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2013年01月27日

書(20)-欧陽詢(2)-九成宮醴泉銘(2)

 

(旧暦12月16日)

 實朝忌
 鎌倉幕府第三代将軍、歌人の源實朝の健保七年(1219)一月二十七日の忌日。前年に右大臣に就任し、鶴岡八幡宮でその拝賀の礼を行った帰途、甥の公暁により暗殺された。

 

 源実朝像『國文学名家肖像集』より

 建保七年四月十二日改元 承久元年 己卯

 一月二十七日 戊子 霽、夜に入り雪降る。積もること二尺余り。
 今日将軍家右大臣拝賀の為、鶴岡八幡宮に御参り。酉の刻御出で。
 (中略)
 路次の随兵一千騎なり。
 宮寺の楼門に入らしめ御うの時、右京兆俄に心神御違例の事有り。御劔を仲章朝臣に譲り退去し給う。神宮寺に於いて御解脱の後、小町の御亭に帰らしめ給う。夜陰に及び神拝の事終わる。漸く退出せしめ御うの処、当宮の別当阿闍梨公暁石階の際に窺い来たり、劔を取り丞相を侵し奉る。
 (後略)
 『吾妻鏡』建保七年一月二十七日

 [北條九代記] 

 戌の時、右大臣家八幡宮に拝賀の為参詣するの処、若宮の別当公暁、形を女の姿に仮り右府を殺す。源文章博士仲章同じく誅せられをはんぬ。


 雨情忌
 北原白秋、西條八十とともに童謡界の三大詩人と謳われた野口雨情の昭和20年(1945)の忌日。
 代表作は『十五夜お月さん』『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』『シャボン玉』『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』など、枚挙にいとまがない。

 


 書(19)-欧陽詢(1)-九成宮醴泉銘(1)のつづき

 ところで、余談ですが、この九成宮醴泉銘を書いた欧陽詢の父に関する逸話が「補江總白猿傳」として、太平廣記巻四四四に収められています。

 中国南北朝時代(439〜589)、江南に興った梁(502〜557)の武帝(在位502〜549)の大同年間(535〜546)、別働隊の将軍であった欧陽詢の父、欧陽紇(538〜570)は、南方の各地を攻略して長楽(福建省閩候縣)に赴き、多くの蛮佬(広西・貴州両省あたりに住む少数民族)の地を平定して、険阻な奥地に分け入りました。

 しかし、彼の帯同した美人の妻は、白猿のために掠奪されてしまいました。
紇は軍隊を留めて、一月半ほども険しい山にわけ入って探し求め、ついには妻を救い出しますが、すでに妻は子を孕んでいました。

 急所である臍の下を刺された白猿は、大いに嘆いて紇に云います。

 此れ天の我を殺すなり、豈(あに)爾(なんじ)の能ならんや。然れども爾の嬬(つま)は已に孕めり。その子を殺すこと勿れ。将(まさ)に聖帝に逢ひ、必ず其の宗を大(さか)んにせんとす、と。言絶えて乃ち死せり。

 (中略)

 紇の妻は周歳にして一子を生む。厥(そ)の狀(かたち)は肖(に)たり。
後に紇は陳の武帝の誅する所と爲る。素(もと)より江總と善し。其の子の聰悟人に絶するを愛し、常に留めて之を養ふ。故に難より免る。長ずるに及び、果して學を文(かざ)り書を善くし、名を時に知らる。
 『補江總白猿傳』


 この逸話は、欧陽詢の才能が優れているのをやっかみ、容貌が醜かったのをからかって、小説をかりて歐陽詢を嘲笑したものとの説もありますが、逆に、欧陽詢の偉大さを賞賛し宣伝するにあったとの解釈もあるようです。

