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2011年06月26日

板橋村ゆかりの人々(10)ー後藤新平(1)

 

 (旧暦5月25日)

 慶祝!500回達成。
 2004年11月の第1回投稿以来、苦節6年半。ついに目標の500回を達成しました。今後ともますますがんばりまっせ!
次の目標は1,000回ですが、何時になることやら・・・。

 さて、未曾有の大震災の復興に向けて、いま再び脚光を浴びているのが、台湾総督府民政長官、初代満鉄総裁、初代内閣鉄道院総裁、第7代東京市長を歴任し、関東大震災後には内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した後藤新平(1857〜1929)です。

 大正12年(1923)9月1日午前11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9の大正関東地震による地震災害は、神奈川県を中心に千葉県、茨城県から静岡県東部までの内陸部と沿岸部の広い範囲に甚大な被害をもたらし、死者・行方不明10万5千余、家屋の全壊10万9千余棟、焼失家屋21万2000余棟にものぼり、日本災害史上最大級の大災害となりました。

 地震の8日前に病死していた加藤友三郎(1861〜1923)首相に代わって、外務大臣内田康哉(1865〜1936)が内閣総理大臣臨時兼任として内閣を運営しましたが、震災の翌日に第2次山本権兵衛(1852〜1933)内閣が発足、内務大臣に就任した後藤新平は宮中での親任式を終えて帰邸すると、直ちに奥二階日本間の一室に籠もって、次のような帝都復興根本策を固めたと伝えられています。

 1. 遷都スベカラズ。
 2. 復興費ニ30億円ヲ要スベシ。
 3. 欧米最新ノ都市計画ヲ採用シテ、我国ニ相応シキ新都ヲ造営セザルベカラズ。
 4. 新都市計画実施ノ為メニハ、地主ニ断乎タル態度ヲ取ラザルベカラズ。


 かつて大正7年(1918)、寺内内閣の内務大臣として都市計画調査会を設立して今日の都市計画法と建築基準法(市街地建築物法)の基礎を築き、大正9年(1920)からは第7代東京市長として東京市政要綱(八億円都市計画)を提起し、大正11年(1922)には東京市政調査会を設立して地方自治・都市問題に関する調査研究活動に着手させ、近代社会の根本となる都市の創造に向かって日本を導こうとしていた後藤にとって、震災による帝都復興事業は正に時宜にかなった使命であったと思われます。

