家持は二十九歳の天平十八年(746)七月、國司として越中國に赴任し、その雄大な自然と風土にふれて、天平勝寶三年(751)までの在任五年間で、二百二十余首の歌を詠み、奈呉、奈呉の海、奈呉の江、奈呉の浦を詠んだ秀歌を残しています。

  芭蕉の越中歌枕探訪は、大伴家持の歌を追憶するに留まり、同席して俳諧を楽しむ者に出会うこともなかったので、歌枕の一つ「有磯海」を句に詠むのが精々の慰めであったのであろうかとの解説もあります。

  放生津八幡宮に参詣し、奈呉の浦の風景を楽しんだ芭蕉翁一行は濱街道を西に進み、庄川や小矢部川を舟で渡り、歌枕の二上山(高岡市)や担籠藤波神社(氷見市下田子)に行く予定でありましたが、そこは漁師の粗末な茅葺きの家ばかりで、一夜の宿を貸す者もいないと言い脅されたので、断念して加賀國に入ったと本文に書き記しています。

  芭蕉翁一行が訪れることを断念した担籠藤波神社は、かつては潟湖の岸辺にあったと云い、現在は雨晴海岸(高岡市太田)あたりから3㎞ほど内陸に入った下田子の藤山という丘陵に鎮座しています。
  この古社は、天平十八年(746)、越中國司大伴家持に従ってきた橘正長が、家持から授けられた太刀を天照大神祭の霊代として奉納し、劔社と名付けて創始したのがはじまりと伝えられています。

  このあたりは、『萬葉集』に出てくる「布勢の水海」の入江の一つで、田子浦(多胡の浦)という歌枕にもなっており、古来から藤の名所でもありました。

    十二日遊覧布勢水海船泊於多祜灣望見藤花  各述懐作歌四首
    藤奈美乃  影成海之  底清美  之都久石乎毛  珠等曾吾見流

    藤波の影なす海の底清み  沈(しづ)く石をも  玉とぞ我が見る     守大伴宿祢家持

  田子浦は、かつては田子の白藤の群生地として知られ、藤の精が現れて舞を舞って暁とともに消えて行くという、謡曲『藤』の舞台でもありました。

  田子浦は現在、雨晴海岸と呼ばれていますが、此の由来は、文治三年(1187)、源義経(1159〜1189)が北陸路を経て奥州平泉へ下向する際にこの地を通りかかったときに俄雨に遭い、弁慶が岩を持ち上げて義経を雨宿りさせたという伝説から来た名称だと云われています。

  海岸には女岩、男岩などが点在し、越の海越しに雄大な立山の山並みを背景にして、絶景を作り出しています。越中國司として伏木に在住した大伴家持が、此の絶景を詠んだ多くの和歌が『萬葉集』に収められています。

    馬並氐  伊射宇知由可奈  思夫多尓能  欲吉伊蘇未尓  与須流奈弥見尓
    馬並めていざ打ち行かな澁谿の  清き磯廻に寄する波見に     守大伴宿祢家持

  芭蕉翁一行は萬葉の故地として、かねてより心を寄せていた田子浦を訪ねようとしましたが果たせず、諦めて庄川を舟で渡って六度寺に入り、道を南西に向かい、右手に歌枕の二上山を遠望しながら、吉久、能町を経て、申ノ上刻(午後四時頃)に高岡に着き、旅篭町に宿をとりました。

  曾良は、「翁、気色不レ勝。 暑極テ甚。小□同然。」と記しています。□は原文難読で、残暑の酷しい中を十里弱歩き続けたため、体調を崩してしまったのかもしれません。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:55おくの細道、いなかの小道

2017年09月14日

奥の細道、いなかの小道(33)− 一振、邦古の浦(1)

    

      正岡子規(1867〜1902)


    (旧暦7月29日)

  子規忌、糸瓜忌、獺祭忌
  俳人、歌人の正岡子規(1867〜1902)明治三十五年(1902)九月十九日の忌日。辞世の句に糸瓜を詠んだことから糸瓜忌、獺祭書屋主人という別号を使っていたことから獺祭忌とも呼ばれる。

  芭蕉翁一行は糸魚川を昼過ぎに出立し、難所の子不知、親不知を通って申ノ中尅(午後4時頃)には市振の旅籠桔梗屋(脇本陣)に到着しているので、糸魚川〜市振間の約五里ほどを4時間弱で踏破したことになるのでしょうか、相当の健脚と云わねばなりますまい。

      〈一 振〉
      今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北國一の難處を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声 
      二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の國新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此關までおのこの送りて、あ
      すは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、
      日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れ
      ば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は
      所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし 。
            一家に遊女もねたり萩と月
      曾良にかたれば、書とゞめ侍る。

   
    

       市  振

  『おくのほそ道』のこの文章は、芭蕉の創作ではないかと推定されています。曾良の旅日記にも市振宿で遊女と出会った記録はなく、『俳諧書留』にもこの句は収載されていません。