 さて、本題に戻って、九成宮醴泉銘の本文を辿っていきませう。

 然昔之池沼、咸引谷澗。宮城之內、本乏水源、求而無之、在乎一物、既非人力所致、聖心懷之不忘。粤以四月甲申朔、旬有六日已亥、上及中宮歷覽台觀。閑步西城之陰、躊躇高閣之下。俯察厥土、微覺有潤、因而以杖導之、有泉隨而涌出。乃承以石檻、引爲一渠。其清若鏡、味甘如醴。南注丹霄之右、東流度于雙闕、貫穿青瑣、縈帶紫房。激揚清波、滌蕩瑕穢。可以導養正性、可以澄瑩心神。鑒映群形、潤生萬物、同湛恩之不竭將玄澤之常流。匪唯乾象之精、蓋亦坤靈之寶。

 

 ところが、昔の池や沼はみな谷川から水を引いてきていた。この九成宮の城内にはもともと水源が乏しく、探し求めても得られないのがこの水のことであった。それは人の力ではどうしようもないことであったが、皇帝はいつもこのことをおもんぱかり、忘れることができなかった。
 さて四月甲申の一日から十六日の己亥の日まで、皇帝は中宮とともに、城内の多くの見晴らし台に立ち寄られた。西城の日陰を静かに歩かれ、高閣の下に立ち止まられた。うつむいてその土を観られたところ、かすかに湿り気があるのを感じられた。そこで杖でつついてみたところ、泉が杖に従って湧き出してきたのである。 
 そこで石で井桁を組んで水を溜め、それを引いて溝を作った。その清らかさは鏡のようで、味の良さは甘酒のようであった。水は南側の丹霄殿の右側から、東に流れて双闕を越え、青瑣を貫ぬき、紫房をめぐり、清らかな波をはげしく立てて流れ、傷やけがれを洗い清めた。その水は正しい品性を養うことができ、心神を清め磨くことのできるものであり、万物を潤しはぐくみ、天地の恵みが尽きることがないように、皇帝からの徳が絶えないのと同じことである。これはただ天の気の精であるばかりでなく、地の気の宝と言えよう。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:48Comments(0)

2013年01月22日

書(19)-欧陽詢(1)-九成宮醴泉銘(1)

 

(旧暦12月11日)

 默阿彌忌
 歌舞伎作者、河竹默阿彌の明治26年(1893)の忌日。 『三人吉三廓初買』、『青砥稿花紅彩画』等の人気狂言を書き、近松門左衛門、鶴屋南北とともに、三大歌舞伎作者の一人とされている。

 お嬢吉三が、夜鷹を殺して百両奪ったあと、ゆったりと唄いあげる名文句。

 月も朧に白魚の 篝もかすむ 春の空

 冷てえ風にほろ酔いの 心持ちよくうかうかと
 浮かれ烏のただ一羽 ねぐらへ帰る川端で

 竿の雫か濡れ手で粟 思いがけなく手にいる百両

(呼び声)おん厄払いましょう、厄おとし

 ほんに今夜は節分か
 西の海より川の中 落ちた夜鷹は厄落とし
 豆だくさんに一文の 銭と違って金包み 
 こいつは春から 縁起がいいわえ
 『三人吉三廓初買』大川端の場


 

 『三人吉三廓初買』は、百両の金と庚申丸という刀によって、同じ吉三の名前を持つ3人の盗賊の身に降りかかる因果を描いた作品。
 元は僧だった和尚吉三、女として育てられたため女装で登場するお嬢吉三、元旗本の御曹司お坊吉三の3人が出会って義兄弟となる「大川端の場」。


  

 「九成宮醴泉銘」は、楷書の極致として書道の教科書にも紹介されている大変に有名な碑文です。書体は隋代に行われた方形から脱して特色ある長方形を成し、書聖と称された東晉の書家王羲之(303〜361)の楷書を脱して隷法を交え、清和秀潤な風格があると評されています。
 碑は高さ約2.3m弱、幅約1m強、一行50字、全24行、一文字の大きさは約2.5㎝で、陝西省麟遊県天台山に現存しています。
 