 そして5日後の閣議に、「帝都復興ノ議」を提出しています。

 東京ハ帝国ノ首府ニシテ国家政治ノ中心、国民文化ノ淵源タリ。従テ其ノ復興ハ啻(ただ)ニ一都市ノ形態回復ノ問題ニ非ズシテ実ニ帝国ノ発展、国民生活改善ノ根基ヲ形成スルニ在リ。サレバ今次ノ震災ハ帝都ヲ化シテ焦土ト成シ、其ノ惨害言ウニ忍ビザルモノアリト雖モ、理想的帝都建設ノ為真ニ絶好ノ機会ナリ。此ノ機ニ際シ宜シク一大英断ヲ以テ帝都建設ノ大策ヲ確立シ之ガ実現ヲ期セザルベカラズ。躊躇逡巡此ノ好機ヲ逸センカ国家永遠ノ悔ヲ遺スニ至ルベシ。因(より)テ茲(ここ)ニ臨時帝都復興調査会ヲ設ケ、帝都復興ノ最高政策ヲ審議決定セシメントス。
 臨時帝都復興調査会ノ組織大要左ノ如シ。
  総裁  内閣総理大臣
  委員  一 国務大臣
      二 枢密院議長
      三 内閣総理大臣若ハ国務大臣タル礼遇を賜リタル者
      四 国務大臣タリシ者又ハ親任官中ヨリ勅命セラレタル者
      五 学識経験アル者ヨリ勅命セラレタル者
 帝都復興ノ大方針ヲ決定スルコト。即(すなわち)
  (イ) 復興ニ関スル特設官庁ノ新設
  (ロ) 復興ニ関スル経費支弁ノ方法
  (ハ) 罹災地域ニ於ケル土地整理策等
 此等ノ問題ニ関スル腹案左ノ如シ。
 (一) 帝都復興ノ計画及執行ノ事務ヲ掌(つかさど)ラシムル為メ新タニ独立ノ一機関ヲ設クルコト。其ノ組織大要左ノ如シ。
  (イ) 復興計画局
    一 都市ノ復興計画ニ関スル事務
    二 都市計画法ノ施行ニ関スル事務
  (ロ) 建築事務局
    一 諸官庁舎ノ建築ニ関スル事務
  (ハ) 建築監査局
    一 建築物法ノ施行ニ関スル事務
  (ニ) 土地整理局
    一 震災地域ノ土地整理ニ関スル事務
  (ホ) 救護局
    一 罹災民ニ対スル衣食救護ニ関スル事務
    二 家屋ノ建築並(ならび)ニ供給ニ関スル事務
  (ヘ) 財務局
    一 帝都建設ノ為メニ要スル経費其ノ他財務ニ関スル事務
 右ノ外(ほか)帝都復興計画調査会ヲ設ケ、復興計画ニ関スル当局ノ諮問機関トスルコト。其ノ組織大要左ノ如シ。
  会長
  委員 (一) 関係各省官吏
     (二) 関係地方長官
     (三) 関係市長
     (四) 学識経験者
 (二) 帝都復興ニ要スル経費ハ原則トシテ国費ヲ以テ支弁スルコト。而シテ之ニ充 
  当スル財源ハ長期ノ内外債ニ依ルコト。
 (三) 罹災地域ノ土地ハ公債ヲ発行シテ此ノ際之ヲ買収シ、以テ土地ノ整理ヲ実行 
  シタル上必要ニ応ジテ更ラニ適当公平ニ其ノ売却又ハ貸付ヲ為スコト。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 13:33Comments(0)板橋村ゆかりの人々

2009年08月06日

板橋村ゆかりの人々(9)-白蓮柳原燁子

 

 白蓮失踪事件を大々的に報じた東京朝日新聞大正10年10月22日朝刊社会面

  

 白蓮柳原燁子

 (旧暦  6月16日)

 広島平和記念日 昭和20年(1945)年8月6日午前8時15分、アメリカ陸軍航空隊第509混成部隊第393爆撃戦隊所属のB-29長距離通常爆撃機「エノラ・ゲイ」が、広島市上空31,600ft(9,632m)で世界初のウラニウム型原子爆弾「リトルボーイ」を投下した日。爆心地における約4,000℃の熱線と350万パスカルに達した衝撃波(1平方メートルあたりの加重35トン、風速440m/s以上)によって市街は壊滅し、約14万人の死者とその後原爆症等で亡くなった人を含めると、犠牲者は25万人以上にのぼる。

 ひるの夢 あかつきの夢 夜の夢 さめての夢に 命細りぬ
      
 燁子(あきこ)は二月二十二日の夜亡くなりました。老衰でした。八十一歳ですから、まあ天寿をまっとうしたものと思っています。私としてもこの四十六年間、燁子をそばでサポートしてやることができ、燁子も自分の人生を一応卒業できたという感じで、淋しいながらも私は満足しています。最後は痛みも苦しみもなくて、木が枯れるようにして亡くなりました。 後略
 宮崎龍介 『柳原白蓮との半世紀』


 いつしかに 八十とせ生きてつかの間の 露の命のことはりを知る
 
 白蓮柳原燁子(1885~1967)は、明治18年、伯爵柳原前光(さきみつ、1850~1894)の次女として、東京に生まれています。

 柳原家は、藤原北家の支流日野家の流れを汲む日野家第17代当主で後伏見上皇(1288~1336)の院近臣であった正二位権大納言日野俊光(1260~1326)の四男日野資明(1297~1353)を祖とし、京都十三名家の一つで、名家の家格を有する公家でした。

 父の柳原前光は、資性剛毅にして事を処することに適し、西園寺公望とともに少壮公家中の逸材と言われ其の名を知られていました。
 戊辰戦争時には、東海道鎮撫副総督、海陸軍大総督参謀を歴任し、明治維新後は外務省に入省して外務大丞として日清修交条規締結に活躍、その後清国公使、元老院議官、駐露公使、元老院議長、枢密顧問官等を歴任して皇室典範の制定に参与し、明治17年(1884)7月7日には伯爵に叙されています。
 また、明治天皇の典侍(宮中における女官の最上位)で大正天皇の生母でもある二位局柳原愛子(なるこ、1859~1943)は、前光の妹という名門でもありました。

