2006年11月12日
伝説(5)-ドクトル・ファウストゥス(2)
Johann Georg Faust
(旧暦 9月22日)
伝説(4)-ドクトル・ファウストゥス(1)のつづき
さて皆しゃん、元気にされとったですか?
今宵もファウストゥス博士の恐ろしか話しの続きばしもうそうかの。
悪魔と契約を結んだファウストゥス博士の生活は、安逸と快楽に満たされました。全てのものが彼の掌中にありました。
優雅な衣装、素晴らしいワイン、豪華な食事、美しい女性たち・・・・
彼はその国の最も有名な占星術者になりました。なぜなら彼の星占いは決して失敗しなかったからです。世俗的な拘束を離れ、地獄の底から最も遠い星まで旅をしました。彼はあの世とこの世の知識で学生たちと仲間の学者を驚かせたのです。
しかし、すべての名声と富のために、ファウストゥス博士は悪魔との契約の24年の制限を無効にすることができませんでした。
そしてついには、自分の愚かな行いを悟って、いっそう憂鬱になりました。
彼は彼の若い弟子であるヴィッテンベルグ大学のクリストフ・ワグナー(Christoph Wagner)という名前の学生に、自分の遺産を譲ります。
まもなく、24年目の最後の日の真夜中過ぎ、患うファウストゥス博士の家に集まっていた学生達は、大きな騒動の音を聞きます。最初に恐ろしい嵐の音そして次に叫び声 -先生の最初は恐ろしく、そしてだんだんと弱くなる叫び声-が届きました。
夜明けに、彼らはファウストゥス博士の部屋に危険を冒して行きました。そこには血痕がいたるところにありました。 脳みその小片が壁に張り付いていました。そこで彼らは、眼球とそして少数の歯を発見しました。外では、肥料の山の上に横たわってまだぴくぴく動いている死体を見つけました。・・・・・・
恐ろしかねえ!どげんですか?えずかったですか?
ところで、このおぞましい死に方をしたファウストゥス博士のモデルとなった人物が、実在しとるとです。 続きを読む
2006年10月28日
伝説(4)-ドクトル・ファウストゥス(1)
Faust im Studierzimmer (Gemälde von Georg Friedrich Kersting, 1829)
(旧暦 9月 7日)
Solch ein Gewimmel möcht' ich sehn,
Auf freiem Grund mit freiem Volke stehn.
Zum Augenblicke dürft' ich sagen:
Verweile doch, du bist so schön!
Es kann die Spur von meinen Erdetagen
Nicht in äonen untergehn. -
Im Vorgefühl von solchem hohen Glück
Genieß' ich jetzt den höchsten
(Faust, der Tragödie zweyter Theil.)
私はそうした人々を見、
(うちゃくさ、そげん人達ば見てくさ)
自由な人々と共に、自由な大地の上に立ちたい。
(な~んの縛りもなか人達と一緒にくさ、な~んの縛りもなか土地の上に立ちたいとたい)
その瞬間に向かってなら言ってもよい。
(そげん瞬間に向こうてなら、言うてもよかばい)
「留まれ、おまえはとても素晴らしい!
(待ちんしゃい!あんたはよかね~!)
地上における私の日々の軌跡も、永劫のなかに消え去りはしまい」と。
(今生きとう、うちん生活んあとも、永遠ちゅう時ん中にゃ消え去らんばい)
このような至福を予感しながら、私は今最高の瞬間を味わうのだ。
(こげん喜びば感じちょってくさ、うちゃくさ、今、最高に幸せば味わうとたい)
『ファウスト 悲劇第二部』(1831)より by 嘉穂のフーケモン 拙訳
18世紀のドイツを代表する詩人であり、劇作家、小説家、科学者、哲学者、政治家でもある文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe, 1749~1832)の有名な戯曲『ファウスト(Faust)』は、1587年に出版された民衆本(Volksbuch)である『ヨーハン・ファウステン博士の経歴』"Historia von D.Johann Fausten"をモチーフ(motif)にして書かれています。