 九成宮は唐王朝の離宮で、陝西省西安の西北 150kmの麟遊県からさらに西方数kmの天台山という山中にありました。
 もともとは隋の初代皇帝文帝(在位581〜604)が、上柱国、御史大夫の楊素( ? 〜606)に命じて、避暑用の離宮としてに造営させた仁寿宮で、開皇十三年(593)から2年がかりで築かれた大宮殿でした。

 貞観五年(631)、唐の第二代皇帝太宗(在位626〜649)はこれを修復させて九成宮と改め、離宮としました。
 九成という名前の由来は、この宮殿が山の幾層にも重なり合った場所にあることにちなんでいると云います。

 この地は真夏でも涼しく、避暑地としては適していましたが、高地でもあり、水源に乏しい所であったようです。

 貞観六年(632)初夏の旧暦四月、太宗がこの地に避暑に赴き、長孫皇后(601〜636)を伴って離宮内を散策していると、西側の高閣の下にわずかに湿り気のあるところを見つけました。
 太宗はそこを杖でつついてみると、水が流れ出してきました。

 太宗はそれを唐王朝の徳に対応する瑞兆だと喜び、魏徴に撰文させ、太子率更令(皇太子の養育を司る官織)の歐陽詢(557〜641)に書かせて建てた記念碑がこの「九成宮醴泉銘」です。









  歐陽詢、潭州臨湘人、陳大司空頠之孫也。父紇、陳廣州刺史、以謀反誅。詢當從坐、僅而獲免。陳尚書令江總與紇有舊、收養之、教以書計。雖貌甚寢陋、而聰悟絶倫、讀書即數行俱下、博覽經史、尤精三史。仕隋爲太常博士。高祖微時、引為賓客。及即位、累遷給事中。
詢初學王羲之書、後更漸變其體、筆力險勁、爲一時之絶。人得其尺牘文字、鹹以爲楷範焉。高麗甚重其書、嘗遣使求之。高祖嘆曰、不意詢之書名、遠播夷狄、彼觀其跡、固謂其形魁梧耶。
 武德七年、詔與裴矩、陳叔達撰藝文類聚一百卷。奏之、賜帛二百段。
 貞觀初、官至太子率更令、弘文館學士、封渤海縣男。年八十余卒。
 『舊唐書 卷百八十九 上』


 

 歐陽詢(557〜641)は潭州臨湘(湖南省長沙)の人で、陳(中国南北朝時代の国、557〜589)の大司空(監察を審議する官)である頠(489〜563)の孫でした。 
 父の紇(538〜570)は陳の廣州刺史(知府知州を治める長官)でしたが、第四代高宗宣帝(在位568〜582)の太建元年(569)、廣州で兵を挙げて敗れ、翌年、誅せられてしまいました。

 歐陽詢も連座して責を負うべきところでしたが、かろうじて罪を免れることができました。陳の尚書令(上奏事を掌り、綱紀を統括し、一切を取り仕切る職掌を有していた)である江總(519〜594)は紇と旧交があり、詢を引きとって養育し、読書、数学を教えました。彼はとても醜い容貌でしたが、聡明さは人並みはずれており、書を読めば数行を同時に読み下し、博く経書や史書を読み、特に史記、漢書、後漢書の三史に精通していました。後に隋に仕えて太常博士(儀礼を司る官)となりました。唐の高祖(李淵、566〜635)が位のなかったときに、太子の侍従官として招かれました。高祖が皇帝に即位(在位618〜626)すると給事中(詔勅の審査、出納を行う門下省の詔勅等を司る官)に昇進しました。 

 歐陽詢は初め王羲之の書を学びましたが、その後次第に書風を改め、筆力は非常に力強く、当時の最高の位置にありました。人々は彼の手紙や書簡を得て楷書の手本としました。 
 高麗(高句麗)ではたいそう彼の書を重んじ、使者を派遣してこれを求めさせました。 そこで高祖はため息をついて言いました。「歐陽詢の書名が遠く夷狄の地に伝わっているとは思いもよらなかった。彼の筆跡を見るに、全く体つきの大きなことなど想像もできない」と。 