 一方、母の奥津りょうは柳橋の芸妓から前光の妾のひとりとなりましたが、その父親は、幕末に外国奉行および神奈川奉行を務め、万延元年(1860)に日米修好通商条約批准書交換使節正使として渡米した新見正興(しんみ まさおき、1822~1869)という幕臣でした。
 新見正興は端麗なる容姿によって幕臣の中でもひときわ異彩を放っていたと云われていますが、明治維新直後に早世し、一家は没落したようです。

 燁子は16歳の明治33年(1900)、かねてから養女となっていた柳原家の分家である北小路子爵家の長男資武と結婚しますが、その結婚は幸せなものではなかったようです。
 明治34年(1901)に17歳で一子北小路功光(1901~1989)を授かるも、資武とは夫婦関係に支障をきたし、明治38年(1905)、21歳で破婚、義母初子の隠居所に幽閉されます。

 その後、燁子は東洋英和学校に入学して寄宿舎生活を送るなか、歌人、国文学者の佐佐木信綱(1872~1963)が主宰する短歌結社「竹柏会」に入会し、歌に情熱を傾けます。

 明治44年(1911)、27歳の時、炭坑王として財をなし、政友会の代議士として2期6年間在任した経歴を持つ伊藤鉱業社長伊藤伝右衛門(1861~1947)と再婚させられます。
 この結婚については、燁子の兄義光の貴族院議員出馬資金調達と伝右衛門側の名門との結びつきを求める利害が一致したことによる政略結婚色が強いものであったとされています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:54Comments(0)板橋村ゆかりの人々

2008年12月10日

板橋村ゆかりの人々(8)-崋山渡邊登先生(1)

 

 渡辺崋山先生の像。先生の弟子、椿山椿弼(つばき たすく、1801~1854)によって先生の没後12年後の嘉永6年(1853)に描かれたもの。田原市博物館蔵。重要文化財。 

 (旧暦 11月13日)

 第七 兄弟
 登の弟やいもうとは、みな早くからよそへやられました。
 八つばかりになる弟が、ほかへつれて行かれる時、登は弟のふしあはせをかなしんで、雪がふつてさむいのに、とほいところまでおくつて行つてわかれました。
 その弟がしらない人に手をひかれ、うしろをふりむきながらわかれて行つたすがた
が、あまりにかはいさうであつたので、登は、いつまでもその時のことをおもい出してなげきました。
 『尋常小学修身書 巻四 大正9年11月発行』


 幼少の弟を、私十四ばかりの時、板橋まで生き別れに送り参り候時、雪はちらちらふり来り、弟は八、九歳にて、見もしらぬあら男に連れられ、後をふりむきふりむきわかれ候こと、今に目前に見え候ごとくござ候。右弟は定意(じやうい)と申し、のちに熊谷宿にて客死つかまつり候。
 『退役願書之稿』


 崋山渡邊登先生は、江戸後期に活躍した政治家、画家で、天保3年(1832)5月 、40歳にして三河国田原藩1万2000石の年寄役末席(家老職)に就いて海防掛を兼ね、それまでの家格を基準にした家禄による給与を改めて、職務を等級別に分類した「格」による給与基準である「格高制」を導入して人材登用を可能にし、近代的な官僚制度への端緒を開きました。

 また、藩財政を改革するために殖産興業を推進し、天保5年(1838)には農学者大蔵永常(1768~1861)を興産方という農業指導者の役職に招いて、鯨油による稲の害虫駆除法や甘藷(さつまいも)の栽培、砂糖の製法などを指導させ、さらには、櫨(はぜ)の栽培と木蠟造りの技術や楮(こうぞ)の栽培と製紙法の移植も行わせています。

 この間、凶作に備えて「報民倉」と呼ばれる備蓄制度を実施し、天保4年(1833)に始まり数年続いた天保の大飢饉においては、この「報民倉」を開いて領民を救済し、田原藩では1人の餓死者も出さなかったと云うことです。

 そのため、翌年、幕府より藩主三宅土佐守に褒賞が与えられています。
 
                                    三宅土佐守
 其方領分去々申年は一通ならず違作の所、窮民救い方手当等格別行届き候由相聞、一段の事に候。此段申聞けるべき旨御沙汰に候。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:48Comments(1)板橋村ゆかりの人々

2007年12月29日

板橋村ゆかりの人々(7)-皇女和宮

 
 
 
 Chikako, Princess Kazu published by The Eastern Culture Association from Wikipedia.

