さぽろぐ

文化・芸能・学術  |札幌市中央区

ログインヘルプ


スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  
Posted by さぽろぐ運営事務局 at

2010年03月20日

艦船(8)-航空母艦赤城(2)

 
 
 Akagi on trials off the coast of Iyo, 17 June 1927 by Wikipedia.
 昭和2年(1927)6月17日、伊予灘にて全力公試運転中の「赤城」

 (旧暦  2月5日)

 艦船(7)-航空母艦赤城(1)のつづき

 建造当初の「赤城」は最上段飛行甲板190.2m、中段飛行甲板15m、下段飛行甲板55.2mと三段式のユニークな飛行甲板を持っていましたが、その後の航空機の発達に従って飛行甲板の延長が必要となり、昭和13年(1938)に佐世保海軍工廠で一段式249.17×30.5 mの飛行甲板に延長されました。

 この時に下二段の飛行甲板は閉鎖式の格納庫甲板に改造されて常用搭載機も66機(補用25機)となり、ボイラーもロ号艦本式重油専焼罐×19に統一、抜本式オールギヤードタービン×8、4軸推進、機関出力133,000馬力、兵装も三年式50口径20cm単装砲6基6門、一〇年式45口径12cm連装高射砲6基12門、九六式25㎜連装機銃14基28門にするなどの近代化改装がほどこされ、総排水量も41,300トン(公試状態)となりました。

 ちなみに昭和16年(1941)12月の対米英戦争開戦時における常用搭載機は、零式艦上戦闘機18機、九九式艦上爆撃機18機、九七式艦上攻撃機27機となっていました。

 対米英戦争開戦後の「赤城」は、第一航空艦隊(司令長官南雲忠一中将、参謀長草鹿龍之介少将)の旗艦として真珠湾攻撃、ニューブリテン島ラバウル攻撃、オーストラリア西海岸のポート・ダーウィン攻撃、インド洋作戦ではセイロン沖海戦で他の空母の艦載機とともに英国東洋艦隊重巡洋艦「コーンウォール(HMS Cornwall, 56)」 「ドーセットシャー(HMS Dorsetshire, 40)」、空母「ハーミーズ(HMS Hermes, 95)」を撃沈するなどの戦果を残しています。

 昭和17年(1942)5月27日0500、南雲忠一中将率いる第一航空戦隊(赤城、加賀)、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)を主力として編成された南雲機動部隊(第一機動艦隊)は広島湾柱島泊地から出撃し、6月5日0100、ミッドウェー島北西240浬(約450Km)の作戦海域に到達しています。
 
 第一機動艦隊編成
 第一航空艦隊
 司令長官      南雲 忠一中将    (海兵36期)
 参謀長       草鹿龍之助少将    (海兵41期)
 主席参謀      大石  保中佐     (海兵48期)
 航空甲参謀    源田 実中佐      (海兵52期)
 航空乙参謀    吉岡 忠一少佐     (海兵57期)
 航海参謀     雀部利三郎中佐     (海兵51期)
 水雷参謀     渋谷 龍穉中佐     (海兵52期)
 通信参謀     小野寛次郎少佐     (海兵56期)
 機関参謀     坂上 五郎少佐      (機関34期)

  face05 空襲部隊
    第一航空戦隊     「赤城」 「加賀」(空母)
    第二航空戦隊     「飛龍」 「蒼龍」(空母)
 
  face03 支援部隊
    第3戦隊第2小隊    「霧島」 「榛名」(戦艦)
    第8戦隊         「利根」 「筑摩」(重巡)

  face08 警戒隊
    第10戦隊        「長良」(軽巡)
    第10駆逐隊       「風雲」 「夕雲」 「巻雲」 「秋雲」
    第17駆逐隊       「浦風」 「磯風」 「谷風」 「浜風」
    第4駆逐隊        「嵐」  「萩風」 「野分」 「舞風」
  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:22Comments(0)艦船

2010年03月13日

艦船(7)-航空母艦赤城(1)

 

 Akagi after its launch at Kure, 6 April 1925 by Wikipedia.
 大正14年(1925)4月6日、進水後、呉海軍工廠の艤装岸壁で航空母艦に改装中の「赤城」

 (旧暦  1月28日)

