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2017年11月22日

史記列傳(14)− 樗里子甘茂列傳第十一

  

      近松門左衛門(1653〜1724)


    (旧暦10月5日)

    近松忌、巣林忌
    江戸期の浄瑠璃および歌舞伎狂言作家、近松門左衞門(1653〜1724)の享保九年(1724)年の忌日。本名は杉森信盛。平安堂、巣林子、不移山人と
    号す。代表作に、『曽根崎心中』元禄十六年(1703)、『冥途の飛脚』正徳元年(1711)、『国性爺合戦』正徳五年(1715)、『心中天網島』享保
    五年(1720)がある。

    秦の東を攘(はら)ひ諸侯を雄(いう)す所以は、樗裏(ちより)、甘茂(かんぼう)の策なり。よりて樗裏甘茂列傳第十一を作る。

    秦が東方諸国を打ち払い諸侯に勝った理由は、樗里子や甘茂の策略が大きな役割を果たした。そこで、樗里子と甘茂の列傳第十一を作る。 
            (太史公自序第九十)

    権謀渦巻く中国の戦国時代(前403 〜前221)にあって、秦が韓、魏などの有力諸侯を従えて天下統一を成し遂げたことについては、
      1. 騎馬戦術に長けていたこと
      2. 激動する社会変動に対して、いち早く国家体制の変革を成し遂げたこと
      3. 優秀な人材を擁していたこと

などが挙げられています。

    秦以外の諸国は、合従・連衡策などにより秦に対抗しようとしましたが、これを打ち破るのに力を発揮したのが樗里子や甘茂でした。

    【樗里子】
    樗里子は惠文王(在位:前338〜前311)には将軍として、次の武王(在位:前310〜前307)には右丞相として、その次の昭襄王(在位:前306〜前251)には将軍として仕え、魏の曲沃(山西省臨汾縣)をはじめ、趙、楚を伐って功績がありました。
 
    樗里子(ちよりし)は、名は疾(しつ)。秦の惠王の弟なり。惠王とは異母、母は韓の女なり。樗里子、滑稽(弁舌が巧みで、人をうまく言いくるめる)にして多智なり。秦人號して智囊(ちなう、知恵袋)と曰ふ。
    秦の惠王の八年、樗里子を右更(いうかう、秦の十四番目の爵位)に爵し、將として曲沃を伐たしむ。盡く其の人を出だし(追放し)、其の城を取る。
    地、秦に入る。
    秦の惠王の二十五年、樗里子をして將と爲して趙を伐たしむ。趙の將軍莊豹を虜(とりこ)にし、藺(りん、山西省離石縣)を拔く。明年、魏章を助け
    て楚を攻め、楚の將屈丐(くつかい)を敗り、漢中の地を取る。


    秦の昭襄王の七年(前299)、樗里子は卒して、渭水の南、章臺の東に葬られましたが、その遺言で、「これから百年の後、ここに天子の宮殿ができ 
て、わが墓を左右から挟むようになるであろう」と言いました。
    樗里子の屋敷は、昭襄王の廟の西の、渭水の南の陰鄕の樗里にあったので、世間の人は彼のことを樗里子(ちよりし)と呼びました。
    漢(前漢、前206〜8)の時代になると、長樂宮がその東に、未央宮がその西に建てられ、また、その正面には武器庫がありました。
    秦の人のことわざにも、「力は則ち任鄙(じんぴ、秦の臣で力持ち)、智は則ち樗里」と云われていました。

    昭王の七年、樗里子卒す。渭南の章臺の東に葬る。曰く、後百歳にして、是れ當に天子の宮有りて、我が墓を夾むべし、と。樗里子疾の室は、昭王の廟の西、渭南の陰鄕の樗里に在り。故に俗に之を樗里子と謂ふ。
    漢の興るに至り、長樂宮其の東に在り。未央宮其の西に在り。武庫正に其の墓に直(あた)る。秦人の諺に曰く、力は則ち任鄙、智は則ち樗里、と。
 

    【甘 茂】
    甘茂(生没年不詳)は楚の低い身分に生まれ、諸子百家の説を学んだ後、秦の宰相張儀と將軍樗里子の紹介により、秦に仕えた論客でした。
    武王の即位後は左丞相となり、列国の力関係を利用しつつ、魏を懐柔して韓を討ち、韓の地方都市、宜陽(河南省洛陽縣)を陥落させます。