 (旧暦 11月20日)

 山田耕筰忌  北原白秋等とともに多くの童謡や校歌などを作曲し、欧米でも活躍して名前を知られた最初の日本人音楽家、山田耕筰の昭和40年(1965)の忌日。

 [縁切榎]
 岩ノ坂ニアリ。近藤信濃守抱屋敷ニ傍(ヨリソ)ヘリ。圍(カコ)ミニ丈許。樹下ニ第六天ノ小祠アリ。則其神木ナリト云。世ニ男女ノ悪縁ヲ離絶セントスルモノ、コノ樹ニ祈テ験アラスト云コトナシ。故ニ嫁娶ノ時ハ、其の名ヲ忌テ此樹下ヲヨギラズ。ヨリテ近キ年 楽宮御下向ノ時モ他路ヲ御通行アラセラリシナリ。
 『新編武蔵風土記稿』


 武州豊嶋郡(としまごおり)板橋宿は、中山道を京へ上る際の江戸から数えて最初の宿駅で、江戸側から平尾宿、中宿、上宿の三宿からなりたっていました。
 中宿の坂(現仲宿商店街)を下って石神井川の板の橋ではない板橋(板橋の名前の由来)を渡ると、上宿(岩ノ坂)となります。
 橋を渡って270mくらい歩くと、交差点の右先角に小さな鳥居と祠(ほこら)があり、「史跡縁切榎」という石碑が建っています。

 現在の榎は3代目ということで、初代と2代目の榎は、道を挟んで反対の西側の南に20mほど江戸より、旧「中用水」のそば(本町32番地)にあったようです。
 歴史を留める東京の風景 江戸の宿場 板橋宿より
 「中山道分間延絵図」 http://kkubota.cool.ne.jp/shishuku2.html

 この「縁切榎」は、中山道板橋宿の薄気味悪い場所として旅人を怖れさせたそうですが、今は当時の面影を偲ぶよすがもありません。
 いつの頃からかこの木の下を嫁入り、婿取りの行列が通ると必ず不縁になると評判されるようになりました。

 土地の人はもちろんのこと、10代将軍徳川家治(在任1760~1786)に降嫁した五十宮(いそのみや)倫子女王(1738~1771)や12代将軍徳川家慶(在位1837~1853)に降嫁した楽宮(さざのみや)喬子女王(1795~1840)の行列はここを避けて、根村道(清水町46~宮本町~大和町~愛染通り~本町31)から板橋宿本陣に入ったといわれています。

 根村とは旧下板橋村の根村のことで、現在の大和町、双葉町の石神井川沿いの地域の呼び名でした。江戸の初期に中山道を整備する際に、幕府は近在の百姓の次男、三男に宿屋を経営させたそうで、上宿は根村が受けもちました。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 07:35Comments(0)板橋村ゆかりの人々

2006年08月22日

板橋村ゆかりの人々(6)−三船久蔵先生

 

 嘉納治五郎師範と三船久三先生の模範演技

 (旧暦  7月29日)

 藤村忌  作家島崎藤村の昭和18年(1943)の忌日。 詩集『若菜集』(1897)、『落梅集』(1901)や小説『破戒』(1906)、『夜明け前』(1929)などの作品を残し、明治浪漫主義文学、後には日本自然主義文学の先陣を切った代表的作家。

 ちなみに、昭和16年(1941)1月8日、当時の陸軍大臣東條英機が示達した、陸軍軍人としての行動規範を示した文書である『戦陣訓』の文案作成に、島崎藤村も参画したとされている。


