さぽろぐ

文化・芸能・学術  |札幌市中央区

ログインヘルプ


スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  
Posted by さぽろぐ運営事務局 at

2009年07月28日

物語(10)-平家物語(3)-敦盛最後の事

 

 史蹟 生田の森

 (旧暦  6月 7日)

 乱歩忌 大正期から昭和期にかけて主に推理小説の分野で活躍し、怪人二十面相 (『少年倶楽部』1936年1月~12月)や少年探偵団 (『少年倶楽部』1937年1月~12月)などで人気のあった小説家、推理作家、江戸川乱歩(本名;平井太郎)の昭和40年(1965)の忌日。

 津國(つのくに)の大輪田泊(いわゆる神戸市)に下向したおり、宿の近くに生田の社(やしろ)があり、早朝に境内を散策すると、本殿の背後には史蹟生田の森、謡曲「生田敦盛」にまつわる案内などもあって、なかなか風情がありました。

 名所歌奉りける時           前中納言定家
 秋とたに 吹あへぬ風に色かはる 生田の杜の露の下草 (248)
 続後撰集 巻第五 秋歌上

                       後鳥羽院
 月残る 生田の森に秋ふけて 夜寒(よさむ)の衣 夜半(よは)にうつなり (186)
 仙洞句題五十首(建仁元年仙洞五十首)

 題しらず                 順徳院
 秋風に またこそとはめ津の国の 生田の森の春のあけぼの (1501)
 続古今集 巻十七 雑上


 歌枕として知られ、かつては広大な森だった生田の森も、現在は生田神社の境内にわずかにその面影が残されています。

 寿永3年(1184年)2月7日より始まった一ノ谷の戦いにおいて平氏は、東の生田口から西の塩屋口までの三里以上にのぼる長大な防備陣地を構築し、

 1. 生田口(生田川に面した東城戸) 平氏側主力
  face02新中納言知盛(1152~1185) 入道相国最愛の息子(『玉葉』安元2年12月5日条)とも呼ばれた清盛の四男
  face03三位中将重衡(1157~1185) 清盛の五男

 2. 塩屋口(塩屋川に面した西城戸)
  face04薩摩守忠度(1144~1184)  清盛の父、平忠盛の六男

 3. 夢野口(山の手)
  face05越前三位通盛(1153~1184) 清盛の異母弟教盛の嫡男
  face07教経(1160~1185) 清盛の異母弟教盛の次男

 の三ヵ所の防備を固めて激しく抵抗し、源氏側は容易には突破できませんでした。
 この生田の森周辺も、一ノ谷の戦いの激戦地だったそうですが、いまはそのよすがもありません。

 さて、生田神社の境内には、謡曲「生田敦盛」にまつわる案内があります。

 法然上人に賀茂参詣の時に松の下で拾われて十歳まで育てられた少年が、ある時上人の説法の折にそのことを物語られた聴衆の中から母親が名乗り出て、父が無官の大夫平敦盛だと知らされます。

 そして、その少年が夢でもいいからひと目父に会いたいと願い、上人の従者と供に賀茂明神に祈願すると、津の國生田の森へ下るよう夢で告げられます。


 かやうに候者は、黒谷の法然上人に仕へ申す者にて候。さてもこれに渡り候人は、上人加茂へ御詣りの時、下り松の下に、さも美しき男子の二歳ばかりなるを、手箱の蓋に入れ尋常に拵へ捨て置きて候を御覧じて、上人不便に思し召され、抱かせ帰りさまざまに、育て給ひて候程に、はや十歳に餘り給ひて候。父母のなきことを悲しみ給ひ候程に、説法の後この事を御物語り候へば、聴衆の中より若き女性立ち出で、わが子にて候由申され候ほどに、ひそかに御尋ね候へば、一年一の谷にて討たれ給ひし無官の大夫敦盛の、わすれがたみにて候由申され候へば、この事を聞き及び、父御に逢ひましまさぬことを嘆き給ひ、御命も危ふく見えさせ給ひ候ほどに、加茂の明神へ一七日日参させ申し、夢になりとも父の御姿を見せ給へと御祈誓候。 今日満参にて候間、御供申し、唯今加茂の明神へ参り候。
 やうやう急ぎ候ほどにこれははや、加茂の明神にて候。
 御心静かに御祈念候へ。


