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2009年02月12日

日本刀の話(3)-長曽禰虎徹

 
 
 新撰組局長 近藤勇昌宜 (1834~1868)

 (旧暦  1月18日)

 菜の花忌 小説家司馬遼太郎の平成8年(1996)年の忌日。「司馬史観」と呼ばれる独自の史観(合理主義を重んじる史観。明治維新や日露戦争までの明治という時代を高く評価する一方、昭和期の敗戦までの日本をとくに非連続な異質の時代だったとし、その原因を明治憲法の統帥権に帰している)で数多くの歴史小説を執筆した。

 face03大日本帝国憲法第11条  天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
 face09大日本帝国憲法第12条  天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム


 軍部の主張した「統帥権と行政権の平等性」
 統帥権ノ独立ヲ保障センカ為ニハ「武官ノ地位ノ独立」ト「其職務執行ノ独立」トヲ必要トス 政治機関ト統帥機関トハ飽ク迄対立平等ノ地位ニ在リテ何レモ他ヲ凌駕スルヲ得サルヘキモノトス
 『統帥参考』  昭和7年 陸軍大学校編

 (前略)
 折悪敷局中病人多にて僅に三十人二ケ所之屯へ二手に分れ、一ケ所は土方歳三頭に致候処、其方一人も居合せ申さず、下拙僅之人数引分け出口を固めさせ、打入候者は拙者、沖田、永倉、藤堂、養息周平今年十五歳、五人に御座候。一時余之間戦闘に及申候処、永倉の刀は折れ、沖田の刀はぼうし折れ、藤堂の刀は刃切さゝらの如く、倅周平は槍を切折られ、下拙の刀は虎徹故に候哉無事に御座候。
 藤堂は鉢金を打落され候より深手を受申候。追々土方の勢駆付候故、夫より召捕申候。是迄度々戦致候得共、二合と戦候者は稀に覚へ候得共、今度之敵多勢とは申乍ら、何れも万夫の勇者、誠に危急之場合を助り申候。・・・(後略)



 元治元年(1864)6月5日、京都三条木屋町の旅館池田屋で謀議中の長州、土佐、熊本藩士等の尊皇攘夷派を、京都守護職に任じられていた会津中将松平容保(1836~1893)配下の新撰組が襲撃した池田屋騒動において、局長の近藤勇(1834~1868)は当初、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、養子近藤周平ら5人で踏み込み、20数名の尊攘過激派に対して奮闘しますが、沖田が病気で倒れて離脱し、藤堂が負傷する中、一時は永倉新八と2人だけで戦い苦戦します。
 しかし、その後の土方隊の到着により優勢となり、新撰組は9名を討ち取り4名を捕縛します。

 この池田屋騒動の後、養父近藤周齋へ宛てた6月8日付けの書状で近藤は、「自分の刀は虎徹だったからか、折れもせず無事だった」と記しています。

 近藤勇はこの虎徹をよほど自慢にしていたようですが、この佩刀長曽祢虎徹は一説には虎徹ではなく四谷正宗(山浦清麿)の作で、京に上る前に刀商にいつわられて江戸で購入したものだと云われています。
 そして、近藤が江戸に帰った際、その刀屋を尋ね、「たといにせ虎徹でも、じつに立派なわざものだ」と自ら賞賛し、相手を責めなかったと云うエピソードもあるそうです。

 近藤勇の刀剣に対する考えは、京に上って間もない文久3年(1863)ころのものと推定される、新撰組副長土方歳三(1835~1869)の義兄で近藤らの支援者でもあった日野本郷名主佐藤彦五郎(1827~1902)に宛てた書状に残されています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:24Comments(0)日本刀の話

2008年07月25日

日本刀の話(2)-不動國行

  

 唐物茶入れの大名物「つくも髪」

 (旧暦  6月23日)

 不死男忌 俳人秋元不死男の昭和52年(1977)の忌日。オノマトペ(擬声語)の名手と云われ、「アーチストではなくアルチザン(職人)」を自称した。

 へろへろと ワンタンすするクリスマス
 ライターの 火のポポポポと滝涸るる


 不動國行、つくも髪、人には五郎左ござ候

 織田信長(1534~1582)が酒に酔えば、膝を叩きながら歌い自慢したという不動國行は、山城国西岡向日明神の辺りに居住した鎌倉時代中期の來派の刀工、來國行が鍛えた小太刀のことです。