 武徳七年(624)、勅命によって裴矩(557〜627)、陳叔達( ? 〜635)と共に藝文類聚(百科全書)一百巻を撰文して奏上し、反物二百段を賜りました。
 貞觀の初め、官位は太子率更令(皇太子の養育を司る官)、弘文館学士となり、渤海県の男爵として封ぜられました。八十余歳にして亡くなりました。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:18Comments(0)

2013年01月14日

史記列傳(13)−張儀列傳第十

 

 戦国形勢図(紀元前350年)

 (旧暦12月3日)

 今日は大雪。小寒を過ぎて大寒を迎えようとしているこの時期に大雪とは・・。
 平日でなくてよかったのい。

 六國既に從親(せうしん)し、而して張儀能く其の說を明らかにして、復た諸侯を散解す。よりて張儀列傳第十を作る。

 齊、楚、燕、韓、趙、魏の六国はすでに合従して盟約していたのに、張儀はよく自説を明示して、ふたたび諸侯の国々をばらばらにしてしまった。ゆえに張儀列傳第十を作る。
 (太史公自序第七十:司馬遷の序文)


 張儀(?〜309BC)は魏に生まれ、後に合従策を打ち出した蘇秦とともに、齊の鬼谷先生(王禪老祖、戦国時代の縦横家で百般の知識に通じ、『鬼谷子』三巻を著したといわれる人物、鬼谷=河南省鶴壁市淇県の西部に位置する雲夢山に住したとされる)に師事して学問を習いました。

 鬼谷先生のもとで学び終えた張儀は、諸侯の間を遊説して廻ります。
 あるとき楚の宰相の相手をして酒を飲んでいる内に、宰相が璧(へき、玉器)を紛失してしまいます。
 家来たちは張儀を疑い、「張儀は貧乏で品行も良くない。こいつがわが君の璧を盗んだに違いない。」と、群がって張儀を捕らえ、数百回も笞を打ちました。しかし、張儀が罪を認めないので、解き放ちました。


 張儀已に學びて、諸侯に游說す。嘗て楚の相に從ひて飲す。已にして楚の相璧(へき)を亡(うしな)ふ。門下、張儀を意(うたが)ひて曰く、儀は貧にして行(おこな)ひ無し。必ず此れ相君の璧(へき)を盜みたらん、と。共に張儀を執(とら)へ掠笞(りやうち)すること數百。服せず、之を醳(ゆる)す。

 張儀の妻が、「ああ、あなたが書を読んだり遊説したりしなければ、こんな辱めは受けなかったでしょうに。」と云うと、張儀は妻に向かって云いました。「私の舌を見よ。まだついているか、どうだ。」と。
「舌はついています。」と妻が笑いながら答えると、張儀は云いました。
「舌さえあれば十分だ。」と。


 其の妻曰く、嘻(ああ)、子、書を讀み游說すること毋(な)かりせば、安(いづ)くんぞ此の辱(はづかし)めを得んや、と。張儀其の妻に謂ひて曰く、吾が舌を視よ、尚ほ在りや不(いな)や、と。其の妻笑ひて曰く、舌在り、と。儀曰く、足れり、と。

 当時、張儀と同門の蘇秦は、趙の粛公(在位349BC〜326BC)に説いて、合従の盟約を結ばせることに成功していました。しかし、蘇秦は、秦が諸侯を攻撃して合従の盟約が破られ、それがもとで後になって諸侯から責められることを恐れていました。そこで秦に赴いて、秦が諸侯を攻撃しないように工作する人物を検討していました。

 蘇秦は同門の張儀に目を付け、人を派遣して、張儀に対して蘇秦に会うようにそれとなく勧めます。

 そこで張儀は趙に赴き、蘇秦に面会を求めます。しかし蘇秦は、同門のよしみで面会に来た張儀に対して、なかなか面会に応じず、また面会はしたものの庭先に座らせ、下男に与えるような粗末な食事を与えて、「子は収むるに足らざるなり」と屈辱します。