 明治40年(1907)4月4日、陸軍参謀本部と海軍軍令部の協議により陸海軍統帥部は、「帝國國防方針」、「國防所要兵力量」、「帝國軍用兵綱領」を策定上奏し、元帥府はこれを決議、そして明治天皇の裁可を得ました。
 この中で陸軍は想定敵国をロシアと定め、その「國防所要兵力量」の中で陸軍平時25個師団、戦時50個師団と策定する一方、海軍はアメリカを想定敵国と定め、それに対する戦備として艦齢8年未満の戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を基幹戦力とする艦隊整備計画を立てました。

 明治40年制定 「帝國國防方針」主旨

 1. 国防の本義           開国進取の国是に従い国権の伸張・国利民福の増進
 2. 国防の方針           攻勢をもって本領とす
 3. 想定敵国            露国を第1、米、独、仏の諸国これに次ぐ(日英同盟は確実に保持)
 4. 兵備の標準           露・米・独・仏の兵力に対し東亜において攻勢を取り得るを度とす
 5. 国防に要する陸上兵力      平時25個師団
                  戦時50個師団(含予備25個)
 6. 国防に要する海上兵力      第1線艦隊 戦艦8、装甲巡8
                  予備隊 艦齢9年~25年
 7. 用兵綱領            英国と共同する戦争  
  主要作戦            対露:満州・ウスリーへの作戦
                  対米、独、仏:まず敵の海上勢力を撃滅


 そして、日本海軍が計画した八八艦隊整備計画は、下表に示されたものでした。

 

 

   続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:58Comments(0)艦船

2008年12月05日

艦船(6)-プリンス・オブ・ウェールズ(2)

 

 The crew of the sinking Prince of Wales abandoning ship to the destroyer Express. Moments later the list on Prince of Wales suddenly increased and Express had to withdraw by Wikipedia.
 
 沈み行くプリンス・オブ・ウェールズを退去し、接舷した駆逐艦に移乗する乗組員。この後、プリンス・オブ・ウェールズは傾斜を増し、駆逐艦エクスプレスは離脱しなければならなかった。

 (旧暦 11月 8日)

 モーツアルト忌  1791年にウィーンで、レクイエム ニ短調 K. 626の作曲中に35歳の若さで死去したオーストリア古典派の作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)の命日。死因は、リューマチ熱(Rheumatisches Fieber)であったと考えられている。

 艦船(5)-プリンス・オブ・ウェールズ(1)のつづき

 太平洋戦争開戦劈頭の1941年12月8日、マレー半島攻略の命令を受けた日本軍(第25軍、司令官山下奉文中将、近衛師団、第5師団、第18師団、第3戦車団他)の上陸部隊を載せた21隻からなる輸送船団攻撃のため、シンガポールのセレター軍港を出港したプリンス・オブ・ウェールズ他のZ部隊( Force Z)は、12月9日、日本海軍の伊号第65潜水艦に捕捉されてしまいます。

 翌12月10日午前6時25分過ぎに、サイゴン(ホーチミン)に司令部をおく海軍第二十二航空戦隊(司令官松永貞市海軍少将)指揮下の元山航空隊から発進していた9機の索敵機のうち、3番索敵線を担当していた帆足正音少尉機は、11時45分、断雲の彼方に英国東洋艦隊主力を発見し、司令部につぎつぎと電文を打電します。

 敵主力見ユ、北緯四度、東経一〇三度五五分、針路六〇度、一一四五
 
 敵主力ハ三〇度ニ変針ス、一一五〇
 
 敵主力ハ駆逐艦三隻ヨリ成ル直衛ヲ配ス、航行序列キング型、レパルス型、一二〇五


 これより先の午前7時55分、サイゴンの基地から元山航空隊の九六式陸上攻撃機25機、うち九一式航空魚雷改一装備(炸薬量170㎏)16機、50番(500㎏)通常爆弾装備9機が発進。

 続いて午前8時14分にはサイゴン北方20㎞のツドウム基地から鹿屋航空隊の一式陸上攻撃機26機、全機九一式航空魚雷改二装備(炸薬量204㎏)が発進。

 直後の午前8時20分に同じくツドウム基地から美幌航空隊の九六式陸上攻撃機33機、うち九一式航空魚雷改一装備(炸薬量170㎏)8機、50番(500㎏)通常爆弾装備17機、25番(250㎏)通常爆弾各二装備8機が発進しています。

