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2018年01月09日

奥の細道、いなかの小道(45)− 大垣(1)

 

       (旧暦11月22日)

  

      大垣  『奥の細道畫巻』 与謝蕪村筆


  「奥の細道、いなかの小道」の旅も、平成十九年(2007)年五月十二日に深川の芭蕉庵を出立して以来、十年八ヶ月の歳月を要して、ようやく目的地大垣にたどり着きました。

    露通もこのみなとまで出でむかひて、みのゝ國へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より來り合、越人も馬をとばせて、如行が
    家に入り集まる。前川子・荊口父子、その外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやま
    ざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、 
            蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ


    ○露通
        本姓は斎部伊紀(1649〜1783)。芭蕉入門は貞享二年(1685)初夏のことと推定され、その十餘年以前から乞食放浪の境涯にあり、大津松
        本の辺りで『徒然草』の辻講釈のようなことをやっていたとされている。

    火桶抱てをとがひ臍をかくしけり 路通。此作者は松もとにてつれづれよみたる狂隠者、今我隣庵に有。俳作妙を得たり
            『元禄元年十二月五日付尚白宛芭蕉書簡』


        路通は貞享五年(1688)の春東下して深川の芭蕉庵の隣庵に一年餘逗留し、芭蕉から草庵の侘会における妙作を絶賛されたが、芭蕉の北國
       行脚と前後して、ふたたび流浪の旅に立っている。路通はその後、元禄四年(1691)の『猿蓑』撰集前後から同門間に不評を買い、芭蕉からも
        勘気をを受けて、一時蕉門から遠ざかったが、元禄七年(1694)夏には三井寺の定光坊實永のとりなしで勘気を許し、門人達にも路通の身の立
        つように斡旋したりしている。

        九月四日
        一桃青亊〈門弟ハ、芭蕉ト呼〉如行方ニ泊リ所勞昨日ゟ本腹之旨承ニ付種々申他所者故室下屋ニ而自分病中トいへとも忍ニ而初而招之對顔其
        歳四拾六生国ハ伊賀之由路通と申法師能登之方ニ而行連同道ニ付是ニも初而對面是ハ西國之生レ近年ハ伊豆蠅嶋ニ遁世之軆ニ而住メル由且又文
        字〈虫〉之才等有之ト云云歳三拾ゟ内也兩人咄シ種〻承之多ハ風雅の儀ト云云如行誘引仕り色々申と云へとも家中士衆ニ先約有之故暮時ゟ歸リ
        申候然共兩人共ニ發句書殘自筆故下屋之壁ニ張之謂所
            こもり居て木の實草の實拾ハはや              芭蕉
            御影たつねん松の戸の月                         自分
            思ひ立旅の衣をうちたてゝ                        如行
            水さハさハと舟の行跡                              伴柳
            ね所をさそふ鳥はにくからす                      路通
            峠の鐘をつたふこからし                            闇加
        是迄ニ而路通發句
            それそれにわけつくされし庭の秋                路通
            ために打たる水のひやゝか                         自分
            池ノ蟹月待ツ岩にはい出て                        芭蕉
        是迄奥州之方北國路ニ而名句とおほしき句共數多雖聞之就中頃日伊吹眺望といふ題にて
            そのまゝに月もたのまし伊吹山                    芭蕉
            おふやうに伊吹颪の秋のはへ                     路通  
        尾張地之俳諧者越人伊勢路之素良兩人ニ誘引せられ近日大神宮御遷宮有之故拝ミニ伊勢之方へ一兩日之内におもむくといへり今日芭蕉軆ハ布裏
        之本綿小袖〈帷子ヲ綿入トス 墨染〉細帯ニ布之編服路通ハ白キ木綿之小袖數珠を手ニ掛ル心底難斗けれとも浮世を安クみなし不諂不奢有様也
                『戸田如水日記』 


   

      『如水日記』 九月四日の条

        ○大垣の庄
            美濃大垣藩第四代藩主戸田采女正氏定(1657〜1733)十萬石の城下。大垣付近には中世において、大井、大榑(おおくれ)、小泉、
            郡戸などの庄があったが、「大垣の庄」という庄名はないので、擬古的(昔の風習・様式などをまねること)な呼称としてこのように
            呼んだものと解されている。

