2005年05月30日
クラシック(12)−合唱(3)−天(そら)は東北
旧制二高有志による校歌『天は東北』
(旧暦 4月23日)
かつて仙台にあった旧制第二高等学校の校歌『天は東北』は、明治38年(1905)、当時第二高等学校教授であった晩翠土井(つちい)林吉(1871〜1952)が母校のために作詞し、東京音楽学校助教授楠美恩三郎(1868〜1927)が作曲した有名な校歌です。
明治20年(1887)4月、仙台に第二高等中学校が設置されましたが、晩翠土井林吉は翌明治21年(1888)、その第二高等中学校補充科二年に入学しました。
二高の場合、本科(2年)の下に予科(3年)が設けられましたが、それでも人材が足りないため明治21年(1888)には予科の下に更に補充科(2年)が設けられました。
その後明治27年(1894)、「高等学校令」の公布により第二高等中学校は第二高等学校と改称しますが、晩翠は明治27年(1894)第二高等学校を卒業し、帝国大学文科大学英文学科に入学、英文学を学びながら、「帝国文学」の編集委員として在学中から詩を発表し、注目されました。
卒業後、明治33年(1900)母校である第二高等学校の教授として迎えられ、英語を教えると共に詩作・翻訳等で活躍しています。 続きを読む
2005年05月29日
秋津嶋の旅(5)−陸奥(2)−プランドーム一番町
プランドーム一番町
(旧暦 4月22日)
白櫻忌 歌人・詩人の與謝野晶子の昭和17年(1942)の忌日。 歿後に出された最後の歌集『白櫻集』に因み、「白櫻忌」とも呼ばれる。
ケヤキ並木が美しく街全体が緑に覆われていることから、「杜の都仙台」と呼ばれていますが、戦前は第二師団司令部が旧仙台城内にあり、また郊外の榴岡(つつじがおか)には歩兵第4聯隊などがあり、仙台は「軍都」でもありました。
さらには、明治27(1894)年「高等学校令」の公布により、明治20(1887)年4月に設置された第二高等中学校は第二高等学校に改称、そして明治40年(1907)に「東北帝国大学」も創設され、仙台は「学都」とも呼ばれていました。
しかし、仙台は東北地方の商業の中心地でもあり、商都仙台でもありました。その商都仙台を代表する繁華街である東一番町通りは、南からサンモール一番町、プランドーム一番町、一番町四丁目買物公園が連なり、南北約1Km以上に渡るおしゃれな商店街に生まれ変わっています。この東一番町通りの商店街は、私「嘉穂のフーケモン」の最も好きなスポットです。 続きを読む
2005年05月27日
となり村名所あんない(18)−北村(3)−名主の滝
名主の滝公園
(旧暦 4月20日)
JR京浜東北線王子駅北口から北に向かって徒歩約10分で、「名主の滝公園」に着きます。
洪積世台地である武蔵野台地と荒川の氾濫源であった低湿地の境にある王子には、かつて7つの滝がありましたが、今はこの名主の滝だけが残っています。
北村の案内板によると、
名主の滝は、王子村の名主畑野孫六が、その屋敷内に滝を開き、茶を栽培して、一般の人々が利用できる避暑のための施設としたことによるもので、名称もそれに由来しています。
その時期は、嘉永3年(1850)の安藤広重による「絵本江戸土産」に描かれた「女滝男滝」が名主の滝にあたると思われるので、それ以前のことと考えられています。
その後、明治の中頃、畑野家から貿易商である垣内徳三郎氏の所有となり、垣内氏は、好んでいた那須塩原(栃木県)の景色に模して、庭石を入れ、楓を植え、渓流をつくり、奥深い谷の趣のある庭園として一般の利用に供しました。 続きを読む
2005年05月26日
物語(2)−源平盛衰記(1)−菖蒲前(あやめのまへの)事
歌川広重 『名所江戸百景』 堀切の花菖蒲
(旧暦 4月19日)
五月雨(さみだれ)に 沼の石垣水こえて 何(いずれ)かあやめ引(ひき)ぞわづらふ