 張儀は、屈辱され怒りに打ち震えますが、秦のみが趙を苦しめることができようと考えて、秦に行くことを決意します。

 その後、張儀は蘇秦の蔭の資金援助により、秦の惠王(惠文王、在位338BC〜311BC)の客卿(他国から来て卿相となったもの)に取り立てられます。
 
 後になって蘇秦の策略に従って知らず知らずの内に行動していたことを蘇秦の側近から知らされた張儀は、秦への仕官が叶ったことから、蘇秦がいる限りは決して趙を陥れようとはしないと蘇秦の側近に伝言させます。

 張儀既に秦に相たり。文檄を爲(つく)りて楚の相に告げて曰く、始め吾、若(なんぢ)に從ひて飲む。我、而(なんぢ)の璧(へき)を盜まず。若(なんぢ)、我を笞うてり。若(なんぢ)、善く汝(なんぢ)の國を守れ。我顧(かへ)りて且(まさ)に而(なんぢ)の城を盜まんとす、と。

 秦という巨大な軍事力を背景に、張儀はその得意の舌を使って、恫喝、虚言、御爲ごかし、誹謗、讒言・・等々、あらゆる手段で戦国の世を引っかき回していきます。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:52Comments(0)史記列傅

2013年01月05日

歌舞伎(4)−歌舞伎十八番

 

 阿國歌舞伎図屏風(部分) 京都国立博物館蔵

 (旧暦11月24日)

 今回は、年も明けて巳年なので、縁起良く歌舞伎でんな!
 歌舞伎が現在上演されているような様式を確立したのは、五代将軍徳川綱吉(在任1680〜1709)の時代、元禄(1688〜1704)以後のこととされています。

 そもそも歌舞伎の元祖とされるものは、慶長八年(1603)春四月、京都の北野天満宮で小屋掛けして興行を行い、大評判となった出雲阿國(1572 ?〜没年不詳)と云われています。
 阿國は、当時流行していたかぶき者の真似をして刀、脇差しを差し、異形の風体で茶屋の女と戯れる男を演じ、流行の歌に合わせて踊りを披露したと伝えられています。

 此頃カフキ躍(おどり)ト云事有、出雲國神子女(みこ)、名ハ國但非好女、仕出、京都ヘ上ル、縱(たとへ)ハ異風ナル男ノマネヲシテ刀脇差衣裝以下殊異相也、彼男茶屋ノ女ト戲ル體有難クシタリ、京中ノ上下賞翫スル事不斜(斜ならず)、伏見城ヘモ參上シ度々躍(おど)ル、其後學之(之を學ぶ)、カフキノ座イクラモ有テ諸國エ下ル、江戸右大將秀忠公ハ不見給。
 『当代記』 慶長八年四月の条


 現代の世相でも何か評判になるとすぐに模倣する者が現れますが、阿國の小屋掛けが評判になると真似をする者が多く現れ、遊女が演じる遊女歌舞伎や、前髪を剃り落としていない少年の役者が演じる若衆歌舞伎が盛んになりました。

 遊女歌舞伎は性的にかなり刺激的な内容であったため、儒学を重んじる幕府の意向で、風紀を乱すとの理由から寛永六年(1629)に禁止され、若衆歌舞伎も男色の売色目的を兼ねる歌舞伎集団が横行したことなどから慶安五年(1652)に禁止され、現代に連なる野郎歌舞伎となったとされています。

 さて、歌舞伎の数多くの演目、あるいは独特の演出を数世紀にわたって承継してくることができたのは、俳優が世襲制であったことによります。
 歌舞伎俳優にはいくつかの家の系統があり、その家の代々の当主は、先代の実子あるいは養子としてその家の家業を継いできました。

 現在残っている家系では、市川宗家、市川家(門弟の家系)、尾上家、沢村家、中村家(東京と大阪の二系統)、片岡家、板東家、松本家、実川家などがあり、かつては江戸三座の座元の名であった中村勘三郎、市村羽左衛門、守田勘彌が俳優の芸名として一つの家系にもなっています。