  この遊女との出会いの物語は、謡曲「山姥」(世阿彌作)を下敷きに創作したのではないかと考えられています。

      都に山姥の山廻りの曲舞(くせまい)で有名な百萬(ひゃくま)山姥と呼ばれる白拍子がいた。
      ある時、百萬山姥が信濃國善光寺に参詣を思い立ち、従者を連れて旅に出た。途中、越後の上路(あげろ)という山路にさしかかったところで急に
      日が暮れてしまい、途方に暮れていると一人の女が現れ、一夜の宿を提供するからと山中の我が家へ一行を案内する。家に着くとその女は、実は 
      自分が山姥の霊であることを明かし、百萬山姥が曲舞で名を馳せながら、その本人を心に掛けないことが恨めしい、と言う。


      道を極め名を立てて、世上萬徳の妙花を開く事、この一曲の故ならずや、しからばわらはが身をも弔ひ、舞歌音楽の妙音の、声佛事をもなし給は 
      ば、などかわらはも輪廻を免れ、歸性の善處に至らざらん


      ここで百万山姥の曲舞を聞いてこの妄執を晴らしたい、と歌の一節を所望してその姿を消す。

      我國々の山廻り。今日しもここに來るは。我が名の徳を來かん爲なり。謡い給いてさりとては。我が妄執を晴らし給え。

      百萬山姥が約束通り、山姥の曲舞を始めると真の山姥が姿を現する。そして本当の山姥の生き様を物語り、山廻りの様を見せるが、いつしか峰を翔
      リ、谷を渡って行く方知れず消え失せる。 
          宝生流謡曲 「山 姥」


    

    山姥  『畫圖百鬼夜行』  安永五年(1776)刊  鳥山石燕

  この舞台となっている「上路越え」は、親不知の海道が通れない非常時に使われた険しい峠道となっています。芭蕉はこの謡曲を知っていたので、後年、『おくのほそ道』の起稿に際して、加筆した虚構の一つと考えられています。

  さて、市振宿での遊女との出会いが創作ではないかと考えられていることについては、以下のような理由によることだそうです。

    face01①  当時の時代背景を考慮すると、遊女二人だけで伊勢参宮のために長旅をすると云うことはありえない。

    face02②  遊女にそのような旅をする資金や暇があったとは思えず、仮にあったとしても、女性だけの旅には特に厳しかった時代である。

    face03③  市振は越後・越中の国境の宿場であり、芭蕉應一行が泊まった宿は脇本陣の旅籠桔梗屋で、身分制度の厳しい時代に遊女が脇本陣に泊まるとは考えられない。

    face05④  元禄二年(1689)は伊勢神宮の式年遷宮があった年で、『おくのほそ道』の終章「長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと」に関わりを持たせるために、「越後の國新潟と云處の遊女成し。伊勢参宮するとて」を創作挿入したのであろうか。

      ○白浪のよする汀に
      湊町新潟を叙情的に表したもので、『和漢朗詠集』遊女の下記の歌を踏まえたものとされています。
 
      しらなみのよするなぎさに世をすぐす あまのこなればやどもさだめず
                      読人不知
            下巻 雜 遊女

 
      ○定めなき契り
      夜ごとに変わる相手に身を任せることで、『撰集抄』巻九第八話「江口遊女事」を下敷きにしているとのこと。

      心は旅人の行き來の船を思ふ遊女のありさま、「いとあはれに、はかなきものかな」と見立てりし
            撰集抄 巻九第八話 江口遊女事



      ○日々の業因
      罪な日々を送るべく定められた前世の因縁のことで、謡曲『江口』の内容を踏まえているか。
   
      シテ     然るに我等たまたま受け難き人身を受けたりといへども
      地        罪業深き身と生まれ、殊にためし少き川竹の流れの女となる。さきの世乃報いまで、思ひやるこそ悲しけれ
            謡曲  江口

      ○行衛しらぬ旅路
      前途の道筋もよくわからぬ道中のことで、謡曲『江口』の次の一節をかすかにひびかせているとのこと。

      地    來世なほ來世。更に世々(せぜ)の終りを辨(わきも)ふる事なし
            謡曲  江口


      ○見えがくれにも
      「そばに遊女がついて行くのもご迷惑でしょうから、せめては見えたり隠れたりの、つかず離れずの形ででも」との意で、これも謡曲『江口』の次の一説によるものか。

      シテ    黄昏に、たゝずむ影はほのぼのと、見え隠れなる川隈に、江口の流れの君とや見えん恥かしや
            謡曲  江口


      ○神明の加護
      伊勢参宮に関係付けて、特に皇大神宮(内宮)の助けを云い、謡曲『斑女』の一節が投影されているものか。

      地    置處いづくならまし身のゆくへ
      地    心だに誠の道にかないなば。誠の道にかないなば。祈らずとても。神や守らん我等まで真如の月は雲らじを。
            謡曲  斑女



      ○結縁せさせ給へ
      仏法と縁を結ぶことで、謡曲『田村』の次の一節に基づくか。

      後シテ    あら有難の御經やな。清水寺の瀧つ波。一河の流を汲んで。他生の縁ある旅人に。言葉を交す夜声の読誦。是ぞ則ち大慈大悲の、
                   観音擁護の結縁たり。
            謡曲  田村


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Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:29おくの細道、いなかの小道

2017年09月10日

奥の細道、いなかの小道(32)− 越後路(2)

    

    向井去來(1651〜1704)