    甘茂(かんぼう)は、下蔡(安徽省寿縣の北の地)の人なり。下蔡の史擧先生に亊(つか)へて、百家の説を學び、張儀・樗里子に因りて秦の惠王に見(まみ)ゆるを求む。王見て之を說(よろこ)び、將として魏章を佐(たす)けて漢中の地を略定せしむ。

    惠王(在位 前338〜前311)卒し、武王(在位 前310〜前307)立つ。張儀・魏章去りて東のかた魏に之(ゆ)く。蜀候輝・相の莊反す。秦、甘茂をして蜀を定めしむ。還るや甘茂を以て左丞相と爲し、樗里子を以て右丞相と爲す。

    秦の武王三年(前307)、武王は甘茂に謂いて曰く、「私は三川(黄河、洛水、伊水の集まる周の都、洛陽)への道(秦の都、咸陽から洛陽へ通
じる函谷関、潼関などが立ちふさがる険路)を車馬が自由に通れるようにし、時期をみて、周を滅ぼそうと思う。そうすれば、私が死んでも名は不朽になる」と。
    甘茂曰く、「私が魏に行き、魏と共に韓を伐つ約束をさせていただきたい」と。そこで武王は向壽(しやうじゆ、宣太后の一族の者)を副使として行かせました。甘茂は魏に着き同盟を結ぶと、向壽に言います。「あなたは帰国して大王に、『魏は臣の言葉を聞き入れました。しかし、大王は韓を伐たないようにお願い申し上げます』と伝えていただきたい。この事が成れば、その功績はすべてあなたのものにして差し上げましょう」 と。
    向壽は帰国して武王に報告しました。武王は甘茂を息壌(秦の邑)まで出迎え、甘茂が到着すると韓を伐つべきではない理由をたずねました。

    秦の武王三年、甘茂に謂ひて曰く、寡人、車を容るるばかりに三川を通じ以て周室を窺はんと欲す。而らば寡人死すとも朽ちじ、と。甘茂曰く、請ふ、魏に之き、約して以て韓を伐たん、と。而ち向壽をして輔行せしむ。甘茂至り、向壽に謂ひて曰く、子歸りて之を王に言ひて、魏、臣に聽く、然れども願はくは王伐つ勿かれ、と曰へ。亊成らば盡く以て子の功と爲さん、と。向壽歸りて以て王に告ぐ、王、甘茂を息壤に迎ふ。甘茂至る。王其の故を問ふ。

    【韓を伐たない理由】
        1.  韓の宜陽(河南省宜陽縣)は大縣であり、上黨(韓の地名。山西省東南部)も南陽(魏の地名。河南省獲嘉縣)も以前から兵糧を蓄えて
             いる。名は縣であるが、実際は郡と同じである。今、王が何箇所もの難所を越えて、千里の道のりを移動して之を攻めるのは容易で
             はない。

  

    中国戦国時代勢力図

        2.  昔、孔子(前551〜前479)の高弟曾參(前505〜前435)が魯の国の費(山東省費縣)というところにいた時、魯の国の者で、曾參と
             姓名を同じくする者が人を殺した。それを知った者が曾參の母親に告げて、「曾參、人を殺せり」と言った。しかし、曾參の母親は
             平然として機を織っていた。やがて別の人が母親に告げて、「曾參、人を殺せり」と言った。彼の母親はやはり平然と機を織り続け
             ていた。暫くして又別の人が母親に告げて、「曾參、人を殺せり」と言うと、これを聞いた曾參の母親は杼(ひ、緯糸を通す用具)
             を放り出して機からおり、墻(かき)を乗り越えて走り出した。

             曾參の賢明さと母親の信頼とがあっても、三人もの者が曾參を疑うと、さすがの母も本当なのではと恐れた。今、臣の賢明さなどは
             曾參に及ばず、王の臣に対する信頼も曾參の母の子に対する信頼には及ばない。臣を疑う者はたった三人ではない故に、大王が杼
             (ひ)を投げ出した曾參の母のように臣を疑うのではないかと恐れた。

        3.  昔、縦横家張儀(不詳〜前309)は秦のために西は巴(四川省東部)・蜀(四川省成都付近)の地を併合し、北は西河(山西省西部)の
             外を開き、南は上庸(楚の地名。湖北省竹山縣の東南)を取得したが、天下は張儀の功績だとは看做さず、先王(惠文王、在位:前
             338〜前311)が賢なのだとした。
       