 山陰の加茂の宮居を立ち出でて、加茂の宮居を立ち出でて、急ぐ行方は山崎や、霧立ちわたる水無瀬川、風も身にしむ旅衣、秋は来にけり昨日だに、訪はんと思ひし津の國の、生田の森に着きにけり、生田の森に着きにけり。

 生田の森へ赴いた少年の前に花やかな甲冑を身につけた若武者敦盛の霊が現れ、一ノ谷での合戦の様子を語りますが、やがて生存中に戦った相手を混沌の中に見出して、また戦いを始め、それが常にくり返されて安まることがないと云う修羅道の苦しみを受け、弔いを頼み夜明けとともに消え失せてしまいます。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:36Comments(0)物語

2009年07月21日

歳時記(19)−夏(6)−summer eve

 
 The climactic assassination of Caesar by wikipedia.
 シーザー暗殺のクライマックスシーン
 
 (旧暦  6月 1日)

              As the ample moon,
 In the deep stillness of a summer even
 Rising behind a thick and lofty grove,
 Burns, like an unconsuming fire of light,
 In the green trees; and, kindling on all sides
 Their leafy umbrage, turns the dusky veil
 Into a substance glorious as her own,
 Yea, with her own incorporated, by power
 Capacious and serene.
 -W.Wordsworth : The Excursion, 1062 - 70


 夏の夕べの深い静寂の中に
 こんもりと高い木立の向こうから昇る大きな月が
 燃え尽きることの無い光の炎のように
 緑の樹々の間で燃える、そして
 四方のうっそうたる木の葉を輝かし、薄暗い被いを
 自分のような栄光の存在に変える。
 そうだ、広大な清らかな力で自身に合体化してしまう。
 -ウィリアム・ワーズワース : 小旅行より (1062~1070)
  嘉穂のフーケモン 拙訳


 あつい日差しが西に沈み、夏の夕べは美しく、精神的な安らぎを与えてくれます。

 夏の夕べの快適でくつろいだ気分は、シェイクスピアの悲劇 『The Tragedy of Julius Caesar 』 の中のAntonyのCaesar追悼演説の中にも出てきます。

 ANTONY
 If you have tears, prepare to shed them now.
 You all do know this mantle: I remember
 The first time ever Caesar put it on;
 'Twas on a summer's evening, in his tent,
 That day he overcame the Nervii:
 Act Ⅲ, Sceneⅱ: The Forum. 178~182


 諸君は何れも此の外套ご存知であろう。
 予はシーザーが初めて之を着用した日を
 憶えている、それは或夏の夕方、勁敵(けいてき)
 ナーヸア族を征伐して大勝利を得た
 その日陣営中で被たのであった。
 (坪内逍遙 訳)
  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:40Comments(0)歳時記

2009年07月13日

史記列傳(9)-伍子胥列傳第六(2)

 
 春秋諸侯 Urbanisation during the Spring and Autumn period. 

 (旧暦閏 5月21日)

 艸心忌 歌人吉野秀雄の昭和42年(1967)の忌日。 結核を患い慶応大学を中退するも秋艸道人會津八一(1881~1956)に師事し、生涯結核と闘いながら作歌をつづけ、昭和34年「吉野秀雄歌集」で読売文学賞、42年迢空賞、43年「含紅集」で芸術選奨を受賞した。
 師会津八一が名付けた自宅「艸心洞」から「艸心忌」と呼ばれる。
 「もしも自分に歌がなく、自分の歌が自分の精神を昂揚することがなかったならば、どうして自分に今日の存在があったらうか。」との感慨を述べるように、妻はつ子を戦時中に亡くし、結核と闘いながら相聞歌人として全精力を歌につぎ込んだという。

 今生の つひのわかれを告げあひぬ うつろに迫る時のしづもり (寒蝉集)
 ひしがれて あいろもわかず堕地獄の やぶれかぶれに五体震はす
 真命の 極みに堪へてししむらを 敢てゆだねしわぎも子あはれ