また、『ヨーハン・ファウステン博士の経歴』"Historia von D.Johann Fausten"は、イギリスのエリザベス朝時代の詩人、劇作家クリストファー・マーロウ(Christopher Marlowe、1564~1593)による「フォースタス博士の悲劇」(The Tragical History of Doctor Faustus)のベースにもなっています。 続きを読む
2006年02月07日
伝説(3)−宗祇戻し
福島県白河市旭町宗祇戻しの碑
(旧暦 1月10日)
瓜人忌 水原秋桜子主宰の俳句誌「馬酔木(あしび)」の同人で、百合山羽公とともに俳句誌「海坂(うなさか)」を創刊し、その句集「明治草」ほか全業績に対して俳句界最高の賞とされる蛇笏賞(第10回)を受賞した俳人相生垣瓜人(あいおいがき かじん)の昭和60年(1985)の忌日
先人は 必死に春を惜しみけり
草々の 呼びかはしつつ枯れてゆく
宗祇もどし橋、白河ノ町ノ右(石山ヨリ入口)、かしまへ行道、ゑた町有。其きわニ成程かすか成橋也。むかし、結城殿數代、白河を知玉フ時、一家衆寄合、かしまニて連歌有時、難句有之。いづれも三日付ル事不成。宗祇、旅行ノ宿ニテ被聞之て、其所ヘ被趣時、四十斗ノ女出向、宗祇に「いか成事ニテ、いづ方ヘ」と問。右の由尓々(しかじか)、女「それは先(サキ)に付侍りし」と答前句てうせぬ。「月日の下に獨りこそすめ」(付句)「かきおくる文のをくにハ名をとめて」ト申ければ、宗祇かんじられてもどられけりト云傳。
俳人松尾芭蕉(1644〜1694)の有名な『奥の細道』には記載されていませんが、同行した門弟河合曾良(1649〜1710)が残した『奥の細道随行日記』の元禄2年(1689)4月21日(新暦6月8日)では、連歌師宗祇の伝承で知られた旧跡「宗祇戻し」を見物した後、白河城下に入っています。
曾良の日記には、むかし、結城氏が白河を治めていたころ、鹿島神社前で行われた連歌興行(文明13年:1481)で「月日の下に獨りこそすめ」の上の句を人々が付け悩んでいた時、宿でこのことを聞いてその場所へ行こうとしていた宗祇(1421〜1502)が40歳くらいの名もない女性と出会い、「いかなる事で、どちらへ」と尋ねられてその理由を答えると、「かきおくる文の奥には名をとめて」と私が前句を整えておきました言ったので、宗祇は感心して宿に戻ったというエピソードが書き残されています。 続きを読む
2005年08月04日
伝説(2)−左甚五郎の龍
三井寺 閼伽井屋の龍
(旧暦 6月30日)
夕爾忌 詩人にして俳人木下夕爾の昭和40年(1965)の忌日
近江大津にある三井寺の金堂は、太閤秀吉の正室北政所によって慶長4年(1599)に再建されたもので国宝に指定されていますが、この金堂の西側の奥に金堂に接して閼伽井屋(あかいや)が建っています。
この閼伽井屋は、仏前に供養する水を汲む井戸である『閼伽井』を覆う建物として、慶長5年(1600)に建立されたもので国の重要文化財に指定されていますが、内部には「ゴボッ、ゴボッ」と大きな音を立てて湧き出す泉があります。
この泉の水は、天智天皇(第38代、626〜671)、同母弟の天武天皇(第40代、631〜686)、天智天皇の娘の持統天皇(第41代、645〜703)の3代の天皇の産湯に使われたことで、三井寺の名前の由来となっています。
閼伽井屋正面の破風の下には龍の彫刻がありますが、三井寺のパンフレットは次のように紹介しています。
三井寺の名称が生まれた霊泉閼伽井屋の正面には、有名な左甚五郎作と伝えられる龍の彫刻があります。むかしこの龍が夜な夜な琵琶湖に出て暴れたために、困った甚五郎が自ら龍の眼玉に五寸釘を打ち込み静めたと伝えられています。今もこの龍は、静かに閼伽井屋の正面で三井寺を見守っています。 続きを読む
2005年07月24日
伝説(1)−辨慶の引き摺り鐘
三井寺 辨慶の引き摺り鐘
(旧暦 6月19日)
河童忌 芥川賞で有名な小説家芥川龍之介の昭和2年(1927)の忌日
全国に義経伝説や辨慶伝説は数多在るのでしょうが、辨慶伝説について云えば、荒唐無稽な話しに思わず笑ってしまうほど、愛嬌があります。
鎌倉幕府の正史である『吾妻鑑』の文治元年乙巳(1185)11月11日庚寅の項に、「義経等反逆の事、申請に任せ宣下せられをはんぬ。・・・・」と後白河法皇により義経追討の院宣が下されたことが記載されています。
追われる身となった伊豫の守義経に付き従うのは、歌舞伎の『義経千本桜』で有名な亀井(六郎重清)・片岡(八郎為春)・伊勢(三郎義盛)・駿河(次郎清重)(義経の四天王)と常陸坊海尊、そして武蔵坊辨慶他総勢10数名。 続きを読む