             魏の文侯(在位:前445〜前396)は樂羊を将として中山(河北省定縣)を攻めさせ、三年にしてこれを抜いた。楽羊は帰還してそ
             の功を論じたが、文侯は楽羊を誹謗した箱一杯の書を見せた。それを見た楽羊は再拝稽首して、「これは臣の功績ではありません。
             主君(文侯)のお力です。」と言った。

             今、臣は外国から参じたよそ者の臣下であり、樗里子(母が韓の王女)、公孫奭(元韓の公子)の二人が韓を保護するために臣を誹
             謗すれば、大王は必ずこれを聞き入れることになる。そうなると、大王は魏王を欺いたということになり、臣は公仲侈(韓の宰相)
             の怨みを受けることになる。


    【息壌の盟】
    武王は、「寡人(私)は卿についての誹謗は聞き入れないでおく。それを卿と約束しよう」と言いました。
    こうして武王は丞相甘茂に兵を將(ひき)ゐて宜陽を伐たせました。甘茂が五ヶ月かけても抜けずにいると、樗里子・公孫奭がやはり誹謗してきました。すると、武王は甘茂を召喚し、軍を引き上げようとしました。これに対し甘茂は言いました。「息壌はそこにありますぞ(約束をお忘れになりましたか)。」 武王は言いました。「そうであった。」 そこで兵力を総動員して、甘茂に命じて韓を伐たせました。敵の斬首は六万、遂に宜陽を陥落させました。韓の襄王は公仲侈を遣わして謝罪をさせ、秦と和睦しました。

    この事から「息壌の盟」という故事ができたと言うことです。

  

      中国戦国時代(紀元前350年頃)三晋図

    王曰く、寡人聽かず。請ふ子と盟さん、と。卒(つひ)に丞相甘茂をして兵を將(ひき)ゐて宜陽を伐たしむ。五月にして拔けず。樗里子、公孫奭(こう
そんせき)果たして之を爭ふ。武王、甘茂を召し、兵を罷めんと欲す。甘茂曰く、息壤(昭王が他者の意見を受け入れないと甘茂に誓った場所)彼(かしこ)に在り、と。王曰く、之れ有り(そうであった)、と。因りて大いに悉く兵を起こし、甘茂をして之を撃たしむ。首を斬ること六萬、遂に宜陽を拔く。韓の襄王、公仲侈をして入りて謝せしめ、秦と平らぐ。


    武王は遂に周に行ったものの、周で亡くなることになりました。そのため、弟が即位して昭王(在位:前306〜前251)となりました。昭王の母の宣太后は、楚の王女でした。
    楚の懐王(在位:前329〜前299)は以前、秦が楚を丹陽(河南省)で破った時、韓が楚を救援しなかったことを怨んでいたので、すかさず兵を起こして韓の雍氏(河南省)を包囲しました。韓は公仲侈を使者として、秦に危急を告げさせました。秦の昭王は即位したばかりで、太后は楚の人であったので、韓の救援に賛成しませんでした。

    公仲は甘茂に頼りました。甘茂は韓のために昭王に進言して言いました。「公仲は秦の救援を得られると思っていたので、敢えて楚を防いでくれているのです。今、雍氏(韓の地名。河南省扶溝縣)が包囲されているのに、秦が殽(かう、函谷関東端の山。河南省洛寧縣)から救援に行かなければ、公仲は絶望して秦の王朝に入朝しなくなってしまうでしょうし、公叔(韓の公子)は、韓を南の楚と合体させてしまうでしょう。楚と韓が一つになれば、魏もそれに加わらないわけはありません。そうなると、秦を伐とうとする形勢が成り立ちます。座して相手から伐たれるのと、こちらから相手を伐つのではどちらに利益があるでしょうか」、と。
    秦王は言いいました。「良いだろう」、と。そして、秦は軍を殽から下して韓を救援しました。これによって楚軍は退却しました。

