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Posted by さぽろぐ運営事務局 at

2018年01月10日

奥の細道、いなかの小道(46)− 大垣(2)

        (旧暦11月24日)

  


    奥の細道、いなかの小道(45)− 大垣(1)のつづき

    旧暦八月二十一日(陽暦十月十四日)、芭蕉翁と八十村路通は大垣に到着しました。芭蕉翁は三月二十七日(旧暦)に江戸深川の芭蕉庵を出立してから百四十二日、六百里(約二四○○キロ)の「おくのほそ道」の旅を終えて、貞享元年(1684)十月、『野ざらし紀行』の際に初めて宿泊した元大垣藩士近藤如行邸に、再び草鞋を脱ぎました。芭蕉翁の到着が遅れて待ちわびた大垣の門弟たちがぞくぞくと如行邸に集まって大歓迎をしました。

    出迎えたのは、大垣藩詰頭三百石津田前川、宮崎荊口(通称太左衛門、大垣藩御広間番、百石)、長男此筋(当時十七歳)、次男千川(幼名才治郎)、三男文鳥(幼名與三郎)らでした。また親しき人々は、高岡斜嶺(通
称三郎兵衛、大垣藩士、二百石)、その弟高宮怒風(大垣藩士)、淺井左柳(通称源兵衛、大垣藩士、百五十石)らでした。 

    芭蕉の来訪当時、大垣の俳諧は大垣藩十万石第四代藩主戸田采女正氏定(1657〜1733)の文教奨励によって、大垣藩士らを中心に盛んでした。芭蕉が大垣俳壇に新風を吹き込み、これを契機に「芭風」俳諧は美濃一帯に広がり、以後、美濃俳壇として基礎が確立されたとされています。

    芭蕉は大垣滞在中、近藤如行邸で長旅の疲労回復に努めつつも、谷木因邸や高岡斜嶺邸などを訪れて句を詠み、歌仙を巻いていますが、詳しい動静については伝わっていません。
    まず、芭蕉は谷木因の隠居宅に招かれました。木因は貞享三年(1686)暮れ、家督を息子に譲り、翌貞享四年に剃髪、浄土宗圓通寺の北側(大垣市西外側町一丁目)に隠居宅を構えていました。
    谷木因(通称九太夫)は、船町湊の廻船問屋の主人でしたが、早くから俳諧を嗜み、延寶二年(1674)頃に北村季吟(1625〜1705)に学び、芭蕉と同門となっています。

  


      谷木因(1646〜1725)

    北村季吟(1625〜1705)は、はじめ貞門七俳人の一人である俳人安原貞室(1610〜1673)、ついで松永貞徳(1571〜1654)について俳諧を学び、俳書『山之井』の刊行で貞門派俳諧の新鋭といわれました。飛鳥井家第十五代当主飛鳥井雅章(1611〜1679)、霊元院歌壇の中心的な歌人の一人清水谷実業(1648〜1709)に和歌、歌学を学んだことで、『土佐日記抄』、『伊勢物語拾穂抄』、『源氏物語湖月抄』などの注釈書をあらわし、元禄二年(1689)には歌学方として五百石にて子息湖春(1650〜1697)と共に幕府に仕えています。以後、北村家が幕府歌学方を世襲しています。

  


      北村季吟(1625〜1705)

    以来、芭蕉と木因は親交を結び、木因に大垣来訪を請われ、貞享元年十月、初めて大垣を訪れています。今回の大垣は、三度目の訪問でしたが、『おくのほそ道』本文には、木因の名が記されていません。
    初め木因を通じて芭蕉の指導を受けていた大垣藩士も、参勤交代で江戸勤番となると直接芭蕉から指導を受けていたといいます。

    芭蕉は高岡斜嶺邸にも遊び、
 
            戸を開けばにしに山有。いぶきといふ。花にもよらず、雪にもよらず、只これ弧山の徳あり
        其まゝよ月もたのまじ伊吹山


と詠んでいます。

    芭蕉は旧暦七月二十九日、山中温泉で如行宛に書簡を送り、
  
            如行様           はせを
        みちのくいで候て、つゝがなく北海のあら礒日かずをつくし、いまほどかゞの山中の湯にあそび候。中秋四日五日比爰元立申候。つるがのあた
        り見めぐりて、名月、湖水若みのにや入らむ。何れ其前後其元へ立越可申候。嗒山丈、此筋子、晴香丈御傳可被下候。以上
            七月廿九日