 先般、急性呼吸窮迫症候群のため亡くなって、世間がと云っても、テレビが大騒ぎしていた中村勘三郎は十八代目でしたが、初代は中村座開祖で、中村姓の歌舞伎役者の始祖でもあり、出雲阿国(1572?〜没年不詳)以後に現れた重要な歌舞伎役者の一人でもあるとされています。

 そしてこれらの家系が、それぞれの芸風あるいは役柄を伝えて今日に至っています。
 その主な芸風あるいは役柄には、以下のようなものがあります。

 和事 元禄時代の上方で初代坂田藤十郎によって完成された、やわらかで優美な歌舞伎の演技で、澤村家が得意としていた。

 荒事 元禄時代の江戸で初代市川團十郎によって創始された、荒々しく豪快な歌舞伎の演技で、市川家が伝承している。

 実事 誠実な人物が悲劇的な状況の中で苦悩しながらも事件に立ち向かう姿を描く歌舞伎の演技。

 女方 歌舞伎に登場する女性の役、また女性の役を演じる俳優のことを指し、通説によると寛永六年(1629)に幕府が女歌舞伎を禁止し、女性が舞台に立てなくなったために男性の俳優が女性の役も演じるようになったと云われている。


 こうして代々伝えてきた家の芸のうち、七代目市川團十郎(1791〜1859)が撰んで定めた演目に、歌舞伎十八番があります。

 七代目團十郎が市川流の「歌舞妓狂言組十八番」の制定を公表したのは、天保三年(1832)三月の市村座で、当時すでに成田屋の代表的なお家芸として知られていた『助六由縁江戸櫻』を上演し、長男六代目海老蔵に八代目團十郎を襲名させ、自らは五代目海老蔵に復すことにした「八代目市川團十郎襲名披露興行」の席上でした。

 

 「歌舞妓狂言組十八番」制定の摺物 鳥居清満(二代)

 このとき贔屓の客には特に一枚の摺物が配られましたが、この摺物には、この興行で上演される『助六由縁江戸櫻』とともに、かつて初代、二代目、四代目の團十郎が得意とした荒事の演目が十八番列記されており、これを題して「歌舞妓狂言組十八番」と称しました。

 この歌舞妓狂言組十八番のなかで最も人気が高く上演回数が多いのは『助六』『勧進帳』『暫』の三番であり、このほかにもしばしば上演されるのが『矢の根』と『外郎売』、そして『毛抜』と『鳴神』だそうです。
 これ以外の演目は、今日はほとんど上演されることがなく、『不動』、『関羽』、『象引』、『七つ面』、『解脱』、『嫐』、『蛇柳』、『鎌髭』、『不破』、『押戻』の十番は、いずれも七代目團十郎が歌舞伎狂言組十八番を撰んだ天保年間にはすでにその内容がよくわからなくなっていたと云います。

 

 『助六由縁江戸櫻』
 天保三年三月(1832)、江戸市村座の「八代目市川團十郎襲名披露興行」における『助六所縁江戸櫻』。
 中央に七代目市川團十郎改メ五代目市川海老蔵の花川戸助六、左は五代目岩井半四郎の三浦屋揚巻、右は五代目松本幸四郎の髭の意休。

 こうした演目を、口承やわずかな評伝、錦絵などをもとにして創作を加えながら復元し、次々に「復活上演」を行ったのが、幕末から明治にかけて活躍した九代目市川團十郎(1838〜1903)と、慶應義塾に学び卒業後、日本通商銀行に就職、後に九代目市川團十郎の長女実子と恋愛結婚し、市川宗家に婿養子として入った市川三升(1982〜1956)でした。
 市川三升は『解脱』、『不破』、『象引』、『押戻』、『嫐』『七つ面』、『蛇柳』などの絶えていた歌舞妓狂言組十八番を次々に復活上演し、その半生を意欲的な舞台活動と研究に費やし、市川宗家の家格を守り抜いています。
 その功績を讃えて九代目は「劇聖」と謳われ、三升には死後「十代目市川團十郎」が追贈されています。