    武王竟に周に至る。而して周に卒す。其の弟立ち、昭王と爲る。王の母宣太后は、楚の女也。楚の懷王、前に秦の楚を丹陽に敗(やぶ)りて、韓の救はざりしを怨み、乃ち兵を以て韓の雍氏を圍む。韓、公仲侈をして急を秦に告げしむ。秦の昭王新たに立つ。太后は楚の人なり。救ふことを肯(がへん)ぜず。公仲、甘茂に因る。茂、韓の爲に秦の昭王に言ひて曰く、公仲、方に秦の救ひを得る有らん、と。故に敢て楚を扞(ふせ)ぐなり。今、雍氏圍まれて、秦の師、殽を下らず。公仲、且(まさ)に首を仰ぎて朝せざらんとし、公叔、且(まさ)に國を以て南のかた楚に合せんとす。楚、韓一と爲らば、魏氏敢て聽かずはあらじ。然らば則ち秦を伐つ之形成らん。識らず、坐して伐たるるを待つは、人を伐つ之利に孰與(いづ)れぞ。秦王曰く、善し、と。乃ち師を殽に下して以て韓を救ふ。楚の兵去る。

    甘茂は、秦の昭王に進言して、武遂(山西省)を韓に返すことにしました。向壽と公孫奭は反対しましたが、用いられませんでした。二人はそれで甘茂を怨んで中傷しました。甘茂は恐れて、魏の蒲阪(山西省)を伐つことをやめ、秦から亡命しました。樗里子が魏と講和して、戦いをやめました。

    甘茂竟に秦の昭王に言ひ、武遂を以て復た之を韓に歸す。向壽、公孫奭、之を爭へども、得ること能はず。向壽、公孫奭、此に由りて怨みて甘茂を讒す。茂懼れ、魏の蒲坂を伐つを輟(や)めて、亡(に)げ去る。樗里子、魏と講じ、兵を罷む。

    甘茂は秦から亡命して齊へと走り、途中で蘇代に出会いました。蘇代は齊の使者として秦に赴く途上でした。甘茂は言いました。「臣は秦で罪を受け、誅罰を恐れて亡命し、落ち着くべき所もありません。臣は、次のような話を聞いたことがあります。貧しい女と富裕な女が、同じ場所で糸を紡いでいた時、貧しい女が『私は燈火を買うことができません。あなたの燈火には幸いにも余りがあります。どうか、その余った光を私に分け与えて下さい。あなたの明るさを損なわずに私は便益を受けることができるのですから。』と。今、臣は困窮していますが、あなたは将に使者として秦に赴こうとしており、政治の要路に当たっています。私の妻子は秦におります。どうかあなたの余光で妻子を救ってください」、と。

    蘇代は承諾し、遂に使者としての役割を秦で果たしましたが、その後に秦王に説いて言いました。「甘茂は優れた人士です。秦に居た頃は、代々の王に重用されました。殽(かう)の砦から鬼谷に至るまで、その地形の嶮岨について知悉しております。もし彼が齊を引き込んで、韓・魏とに盟約を結ばせて、逆に秦を囲もうとすれば、それは秦にとっての利益にはならないでしょう。」 秦王が言いました。「それでは、どうすれば良いのか。」蘇代は言いました。「大王は、手厚い礼物を与え、厚い俸禄を約束して甘茂を迎えるに越したことはありません。彼が来たならば、鬼谷に住ませ、生涯そこから出さないようにすべきでしょう」、と。秦王は言いました。「良いだろう」、と。

    秦の昭王は甘茂に上卿の位を与え、使者に宰相の印綬を持たせて、齊へ迎えに行かせました。しかし、甘茂は秦へは往きませんでした。蘇代は齊の湣王(在位:前300〜前284)に言いました。「甘茂は賢人であります。今、秦は彼に上卿の位を賜い、宰相の印綬を約束して迎えようとしました。しかし、甘茂は大王(湣王)からの賜(たまもの)に感謝し、大王(湣王)の臣下になりたいと思っておりますので、辞退して秦には参りませんでした。今、大王(湣王)は、甘茂をどのように礼遇なさるおつもりですか」、と。 齊王(湣王)は言いました。「よろしい」、と。そして、すぐに甘茂に上卿の位を与えて引き留めました。そこで秦は甘茂の家の租税を免除し、甘茂を足ががりにして齊と取引を図りました。