        ○越人
            本姓は越智十蔵(1656〜不詳)、別號、負山子、槿花翁。北越の生まれ。延寶初年頃から名古屋に出て、蕉門の代表的な撰集七部十二
            冊をまとめた俳諧七部集の一つ『冬の日』の連衆野水 (呉服商)の世話で染物屋を営む。芭蕉への入門は貞享元年(1684)頃か。貞享三
            年(1686)刊の『春の日』の連句に初出、また発句九句を寄せた。
            貞享四年(1686)、芭蕉に従い三河保美に罪を得て隠栖する杜國を訪ね、貞享六年(1688)には芭蕉の『更科紀行』の旅に随行して
            東下し、江戸深川の芭蕉庵に逗留すること数月、其角、嵐雪ら蕉門の徒と風交を重ねる。

            ちなみに杜國は名古屋御薗町の町代、富裕な米穀商であったが、倉に実物がないのに有るように見せかけて米を売買する空米売買の延
            べ取引きに問われ、貞亨二年八月十九日に領国追放の身となって畠村(三河国渥美郡畑村)に流刑となり、以後晩年まで三河の国保美
            に隠棲している。

        尾張十藏、越人と號す。越路の人なればなり。栗飯・柴薪のたよりに市中に隠れ、二日つとめて二日遊び、三日つとめて三日あそぶ。性、 
        酒をこのみ、醉和する時は平家をうたふ。これ我友なり。
                二人見し雪は今年もふりけるか        芭蕉


  越人が江戸深川の芭蕉庵に逗留した貞享六年(1688)の冬、芭蕉が草したこの句文は、越人の人となりと芭蕉の越人に寄せる親愛感を表し
ているとされている。

 越人が名古屋より「馬をとばせて」芭蕉を大垣に迎えたのは、貞享四年(1686)の『笈の小文』の旅以来の交情によるもので、『曾良旅日記』九月三日の条には、「豫ニ先達而越人着」とあるところから、越人の大垣着は三日ないしはそれ以前のことと考えられている。

        ○三日 辰ノ尅、立。乍行春老へ寄、及夕、大垣ニ着。天気吉。此夜、木因ニ会、息弥兵へヲ呼ニ遣セドモ不行。予ニ先達而越人着故、コレハ
            行。
                『曾良旅日記』

 
  以後越人は、『特牛』(こというし)(元禄三年)によれば、俳諧の点者として生活したもののごとく、俳諧七部集のひとつ『ひさご』には乞われて序を寄せるなど俳壇的地位を確立し、『うらやまし思ひ切る時猫の戀』の『猿蓑』入集句が芭蕉の賞賛を買ったことが『去來抄』に見える。

  各務支考(1665〜1731)の『削りかけの返事』には、元禄四年秋、八十村路通(1469頃〜1738頃)を誹謗して芭蕉の不快を買ったことを伝え、森川許六(1656〜1715)の『歴代滑稽傳』には、「勘当の門人」の一人に数えているが、芭蕉が元禄七年夏の西上の際、越人らに再会して旧交を温めていることから、芭蕉の越人に対する交情は終生変わらなかったものと見られている。

       ○如行
            近藤如行(不詳〜1706)、大垣藩士。早くに致仕して、自適の境涯に入ったと見られている。貞享元年もしくはそれ以前の蕉門への入
            門と推定され、また稿本『如行子』により、貞享四年(1687)から五年に 掛けての『笈の小文』の際の尾張での芭蕉との交歓が知ら
            れる。元禄三年六月三十日付曲翠宛芭蕉書簡によると、如行は元禄三年夏には京に芭蕉を訪れ、幻住庵に同行して二泊しており、芭蕉
            没後には追善集『後の旅』を手向けている。如行の名は森川許六(1656〜1715)の「同門評判」にも挙げられ、寶賀轍士の『花見車』
            によれば、点者として立ってもいたらしく、大垣俳壇においては谷木因と並ぶ中心的存在であった。


        ○前川子
            大垣藩詰頭、津田前川(生没年不詳)。「子」は敬称で、江戸在番中に俳交があったことは知られているが、俳壇的地位や俳交の深さ
            よりもむしろその社会的地位によって、ここに名が挙げられているものと考えられている。