 こうした背景から、市川宗家にとって現存する歌舞伎十八番の台本は家宝に他ならず、代々の当主はこれを書画骨董や茶器と同じように立派な箱に入れ、納戸に入れて大切に保管していたので、市川宗家で「御箱」といえば「歌舞伎十八番」のことを指すようになったと云われています。

 十八番と書いて「おはこ」と読ませた初出は、江戸後期の戯作者柳亭種彦(1783〜1842)が文化十二年(1815)から天保二年(1831)にかけて書いた、人気演目の翻案を芝居の脚本(正本)風に仕立てた『正本製(しやうほんじたて)』で、今日でも「ある者が最も得意とする芸」のことを「おはこ」と言い、これを漢字で「十八番」と当て書きされています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:17Comments(0)歌舞伎

2013年01月02日

おくの細道、いなかの小道(17)−松島(1)

  

 Scenic view of Matsushima. Ukiyo-e woodblock print by Yōshū Chikanobu, 1898.

 (旧暦11月21日)

 一 九日 快晴。辰ノ尅、鹽竈明神ヲ拝。帰テ出船。千賀ノ浦・籬島・都島等所々見テ、午ノ尅松島ニ着船。茶ナド呑テ瑞岩寺詣、不残見物。開山、法身和尚(真壁平四良)。中興、雲居。法身ノ最明寺殿被宿岩屈(窟)有。無相禅屈(窟)ト額有。ソレヨリ雄島(所ニハ御島ト書)所ゝヲ見ル(とミ山モ見ユル)。御島、雲居ノ坐禅堂有。ソノ南ニ寧一山(一山一寧)ノ碑之文有。北ニ庵有。道心者住ス。帰テ後、八幡社・五太堂ヲ見、慈覺ノ作。松島ニ宿ス。久之助ト云。加衛門状添。
 『曾良随行日記』


 あ〜あ、年も明けて、とうとう松島に着きました!
 松島も少なからず東日本大震災の被害を受けましたが、日一日と復興に向かって努力しているようで、早く昔日の賑わいを取り戻して欲しいと思いまする。

 抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。

と、芭蕉翁は『おくのほそ道』松島の段本文に書き記していますが、

 いひつゞくれば、みな源氏物語、枕草紙などに事ふりにたれど、おなじ事また今更にいはじとにもあらず。
 『徒然草 第十九段』


との『徒然草 第十九段』の記述を踏まえ、また、

 夫レ松島ハ、日本第一ノ佳境也
 『瑞巌寺方丈記』 
 蓋(けだし)松島ハ天下第一之好風景
 『鐘之銘』
 『松島眺望集』上巻(天和二年刊)所収


などの先人の文藻を踏まえつつ、新たに芭蕉自身の松島の賦をつづるための詞としたと解説されています。

 「扶桑」は日の出る所にある仙木の名で、日本の異称に用いられ、『日本行脚文集』(元禄二年刊)の巻頭に載せる本朝十二景によれば、奥州松島は駿河の田子の浦に次いで第二位とされています。

 

 本朝十二景 『日本行脚文集』(元禄二年刊)

 また、洞庭湖(Dòngtíng hú)は湖南省北東部にある中国第二の淡水湖で、瀟湘八景の一つとして、杜甫の「登岳陽樓」(『杜律集解』)をはじめ、古来多くの文人墨客の詩文に詠われ、また北宋の士大夫、宋迪(生没年不詳)や宋末元初の僧、牧谿(生没年不詳)、玉澗(生没年不詳)などによって画題としても取り上げられています。