とあって、大垣の門人達は芭蕉と名月を観るのを楽しみにしていましたが、芭蕉が大垣に着いたのは、望月を幾夜か過ぎた更待(陰暦二十日夜の月)の頃になってしまいました。そこで芭蕉は遅れての到着を、取りあえず斜嶺を通して大垣の門人達に詫びる心が、伊吹山を望む地への挨拶にしたと解されています。

    如行邸に宿泊しているとき、芭蕉の旅の疲労を癒やさせようとした如行は、門人で鍛冶職人の竹戸に頼んで芭蕉の按摩をさせました。この竹戸の按摩を芭蕉は非常に気に入り、そのお礼に出羽國最上の人から贈られた紙衾に「紙衾ノ記」の文を添えて、竹戸に与えています。

            紙衾ノ記       芭蕉翁
        古きまくら、古きふすまは、貴妃がかたみより傳へて、戀といひ哀傷とす。錦床の夜のしとねの上には、鴛鴦(ゑんあう)をぬひ物にして、ふ
        たつのつばさに後の世をかこつ。かれはその膚(はだへ)に近く、そのにほひ殘りとゞまれらんをや、戀の一物とせん、むべなりけらし。いで
        や、此紙のふすまは、戀にもあらず、無常にもあらず。蜑の苫屋の蚤をいとひ、驛(うまや)のはにふのいぶせさを思ひて、出羽の國最上といふ
        所にて、ある人のつくり得させたる也。越路の浦々、 山館野亭の枕のうへには、二千里の外の月をやどし、蓬・もぐらのしきねの下には、霜
        にさむしろのきりぎりすを聞て、昼はたゝみて背中に負ひ、三百余里の険難をわたり、終に頭をしろくして、みのゝの國大垣の府にいたる。な
        をも心のわびをつぎて、貧者の情を破る亊なかれと、我をしとふ者にうちくれぬ 。
            『和漢文操』各務支考編(享保十二年刊)


    芭蕉から紙衾を贈られた竹戸は感激し、
        首出してはつ雪見はや此衾
と詠んで、芭蕉の厚意に応えています。また、これを羨んだ曾良は、
            題竹戸之衾
        畳めは我が手のあとぞ紙衾
            『芭蕉七部集』「猿蓑」巻之一 冬

と詠んでいます。

  

    旧暦八月二十八日(陽暦十月十一日)、如行邸で養生につとめていた芭蕉は、中山道赤坂宿の北、金生山の中腹にある真言宗明星輪寺を参詣しました。明星輪寺は朱鳥元年(686)、修験道の開祖役小角(634伝〜701伝)が第四十一代持統天皇の勅願により創建したと伝えられ、伊勢朝熊山金剛証寺、京都嵯峨野法輪寺とともに三大虚空蔵の一つに数えられ、本尊は役小角自ら岩に刻んだという虚空蔵菩薩で、秘仏として本堂岩窟の奥に安置されています。

            赤坂の虚空蔵にて八月廿八日        奥の陰
        鳩の聲身に入わたる岩戸哉        はせを


    赤坂宿は中山道の重要な宿場町で、慶長十年(1605)三月の徳川秀忠(1579〜1632)上洛や文久元年(1861)十月の皇女和宮降嫁の際の宿泊に利用されています。和宮降嫁の際には、本陣を初め一般の民家も多くが増改築して「お嫁入り普請」といわれ、現在でもその時の町並みが色濃く残されていると云います。
    宿場町のほぼ中央に残る豪壮な邸宅が、木因の門弟であった矢橋木巴邸で、芭蕉は貞享五年(1688)六月七日、二度目に大垣を訪れた際、木巴邸に宿泊したと考えられ、今回の虚空蔵参詣の帰途木巴邸に立ち寄り、宿泊したかもしれないと云います。


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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:09Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2018年01月09日