 午後13時2分、断雲の下に戦艦2隻を含む5隻の英国艦隊を発見した元山航空隊は、第1中隊第1小隊1番機である石原大尉機がプリンス・オブ・ウェールズの左舷を目標に雷撃を敢行、第1小隊3番機と第2小隊3機がこれに続きました。
 この雷撃により、プリンス・オブ・ウェールズには2本の魚雷が命中し、初めの1本は艦尾の3番砲塔やや後方に水柱をあげ、次の1本は中央やや艦首よりの後艦橋横に約40mの水柱を立ち上げました。

 最初の艦尾近くに命中した魚雷は、左舷外側第4推進器軸の付け根附近で炸裂して第4推進器を脱落させ、その衝撃で推進軸がねじれ曲がり、回転する推進器軸の先端が隔壁を連打して破壊してしまいます。

 そして、第4推進器軸管を伝わって浸水が始まり、左舷Y戦闘用動力室、Y罐室、B機械室への浸水、Y機械室の破損へとつながり、28ノット(51.88 km/h)の高速を誇るプリンス・オブ・ウェールズも左舷の2軸が停止し、さらには、主砲、高角砲の旋回や照準、発射に必要なXおよびY戦闘用動力室2室も発電不能に陥って速力が低下、傾斜して動力不足のため操舵も十分ではなく、戦闘航海能力は半減してしまいます。

 午後13時49分、つづく鹿屋航空隊の第1中隊の4機と第2中隊の2機が右舷から雷撃し、1発目は艦首右舷に命中して右舷から左舷に通ずる大穴をあけ、2発目は艦橋真下に命中して燃料タンクを破壊し、3発目は後部3番砲塔横に命中、4発目は艦尾に命中して右舷外側第1推進器軸の付け根附近で炸裂し第1推進器軸を内側に押し曲げ、A機械室のタービンは停止してしまいます。

 これによりプリンス・オブ・ウェールズは1軸運転となり、全速8ノット(14.8 km/h)が精一杯となります。
 4つの破孔からの浸水は約1万8000トンにも及び、プリンス・オブ・ウェールズの基準排水量(Standard displacement)36,727トンの半分の量に達しています。

 このように回避運動も対空射撃もままならなくなった状態でノロノロと南下していたプリンス・オブ・ウェールズに対して、最後のとどめをさしたのは、美幌航空隊第2中隊8機の50番(500㎏)通常爆弾による高度3,000mからの水平爆撃でした。
 午後14時13分、50番(500㎏)通常爆弾が左舷後部のカタパルト甲板に命中、残っていたX罐室に火煙が吹き込んだため機関兵は罐室から退去し、遂に最後まで残っていた右舷第2推進器も停止し、完全に海上に漂泊してしまいます。

 この後、駆逐艦エクスプレス(HMS Express)は、プリンス・オブ・ウェールズに接舷し、多くの将兵を退去させます。
 その駆逐艦がプリンス・オブ・ウェールズの沈没に巻き込まれるの避けるために後進して離れると、午後14時40分、プリンス・オブ・ウェールズは左側に横倒しに転覆してしまいます。

 そしてフィリップス提督とリーチ艦長を含む数百人は艦と運命を共にしてしまいます。
 当時、フィリップス提督の最後に関して、「英国東洋艦隊司令長官フィリップス中将(当時はこう伝えられていた)は、駆逐艦から迎えのボートが来たとき、”No thank you”と云い、リーチ艦長と共に従容として艦と運命を共にした」と伝えられていますが、どうも世界を感動せしめた別離の一言は公式記録には伝えられていないようです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:56Comments(0)艦船

2008年12月02日

艦船(5)-プリンス・オブ・ウェールズ(1)

 

 HMS Prince of Wales,1941 by Wikipedia.

 (旧暦 11月 5日)

 プリンス・オブ・ウェールズ(HMS Prince of Wales)と云えば、年配の方はよくご存じの第二次大戦中の大英帝国海軍の戦艦(battleship)で、東洋艦隊の旗艦として1941年10月25日、トーマス・フィリップス中将(1888~1941)の指揮下に入り、駆逐艦エレクトラ(HMS Electra)とエクスプレス(HMS Express)を率いてシンガポールに回航、巡洋戦艦(battlecruiser)レパルス(HMS Repulse)と合流してZ部隊( Force Z)を編成し、日本軍南下の脅威に備えていました。

 ちなみにHMSとは、大英帝国海軍艦艇の名前につけられるもので、女王陛下の船(Her Majesty's Ship)の略です。

 HMS Prince of Wales was a King George V-class battleship of the Royal Navy, built at the Cammell Lairdshipyard in Birkenhead, England.