    甘茂之秦を亡(に)げて齊に奔(はし)るや、蘇代に逢ふ。代、齊の爲に秦に使ひす。甘茂曰く、臣、罪を秦に得、懼(おそ)れて遯逃(とんたう)し、跡を容(い)るる所無し。臣聞く、貧人の女、富人の女と會績す。貧人の女曰く、我以て燭を買ふ無し。而るに子之燭光幸ひに餘り有り。子、我に餘光を可分かつべし。子の明を損ずる無くして、一の斯の便を得ん、と。今、臣困(くる)しむ。而るに君方(まさ)に秦に使ひして路に當たる。茂之妻子在り。願はくは君、餘光以て之を振(すく)へ、と。蘇代許諾し、遂に使ひを秦に致す。

    已にして、因りて秦王に說きて曰う、甘茂は非常の士也。其の秦に居るや、累世重んぜられたり。殽の塞より鬼谷に至る及(まで)、其の地形險易皆明らかに之を知れり。彼齊を以て韓・魏に約し、反りて秦を圖(はか)らば、秦之利に非(あら)ざらん、と。秦王曰く、然らば則ち柰何せん、と。蘇代曰く、王其の贄(し)を重くし其の祿を厚くして以て之を迎ふるに若かず。彼をして來らしめば、則ち之を鬼谷に置き、終身出だすこと勿かれ。秦王曰く、善し、と。卽ち之に上卿を賜ひ、相の印を以て之を齊に迎ふ。甘茂往かず。蘇代、齊の湣王に謂ひて曰く、夫れ甘茂は賢人也。今、秦之に上卿を賜ひ、相の印を以て之を迎ふ。甘茂、王之賜を德とし、王の臣たるを好む。故に辭して往かず。今、王何を以てか之に禮する、と。齊王曰く、善し、と。卽ち之を上卿に位して之を處(とど)む。秦因りて甘茂之家を復し、以て齊に市す。

    齊は甘茂を使者として楚に派遣しました。楚の懐王は、新たに秦と婚姻関係を結んだばかりで秦と親しくしていました。そこで秦は甘茂が楚にいると聞いて、使者を送ってきて伝えました。「どうか甘茂を秦に送って頂きたい」、と。楚王(懐王)は范絹に尋ねました。「寡人(私)は宰相を秦に置きたいのだが、誰が良いだろうか」、と。范絹は答えて言いました。「臣にはそれにお答えする知識が足りません」、と。 楚王が言いました。「寡人(私)は甘茂を宰相にしたいのだが、それで良いだろうか」、と。 

    范絹は答えて言いました。「それはいけません。そもそも(甘茂の学師である)史挙という人物は、下蔡(安徽省寿縣の北の地)の門番で、大事においては君主に仕えず、小事においては一家を治めず、卑賤を恥じず、廉直でもないという世の評判でした。甘茂はそのような人物に従順に師事したのです。だから甘茂は、賢明な恵王、明察な武王、雄弁な張儀に仕えて、さまざまな官職についても罪を受けることが無かったのです。甘茂は真の賢者なのですが、秦の宰相にすべきではありません。そもそも秦に賢明な宰相がいることは、楚にとっては利益ではありません。

    さらに懐王が昔、召滑を越に任用させた時、召滑は越人の章義に内乱を起こさせたので、越国は乱れました。だから、楚は南の厲門を塞いで越の江東を属郡としました。王(懐王)がこのような功績を収められた所以を考えてみますと、越が乱れて楚がそれに乗じて国を治めたからです。しかし、王(懐王)は越に対してそうした手段を用いること知っていながら、秦に用いることはお忘れになっています。臣は王(懐王)の大きな間違いだと思います。そこで、王(懐王)がもし秦に宰相を置きたいとご希望になるのであれば、向壽にまさる者はいないでしょう。そもそも、向壽と秦王とは親しい関係にあります。秦王は幼少期には向壽と同じ衣服をまとい、成長してからは同じ車に乗り、政治にも参与しています。王(懐王)が向壽を秦の宰相にされれば、楚国の利益となるでしょう」、と。

    そこで、懐王は秦に使者を送り、向壽を秦の宰相にするように要請した結果、遂に秦は向壽を宰相としました。こうして甘茂は再び秦に帰ることができず、魏で亡くなることになりました。