 以前、池袋のさるレストラン・バーで日本一の借金王という人を紹介され、あっけにとられたことがあります。
 
 この方は、小島虎之助(宜隆)という人で、東京外語大中退後、三井物産をスタートとして数多くの商売に取り組み、そのつど大儲けをしては大損するという浮き沈みを経験、昭和61年(1986)から不動産業界に参入してビル用地専門の買取業者として全国で10本の指に入るまでに成長したものの、バブル景気の崩壊で3,000億円の負債を背負うことになりましたが、担保とした土地を融資した銀行に融資評価額で引き取らせて2,900億円まで返済し、なお今現在100億の借金があるというとてつもないお方です。

 この方が「偉いな」と思ったのは、自己破産せず、毎月1万円ずつ8行に返済しているところで、返済期限は8,000年だとか9,000年だとかおっしゃられて豪快に笑っておられました。

 私「嘉穂のフーケモン」は、あっけにとられてその方の人生哲学を拝聴していましたが、耳が潰れておられることに気がつき、「柔道をされていたことがあるのですか。」と質問したところ、「講道館7段です。三船久蔵先生の書生をしておりました。」とのお返事。
 ますますもって、びっくら仰天!思わず、「ハハァ〜」と頭を下げてしまいました。
 
 三船久蔵先生は板橋村の常盤台にお住まいだったとかで、小島氏は学生時代に先生宅に住み込みで書生をしていたとのことです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:10Comments(0)板橋村ゆかりの人々

2006年04月09日

板橋村ゆかりの人々(5)−源頼朝(2)

 

 中山道板橋宿板橋

 (旧暦  3月12日)

 板橋村ゆかりの人々(4)−源頼朝(1)のつづき

 源義経とその主従を中心に書いた軍記物語で、南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられている『義経記』巻第三「頼朝謀反の事」の記述によれば、かつて従五位下右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ:内裏周辺を警備する右兵衛府の次官)の官位を持っていた頼朝は、治承4年(1180年)9月11日、軍勢8万9千人を従えて「武蔵と下野の境なる松戸庄市河と言ふ所」に着きますが、満々と水をたたえた墨田河に行く手を阻まれました。

 兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝は、江戸太郎重長に命じます。江戸氏は治承4年(1180)に頼朝が挙兵したときには武蔵国内の最有力の武家の一角を担っており、初めは頼朝と対立して頼朝方の三浦氏を伐ちましたが、後に和解して鎌倉幕府の御家人となっています。

 佐殿(すけどの:頼朝)仰せられけるは、「江戸太郎八ケ国の大福長者と聞くに、頼朝が多勢此の二三日水に堰(せ)かれて渡し兼ねたるに、水の渡に浮橋を組んで、頼朝が勢武蔵国王子板橋に付けよ」とぞ宣(のたま)ひける。

 ここで初めて、『板橋』の地名が文献に現れます。

 江戸太郎承りて「首を召さるるとも如何でか渡すべき」と申す所に千葉介葛西兵衛を招きて申しけるは、「いざや江戸太郎助けん」とて、両人が知行所、今井、栗川、亀無、牛島と申す所より、海人の釣舟を数千艘上せて、石浜と申す所は江戸太郎が知行所なり。折節西国船の著きたるを数千艘取り寄せ、三日がうちに浮橋を組んで、江戸太郎に合力す。佐殿(頼朝)神妙なる由仰せられ、さてこそ太日、墨田打ち越えて、板橋に著(つ)き給ひけり。 (義経記 巻第三 頼朝謀反の事)

 ということで、板橋村と源頼朝のゆかりは、頼朝の軍勢が鎌倉に討ち入る道すがら『板橋』に陣を敷いたというだけで、ま、それだけのことです。すんません。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 14:55Comments(0)板橋村ゆかりの人々

2006年04月07日

板橋村ゆかりの人々(4)−源頼朝(1)

 

 絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵)

  (旧暦  3月10日)

 放哉忌  俳人尾崎放哉(ほうさい)の大正15年(1926)の忌日。季語を含めない自由律俳句の代表的俳人として、同じ萩原井泉水門下の種田山頭火と並び称される漂白俳人。山頭火と同様に酒に溺れて身を持ち崩し、不遇の晩年を送る。山好きの山頭火に対して海好きの放哉、作風は「動」の山頭火に対して「静」の放哉と評されている。
 これでもう外に動かないでも死なれる 放哉