(源三位頼政)
旧暦では、4月から6月にかけての時節を夏としています。
あやめぐさは、万葉集では夏の草花で12首詠み込まれていますが、現在のサトイモ科の多年草の菖蒲(しょうぶ)のことで、その独特の香りから邪気をはらうと考えられてきました。
現在、ショウブという場合は、たいていハナショウブ(花菖蒲)のことを言います。学名はIris ensata、アヤメ科アヤメ属の花ですが、同属にアヤメ(学名:Iris sanguinea)、カキツバタ(学名:Iris laevigata)もあり、どれがどれだか素人にはさっぱりわかりません。
全く分けが判らず、思わず「責任者呼んで来い!」と叫びたくなります。
そのため、古来から、「いずれが菖蒲(アヤメ)か杜若(カキツバタ)」と云われ、「美しくて甲乙付けがたいこと」を言う時の形容句として用いられてきましたが、この頃では、「どっちもどっち」の意味で使われているのではないかと愚考致しております。 続きを読む
2005年05月25日
新生代(6)−第三紀(6)−インドリコテリウム
インドリコテリウムの骨格化石(国立科学博物館)
(旧暦 4月18日)
有無の日 第62代村上天皇の康保4年(967)の忌日。 村上天皇は、急な事件のほかは政治を行わなかったことから名付けられたとか。
1910年、イギリスの古生物学者クーパー(C. Forster Cooper)がパキンスタンのバルチスタン州 Dera Bugti丘陵で発見したこの化石は、体長10m、肩高5.2m、体重30tもあり雲をつくような巨体で、地球始まって以来の陸生獣でした。
平均的なアフリカゾウが、肩高3.2m、体重6t程度なので、陸生哺乳類としてはいかに巨大だったかがわかります。
この種属の化石については、発見者によってバルキテリウム(Baluchitherium)やパラセラテリウム(Paraceratherium)など種々の名前がついていますが、最近ではインドリコテリウム(Indricotherium)が一般的なようです。 続きを読む
2005年05月22日
数学セミナー(3)−量子力学(2)−ボーアの量子論
ニールス・ボーア(Niels Bohr、1885〜1962)
(旧暦 4月15日)
数学セミナー(2)−量子力学(1)のつづき
光はプリズム(ガラスなどでできた多面体)内を通過するとき、各波長の屈折率差により分散性を生じます。これを利用して波長(色)を分離することができます。
光を波長(色)毎に分解して並べたものをスペクトル(spectrum)といいます。ちなみに自然のスペクトルは、虹ですね。
このプリズムを使ってスペクトルを詳しく観察したのはニュートン(Sir Isaac Newton、 1643〜1727)が最初だそうですが、種々のガスを封入した放電管や、いろいろな物質の電極の間に高電圧をかけて放電させたとき放射される光は、そのガスや物質に特有の線スペクトルを示します。
太陽光線は連続スペクトルですが、水素のスペクトルの中で可視部から紫外線の部分にかけて現れる「バルマー系列」と呼ばれる一群の線スペクトルがあります。 続きを読む
2005年05月19日
となり村名所あんない(17)−千代田村(5)−松之大廊下跡
江戸城本丸 松之廊下跡
(旧暦 4月12日)
大手町1丁目のパレスホテルの向かいにある大手門を入り、さらに進むと両側に石垣を残した大手下乗門(大手三の門)にさしかかります。 この門の前には、戦前の地図には水濠がありましたが、現在は埋め立てられてます。
江戸時代は、徳川御三家以外の大名は、この門の前で駕籠を降りました。
大手下乗門をさらに進むと、左側に百人番所があります。伊賀組、甲賀組、根来(ねごろ)組、二十五騎組の4組が交代で護りを固めていましたが、各組には同心百人ずつが配属されていたところから百人番所の名が生まれました。