    (旧暦7月23日)

    去來忌
    江戸前期の俳人向井去來(1651〜1704)の寶永元年(1704)旧暦九月十日の忌日。 蕉門十哲の一人で、儒医・本草学者の向井元升
    (1609〜1677)の次男として肥前国 (長崎市興善町)に生まれる。陰陽道などの学をもって堂上家に仕え、貞享年間 (1684~1688) 頃、寶井其  
    角(1661〜1707)を介して芭蕉に入門。洛西嵯峨野の落柿舎に住み、元禄四年 (1691) 年、芭蕉はここで『嵯峨日記』を執筆した。同年、野沢凡兆
    (1640〜1714)と共に、蕉風の代表句集「猿蓑」を編纂した。篤実な人柄で同門の人々にも尊敬され、芭蕉も最も信頼して「鎮西の俳諧奉行」といっ
    たという。

        秋風や白木の弓に弦はらん
        湖の水まさりけり五月雨
        をととひはあの山越つ花盛り
        尾頭のこころもとなき海鼠哉
        螢火や吹とばされて鳰の闇
        鳶の羽も刷ぬはつしぐれ
        應々といへど敲くや雪の門
        岩鼻やここにもひとり月の客


    奥の細道、いなかの小道(31)− 越後路(1)のつづき

        ○五日 朝迄雨降ル。辰ノ上刻止。出雲崎ヲ立。間モナク雨降ル。至ニ柏崎ニ、天や彌惣兵衛へ彌三良状届、宿ナド云付ルトイヘドモ、不 
            快シテ出ヅ。道迄両度人走テ止、不止シテ出。小雨折々降ル。申ノ下尅、至ニ鉢崎 。宿たわらや六郎兵衛。
                『曾良旅日記』


    旧暦七月五日(陽暦八月十九日)、昨夜からの雨が止んだので、芭蕉翁一行は辰ノ上刻(午前八時頃)、柏崎へ向かって出立しました。
    北國街道は海沿いに続き、石地、長磯の集落を過ぎると、前歩に海に突き出した観音崎が見えます。岬の南側の坂を下ったところが椎谷で、遠くに越後富士と称される三角形の米山(標高993m)が望まれます。

    当時の椎谷は、上総八幡藩一萬石初代藩主堀直良(1643〜1691)の領地でした。椎谷から宮川、大湊、荒濱の間の二里半ほどの海浜は「越の高濱」と呼ばれ、特に大湊から荒濱にかけては、標高70mを超す有数の大砂丘であったそうです。

    芭蕉翁一行は雨の中を九里程歩いて、申ノ下尅(午後四時頃)に柏崎に着き、天屋彌惣兵衞邸を訪ね、象潟で知り合った美濃の國の商人宮部彌三郎(俳号は低身)の紹介状を示して、一夜の宿を請いました。
    しかし、天屋彌惣兵衞に不愉快な扱いを受けた芭蕉は、激怒して彌惣兵衞邸を出て行ってしまいました。後で俳人芭蕉であることに気づいたのか、使用人が二度も追いかけてきて不手際を詫びましたが、芭蕉はそのまま雨の降る中を次の宿場の鉢崎へ歩いて行ってしまいました。

    天屋は柏崎の大庄屋で、本姓は市川氏、当主の彌惣兵衛は江戸前期の歌人、俳人北村季吟(1625〜1705)門下の俳人で笑哉と称していました。

    

    天保國繪圖    越後國    高田長岡領
 
    柏崎は北國街道の宿場町だけでなく、北前船の寄港地や小千谷や十日町といった内陸部との間に高田街道が延びる交通の要衝として繁栄していました。
    高田藩の所領以降は白河藩、桑名藩と変遷しましたが、領主は松平越中守の代々支配が変わらず、享保元年(1741)、大久保には陣屋が設けられ、領内221カ村の総支配所として柏崎は周囲の行政的な中心地ともなっていきました。

    一行は柏崎の街を西へ向かい、鵜川に架かる橋を渡って鯨波を通り、海岸沿いの道を進んで青海川の深い渓谷を渡り、笠島集落を過ぎると米山峠にさしかかります。下り上りを繰り返して上輪の亀割坂を越え、聖ヶ鼻のあたりから坂を下ると鉢崎(柏崎市米山町)で、入口には関所がありました。一行は小雨の降る中を、柏崎からさらに四里程歩いて、酉の刻(午後六時頃)、俵屋六郎兵衛という旅籠に投宿しました。

    一行は出雲崎から十三里弱も歩き、おくの細道行脚の中では最長の歩行距離を踏破しました。なお、俵屋は代々庄屋で、三百年以上も前から鉢崎で栄えた旧家でしたが、今はその跡は空き地になり、たわら屋跡の標注が立つのみになっています。

        ○六日 雨晴。鉢崎ヲ昼時、黒井ヨリスグニ濱ヲ通テ、今町へ渡ス。聴信寺へ彌三状届。忌中ノ由ニテ強テ不止、出。石井善次良聞テ人ヲ 
            走ス。不レ歸。及再三、折節雨降出ル故、幸ト歸ル。宿、古川市左衛門方ヲ云付ル。夜ニ至テ、各來ル。発句有。