    齊、甘茂を楚に使はす。楚の懷王新たに秦と合婚して驩(くわん)す。而して秦、甘茂の楚に在るを聞き、人をして楚王に謂はしめて曰く、願はくは甘茂を秦に送れ、と。楚王、範蜎に問ひて曰く、寡人相を秦に置かんと欲す。孰(たれ)か可ならん、と。對(こた)へて曰く、臣は以て之を識るに足らず、と。楚王曰く、寡人甘茂を相とせんと欲す。可ならん乎、と。對(こた)へて曰く、不可なり。夫れ史舉は、下蔡之監門也。大にしては君に亊(つか)ふるを爲さず。小にしては家室を爲(おさ)めず。苟賤不廉を以て世に聞こゆ。甘茂之に亊(つか)へて順なり。故に惠王之明、武王之察、張儀之辯にして、而も甘茂は之に亊(つか)へ、十官を取りて罪せらるる無かりき。茂は誠に賢者也。然れども於秦に相とすべからず。

   夫れ秦之賢相有るは、楚國之利に非ざる也。且つ王、前(さき)に嘗て召滑を越に用ゐしめて、內行章義之難あり。越國亂れき。故に楚、南のかた厲門を塞(ふさ)いで、江東を郡とせり。王之功能く此くの如くなりし所以の者を計るに、越國亂れて楚治まりたれば也。今、王、諸(これ)を越に用ゐるを知りて、諸(これ)を秦に用ゐるを忘る。臣、王を以て鉅(おほ)いに過てりと爲す。然らば則ち王、若し相を秦に置かんと欲せば、則ち向壽の若(ごと)き者可なり。夫れ向壽之秦王に於けるは、親しき也。少(わか)くして之と衣を同じくし、長じて之と車を同じくし、以て亊を聽けり。王必ず向壽を秦に相とせば、則ち楚國之利也、と。是に於て使(つか)ひをして秦に請ひ、向壽を秦に相とせしむ。秦、卒(つひ)に向壽を相とす。而うして甘茂竟(つひ)に復た秦に入るを得ず、魏に卒す。

    【甘 羅】
    甘羅(かんら、前247〜不詳)は、甘茂の孫でありました。甘茂の死後、甘羅は十二歳で、秦の宰相である文信侯呂不韋(不詳〜前235)に仕えました。

    甘羅は、甘茂の孫也。茂既に死せし後、甘羅年十二、秦の相文信侯呂不韋に亊(つか)ふ。

    秦の始皇帝(前259〜前210)は燕(河北省北部)を懐柔しようとして、剛成君蔡澤を燕に遣わしました。三年が経つと、燕王喜(在位:前254〜前222)は太子丹(不詳〜前226)を人質として秦に送ってきました。秦は張唐(生没年不詳)を派遣して燕の宰相にし、燕と共に趙(山西省北部、河北省東部)を伐って河間の地(燕、趙、齊三国の境界)を取得しようとしました。しかし、張唐は文信侯に言いました。「臣は、かつて秦の昭王(在位:前306〜前251)のために趙を伐ちました。そのため、趙は臣を怨んで『張唐を捕えた者には百里四方の地を与える』と言っております。今、燕に行くには必ず趙を通過しなければならないので、臣は行くことができません。」と。 文信侯は不快に思いましたが、強制してまで行かせることはしませんでした。

    秦の始皇帝、剛成君蔡澤を燕に使はす。三年にして燕王喜、太子丹をして入りて秦に質(ち)たらしむ。秦、張唐をして往きて燕に相たらしめ、燕と共に趙を伐ち、以て河閒之地を廣めんと欲す。張唐、文信侯に謂ひて曰く、臣嘗て秦の昭王の爲に趙を伐つ。趙、臣を怨みて曰く、唐を得る者には百里之地を與(あた)へん、と。今、燕に之かば必ず趙を經ん。臣以て行くべからず、と。文信侯快(こころよ)からざれども、未だ以て彊(し)ふる有らず。

  

      中国戦国時代勢力図(前250年頃)

    甘羅が言いました。「主君はご不快なようですが、いかがされましたか」と。文信侯が応えました。「吾は剛成君蔡澤をして三年間燕に仕えさせたが、それで燕の太子丹が人質として秦に来ている。吾は、張卿(張唐)に自ら燕に出向いて宰相となるように勧めたが、行くことに同意しないのだ」と。甘羅が言いました。「臣が、行かせるようにしましょう」と。文信侯は叱って言いました。「控えよ。私が自身で頼んでも頷かないのだ。お前ごときがどうして行かせられるのか」と。甘羅は言いました。「項橐(こうたく)は生まれて七歳で、孔子の師になりました。今、臣は生まれて十二歳です。主君よ、臣をお試しください。どうしてお叱りになることがございましょうや」 と。