 プリンス・オブ・ウェールズは、キング・ジョージ五世型戦艦の2番艦として、キャメル・レアード社バーケンヘッド造船所で1937年1月2日に建造が開始され、1939年5月3日に進水しています。

その初期の性能諸元は下記のようになっていました。

 face01 満載排水量(Full load displacement)43,786トン
 face02 全長227.1m、全幅34.3m
 face03 蒸気タービン4基4軸125,000馬力
 face04 最大速度28ノット(51.88 km/h 、1941年公式試運転時)
 face05 航続距離3,100カイリ(5,744㎞、27ノット時)
 face06 乗員1,521名、
 face07 兵装
    35.6cm×4連装砲塔2基、35.6cm×2連装砲塔1基           
    13.3cm×2連装両用砲8基、40mm×8連装ポムポム砲6基    
    40mm単装機関砲1基、20mm単装機銃7基

 もともとプリンス・オブ・ウェールズ(Prince of Wales)という名称は、ウェールズ公国(Principality of Wales)の支配者を意味しています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:49Comments(0)艦船

2006年01月11日

艦船(4)−日連丸(2)

 

  撃沈された駆逐艦「白雲」

 (旧暦 12月12日)

 1.11忌  『路傍の石』等で知られる劇作家、小説家で、菊池寛、芥川龍之介らと共に文芸家協会を結成して内務省の検閲を批判し、戦後は国語国字問題にとりくんで参議院議員もつとめた山本有三の昭和49年(1974)の忌日

 艦船(3)−日連丸(1)のつづき

 昭和19年(1944)3月8日午前8時、小樽港を出港した「日連丸」は日本海を南下し、対潜警戒のため陸奥湾に碇泊しました。
 そして陸奥湾で一夜をあかした「日連丸」は、翌日小さな駆潜艇(小型の快速艇にソナーや爆雷を装備した対潜艇)1隻の護衛の下、3隻の小さな輸送船と釧路港に向かい、10日の午後8時頃に釧路港に入港しました。

 このころ第五船舶輸送司令部(小樽)は、アッツ島を攻略したアメリカ軍が千島海域の潜水艦作戦を強化したため、亀井豊聯隊長率いる歩兵第130聯隊の連隊本部、第1、第2大隊が乗船した山菊丸(5,236総トン)他、慶安丸(2,081総トン)、梅川丸(1,930総トン)の「へ乙船団」と後を追った「日連丸」らの「ホ船団」が得撫(ウルップ)島に直行するのを避け、一旦、釧路港に終結させて海上護送体制を整えてから中部千島に向かう方針に切り替えていました。

 釧路港で待機している船団を護衛するため、第五艦隊第一水雷戦隊第九駆逐隊の司令艦「霞」が先発した良洋丸などの「ニ船団」の護衛を終えて3月14日の午後に入港し、北海道厚岸で補給を終えた僚艦の「白雲」、「薄雲」も3月16日の午前中に入港しました。

 これら3隻の駆逐艦に護衛された輸送船団が中部千島の得撫(ウルップ)島に向けて釧路港を出港したのは、3月16日の午後4時頃でした。
 船団は護衛駆逐艦「霞」を先導に2隻づつの2列縦隊で隊形を組み、前列右側に「日連丸」、左側に「山菊丸」、後列に「慶安丸」、「梅川丸」が従い、その左右後方から駆逐艦「白雲」、「薄雲」が警戒にあたっていました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:27Comments(0)艦船

2006年01月09日

艦船(3)−日連丸(1)

 

    陸軍輸送船「日連丸」

 (旧暦 12月10日)

 青々忌  『宝船』(のちに『倦鳥』と改題)を創刊して没年までこれを主宰し、句集『松苗』『妻木』などを発刊したホトトギス派の俳人松瀬青々の昭和12年(1937)の忌日。
 「人間の心と自然の心とが、同じ琴線の上で奏づる、その声が俳句である」等の言葉を残し、関西の高浜虚子と言われた。
 みな肥えて 女うつくし艸の花