        ○七日 雨不レ止故、見合中ニ、聴信寺へ被レ招。再三辞ス。強招クニ及暮。 昼、少之内、雨止。其夜、佐藤元仙へ招テ俳有テ、宿。夜中、風雨
            甚。
                『曾良旅日記』


    旧暦七月六日(陽暦八月二十日)、昨日は出雲崎から鉢崎まで十三里弱の長距離を歩いた芭蕉翁一行は、雨が降っていたので晴れるのを待って俵屋で休養し、昼時に今町(直江津)へ向かって出立しました。
 
    一行は北國街道を南下して行きましたが、このあたりは往時、さい濱と呼ばれた砂礫の悪路で、土地の人々は歯のない下駄を履いて歩いたといいます。
 柿崎、上下濱、潟町、荒濱を過ぎて黒井宿では、旅籠の傳兵衞方で休憩しました。
 
    黒井宿を出て関川を舟で渡ると、今町(直江津)に着き、宿所と予定していた浄土真宗大谷派の聴信寺を訪ね、美濃の國の商人宮部彌三郎の紹介状を示しましたが、住持は「忌中」を理由に宿泊を拒みました。

    芭蕉らは強いて頼まずに寺を出たところで、其れを聞いていた石井善次郎という人が寺と交渉してくれ、さらに人を走らせて、今町で泊まるように再三にわたり引き止めました。曾良は「不レ歸」と強い怒りを現していますが、折節雨が降ってきたので、寺近くの古川市左衛門宅(旅籠松屋)に泊まることになりました。

    夜になって今町の聯衆が松屋に集まり、さっそく俳筵興行が開催され、芭蕉は七夕の前日を意識した発句を披露しましたが、二十句で終了し、「歌仙」(三十六句)は満尾しませんでした。

            文月や六日も常の夜には似ず     はせを

    この俳筵に参加した義年は旅籠松屋の主人古川市左衛門で、芭蕉らの宿泊を断った忌中のはずの聴信寺の住持眠鴎も同座していました。
 
    翌旧暦七月七日(陽暦八月二十一日)、この日は七夕の日でしたが、朝から雨でした。芭蕉翁一行は、雨が止まないので出立を見合わせていると、忌中のはずの聴信寺から招待されました。
    曾良は「再三辞ス」と記していますが、強く招かれたので仕方なく赴き、夕刻まで聴信寺に滞在してしまいました。

    この夜、地元の俳人で医師の佐藤右雪宅に招かれ、右雪の
            星今宵師に駒ひいてとゞめたし
を発句に、曾良、芭蕉、棟雪(細川春庵)、更也(鈴木與兵衛)らで五吟歌仙興行が開催されましたが、完結しませんでした。この夜、一行は佐藤右雪宅に一泊しましたが、夜中は風雨が激しく打ち付けていました。
 
        ○八日 雨止。欲レ立。強テ止テ喜衛門饗ス。饗畢、立。未ノ下剋、至ニ高田一。細川春庵ヨリ人遣シテ迎、連テ來ル。春庵へ不レ寄シテ、先、
            池田六左衛門ヲ尋。客有。寺ヲかり、休ム。又、春庵ヨリ状來ル。頓テ尋。発句有。俳初ル。宿六左衛門、子甚左衛門ヲ遣ス。謁ス。
 
        ○九日 折々小雨ス。 俳、歌仙終。
 
        ○十日 折々小雨。中桐甚四良へ被レ招、歌仙一折有。夜ニ入テ歸。夕方ヨリ晴。
                『曾良旅日記』


    旧暦七月八日(陽暦八月二十二日)、朝になって雨が上がり、一行は今町を出立して高田へ向かおうとしていましたが、石塚喜衛門(左栗)に強く引き止められ、別れの馳走を相伴しました。

    饗応が済んで出立の際、
            行く月をとゞめかねたる兎哉             此竹
            七夕や又も往還の水方深く              左栗

との餞別句が贈られました。

    当時の高田は、相模小田原藩主で京都所司代を罷免された稲葉正往(正通:1640〜1716)が、貞享二年(1685)十二月に十万三千石で移封されて再び高田藩を立藩してより三年余でした。
    北國街道はその政策上、高田城下を通過するようになっており、また、この先の越中との国境に設けられた市振関所は高田藩が所管しており、通過するには通行手形をもらう必要がありました。

    芭蕉翁一行が高田に赴いた理由は、通行手形を貰う必要と医師で俳人の細川春庵の招待があったからでした。

    一行は今町から北国街道を南下して、木田、木田新田、藤新田を経て、未ノ下剋(午後三時頃)に高田に到着しました。
    細川春庵から使いの人が迎えに来ましたが、寄大工町の春庵宅には寄らずに、宿を頼むことになっていた池田六左衛門(俳諧を嗜む町年寄)宅に赴いたところ、来客があり、やむなく近くの寺で休息しました。そこに細川春庵より書簡が届いたので、春庵宅を訪ねました。

    

    天保國繪圖    越後國    高田領

    春庵宅で草鞋を脱ぐと、地元の俳人鈴木與左衛門(俳号は更也)を交えて四吟歌仙を開催し、芭蕉の発句を春庵への挨拶として
            藥欄にいづれの花をくさ枕       翁
の句で興行が始まりました。