百人番所から左に見えるのが大手中の門跡です。この門では、徳川御三家の大名でも駕籠を降りました。この坂を登ると書院門(中雀門)跡で、本丸の玄関前です。 続きを読む
2005年05月18日
陶磁器(4)−玫瑰紫花盆(宋代/鈞窯)
玫瑰紫釉葵花式花盆 宋 鈞窯 高15.8cm 口径22.8cm 足径11.5cm
(旧暦 4月11日)
汝窯、定窯、官窯、哥窯、鈞窯を宋の五大名窯と云いますが、宋代までの中国の陶磁器は、祭器に用いられる青銅器の形を模し、神秘な霊力を持つと信じられた玉の色を再現しようとする努力によって発展してきたとされています。
古代中国の文化は「玉(ぎょく)の文化」と云われても差し支えないほど、人々の生活と玉(ぎょく)は密接な繋がりを持っていました。
玉には、邪を打ち払い、人の道を正し、死をも免れる霊力があるものと信じられ、金銀に勝るものとして尊ばれました。
ちなみに、中国で尊重された古代の玉は軟玉で、英語ではネフライト(Nephrite)、鉱物的には透閃石(Tremolite)と言われる鉱物です。
宋代の磁器は、白磁、青磁といった単色釉が多いのですが、それは玉の色の再現が求められたためで、上記五つの窯のうち鈞窯だけは例外で、窯変(花釉)による発色が貴ばれました。 続きを読む
2005年05月17日
中生代(4)−白亜紀(4)−恐竜の絶滅(2)
Radar topography reveals the 180 km (110 mi) wide ring of the Chicxulub Crater.
(旧暦 4月10日)
中生代(3)−恐竜の絶滅(1)のつづき
イリジウム(iridium:原子番号77、原子量192.2)は、石質隕石の炭素質コンドライト中の存在比10億分の500に比し、通常の地殻内では10億分の0.03の存在比でしかありません。
たった1cmの厚さしかないKT境界の粘土層のイリジウムの量が、50万年間続いた「29逆磁場期」と呼ばれる地球磁場の逆転期に堆積した6mの厚さの石灰岩に含まれるイリジウムの量に匹敵していたのです。
1978年、メキシコ湾沿岸で石油採掘を進めていたメキシコ石油公社のスタッフは、ユカタン半島の北部で奇妙な環状陥没構造を見つけました。飛行機による重力分布測定(石油発掘のための地質調査)の結果、重力異常の分布によって直径180kmのクレーターが海底に埋まっていると推定されました。
これこそが、今では恐竜類やアンモナイトなど地球上の動植物の75%以上が絶滅したとされる小惑星の衝突の痕跡、チクシュルーブ(Chicxulub)クレーターです。 続きを読む
2005年05月16日
中生代(3)−白亜紀(3)−恐竜の絶滅(1)
T. horridus skeleton mounted with modern limb-posture, Natural History Museum of Los Angeles County.
(旧暦 4月 9日)
透谷忌 詩人・北村透谷の明治27年(1894)年の忌日。
約2億3000万年の中生代三畳紀(トリアス紀)後期から出現し、中生代ジュラ紀、白亜紀を通して地球上に君臨した恐竜類も、約6500万年前に忽然と姿を消してしまいました。
それは、恐竜のみならず、約4億1000万年前の古生代デボン紀から繁栄してきたアンモナイトやその他の多くの動植物も、突然、そして永遠に姿を消してしまったのです。
そのことは、古生物学者たちが発見した6500万年前の地層の産出化石の不連続から明らかになりました。
この化石記録の不連続は、恐竜類が繁栄した白亜紀と哺乳類が繁栄する第三紀の境界に当たり、ドイツ語で白亜紀を意味するKreideと英語で第三紀を意味するTertiaryの頭文字を取って、「KT境界(KT boundary)」と呼ばれています。 続きを読む
2005年05月15日