 さらに芭蕉自身も、「魂、呉楚東南に走り、身は瀟湘洞庭に立つ」『幻住庵記』(元禄三年)と記しています。

   瀟湘八景
 1.  平沙雁落  (永州)  衡陽市回雁峰
 2.  遠浦帆歸  (湘陰)  湘陰縣縣城湘江辺
 3.  山市晴嵐  (湘潭)  湘潭市昭山
 4.  江天暮雪  (湘江)  長沙市橘子洲
 5.  洞庭秋月  (洞庭湖) 岳陽市岳陽樓
 6.  瀟湘夜雨  (瀟水)  永州市蘋島瀟湘亭
 7.  煙寺晚鐘  (清涼寺) 衡山縣清涼寺
 8.  漁村落照  (桃源縣) 桃源縣武陵溪


 同じく西湖は浙江省杭州市にある淡水湖で、唐以来文人遊賞の地として、西湖十景をもって詩文・絵画に知られ、特に北宋の官僚で書家でもあった蘇軾(1037〜1101)の詩「飮湖上初晴後雨」や北宋の詩人、林逋(967〜1028)隠栖の地として高名です。

 飮湖上初晴後雨  湖上ニ飮セシガ 初メ晴ルルモ後ニ雨ナリ
    宋 蘇軾
 水光瀲灔晴方好  水光瀲灔(れんえん)トシテ晴レテ方(まさ)ニ好ク
 山色空濛雨亦奇  山色空濛(くうもう)トシテ雨モ亦タ奇ナリ
 欲把西湖比西子  西湖ヲ把(も)チテ西子(越の美女)ト比セント欲セバ
 淡粧濃抹總相宜  淡粧濃抹 總(すべ)テ相(あ)ヒ宜(よろ)シ


  芭蕉も『十八樓記』(貞享五年)に、「かの瀟湘の八つのながめ、西湖の十のさかひも、涼風一味のうちに思ひためたり」と草しています。

   西湖十景
 1. 断橋残雪     6. 花港観魚
 2. 平湖秋月     7. 南屏晩鐘 
 3. 曲院風荷     8. 雷峰夕照
 4. 蘇堤春暁     9. 柳浪聞鶯
 5. 三潭印月     10. 双峰挿雲


 浙江とは中国浙江省を流れる銭塘江のことを云い、初唐の詩人、駱賓王(640 ?〜684 ?)の詩「靈隠寺」(『唐詩訓解』四)の一聯に、門對浙江潮(門ハ對ス 浙江ノ潮)とあり、注に「江口有山、潮水投山十折而曲、故名[江口ニ山有リ、潮水山ニ投ズルコト十折シテ曲(めぐ)ル、故ニ名ヅク]」と見えます。

 靈隠寺    駱賓王
 鷲嶺鬱岧嶢  鷲嶺 鬱トシテ岧嶢(てうげう、高くそびえる)
 龍宮鎖寂寥  龍宮 鎖シテ寂寥
 樓觀滄海日  樓ハ觀ル 滄海ノ日
 門對浙江潮  門ハ對ス 浙江の潮
 桂子月中落  桂子(木犀の実)ハ 月中ヨリ落チ
 天香雲外飄  天香ハ 雲外ニ飄(ひるがへ)ル
 捫蘿登塔遠  蘿(つた)ヲ捫(と)リテ塔ニ登ルコト遠ク
 刳木取泉遙  木ヲ刳(ゑぐ)リテ泉ヲ取ルコト遥ナリ
 霜薄花更發  霜薄クシテ花更ニ發シ
 冰輕葉未凋  冰(こおり)輕クシテ葉互ヒニ凋(しぼ)ム
 夙齡尚遐異  夙齢(しゆくれい、若年) 遐異(かい、世俗と異なること)ヲ尚ビ
 搜對滌煩囂  搜シ對(こた)ヘテ 煩囂(はんがう、騒がしいさま)ヲ滌(すす)グ
 待入天臺路  天臺ノ路ニ入ルヲ待チテ
 看余渡石橋  余ノ石橋ヲ渡ルヲ看ヨ
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:22Comments(0)おくの細道、いなかの小道