    藥欄は薬草園のことで、芭蕉は挨拶として春庵の薬草園の花を褒めただけではなく、其れが病気を治す薬草であり、春庵が医師であることの安心の気持ちを上品な洒落を込めて表したのであると解説されています。

    その後、宿所と決めていた池田六左衛門が、息子の甚左衛門を使いによこしたので面会し、春庵宅に泊めてもらうからと宿所を断り、息子を帰しました。

    翌旧暦七月九日(陽暦八月二十三日)は、一日中小雨が降ったり止んだりしていました。
    曾良は、「俳、歌仙終。」と記していますが、『俳諧書留』には後続の句が記載されておらず、四吟歌仙は満尾しなかったものと解されています。

    旧暦七月十日(陽暦八月二十四日)、この日も時々小雨が降りましたが、夕方から晴れました。中桐甚四良(詳細不明)宅に招かれ歌仙一折(未詳)があったと云いますが、句は残されていません。夜になって、池田六左衛門宅へ帰りました。

    ちなみに、昔は歌仙を懐紙二枚に書き留め、一枚目を初折、二枚目を名残の折とか後(のち)の折と呼んだそうです。
    懐紙を折り、両面に句を書き留めますが、二枚あるので四面となり第一面を初折の表、第二面を初折の裏、二枚目の第三面を名残(後)の表、第四面を名残(後)の裏と呼びました。

    芭蕉翁一行は今町に二泊、高田に三泊し、越後路においては一番長い滞在でしたが、度重なる歌仙は満尾できず、今町や高田における芭蕉の足跡は印象の薄いものになっています。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:08Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年09月09日

奥の細道、いなかの小道(31)− 越後路(1)

    

      Artist's impression of the Milky Way.
      This detailed annotated artist’s impression shows the structure of the Milky Way, including the location of the spiral arms and other  components such as the bulge. This version of the image has been updated to include the most recent mapping of the shape of the central bulge deduced from survey data from ESO’s VISTA telescope at the Paranal Observatory.

   (旧暦閏7月19日)

    平成十九年(2007)五月十二日から始めた「奥の細道、いなかの小道」の旅は、十年経っても全行程の七割五分が終わった程度で、いつになったら終わるのか覚束なく、これからは精力的に取り組んで参る固い決意でございます。

      酒田の余波日を重て、北陸道の雲に望。遙々のおもひ胸をいたましめて加賀の府まで百卅里と聞。鼠の關をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中
      の國一ぶりの關にいたる。此間九日、暑湿の勞に神をなやまし、病おこりて亊をしるさず。
 
        文月や六日も常の夜には似ず 
        荒海や佐渡によこたふ天河


    酒田から百三十里彼方の加賀の府金澤を目指して旅立った芭蕉翁一行ですが、『おくのほそ道』本文には、その間の記載は越後路、一振、那古の浦の三章しかなく、「これは早く進むので楽勝か」と思いきや、『曾良旅日記』を参照すれば、鼠ヶ關、中村(北中)、村上、築地、新潟、彌彦、寺泊、出雲崎、柏崎、鉢崎(米山)、今町(直江津)、高田、能生、糸魚川、親不知、市振と越後路には実際には十五日間を要しており、全く「暑湿の勞に神をなやまし、病おこりて亊をしるさず。」と芭蕉翁が記したとおりの大変な道中であったのですねえ。

    ああ、しんど!

     ○廿七日 雨止。温海立。翁ハ馬ニテ直ニ鼠ヶ關被レ趣。予ハ湯本へ立寄、見物シテ行。半道計ノ山ノ奥也。今日も折々小雨ス。及レ暮、中村ニ宿
        ス。
          『曾良旅日記』


    旧暦六月二十七日(陽暦八月十二日)、出羽に別れを告げ、芭蕉翁は馬に乗って鼠ヶ關を目指しましたが、曾良は半里ほど山側の湯温海に立ち寄り見物することになりました。
    芭蕉翁は濱温海から海岸沿いに南下して、大岩川、小岩川、早田(わさだ)などの集落を経て、鼠ヶ關に到りました。

    念珠關は、白河關、勿来關と並んで奥州三古關の一つで、和銅五年(712)、出羽國念珠關村大字鼠ヶ關の鼻喰岩付近の要害の地に設置され、後に南の浦沢に、さらに江戸期になって現在地に移されています。

    江戸期には鼠ヶ關口留御番所と称し、鼠の印を用いていたと云います。關守は、慶長年間(1596〜1615)から代々佐藤氏がつとめ、元和八年(1622)、庄内藩主酒井氏が領有することになると、目付役と足軽二人、それに佐藤氏によって守られていました。なおこの関所には、唐船場や大筒場があって沖を航行する船も監視していたと云います。

    鼠ヶ關を過ぎて羽州濱街道を南下し、中濱、岩崎、府屋を経て勝木に至ると羽州濱街道は山間部に入り、勝木川に沿って上大藏、下大鳥、上大鳥、中津原を経て、中村に(北中)至ります。
    芭蕉翁一行は、暮れに及んで中村に到着しました。中村は、江戸時代には出羽街道と羽州濱海道の表裏二街道が合流する宿場であり、かなりの賑わいであったと云います。
 