クラシック(11)−ベートーベン(2)−『エグモント』序曲
Johann Wolfgang von Goethe(1749〜1832)
(旧暦 4月 8日)
1786年9月3日、ワイマール公国の宰相であった37歳のゲーテは、理想とする政治に行き詰まり、また10年にも及ぶシュタイン夫人との交際にも決別して、突如として郵便馬車に乗り、イタリアへと旅立ちました。
ヴェローナ、ヴィンチェンツァ、パドゥア、ヴェネチア、フィレンツェなどを経てローマに入るまでの間、イタリア・ルネサンスのさまざまの芸術に感動したゲーテは、翌年イタリアで戯曲『エグモント』を完成させます。
戯曲『エグモント』は、16世紀にイスパニア(スペイン)の圧制に苦しむネーデルランドの民衆を救おうと、独立運動を指導して立ち上がった軍人/政治家ラモラル・エグモント伯爵(Lamoral Egmont 1522〜1568) というオランダの英雄をモデルに描いたものです。 続きを読む
2005年05月14日
となり村名所あんない(16)−千代田村(4)−丸の内仲通り
丸の内中通り
(旧暦 4月 7日)
帝都東京の玄関東京駅の西側に広がる丸の内、その丸の内でも平成14年(2002)9月に新装改築なった丸の内ビルと郵船ビルに挟まれた丸の内仲通り一帯は、いまおしゃれなスポットに変身しました。
休祭日は車の通りも少なく、ぱらぱらと人が歩いているこの通りには、花のオブジェが数十メートル間隔で飾ってあり、所々に花壇のコンテストでもやっていたのでしょうか、きれいで斬新なデザインの花の作品が展示されていました。
後でしらべたところ、これは「丸の内仲通りフラワーギャラリー2005」と銘打ったイベントの企画で、コンペ方式で選ばれた15組のガーデナー達により制作された、幅約1.5m 長さ約10mのフラワーガーデンが仲通りを色鮮やかに引き立てていました。
実行委員会の思惑通り、仲通りが花と緑であふれる都会のオアシスになっていましたが、残念ながら5月3日から15日までの企画です。 続きを読む
2005年05月13日
パイポの煙(17)−暦(こよみ)
九段坂の常夜灯
(旧暦 4月 6日)
花袋忌 小説家・田山花袋の昭和5年(1930)の忌日。
古来日本は、中国や朝鮮半島の百済や新羅から様々な文化を教わりながら、日本独自の文化を培ってきました。稲作技術や生活習慣、政治体制など、実に多彩な影響を受けて、ようやく今日の日本ができました。
そのような生活習慣のひとつに、暦(こよみ)があります。
今、世界で用いられている暦には、「太陽暦」「太陰暦」「太陰太陽暦」の3種類があります。
「太陽暦」は、地球が太陽の周りをまわる周期(太陽年)のみを元にして作られた暦法で、現在世界標準暦になっているグレゴリオ暦は、それ以前に使用されていたユリウス暦に修正を加えてできた太陽暦の一種です。
「太陽暦」に基づく暦法には、そのほか、イラン暦(ペルシャ暦)やマヤ暦など全部で12種類ほどあるようです。
1582年10月15日からイタリア、スペイン、ポルトガル、ポーランドで導入され、順次ヨーロッパ圏内のカトリック教国に広まっていきました。
日本では、天保暦の明治5年12月3日がグレゴリオ暦の明治6年(1873)1月1日になりました。 続きを読む
2005年05月11日
詩歌(2)−「大渡橋」
38歳の萩原朔太郎
(旧暦 4月 4日)
朔太郎忌 大正・昭和期の詩人、萩原朔太郎の昭和17年(1942)の忌日。
ここに長き橋の架したるは
かのさびしき総社の村より 直(ちょく)として前橋の町に通ずるならん。
われここを渡りて荒寥たる情緒の過ぐるを知れり
往くものは荷物を積み車に馬を曳きたり
あわただしき自転車かな
われこの長き橋を渡るときに
薄暮の飢ゑたる感情は苦しくせり。
ああ故郷にありてゆかず
塩のごとくにしみる憂患の痛みをつくせり
すでに孤独の中に老いんとす