奥の細道、いなかの小道(45)− 大垣(1)

 

       (旧暦11月22日)

  

      大垣  『奥の細道畫巻』 与謝蕪村筆


  「奥の細道、いなかの小道」の旅も、平成十九年(2007)年五月十二日に深川の芭蕉庵を出立して以来、十年八ヶ月の歳月を要して、ようやく目的地大垣にたどり着きました。

    露通もこのみなとまで出でむかひて、みのゝ國へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より來り合、越人も馬をとばせて、如行が
    家に入り集まる。前川子・荊口父子、その外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやま
    ざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、 
            蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ


    ○露通
        本姓は斎部伊紀(1649〜1783)。芭蕉入門は貞享二年(1685)初夏のことと推定され、その十餘年以前から乞食放浪の境涯にあり、大津松
        本の辺りで『徒然草』の辻講釈のようなことをやっていたとされている。

    火桶抱てをとがひ臍をかくしけり 路通。此作者は松もとにてつれづれよみたる狂隠者、今我隣庵に有。俳作妙を得たり
            『元禄元年十二月五日付尚白宛芭蕉書簡』


        路通は貞享五年(1688)の春東下して深川の芭蕉庵の隣庵に一年餘逗留し、芭蕉から草庵の侘会における妙作を絶賛されたが、芭蕉の北國
       行脚と前後して、ふたたび流浪の旅に立っている。路通はその後、元禄四年(1691)の『猿蓑』撰集前後から同門間に不評を買い、芭蕉からも
        勘気をを受けて、一時蕉門から遠ざかったが、元禄七年(1694)夏には三井寺の定光坊實永のとりなしで勘気を許し、門人達にも路通の身の立
        つように斡旋したりしている。

        九月四日
        一桃青亊〈門弟ハ、芭蕉ト呼〉如行方ニ泊リ所勞昨日ゟ本腹之旨承ニ付種々申他所者故室下屋ニ而自分病中トいへとも忍ニ而初而招之對顔其
        歳四拾六生国ハ伊賀之由路通と申法師能登之方ニ而行連同道ニ付是ニも初而對面是ハ西國之生レ近年ハ伊豆蠅嶋ニ遁世之軆ニ而住メル由且又文
        字〈虫〉之才等有之ト云云歳三拾ゟ内也兩人咄シ種〻承之多ハ風雅の儀ト云云如行誘引仕り色々申と云へとも家中士衆ニ先約有之故暮時ゟ歸リ
        申候然共兩人共ニ發句書殘自筆故下屋之壁ニ張之謂所
            こもり居て木の實草の實拾ハはや              芭蕉
            御影たつねん松の戸の月                         自分
            思ひ立旅の衣をうちたてゝ                        如行
            水さハさハと舟の行跡                              伴柳
            ね所をさそふ鳥はにくからす                      路通
            峠の鐘をつたふこからし                            闇加
        是迄ニ而路通發句
            それそれにわけつくされし庭の秋                路通
            ために打たる水のひやゝか                         自分
            池ノ蟹月待ツ岩にはい出て                        芭蕉
        是迄奥州之方北國路ニ而名句とおほしき句共數多雖聞之就中頃日伊吹眺望といふ題にて
            そのまゝに月もたのまし伊吹山                    芭蕉
            おふやうに伊吹颪の秋のはへ                     路通  
        尾張地之俳諧者越人伊勢路之素良兩人ニ誘引せられ近日大神宮御遷宮有之故拝ミニ伊勢之方へ一兩日之内におもむくといへり今日芭蕉軆ハ布裏
        之本綿小袖〈帷子ヲ綿入トス 墨染〉細帯ニ布之編服路通ハ白キ木綿之小袖數珠を手ニ掛ル心底難斗けれとも浮世を安クみなし不諂不奢有様也
                『戸田如水日記』 


   

      『如水日記』 九月四日の条

        ○大垣の庄
            美濃大垣藩第四代藩主戸田采女正氏定(1657〜1733)十萬石の城下。大垣付近には中世において、大井、大榑(おおくれ)、小泉、
            郡戸などの庄があったが、「大垣の庄」という庄名はないので、擬古的(昔の風習・様式などをまねること)な呼称としてこのように
            呼んだものと解されている。