    甘羅曰く、君侯何ぞ快(こころよ)からざるの甚(はなは)だしき、と。文信侯曰く、吾、令剛成君蔡澤をして燕に亊(つか)へしむること三年、燕の太子丹、已に入りて質(ち)たり。吾自ら張卿に請ひ燕に相とす。而るに行くを肯(がへん)ぜず、と。甘羅曰く、臣請ふ、之れを行(や)らん、と。文信侯叱して曰く、去れ。我が身自ら之を請へども肯(がへん)ぜず。女(なんぢ)焉(いづ)くんぞ能く之れを行らん、と。甘羅曰く、夫れ項橐は生まれて七歲にして孔子の師と爲りき。今、臣生まれて茲に十二歲なり。君其れ臣を試みよ。何遽(なんぞ)叱せん乎、と。

    こうして、甘羅は張卿に面会して言いました。「卿の功績は、武安君と比べてどちらが大きいでしょうか」と。卿は答えて言いました。「武安君は南の強楚を挫いて、北の燕・趙を威圧し、戦い勝ちて敵地を攻略し、破壊した城邑の数は数え切れないほどである。臣の功績など及ぶはずもない」と。甘羅が言いました。「應侯(范雎、生没年不詳)が秦で要路にあった時は、文信侯の専制と比べてどちらが勢いがあるでしょうか。」と。張卿は言いました。「應侯の権勢は文信侯の権勢にはとても及ばない」と。甘羅は言いました。「卿は文信侯の専制の権勢には及ばないと明らかに知っているのですね」と。張卿は言いました。「もちろん知っている」 と。

    是に於て甘羅、張卿に見えて曰く、卿之功は、武安君に孰與(いづ)れぞ、と。卿曰く、武安君は南のかた彊楚を挫(くじ)き、北のかた燕・趙を威(おど)し、戰へば勝ち攻むれば取り、城を破り邑を墮(こぼ)つこと、其の數を知らず。臣之功如かざる也、と。甘羅曰く、應侯之秦に用ゐらるるや、文信侯の專らなるに孰與(いづ)れぞ、と。張卿曰く、應侯は文信侯の專らなるに如かず、と。甘羅曰く、卿明らかに其の文信侯の專らなるに如かざるを知るか、と。曰く、之を知る、と。

    甘羅は言いました。「應侯が趙を攻めようとした時、武安君(白起、不詳 〜前257)がそれを非難しました。すると、武安君は咸陽(秦の国都、陝西省)を去ること七里の杜郵において自害させられてしまいました。今、文信侯はご自身で卿に燕の宰相となることを勧めたのですが、卿は承知なさいません。臣には、卿がどこで亡くなられるか存じませぬ」と。張唐は言いました。「おまえの今の言葉で、行くことにした」と。甘羅に旅支度をさせて出発することにしました。

    甘羅曰く、應侯、趙を攻めんと欲す。武安君之を難(かた)んず。咸陽を去ること七里にして、立ちどころに杜郵に死せり。今、文信侯自ら卿に請ひ燕に相とす。而るに行くを肯(がへん)ぜず。臣、卿の死する處を知らず、と。張唐曰く、請ふ、孺子に因りて行かん、と。行を裝治せしむ。

    出発の間近になり、甘羅は文信侯に言いました。「車五乗を臣にお貸しください。張唐のために趙に通告いたしましょう。」と。文信侯は参内して始皇帝に願い出ました。「昔いた甘茂の孫の甘羅は年若い者ですが、名家の子孫ですので、その名前を諸侯がみんな聞き知っております。今、張唐は病気と称して燕に参ろうといたしませんでしたが、甘羅が説得して行かせるようにしました。今、このことを趙に通告したいと願っています。どうか、使いを派遣することをお許し下さい」と。始皇帝は甘羅を召し出して謁見し、使者として趙に送りました。