      ○二十八日 朝晴。中村ヲ立、到蒲萄(名ニ立程ノ無レ難所)。甚雨降ル。追付止。申ノ上刻ニ村上ニ着、宿借テ城中へ案内。喜兵・友兵來テ逢。彦左
          衛門ヲ同道ス。
            『曾良旅日記』


    旧暦六月二十八日(陽暦八月十三日)、芭蕉翁一行は難所とされた葡萄峠を越えるために早朝に出立し、出羽街道を村上に向かいました。中村より大毎を経て半里ほどで大澤、ここから大澤峠を越えて矢向明神を過ぎ、さらに葡萄峠を越えて行きましたが、葡萄峠はそれほど険しい峠ではなかったようです。
    しかし、芭蕉翁一行が通過してから約百年後の天明六年(1786)三月、この地を訪れた京の儒醫橘南谿(1753〜1805)はその紀行『東遊記』の「葡萄嶺雪に歩す」の中で、以下のように記しています。

      抑此葡萄峠は羽越の界にて、山の間甚だ深く、雪中のみならず、四時とも旅人の難儀する所也。此峠昔強盗の出でて旅人あまた殺害し、今も往來
      の人の恐るる所也。
          『東遊記』の「葡萄嶺雪に歩す」 橘南谿

 
    葡萄峠を越え、葡萄の宿場から長坂峠を越えて緩やかな下り坂を下り、大須戸、旧宿場の塩野町、早稲田、板屋越、檜原、猿澤、鵜渡路の集落を経て、下中島で三面川の「お宮の渡し」を渡り、出羽街道の出口山辺里を抜けて三面川の支流門前川に架かる山辺里橋を渡ると、村上城下の片町に至ります。

    


    芭蕉翁一行は申ノ上刻(午後四時頃)、村上城下小町の旅籠大和屋久左衛門宅(井筒屋旅館)に草鞋を脱ぎました。曾良は旅籠に着くと、城代家老榊原帶刀邸に村上到着を知らせました。
    すると、旧知の喜兵衛(斎藤氏)、友右衛門(加藤氏)、彦左衛門(黒田氏)らが旅籠に来たので、榊原帶刀邸に挨拶のために出かけました。

    芭蕉翁一行が訪れた村上は、村上藩榊原氏十五萬石の城下町で、村上藩第二代藩主従五位下式部大輔勝乘(1675〜1726)はまだ十五歳であったため、入封することなく江戸藩邸(現首相官邸の場所)に居住しており、藩主の一族の榊原帶刀直榮(なおひさ)が城代家老として務めていました。
    榊原帶刀直榮は、徳川四天王の一人として名高い上野國初代館林藩主榊原康政(1548〜1606)の兄清政(1546〜1607)の家系から出ている家柄で、二千四百石を領していました。

    

        天保國繪圖    越後國    新發田村上領 

      ○廿九日 天気吉。昼時喜兵・友兵來テ(帶刀公ヨリ百疋給)、光榮寺へ同道。一燈公ノ御墓拝。道ニテ鈴木治部右衛門ニ逢。歸、冷麥持賞。未ノ下
          尅、宿久左衛門同道ニテ瀬波へ行。歸、喜兵御隠居ヨリ被レ下物、山野等ヨリ之奇物持參。又御隠居ヨリ重之内被レ下。友右ヨリ瓜、喜兵内
          ヨリ干菓子等贈。
            『曾良旅日記』


    翌旧暦六月二十九日(陽暦八月十四日)、前日に曾良が城代家老榊原帶刀に父君大學良兼の墓参を申しので、昼時に斎藤喜兵衛、加藤友右衛門が帶刀からの餞別金子百疋(1/4兩、約3万円程度)を持参し、ともに菩提寺の光榮寺に赴き墓参を行いました。

    城代家老榊原帶刀の父榊原大學良兼は伊勢長島藩初代藩主松平良尚(1623〜1696)の四男で、寛文九年(1669)、十五歳の時に一族の榊原外記直久の養嗣子となり、貞享四年(1687)七月二十九日に三十三歳で村上で没し、大乘院法岩一燈居士と諡され、榊原家の国附菩提寺光榮寺に埋葬されていました。

    河合曾良(1649〜1710)は、かつて伊勢長島の城主松平佐渡守良尚(後に康尚と改め、六十二歳の時致仕を許され全入と號す)の家士でした。榊原大學良兼は、曾良にとっては旧主家の嫡子でありました。曾良が、この旅で芭蕉に同行した理由のひとつがこの一燈への墓参だったと言われています。

    ちなみに曾良は天和元年(1681)頃に長島藩を致仕し、江戸に居を移して、天和二年(1682)に幕府神道方となった吉川惟足(1616〜1695)のもとで吉川神道を学び、延喜式、古事記、日本書紀、萬葉集などで国学の知識も身につけました。さらに地誌も学んだことにより、この学問が「おくのほそ道」の旅で最大限に発揮されたとされています。

    光榮寺墓参の帰り道に旧知の鈴木治部右衛門に出会い、宿で冷や麦の持て成しを受けました。
    未ノ下尅(午後二時半頃)、曾良らは宿の主人の久左衛門に案内されて、当時湊町として栄えていた瀬波へ出かけました。