        ○越人
            本姓は越智十蔵(1656〜不詳)、別號、負山子、槿花翁。北越の生まれ。延寶初年頃から名古屋に出て、蕉門の代表的な撰集七部十二
            冊をまとめた俳諧七部集の一つ『冬の日』の連衆野水 (呉服商)の世話で染物屋を営む。芭蕉への入門は貞享元年(1684)頃か。貞享三
            年(1686)刊の『春の日』の連句に初出、また発句九句を寄せた。
            貞享四年(1686)、芭蕉に従い三河保美に罪を得て隠栖する杜國を訪ね、貞享六年(1688)には芭蕉の『更科紀行』の旅に随行して
            東下し、江戸深川の芭蕉庵に逗留すること数月、其角、嵐雪ら蕉門の徒と風交を重ねる。

            ちなみに杜國は名古屋御薗町の町代、富裕な米穀商であったが、倉に実物がないのに有るように見せかけて米を売買する空米売買の延
            べ取引きに問われ、貞亨二年八月十九日に領国追放の身となって畠村(三河国渥美郡畑村)に流刑となり、以後晩年まで三河の国保美
            に隠棲している。

        尾張十藏、越人と號す。越路の人なればなり。栗飯・柴薪のたよりに市中に隠れ、二日つとめて二日遊び、三日つとめて三日あそぶ。性、 
        酒をこのみ、醉和する時は平家をうたふ。これ我友なり。
                二人見し雪は今年もふりけるか        芭蕉


  越人が江戸深川の芭蕉庵に逗留した貞享六年(1688)の冬、芭蕉が草したこの句文は、越人の人となりと芭蕉の越人に寄せる親愛感を表し
ているとされている。

 越人が名古屋より「馬をとばせて」芭蕉を大垣に迎えたのは、貞享四年(1686)の『笈の小文』の旅以来の交情によるもので、『曾良旅日記』九月三日の条には、「豫ニ先達而越人着」とあるところから、越人の大垣着は三日ないしはそれ以前のことと考えられている。

        ○三日 辰ノ尅、立。乍行春老へ寄、及夕、大垣ニ着。天気吉。此夜、木因ニ会、息弥兵へヲ呼ニ遣セドモ不行。予ニ先達而越人着故、コレハ
            行。
                『曾良旅日記』

 
  以後越人は、『特牛』(こというし)(元禄三年)によれば、俳諧の点者として生活したもののごとく、俳諧七部集のひとつ『ひさご』には乞われて序を寄せるなど俳壇的地位を確立し、『うらやまし思ひ切る時猫の戀』の『猿蓑』入集句が芭蕉の賞賛を買ったことが『去來抄』に見える。

  各務支考(1665〜1731)の『削りかけの返事』には、元禄四年秋、八十村路通(1469頃〜1738頃)を誹謗して芭蕉の不快を買ったことを伝え、森川許六(1656〜1715)の『歴代滑稽傳』には、「勘当の門人」の一人に数えているが、芭蕉が元禄七年夏の西上の際、越人らに再会して旧交を温めていることから、芭蕉の越人に対する交情は終生変わらなかったものと見られている。

       ○如行
            近藤如行(不詳〜1706)、大垣藩士。早くに致仕して、自適の境涯に入ったと見られている。貞享元年もしくはそれ以前の蕉門への入
            門と推定され、また稿本『如行子』により、貞享四年(1687)から五年に 掛けての『笈の小文』の際の尾張での芭蕉との交歓が知ら
            れる。元禄三年六月三十日付曲翠宛芭蕉書簡によると、如行は元禄三年夏には京に芭蕉を訪れ、幻住庵に同行して二泊しており、芭蕉
            没後には追善集『後の旅』を手向けている。如行の名は森川許六(1656〜1715)の「同門評判」にも挙げられ、寶賀轍士の『花見車』
            によれば、点者として立ってもいたらしく、大垣俳壇においては谷木因と並ぶ中心的存在であった。


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Posted by 嘉穂のフーケモン at 09:27おくの細道、いなかの小道