いかなれば今日の烈しき痛恨の怒りを語らん
いまわがまづしき書物を破り
過ぎゆく利根川の水にいつさいのものを捨てんとす。
われは狼のごとく飢ゑたり
しきりに欄干(らんかん)にすがりて歯を噛めども
せんかたなしや、涙のごときもの溢れ出で
頬(ほ)につたひ流れてやまず
ああ我れはもと卑陋(ひろう)なり。
往くものは荷物を積みて馬を曳き
このすべて寒き日の 平野の空は暮れんとす。
萩原朔太郎 純情小曲集−郷土望景詩−「大渡橋」より 続きを読む
2005年05月10日
数学セミナー(2)−量子力学(1)−プランクの量子仮説
マックス・プランク(Max Planck,1858〜1947) 1878年
(旧暦 4月 3日)
四迷忌 小説家・翻訳家の二葉亭四迷の明治42年(1909)年の忌日。 前年から朝日新聞社特派員としてロシアに渡り、病気で帰国の途中のインド洋上で客死した。
19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、実験物理学の世界では、それまでの理論では説明できない種々の現象に出くわしていました。
黒体(外部から入射する、光や電磁波による熱輻射などを、あらゆる波長に渡って完全に吸収する物体で、完全黒体は現実には存在しないと言われていますが、ブラックホールなど近似的にそうみなせる物質、物体はあります)からの熱輻射のスペクトル分布や低温における固体の比熱、あるいは常温での自由な2原子分子の運動において5個の自由度しか現れないということがそのような種類の問題でした。
ちなみに通常、2原子分子の運動の自由度は、重心の並進運動の自由度3(x方向、y方向、z方向)、重心の周りの回転運動の自由度2(分子軸の回りの回転運動と分子軸に垂直な方向の軸の回りの回転運動)、振動の自由度1の合計6個となります。 続きを読む
2005年05月09日
書(8)−懐素(2)−自叙帖(2)
戴公
又云 馳豪驟
墨列奔駟 滿座
失聲看不及
目愚劣
則有從父司
勳員外郎呉興
錢起詩云
遠錫無前侶
孤雲寄太虚
狂來輕世
界 醉裏得真如
皆辭旨
激切 理識
自叙帖 懷素 [唐] 紙本墨書 一巻 台北故宮博物院 維基百科より
(旧暦 4月 2日)
泡鳴忌 詩人、小説家、劇作家、評論家の岩野泡鳴の大正9年(1920)の忌日。
懐素(1)−自叙帖(1)のつづき
唐の大暦12年(777)、懷素は洛陽において刑部尚書(法務省長官)になったばかりの書聖顔眞卿(709〜785)に逢い、尚書司勳朗の盧象、小宗伯の張謂が彼の草書を詠じた詩を示して、序を請いました。
顔眞卿は彼の草書に嘆服し、「懷素上人草書歌序」を書いたと伝えられています。
さてこの「自叙帖」は、大暦12年(777)10月、懷素が自分の学書の経歴を述べた文章をかいた草書巻ですが、すべてで136行あり、毎行の字数は一定せず、字形は様々に変化して、巻末に近い部分は字も大きく、筆勢も早く鋭くなっています。 続きを読む
2005年05月08日
書(7)−懐素(1)−自叙帖(1)
懷素家長沙 幼
而事佛 經禪之
暇 頗好筆翰
然恨未能遠覩
前人之奇跡 所
見甚淺 遂擔
笈杖錫 西遊上
國 謁見當代名公
錯綜其事 遺
編絶簡 往往遇之
豁然心胸 略
自叙帖 懷素 [唐] 紙本墨書 一巻 台北故宮博物院 維基百科より
(旧暦 4月 1日)
懐素(かいそ)(629〜697)は、西遊記で有名な三蔵法師(玄奘三蔵602〜664)に師事したと云われており、仏教学者で東大名誉教授であった故鎌田茂雄氏の『中国仏教史』によれば、師・法礪(569〜635)の説を批判して『東塔(律)宗』を開いたとされている大変偉い人のようですが、こちらの狂僧と呼ばれた懐素(725?〜786?)は、酒や肉が大好きな、あきれた生臭坊主だったようです。