 史記列傳(8)-伍子胥列傳第六(1)のつづき

 春秋時代の第7代呉王夫差(?~B.C.473)は、宿敵越王勾践(? ~B.C.465)によって討たれた父闔閭(?~B.C.496)の仇を討つため、兵法の大家孫武と伍子胥の補佐を受けて国力を充実させ、呉は一時は並ぶ者なき強国となります。

 中原への進出を図る呉王夫差は、機会あるたびに越を討つように進言する伍子胥を疎んじはじめ、宰相伯嚭(はくひ、?~B.C.473)の讒言もあり、ついには名剣の「屬鏤の劒」を賜しめて、伍子胥に自害を命じます。

 伍子胥天を仰(あふ)いで嘆じて曰く、嗟乎、讒臣嚭(ひ)、亂を為す。王、乃ち反つて我を誅す。我、若(なんぢ)の父をして霸たらしむ。若(なんぢ)未だ立たざる時より、諸公子立つを爭ふ。我、死を以て之を先王に爭ふ。幾(ほと)んど立つを得ざらんとす。若(なんぢ)、既に立つを得るや、吳國を分かちて我に予(あた)へんと欲す。我、顧つて敢て望まず。然るに今、若(なんぢ)、諛臣の言を聽き、以て長者を殺すと。

 乃ち其の舍人に告げて曰く、必ず吾が墓上に樹(う)うるに梓(し)を以てせよ。以て器を為(つく)るべからしめん。而うして吾が眼(まなこ)を抉(ゑぐ)り、吳の東門の上に縣けよ。以て越の寇の入りて吳を滅ぼすを觀(み)ん、と。乃ち自剄して死す。吳王之を聞きて大いに怒り、乃ち子胥の尸(しかばね)を取り、盛るに鴟夷(しい、馬の革で作った袋)の革を以てし、之を江中に浮ぶ。吳人、之を憐み、為に祠を江上に立つ。因りて命(なづ)けて胥山(しよざん)と曰ふ。


 私の墓の上に必ず梓を植えよ。後に呉が滅びた時に棺桶を作ることができるように。そして、私の眼をえぐりて、呉の東門の上に懸けておけ。仇敵越が攻め入って呉を滅ぼすのを見られるように。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:44Comments(0)史記列傅

2009年07月10日

おくの細道、いなかの小道(10)-あさか山

 

 『画図百鬼夜行』(安永5年、1776)より「黒塚」 鳥山石燕(1712~1788)

 (旧暦閏 5月18日)

 相楽等躬宅に8日間にわたって滞在した芭蕉翁一行は、元禄2年4月29日、等躬宅を出立して、堀田氏10万石の城下町福島へ向かいます。
 途中、二本松領郡山に宿泊し、翌日、等躬宅より20㎞ばかり、檜皮(ひはだ、日和田)の宿を過ぎると歌枕で名高い安積山に到ります。

 一 五月朔日 天気快晴。日出ノ比、宿ヲ出、壱里半来テヒハダ(日和田)ノ宿、馬次也。町はづれ五、六丁程過テ、あさか山有。壱り塚ノキハ也。右ノ方ニ有小山也。アサカノ沼、左ノ方谷也。皆田ニ成、沼モ少残ル。惣テソノ辺山ヨリ水出ル故、いづれの谷にも田有。いにしへ皆沼ナラント思也。山ノ井ハコレヨリ(道ヨリ左)西ノ方(大山ノ根)三リ程間有テ、帷子ト云村(高倉ト云宿ヨリ安達郡之内)ニ山ノ井清水ト云有。古ノにや、不しん也。
 『曽良随行日記』


 前(さき)の采女(うねべ)が詠める歌一首
 安積山(あさかやま) 影さへ見ゆる山の井の 浅き心を吾(あ)が思(も)はなくに 3807

 右の歌は傳云(いひつて)けらく、葛城王(橘宿禰諸兄、684~757)、陸奥(みちのく)の國に遣はさえし時、國司(くにのみこともち)あへしらふこと緩怠(おろそか)なりければ、王(おおきみ)の意(こころ)に悦びず、怒色顕面(おもほでり)まして、飲饌(みあへ)を設(ま)けしかども宴樂(うたげ)をもしたまはざりき。ここに前(さき)の采女風流(みさを)娘子有りて、左の手に觴(さかづき)を捧げ、右の手に水を持ち、王の膝(みひざ)に撃ちて、此の歌を詠みき。ここに王の意(こころ)解脱(なご)みて、終日(ひねもす)に樂飲(うたげあそ)びきといへり。
 萬葉集 巻第十六(とをまりむまきにあたるまき) 有由縁(よしあるうた)また雑歌(くさぐさのうた)