 昭和18年(1943)5月14日、太平洋戦線へ動員されて留守をあずかる仙台第2師団の留守師団を基幹として、宮城、福島、新潟の各県出身者を中心に新たに第42師団が編成され、通称「勲」と呼ばれていましたが、昭和19年(1944)2月1日、千島列島の防衛を目的として宮城県を中心として新潟、福島の各県に臨時動員令が発令され、2月10日から補充兵の召集が開始されました。
 通常は少数の留守部隊で編成される留守師団ですが、動員下令が下りると将兵総数1万5千人を超える戦時編制となります。

 これらの部隊は、仙台の榴岡(つつじがおか)の歩兵130聯隊、捜索第42聯隊、輜重兵第42聯隊、野砲兵第42聯隊、工兵第42聯隊のほか、福島県会津若松の歩兵129聯隊、新潟県新発田の歩兵第158聯隊から編成されていました。

 昭和19年(1944)2月12日、大本営は千島列島防備強化のために「東一号作戦」を発令しました。
 北海道旭川に司令部を置く第7師団、通称「熊」は、歩兵第26聯隊を基幹とする東支隊を北千島へ派遣し、第42師団は中部千島の得撫(ウルップ)島、松輪(マツワ)島への早期展開を求められていました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:10Comments(0)艦船

2005年08月26日

艦船(2)−阿波丸

 

 緑十字船「阿波丸」
 
 (旧暦  7月22日)

 沈み行く船のブリッジに一人立った船長が帽子を振って最後の別れの挨拶をしている絵が日本郵船に保管されており、その船長の娘さんが訪ねて行って約60年ぶりに亡き父の絵を見せてもらうといった内容のテレビを見た記憶がありますが、あれは確か、昨年7月30日に放映されたNHKのドキュメンタリー番組「悲劇の航海−阿波丸はなぜ撃沈されたのか−」だったと思います。
  この船長の名前は浜田松太郎氏(1888〜1945)で、香川県小豆島に生まれ、就航以来の船長でした。

 沈没した船は阿波丸といい、有事の際には軍に徴用されることを前提にして政府の援助を受ける「優秀船舶建造助成施設建造船(第1種)」に基づく最終船としてオーストラリア航路用に三菱重工業長崎造船所(長船)で建造され、昭和18年3月5日に竣工し陸軍に徴用された貨客船(1万1249総トン)でした。

 この阿波丸の沈没に関しては、元聯合艦隊砲術(作戦乙)参謀千早正隆中佐(海兵58期、海大39期)が昭和36年(1961)に文芸春秋社から出版した『呪われた阿波丸』他多数の本が出版されていますが、要するに「捕虜・抑留者を含む連合国人への救恤品輸送船(緑十字船:軍隊・兵士に送る金品・煙草・医薬品等の見舞品を輸送する船)として連合国側から航行の安全[安導券(戦時の安全通行証)、安全通行権:safe-conduct]を保証されていた船が、何故撃沈されなければならなかったのか」という謎をはらむ事件でした。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 08:16Comments(0)艦船

2005年08月06日

艦船(1)−報国丸

 

 大阪商船「報国丸」

 (旧暦  7月 2日)

 「大東亜戦争」という呼び方は、敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters/ Supreme Commander for the Allied Powers)の命令で公文書において使用することが禁止された後、連合国側表記に合わせる形として「太平洋戦争」と呼ばれるようになったと理解していましたが、厳密に言えばその期間に相違があるようです。

 昭和16年(1941)12月10日、東條内閣は「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルベキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と閣議決定していますから、大東亜戦争は、昭和12年(1937)7月7日(廬溝橋事件)から昭和20年(1945)8月15日(ポツダム宣言受諾)の期間を指す言葉なんですね。
 従って「太平洋戦争」とは、「大東亜戦争」の中の対米英戦争を指すものと思われます。

 以前、対米英戦争の前期にインド洋で通商破壊作戦に従事した日本海軍の伊号潜水艦の記録映画を見た記憶があり、「♪可愛い魚雷と一緒に積んだ 青いバナナも黄色く熟れた・・・」という『轟沈』という歌も何度か聴いたように覚えています。

 この映画は、海軍報道部の監修により、当時の日本映画社が製作した記録映画で、実際にインド洋で通商破壊作戦にあたった日本海軍の伊号潜水艦に、海軍の報道班が乗り組んで取材したものだそうです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:20Comments(0)艦船