『茶経』3巻を著して飲茶の風習を世に広め、茶神としてまつられた陸羽(733〜803)の『唐僧懷素傅』によれば、1日に9回、酔いつぶれるほどに酒を飲み、そのために胃を壊し、通風になったにもかかわらず、それでも杯を手放さなかったと云う、とんでも無いおっさんで、現代サラリーマンの鑑(かがみ)のようなお方です。 続きを読む
2005年05月07日
北東アジア(14)−五・四運動(5)
陳独秀(1879〜1942)
(旧暦 3月29日)
健吉忌 評論家・山本健吉の昭和63年(1988)の忌日。
五・四運動(4)のつづき
五・四運動にみられるこうした愛国運動の高まりは、中国知識人の意識の向上によるものとされています。
特に、民国4年(1915)9月15日に上海で創刊された陳独秀(1879〜1942)を編集責任者とする雑誌『新青年』(もとは『青年雑誌』、第2巻より改名)の果たした役割は大きく評価されています。
雑誌『新青年』の執筆者は主として北京大学の教官で、胡適、陳独秀、周作人(魯迅の弟:1885〜1967)は民国6年(1917)に北京大学の教授となり(陳独秀は文科長)、李大釗は同年北京大学図書館長(1920年教授)となり、魯迅は民国9年(1920)に北京大学の非常勤講師となっています。
発刊のことば「敬告青年」の中で、陳独秀は「民主」と「科学」のスローガンを掲げ、これらを汽船の両輪に例えました。 続きを読む
2005年05月06日
北東アジア(13)−五・四運動(4)
Students in Beijing rallied during the May Fourth Movement.
(旧暦 3月28日)
鑑眞忌 唐の高僧で、日本に渡って日本律宗を開いた鑑眞の天平宝字7年(763)の忌日。
万太郎忌、傘雨忌 小説家・劇作家・俳人・演出家の久保田万太郎の昭和38年(1963)の忌日。 俳号の傘雨から傘雨忌とも呼ばれる。
春夫忌 詩人・小説家・評論家の佐藤春夫の昭和39年(1964)の忌日。
五・四運動(3)のつづき
このデモで、安徽派の国務総理段祺瑞(1865〜1936)が実権を握る北京政府(北洋軍閥政府)は32人の学生を逮捕したため、翌日より北京の学生は罷課(授業ボイコット)に突入しました。
学生たちは街頭宣伝活動、講演活動を行い、また国産品を販売して日貨排斥を訴えました。天津では5月7日、学生連合会の結成が決議され、山東省でも市民5千人参加の国恥記念大会、上海でも国民大会が開催されました。
やがて運動は、天津・保定・上海・南京・武漢の各都市や広東・広西・福建・山西・陝西・浙江・江西・湖南・四川・東三省[黒竜江・吉林・遼寧(旧奉天)]の各省などに拡大し、7日から16日にかけて各界大会や学生によるデモ、集会が行われました。また、18日に北京学生連合会が一斉罷課(授業ボイコット)に突入すると、天津、上海、南京をはじめとして各地の学生も罷課(授業ボイコット)をはじめました。 続きを読む
2005年05月05日
北東アジア(12)−五・四運動(3)
1910年の東アジア勢力図
(旧暦 3月27日)
五・四運動(2)のつづき
大正6年(1917)2月、アメリカ合衆国が世界大戦に参戦しましたが、駐華公使ラインシュを通じて中国も共同の行動をとるように働きかけ、中国もドイツと国交を断絶して参戦しました。
世界大戦は、大正7年(1918)11月にキール軍港での水兵の反乱をきっかけに、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、オーストリアも降伏して、11月11日に第一次世界大戦は休戦します。
大正8年(1919)1月、パリのベルサイユ宮殿で講和会議が始まりましたが、中国政府が要求した二十一ヵ条(実際には13ヵ条と3交換公文)の取り消し、外国軍隊及び警察の撤退、関税自主権獲得等の諸要求は却下され、議題に持ち出されさえしませんでした。 続きを読む