 まあ、こうした伝承もあり、歌仙紀貫之(866?~945)が著した古今和歌集仮名序でも、次のように書かれています。

 あさか山のことばは、うねめのたはぶれよりよみて、
 かづらきのおほきみをみちのおくへつかはしたりけるに、くにのつかさ、事おろそかなりとて、まうけなどしたりけれど、すさまじかりければ、うねめなりける女の、かはらけとりてよめるなり、これにぞおほきみの心とけにける、あさか山かげさへ見ゆる山の井のあさくは人をおもふのもかは。
 このふたうたは、うたのちちははのやうにてぞ、手ならふ人のはじめにもしける。

 この地で芭蕉は、古今集の巻十四(恋歌四)の巻頭にある、

 題しらず                  読人しらず
 みちのくのあさかの沼の花かつみ かつ見る人に恋ひやわたらん 1160


 を念頭に置いて、花かつみを探しましたが、誰も知る人はいませんでした。

 この「花かつみ」とは一体何なのか。芭蕉以来300年を経過しても、まだはっきりとは分かっていないようです。

 中臣女郎が大伴宿禰家持に贈れる歌五首
 をみなへし 佐紀澤に生ふる花かつみ 嘗ても知らぬ恋もするかも 675
 萬葉集 巻第四

 最勝四天王院の障子に淺香の沼かきたるところ  藤原雅經
 野邊はいまだ 淺香の沼に刈る草の かつみるままに茂る頃かな
 古今和歌集 巻第三 夏歌 
  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 09:55Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2009年07月08日

数学セミナー(22)-一般相対性理論(8)-重力方程式(4)

 

 Tullio Levi-Civita (1873~ 1941) was an Italian mathematician, most famous for his work on absolute differential calculus (tensor calculus) and its applications to the theory of relativity .

 (旧暦 閏5月 16日)

 数学セミナー(21)-一般相対性理論(7)-重力方程式(3)のつづき


 

 この場合、2度の共変微分を行うと

 

 ρとσを入れ替えると、

 

 (1)式-(2)式より、

 

 

 (3)式は、(4)式と(5)式から、

 

 

 

   続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:53Comments(0)数学セミナー

2009年07月04日

数学セミナー(21)-一般相対性理論(7)-重力方程式(3)

 

 Elwin Bruno Christoffel (1829~1900)

 (旧暦 閏5月 12日)

 数学セミナー(20)-一般相対性理論(6)-重力方程式(2)のつづき

 微分幾何学の数学的な領域においてリーマン多様体の曲率(Curvature:曲面の曲がり具合を表す量)を表す最も標準的なものに、リーマン・クリストッフェルテンソル(the Riemann Riemann–Christoffel tensor)があります。

 このリーマン-クリストッフェルテンソル(Riemann-Christoffel tensor) あるいはリーマン曲率テンソル(Riemann curvature tensor)は、アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein、1879~1955)が1916年に発表した『一般相対性理論の基礎』 という論文における「重力場の方程式の一般形式」の重要な構成要素になっています。
 Die Grundlage der allgemeinen Relativitätstheorie. In: Annalen der Physik. 49, 1916, Seite . 769–822

 

 

 ただし、

 

 ここで多様体(manifold)とは、局所的にユークリッド空間とみなせるような図形のことで、局所的に座標を描き込むことができます。この図形の任意の各点で、接ベクトル(tangent vector)の間に内積(inner product)が定まっている多様体をリーマン多様体といいます。

 

 

 したがって、

 

 座標変換を施しても形式が変化したりはしない性質を「共変形式」と云いますが、「共変微分」とは共変形式を作る微分ということになります。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:54Comments(0)数学セミナー