        ○荊口父子
            宮崎荊口(不詳〜1712)、通称太左衛門。大垣藩御広間番、百石。此筋、千川、文鳥の三子があり、長男此筋(1673〜1735)は幼
            名虎之助当時十七歳。次男千川(不詳〜1706)は幼名才治郎、のち大垣藩士岡田治左衛門の養子となり、三男文鳥(不詳〜1743)
            は、幼名與三郎、のち大垣藩詰頭二百石の秋山景右衛門の養子となった。 

        ○その外したしき人々
            淺井左柳(通称源兵衛、大垣藩士、百五十石)、殘香、高岡斜嶺(通称三郎兵衛、大垣藩士、二百石)、その弟高宮怒風(大垣藩
            士)、谷木因(船問屋)といった連衆、また『如水日記』には伴柳、闇如、わけても『曾良旅日記』によれば、大垣の富裕な船問屋主
            人木因が大いに歓待を尽くしたことが知られる。

        ○伊勢の遷宮
            伊勢皇大神宮の二十一年目毎の改築の遷座式。伊勢神宮は萱葺き白木造りの建物のため腐食しやすく、二十一年目ごとに新しい宮を建
            て、「皇大神の御形を新宮に遷し奉る」遷座式を行う。元禄二年(1689)の遷宮は、内宮が九月十日、外宮が九月十三日に行われた。

        ○又舟にのりて
            『おくのほそ道』の結びとして、「旅立ち」の章の「むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乘て送る。千じゆと云所にて船をあが
            れば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。」 云々に応じたもの。
            舟を揚がって江戸の旧友門人に別れを告げ、「三千里」の道を旅立ったのが、今「三千里」の旅を終えて、大垣の門人達に別れを告
            げ、ふたたび舟に乗って新たな旅に赴くことを述べ、「行く春」の別れに対する「行く秋」の分かれの句を据えて、首尾文章の体裁を
            整えたもの。

            実際には、大垣の船町港から乗船して水門川を下り、揖斐川へ出て伊勢長島へ向かっている。

    旧暦八月十七日(陽暦九月三十日)、色の濱の本隆寺に宿泊した芭蕉翁一行は、昨日同様、天屋五郎右衛門の手配した船で敦賀に戻りました。
    さて、先行して大垣に到着していた曾良が、芭蕉を待ちわびる大垣の俳人達に芭蕉の動静を伝えていたため、門弟の路通が敦賀まで芭蕉を出迎えに来ていました。この夜、芭蕉翁は等裁、路通とともに敦賀に宿泊しています。

    芭蕉が出迎えの路通と共に大垣へ向かって敦賀を出立した日付は明らかではありませんが、福井から同行してきた等裁はここで別れています。

    また、芭蕉翁一行がどの経路を通って近江を通過したかは定かではありませんが、大垣まで塩津街道、北國脇往還の道筋を辿ったとすれば、約二十里ほどの通常一泊二日の行程ですが、旅も終わりに近づき、披露も蓄積されていたであろうため、ゆっくりと二泊三日の行程で向かったものと考えられています。

    敦賀から南下した塩津街道は、疋田の宿から東に迂回し、曾々木、麻生口、新道野に入ると近江との国境に至ります。古くは疋田宿から十丁ほど南の追分宿から、深坂峠を越えて塩津に至る深坂古道と海津に向かう西近江路に分かれていましたが、険しい山道をさけて疋田の宿から東に迂回して曽々木を経て南下する比較的平坦な新道野越えが開削されたのは、十六世紀後半のことと云われています。
    江戸期になると小浜藩によって、国境近くの新道野に女留番所、高札場、米蔵が設置され藩米の継立て基地として整備され、これにより新道野越えは七里半越(西近江路)と並ぶ近江への主要道になりました。

  


    芭蕉翁一行は塩津街道を南下して近江に入り、沓掛、余、塩津中、祝山を経て、湖北三湊の一つ塩津濱に着きます。
    ここから琵琶湖岸を進み、飯浦から賤ヶ岳南麓を越えて大音に出ると、その東方に木之本宿があります。敦賀から木之本までは八里ほどで、北國街道の宿場町として栄えていた木之本宿で一行は宿泊しています。

    木之本宿で一泊した芭蕉翁と路通は、中山道の関ヶ原宿までは北國脇往還を進み、田部、井口、柏原、渡岸寺、馬上、丁野をへて郡上に入ると、左手の小谷山中腹に小谷城跡があります。