    行くこと日有り。甘羅、文信侯に謂ひて曰く、臣に車五乘を借せ。請ふ、張唐の爲に先づ趙に報ぜん、と。文信侯乃ち入りて之を始皇に言ひて曰く、昔の甘茂之孫甘羅、年少きのみ。然れども名家之子孫にして、諸侯皆之を聞けり。今者(いま)張唐疾と稱して行くを肯(がへん)ぜざらんと欲す。甘羅說きて之を行(や)る。今、先づ趙に報ぜんと願ふ。請ふ、許して之を遣はさん、と。始皇召し見て、甘羅を趙に使はす。

    趙の襄王(在位:前244〜前236)は、都の郊外まで出て甘羅を迎えました。甘羅は趙王に言いました。「大王は、燕の太子丹が人質として秦に来ていることを聞いておられるでしょうか」と。趙王は言いました。「聞いている」と。甘羅は言いました。「張唐が燕の宰相になるということは聞いておられるでしょうか」と。 趙王は言いました。「聞いている」と。「燕の太子丹が人質として秦に来ているのは、燕が秦を欺かないという証拠です。張唐が燕の宰相になるということは、秦が燕を欺かないことの証拠です。燕と秦が互いに欺くことがなければ、協力して趙を伐とうとするでしょう。これは、趙にとって危険です。燕と秦がお互いに欺かないわけは、趙を攻めて河間の地を奪い取り、領土を広げようとしているからです。大王は臣を通じて秦に五城市をお与えになり、河間の地を守るに越したことはありません。そうすれば、燕の太子を帰らせることができ(燕と秦の同盟を破ることができ)、強力な趙は秦と共に、弱小な燕を攻めることができましょう」と。

    趙の襄王甘羅を郊迎す。甘羅、趙王に說きて曰く、王は燕の太子丹の入りて秦に質(ち)たるを聞くか」、と。曰く、「之を聞く」、と。曰く、「張唐の燕に相たるを聞くか」、と。曰く、「之を聞く」、と。「燕の太子丹の秦に入る者は、燕、秦を欺かざるなり。張唐の燕に相たる者は、秦、燕を欺かざるなり。燕、秦相欺かずは、趙を伐たん。危(あやふ)し。燕、秦相欺かざるは異なる故無し。趙を攻めて河閒を廣めんと欲すればなり。王、臣に五城を齎(もた)らし以て河閒を廣むるに如かず。請ふ、燕の太子を歸して、彊趙と與に弱燕を攻めん」、と。


  

      中国戦国時代(紀元前350年頃)東方図

    趙王はすぐに趙の五つの城を割いて秦に与え、河間を広めました。秦は燕の太子を帰国させました。趙は燕を攻めて、上谷地方(河北省)の三十の城を獲得し、そのうちの十一の城を秦に与えたました。甘羅が帰って報告すると、秦は甘羅を封じて上卿とし、はじめにあった甘茂の田地、住宅を再び賜りました。

    趙王立ちどころに自ら五城を割き、以て河閒を廣む。秦、燕の太子を歸す。趙攻燕を攻め、上谷の三十城を得、秦をして十一を有せしむ。甘羅還り報ず。秦乃ち甘羅を封じて以て上卿と爲し、復た始めの甘茂の田宅を以て之に賜ふ。

    太史公曰く、樗里子は骨肉なるを以て重んぜらる。固(もと)より其の理なり。而うして秦人(しんひと)は其の智を稱す。故に頗る采(と)る。甘茂は下蔡の閭閻より起こり、名を諸侯に顯し、彊(つよ)き齊、楚に重んぜらる。甘羅は年少(わか)し、然れども一の奇計を出だし、聲(な)、後世に稱せらる。篤行の君子に非ずと雖も、然れども亦戰國の策士也。秦之彊(きやう)時に方(あた)りて、天下尤も謀詐に趨(おもむ)ける哉
 
    太史公司馬遷が論評した。樗里子は肉親であったが故に重んぜられた。これは当然の理である。そして秦の人々はその知恵を褒め称えた。そういうわけで、ここに幾分かその業績を採り集めておく。甘茂は下蔡の村から身を起こし、名を諸侯に間にあらわし、強国の齊や楚で重用された。甘羅は年が若かったが、あるひとつの奇策を出したことにより、その名声が後世にまで伝わっている。行いが立派であった君子というわけではないが、それでも戦国時代にあって、一人の策士と言える。秦が強大になったときに、天下は最も権謀術数が幅をきかすようになっていたのだ。


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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:20│Comments(0)史記列傅
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