    村上城下から瀬波への道は松並木八町といわれ、概ね半里、砂丘まで平坦な地が続き、瀬波は村上の別墅とされていました。その砂丘に立てば、全面に日本海が広がり、右手に粟島、左手に佐渡を望み、遠く海岸線の果てに彌彦、角田を眺め、松嶺を聴く景勝地でした。一行は、三面川河口に建つ多岐神社(祭神は多岐津島姫)を参詣したのかもしれません。

    一行が宿に帰ると、斎藤喜兵衛が御隠居からの下され物として「山野等ヨリ之奇物」を持参してきました。また、御隠居から重箱入りのご馳走が届けられました。この御隠居が誰であるかは不明とのことです。さらに、加藤友右衛門からは甘瓜、斎藤喜兵衛の内儀からは干菓子などが送られました。
 
      一 七月朔日 折々小雨降ル。喜兵・太左衛門・彦左衛門・友右等尋。喜兵・太左衛門ハ被レ見立。朝之内、泰叟院へ参詣。巳ノ尅、村上ヲ立。午ノ
          下尅、乙村ニ至ル。次作ヲ尋、甚持賞ス。乙寶寺へ同道、歸テつゐ地村、息次市良方へ状添遣ス。乙寶寺參詣前大雨ス。即刻止。申ノ上
          剋、雨降出。及レ暮、つゐ地村次市良へ着、宿。夜、甚強雨ス。朝、止、曇。
            『曾良旅日記』


    旧暦七月朔日(陽暦八月十五日)、曾良と旧知の斎藤喜兵衛、太左衛門(姓不詳)黑田彦左衛門、加藤友右衛門らが宿に訪れました。曾良たちは朝のうちに榊原家の菩提寺泰叟院へ参詣しました。

    泰叟院は歴代藩主の菩提寺で、享保二年(1717)に上野高崎藩から越後村上藩へ転封された間部詮房(1666〜1720)が村上で死去すると菩提寺である浄念寺に葬られ、墓碑と御霊屋が設けられています。
    間部詮房は、六代将軍徳川家宣(在任:1709〜1712)と七代将軍徳川家継(在任:1713〜1716)に仕え、所謂「正徳の治」を断行し側用人(老中格)などの幕府要職を歴任しましたが、八代将軍に徳川吉宗(在任:1716〜1745)が就任すると政争に破れ、事実上の左遷として村上藩に配されています。
 
    芭蕉翁一行は斎藤喜兵衛、太左衛門(姓不詳)らに見送られて、巳ノ尅(午前十時頃)に村上を出立し、築地へ向かいました。途中、岩船三日市の岩船神社に参詣したものと思われていますが、定かではないようです。
    岩船神社は延喜式の磐舟郡八座の筆頭に記されており、祭神は岩船社としての饒速日命(にぎはやひのみこと)、貴船社としての罔象女神(みつはのめのかみ)、高靇神(たかおかみのかみ)、闇靇神(くらおかみのかみ)の四神と云うことです。

    一行は、石川に架かる明神橋を渡り、松林の中のお幕場道を抜けて、岩船、北新保を経て塩谷に出ました。ここから荒川を舟で渡ると桃崎濱で、北國濱街道は日本海の海岸に沿って新潟に伸びていますが、芭蕉翁一行は濱街道から離れ、まっすぐに南下して乙(きのと)村の次作という者を訪ねました。

    次作がどのような人物であったかは不明ですが、一行を大変歓待し、その後、次作の案内で乙寶寺に参詣しました。

    

    北國一覧寫    蒲原郡乙村乙寶寺    天保二年(1831)    長谷川雪旦(1778~1843)
 
    乙寶寺は天平八年(736)、第四十五代聖武天皇(在位:724〜749)の勅願を受けて行基菩薩(668〜749)と婆羅門僧正の菩提僊那の二人の高僧によって開山されましたが、その際に釈尊の両眼の舎利を請来した菩提僊那が、右目の舎利は中国の寺に、左目の舎利は当寺へと甲乙に分けて供養したことから、彼の国の寺は「甲寺」、此の国の寺は「乙寺」と名付けられたとの伝承です。

    その後、後白河院(1127〜1192)より舎利を奉安する金の宝塔を賜り、併せて「寶」の一文字を与えられ爾来、乙寶寺と名前を変えて現在に至っています。一山に一千の僧坊があり平安中期の国使紀躬高の尊信篤く、また上杉家から寺領百石を与えられ、後の元和三年(1617)、時の村上城主村上義明(?〜1604)から寺領百石を寄贈されています。

      今昔、越後の國三島の郡に、乙寺と云ふ寺有り。其の寺に一人の僧住して、昼夜に法華經を読誦するを以て役として、他の亊無し。而る間、二の猿
      出来て、堂の前に有る木に居て、此の僧の法華經を読誦するを聞く。朝には來て、夕には去る。此如く爲る亊、既に三月許に成ぬるに、日毎に闕か
      さずして、同様なる居て聞く。僧、此の亊を怪み思て、猿の許に近く行て、猿に向て云く、「汝ぢ猿は月來此如く來て、此の木に居て經を読誦する
      を聞く。若し、法華經を読誦せむと思ふか」と。猿、僧に向て、頭を振て受けぬ気色也。僧、亦云く、「若し、經を書寫せむと思ふか」と。其の時
      に、猿、喜べる気色にて、僧、此れを見て云く、「汝ぢ、若し經を書寫せむと思はば、我れ、汝等が爲に経を書寫せむ」と。猿、此れを聞て、口
      を動して、尚、かゝめきて喜べる気色にて、木より下て去ぬ。