    戦国期、北近江一帯は、下克上によって直接の主筋で北近江の守護職にあった京極氏を追い落とした浅井氏が小谷城を本拠として支配していました。

    永禄十一年(1568)九月、織田信長(1534〜1582)は足利義昭(1537〜1597)を奉じて上洛し、足利義昭を室町幕府第十五代征夷大将軍に擁立して、越前一国をを支配する朝倉義景(1533〜1573)に対して征夷大将軍足利義昭の名目で二度にわたって上洛を命じましたが、朝倉義景は従いませんでした。

    元亀元年(1570)四月、織田信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため浅井氏との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに琵琶湖西岸を通過して越前の朝倉方の城を攻め始めました。
    織田信長の妹お市の方(1547〜1583)の夫、浅井長政(1545〜1573)は朝倉義景(1533〜1573)との同盟関係を重視し、織田、徳川連合軍を背後から急襲したため、信長は殿を務めた木下秀吉らの働きにより、命からがら近江を脱出しました。
    天正元年(1573)七月、織田信長は三万の軍を率いて再び北近江に攻め寄せました。浅井長政は朝倉義景に援軍を要請し、朝倉義景は二万の軍で救援に駆けつけましたが、織田の軍勢が北近江の城を即座に落とし、浅井家中にも寝返りが相次いだため、浅井氏の救援は不可能と判断した朝倉義景は越前に撤退を始めました。
    撤退する朝倉軍を織田信長は追撃して刀根坂にて壊滅させ、立て直す隙を与えずそのまま越前国内へ乱入して朝倉氏を滅亡させた後、取って返して全軍を浅井氏に向けました。
    織田信長全軍の総攻撃により、小谷城は落城して浅井長政は自害し、お市の方と茶々、お初、お江の三人の娘は木下秀吉に預けられました。

    小谷城を左手に望みながら、北國脇往還を南東へ進み、伊部、尊勝寺、八島、内保を経ると、姉川に架かる野村橋畔に姉川古戦場があります。
    「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼んでいるとのこと。
    元亀元年(1570)六月二十八日未明、姉川を前にして軍を二手に分けて野村・三田村にそれぞれ布陣した淺井、朝倉方に対し、徳川勢が一番合戦として西の三田村勢へと向かい、東の野村勢には信長の馬廻、および稲葉良通(1515〜1589)、氏家卜全(不詳〜1571)、安藤守就(不詳〜1582)ら西美濃三人衆が向かいました。
    午前六時頃に戦闘が始まり、浅井方も姉川に向かい激戦となりましたが、浅井・朝倉連合軍の陣形が伸びきっているのを見た徳川家康は家臣榊原康政(1548〜1606)に命じて側面から攻めさせた結果、まずは朝倉方が敗走し、続いて浅井方が敗走、織田・徳川方が千百余りの首級を討ち取って勝利した戦いでした。

   

       姉川の戦い布陣図

    姉川古戦場を過ぎて、左手に伊吹山を望みながら南東に進むと、北國脇往還の三宿のひとつ春照(すいじやう)に着きます。木之本からは六里ほどの道のりでしたが、ここは最も整備された宿場町であったので、芭蕉翁一行は一泊しています。
    春照(すいじやう)宿を出立して脇往還を東方へ進むと藤川宿で、ここは近江と美濃との国境の宿場のため、「關の藤川」と呼ばれていました。藤川宿を出ると美濃に入り、最初の集落が玉で、ここから関ヶ原古戦場となります。
    関ヶ原古戦場を抜けて関ヶ原宿を通る中山道と合流し、左折して東進すると、野上を過ぎて垂井宿に入ります。垂井宿には浄土真宗の本龍寺があり、元禄四年(1691)十月上旬、江戸へ帰る芭蕉は、俳人でもある住持規外を訪ねてしばらく逗留しています。

  


    垂井宿を出ると相川を渡り、さらに追分橋を渡ると追分で、左手が中山道、右手が美濃路となり、芭蕉翁一行は右手の美濃路を進み、綾戸、長松を抜けて大谷川を渡り、荒川、久徳を過ぎて杭瀬川を渡ると、まもなく大垣城下船町に至ります。芭蕉翁一行はここから北へ進み、室町に住んでいる近藤如行宅に到着しました。

    つづく




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