 つくも髪は、松本茄子、富士茄子とともに「天下三茄子」と云われて最も高く評価された唐物(からもの)茶入れの大名物(おおめいぶつ)のことです。
 大名物(おおめいぶつ)とは、室町幕府の8代将軍足利義政(在職1449~1473)が収集した唐物名物(絵画、工芸品:東山御物)と、千利休の時代(1585~1591)に最高位に評価された茶入などのことを指します。

 この茶入れは、作物茄子、付藻茄子、九十九茄子などとも書かれ、また九十九髪、九十九髪茄子、松永茄子などとも呼ばれていました。

 九十九茄子は、足利3代将軍義満(在職1368~1394)が愛蔵した唐物茶入れで、高さ二寸二分(約6cm)、胴の幅二寸四分五厘(約7cm)、胴廻り七寸六分(約23cm)、8代将軍足利義政(在職1449~1473)によって寵臣の山名政豊(1441~1499?)に与えられましたが、その後、わび茶の創始者とされている村田珠光(1423~1502)が九十九貫文で購入したことから、『伊勢物語』の63段
 もゝとせにひとゝせたらぬつくもがみ われをこふらしおもかげに見ゆ
にちなんで、「つくも」と名付けたと云われています。

 また、五郎左とは、織田四天王の一人であり、柴田勝家と並ぶ猛将としてその武者振りから鬼五郎左とも称された丹羽五郎左衛門尉長秀(1535~1585)のことで、信長の信任厚く、近江佐和山城に拠って政事、軍事にわたって活躍し、後に若狭一国支配を与えられています。
 とくに天正4年(1576)1月には、安土城普請の総奉行を命じられて無事に任務を果たす功績をあげていますが、長秀は柴田勝家(北陸)、佐久間信盛(大坂)、明智光秀(丹波)、羽柴秀吉(播磨)らの方面軍の軍団長たちには後れをとり、若狭衆を率いる一遊撃軍団の司令官に甘んじています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:59Comments(0)日本刀の話

2008年06月03日

日本刀の話(1)-はじめに

 

 銘「勢州桑名住村正」。東京国立博物館所蔵。
 
 (旧暦  4月30日)

 日本刀歌   北宋 歐陽脩
 
 昆夷(伝説の名刀の産地)は道遠くして復た通ぜず
 世に玉を切ると傳ふるも誰か能く極めん
 寶刀近く日本國に出で
 越賈(越の商人)は之を滄海の東に得たり
 魚皮(鮫皮)に装貼す香木の鞘
 黄と白の間に雑(まず)る鍮(銅と亜鉛の合金)と銅
 百金にて傳へ入る好事(かうず)の手
 佩服せば以て妖凶を禳(はら)ふ可し


  有名な史書である『新唐書』や『新五代史』を撰して後世に影響を与えた文人政治家歐陽脩(1007~1072)が生きた北宋(960~1127)の時代、そのころ日本から輸入されたおもな品物は日本刀でした。

 前掲の漢詩は、その歐陽脩の作による『日本刀歌』の第一段です。
工芸品としての日本刀の優れたことを述べ、刀を帯びれば災いを祓うと詠っています。

 日本では近年、各地の刀剣会の会員が減少しているのに対し、欧米ではますます会員が増加しているそうで、アメリカには全米刀剣会があって会員5,000名以上、欧州にも3,000名を超える会員がいるそうです。

 さて、福永勝美という先生は、元熊本大学医学部助教授で医学博士ですが、刀剣学者福永酔剣としての名の方が著名で、畢竟の大作『日本刀大百科事典全五巻(雄山閣刊)』をはじめ日本刀に関する著作が多く、その系統立った理論と優れた文章力が高く評価され、かつては日本刀剣保存会の審査員も務めていた方です。

 福永勝美氏は、大東亜戦争中、緬甸(ビルマ)方面軍管下第28軍直轄の独立自動車第55大隊に所属して地獄のペグ-山系敵中突破およびシッタン河強襲渡河を体験した軍医中尉で、『ビルマの地獄戦』という手記も出されています。

 その中で福永氏は、インパールの悲劇と呼ばれる第15軍の生還率(約38%)と所属した独立自動車第55大隊および上部の第28軍の生還率(約25%)をあげて、シッタン作戦(シッタン河渡河退却戦)の悲惨さを記述しています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:48Comments(0)日本刀の話