      其の後、五六日許を經て、数百の猿、皆物を負て持來て、僧の前に置く。見れば、木の皮を多く剥ぎ集めて持來て置く也けり。僧、此れを見るに、
      「『前に云ひし經の料の紙漉け』と思ひたる也けり」と心得て、奇異に思ゆる物、貴き亊限無し。

      其の後、木の皮を以て紙に漉きて、吉き日撰び定めて、法華經を書き始め奉る。始むる日より、此の二の猿、日毎に闕かさず來る。或る時には、署
      預・野老を掘て持來る。或る時には、栗・柿・梨・棗等を拾て持來て、僧に与ふ。僧、此れを見るに、「彌よ奇異也」と思ふ。

      此の經、既に五巻を書き奉る時に成て、此の二の猿、一両日見えず。「何なる亊の有るにか」と怪び思て、寺の近き邊に出でて、山林を廻て見
      るに、此の二の猿、林の中に署預を多く掘り置て、土の穴に頭を指入て、二つ乍ら同じ様に死て臥せり。僧、此れを見て、涙を流して泣き悲むで、
      猿の屍に向て法華經を読誦し、念佛を唱へて、猿の後世を訪けり。

      其の後、僧、彼の猿の誂へし法華經を書畢てずして、仏の御前の柱を刻て籠め置き奉つ。

      其の後、四十余年を經たり。其の時に藤原の子高の朝臣と云ふ人、承平四年と云ふ年、当國の守と成て、既に國に下ぬ。國府に着て後、未だ神事を
      も拝せず、公事をも始めざる前に、先づ夫妻共に三島の郡に入る。共の人も館の人も、「何の故有て、此の郡には怱ぎ入給ふらむ」と怪び思ふに、
      守、國寺に参ぬ。住僧を召出でて問て云く、「若し、此の寺に書畢てざる法華經や御ます」と。僧共、驚て尋ぬるに、御まさず。

      其の時に、彼の經を書きし持經者、年八十余にして、老耄し乍ら、未だ生て有けり。出來て守に申して云く、「昔し、若かりし時、二の猿来て、
      然々して教へて書かしめたりし法華經御ます」と申て、昔の亊を落さず語る時に、守、大に喜て、老僧を礼て云く、「速に其の經を取出し奉るべ
      し。我れは、彼の經を書き畢奉らむが爲に人界に生れて、此の國の守と任ぜり。彼の二の猿と云ふは、今の我等が身、此れ也。前生に猿の身とし
      て、持經者の読誦せりし法華經を聞しに依て、心を發して『法華を書寫せむ』と思ひしに、聖人の力に依て法華を書寫す。然れば、我等聖人の弟子
      也。専に貴び敬ふべし。此の守に任ずる、輙き縁に非ず。極て有難き亊也と云へども、偏へに此の經を書き畢奉らむが故也。願くは、聖人、速かに
      此の經を書き畢奉て、我が願を満よ」と。老僧、此の亊を聞て、涙を流す亊雨の如し。即ち、經を取出し奉て、心を一にして書畢奉つ。
   
      守、亦三千部の法華經を書き奉て、彼の經に副へて、一日法會を儲て、法の如く供養し奉てけり。

      老僧は此の經を書奉れる力に依て、浄土に生れにけり。二の猿、法華經を聞しに依て、願を發して、猿の身を棄てて人界に生れて、國の司と任ず。夫
      妻共に宿願を遂て、法華經を書寫し奉れり。其の後、道心を發して、彌よ善根を修す。実に此れ希有の亊也。

      畜生也と云へども、深き心を發せるに依て、宿願を遂る亊此如し。世の人、此れを知て、深き心を發すべしとなむ、語り伝へたるとや。
          『今昔物語』巻十四第六話 越後國乙寺僧爲猿寫法華語 第六


    芭蕉が乙寶寺を参詣したのは、酒田の伊東不玉の勧めがあったからとされています。不玉はかつてこの寺を訪れて、
      三越路や乙の寺のはなざかり
という句を作り、芭蕉が酒田滞在中に批評を乞うたからと云うことです。

    乙寶寺参詣後、乙(きのと)村の次作は築地村の息子次市郎宛てに紹介状を書いてくれました。

    一行は羽州濱街道を南下し、大出を過ぎて胎内川を渡り、高畑を過ぎるとまもなく築地に到りました。

    芭蕉翁一行は村上の斎藤喜兵衛から築地の大庄屋七郎兵衛の紹介状をもらっていましたが、乙(きのと)村の次作が築地村の息子次市郎に宿泊の依頼状を書いてくれたので、斎藤喜兵衛の紹介状は不要となりました。
 
    一行が次市郎宅に着いたときには、日が暮れていました。
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