 鎌倉幕府の初代征夷大将軍に任じられた源頼朝(1147〜1199)は、武家源氏の主流だった河内源氏嫡流の源義朝(1123〜1160)の三男として生まれ、父義朝が第77代後白河天皇(在位1155〜1158)の寵臣藤原信頼(1133〜1160)に加担した平治の乱(1159)で平清盛(1118〜1181)に敗れたため、13歳で伊豆国蛭ヶ小島に流されました。

 治承4年(1180年)、後白河天皇の第三皇子以仁王(1151〜1180)が平家追討を命ずる令旨[りょうじ:皇太子、三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命令を伝えるために出した文書]を諸国に雌伏する源氏に発し、4月27日、伊豆国の頼朝にも、叔父の源行家(1145〜1186)より令旨が届けられます。

 以仁王は源頼政(1104〜1180)らと5月に挙兵しましたが、宇治川の戦いで平清盛の四男平知盛(1152〜1185)の平家軍2万に破れ、以仁王、頼政の長男仲綱らが討死、頼政は平等院で自害してしまいました。

 清盛は令旨を受けた諸国の源氏を討とうとしますが、頼朝は逆に伊豆国司平時忠の目代に任ぜられ、現地に流されていた頼朝の監視役となった山木兼?(?〜1180)を討ち、平家打倒の兵を挙げる決意を固めます。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:54Comments(0)板橋村ゆかりの人々

2006年01月02日

板橋村ゆかりの人々(3)−宇喜多秀家

 

 宇喜多家墓所

 (旧暦 12月 3日)

 宇喜多(秀家)さんちのお墓は、板橋村の板橋3丁目13−8の丹船山薬王樹院東光寺にあります。

 宇喜多氏(うじ)は、備前国(びぜんのくに)の戦国大名ですが、戦国時代末期の宇喜多能家(?〜1534)の時代には、播磨、備前、美作の三ヶ国を領する守護大名赤松氏のもとで備前の守護代を務めていた浦上村宗(?〜1531)の重臣として仕え、備前国砥石ヶ城(岡山県瀬戸内市邑久町)に居を構えていました。

 宇喜多直家(1529〜1582)は、祖父能家(よしいえ)が同じく浦上氏の家臣で高取山城主島村盛実(1509〜1559)らによって攻め滅ぼされた天文3年(1534年)には6歳でしたが、父興家(?〜1536)と共に備後国鞆津まで落ち延び、後に備前福岡の豪商阿部善定に庇護されました。
 成人ののちは天神山城主浦上宗景に仕えるようになって浦上家臣団の中で頭角を現し、天正3年(1575年)には主君浦上宗景の兄政宗の孫久松丸を擁立して宗景を播磨へ退け、備前、備中の一部、美作の一部にまで勢力を拡大し、これ以降直家が居城にした岡山が備前国の中心になりました。

 さて、宇喜多秀家さんは天正10年(1582)、父直家の病没により9歳で家督を相続、毛利征伐のため出陣してきた羽柴秀吉に気に入られて養子扱いの厚遇を受けます。元服の際には、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられて「秀家」と名乗るようになりましたが、秀吉の寵愛を受け、天正16年(1588年)には、秀吉の養女で加賀の太守前田利家(1539〜1599)の四女豪姫(1574〜1634)を正室としています。

 本能寺の変ののちは秀吉の天下取りの戦いに積極的に参戦、数々の戦功を挙げ、天正18年(1590)秀吉の天下統一後は備前国、美作国、播磨国西部と備中国東半の57万4千石を知行する大大名に躍進しました。
 また文禄の役(第一次朝鮮出兵)では、文禄2年(1593)の碧蹄館(高陽市碧蹄洞一帯)の戦いで本隊大将を務め、海禦倭総兵官李如松(?〜1598)率いる4万3千の明軍を撃破し、その武功により従三位中納言に昇進しました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:09Comments(0)板橋村ゆかりの人々

2005年12月05日

板橋村ゆかりの人々(2)−高野長英(2)

 

  板橋宿旧水村玄洞宅跡(石神医院)

 (旧暦 11月 4日)

 板橋村ゆかりの人々(1)−高野長英(1)のつづき

 シーボルトが開設した鳴滝塾で3年以上も研鑽し塾頭として頭角を現していた長英でしたが、文政11年(1828)、シーボルトが帰国する際に幕府天文方・書物奉行の高橋景保(1785〜1829)らから手に入れた伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の縮図や、蝦夷地図、葵の紋服などをオランダに持ち出そうとしたことが発覚し、シーボルトは国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けました。

 二宮周作や高良斎(1799〜1846)など主だった弟子も捕らえられて厳しい詮議を受ける中、かろうじて難を逃れた長英は天保元年(1830)に江戸に戻り、麹町貝坂に蘭学塾「大観堂」を開きましたが、まもなく三河田原藩12,000石江戸詰め家老渡辺崋山(1793〜1841)と知り合い、その能力を買われて田原藩のお雇い蘭学者として岸和田藩の藩医小関三英(1787〜1839)や田原藩の兵学者鈴木春山(1801〜1846)とともに蘭学書の翻訳に当たりました。

 天保3年(1832)、長英は紀州和歌山藩の藩医遠藤勝助らによって天保の飢饉の対策会として作られた洋学研究集団南蛮学社である尚歯会に入り、崋山らとともに中心的役割を担いました。

 天保9年(1838)、モリソン号に対する幕府の方針を漏れ聞いて深く憂慮した長英は「戊戌夢物語」を著して内輪で回覧に供しましたが、この本は長英の予想を超えて写本として流布していました。

 当時、第12代将軍徳川家慶(1793〜1853)のもと老中として、質素倹約の重農主義を基本とした享保・寛政時代への復古を目指し、経済改革を中心に綱紀粛清や軍制改革など(天保の改革)を実施した水野忠邦(1794〜1851)の目付で、大学の頭林述齋(1768〜1841)の子、鳥居耀蔵(1796〜1873)は、儒学者として極端に洋学を憎み、南蛮学社(尚歯会)に属する学者への弾圧(蛮社の獄)を加えました。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:47Comments(0)板橋村ゆかりの人々

2005年12月04日

板橋村ゆかりの人々(1)−高野長英(1)

 

 高野長英像 渡辺崋山の弟子、椿椿山により天保前半期に描かれる。奥州市立高野長英記念館蔵、重要文化財。

 (旧暦11月3日)

 天保8年(1837)6月28日、安房大房(たいぶさ)沖(千葉県富浦町)に姿を現した3本マストの大型帆船は浦賀沖へと進んで行きましたが、浦賀奉行の異国船打払令に基づく発砲命令により砲撃され、沖へと退いていきました。
 
 この船は、アメリカのオリファント商会(Olyphant & Co.)に所属する商船モリソン号で、マカオで保護されていた尾張の難破漂流民岩吉、久吉、音吉と肥前の難破漂流民庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松の7名を乗せていました。そしてモリソン号の来航の目的は、これらの漂流民を日本に送り届け、併せて通商を求めようとしていたものでした。
 翌年、オランダ商館長グランディソンからこのことを知らされた幕府では、モリソン号の再びの来航に備え協議を重ねていましたが、結論は、前回と同様に砲撃を行い撃退するというものでした。

 これに先立つ12年前の文政8年(1825)、幕府は、「無二念打払セ、見掛図ヲ不失様取計候処、専要之事ニ候」との触書を出し、日本沿岸に近づく外国船に対してはすべて打ち払うべきことを命じていました。

 天保8年(1837)10月、紀州和歌山藩の藩医遠藤勝助が主宰する尚歯会(洋学研究集団南蛮学社)の例会に出席し、会友の幕府評定所記録方芳賀市三郎から漏らされたモリソン号に対する幕府の方針を聞いて深い憂いを覚えた瑞皐(ずいこう)高野長英(1804〜1850)は、「戊戌夢物語」を著して幕府の外国船打払令を穏やかに警告し、モリソン号が再び来航した際には漂流民を受け取り、鎖国政策により通商は開けない旨の事情を諭して穏やかに退去させるべきであると説きました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:28Comments(0)板橋村ゆかりの人々