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2006年10月28日

伝説(4)-ドクトル・ファウストゥス(1)

 

 Faust im Studierzimmer (Gemälde von Georg Friedrich Kersting, 1829)

 (旧暦  9月 7日)

 Solch ein Gewimmel möcht' ich sehn,
 Auf freiem Grund mit freiem Volke stehn.
 Zum Augenblicke dürft' ich sagen:

 Verweile doch, du bist so schön!
 Es kann die Spur von meinen Erdetagen
 Nicht in äonen untergehn. -


 Im Vorgefühl von solchem hohen Glück
 Genieß' ich jetzt den höchsten

 (Faust, der Tragödie zweyter Theil.) 

 私はそうした人々を見、
 (うちゃくさ、そげん人達ば見てくさ)
 自由な人々と共に、自由な大地の上に立ちたい。
 (な~んの縛りもなか人達と一緒にくさ、な~んの縛りもなか土地の上に立ちたいとたい)
 その瞬間に向かってなら言ってもよい。
 (そげん瞬間に向こうてなら、言うてもよかばい)

 「留まれ、おまえはとても素晴らしい!
 (待ちんしゃい!あんたはよかね~!)
 地上における私の日々の軌跡も、永劫のなかに消え去りはしまい」と。
 (今生きとう、うちん生活んあとも、永遠ちゅう時ん中にゃ消え去らんばい)


 このような至福を予感しながら、私は今最高の瞬間を味わうのだ。
 (こげん喜びば感じちょってくさ、うちゃくさ、今、最高に幸せば味わうとたい)

 『ファウスト 悲劇第二部』(1831)より by 嘉穂のフーケモン 拙訳

 18世紀のドイツを代表する詩人であり、劇作家、小説家、科学者、哲学者、政治家でもある文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe, 1749~1832)の有名な戯曲『ファウスト(Faust)』は、1587年に出版された民衆本(Volksbuch)である『ヨーハン・ファウステン博士の経歴』"Historia von D.Johann Fausten"をモチーフ(motif)にして書かれています。

 また、『ヨーハン・ファウステン博士の経歴』"Historia von D.Johann Fausten"は、イギリスのエリザベス朝時代の詩人、劇作家クリストファー・マーロウ(Christopher Marlowe、1564~1593)による「フォースタス博士の悲劇」(The Tragical History of Doctor Faustus)のベースにもなっています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:19Comments(1)伝説

2006年10月26日

板橋村あれこれ(19)-東上鉄道記念碑

 
 
 東上鉄道記念碑(下板橋駅構内)

 (旧暦  9月 5日)

 板橋村の東武東上線下板橋駅構内(板橋2丁目4番地)には、東上鉄道の記念碑が建っています。
 通称「東武東上線」と呼ばれる「東上本線」は、豊島村の池袋駅から彩の国大里郡寄居町の寄居駅までを結ぶ75.0kmの東武鉄道株式会社(TOBU Railway CO.,LTD)の鉄道路線です。

 碑文には、「東上鉄道は内田三左衛門ほか10名の有志が、東京渋川(群馬県)間、さらに越後長岡までの敷設を予定して明治36年(1903)12月23日逓信省にて東上鉄道の仮免許申請書を提出、明治41年(1908)に桂太郎内閣により敷設仮免許受けて起工し、千辛万苦百難の末、大正3年(1914)5月竣工なり、開業に至った」と記してあります。
 さらには、「今日の盛況は、内田氏の熾烈な公共心と高潔なる犠牲的精神に職由する」とその功労を讃えています。

 この碑は、もともと東上線池袋駅西口にあったそうですが、デパート建設によりこの地に移転されました。
 なお、東上線の名前に由来は、帝都東京から群馬県渋川を結ぶ計画だったことから、東京と上野国の頭文字を取って「東上」としたそうです。

 大正3年(1914)5月1日、池袋~田面沢間(池袋~下板橋間2.2km、川越~田面沢間2.3kmは軽便鉄道、下板橋~川越間29kmは私設鉄道)が開通し、旅客・貨物運輸営業を開始しました。
 開業に当たり、蒸気機関車3両を鉄道省から、2両を高野登山鉄道から購入し、また、高野登山鉄道から客車13両、貨車35両を購入、東武鉄道からも蒸気機関車を借り入れています。

 その後、第一次世界大戦の影響で物価が急騰して営業費が増加したため、大正9年4月27日、開業線池袋~坂戸町間40.6km、未開業線坂戸町~高崎間62.8kmのすべてをあげて東武鉄道と対等合併し、東武東上鉄道となりました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:23Comments(0)板橋村あれこれ

2006年10月24日

歴史/ヨーロッパ(1)-Radio London

 
  
Field Marshall Erwin Rommel (center) discusses the upcoming Allied invasion of France with Colonel General Johannes Blaskowitz, commander of Army Group G, and Field Marshall Gerd von Rundstedt.


 (旧暦  9月 3日)

 アイルランド出身のアメリカ人ジャーナリスト、コーネリアス・ライアン(Cornelius Ryan, 1920~1974)が書いたノンフィクション『The Longest Day (1959年)』は、1962年にアメリカで映画化されてアカデミー賞にもノミネートされ、日本では『史上最大の作戦』としてヒットして有名ですが、この本の題名となった「The Longest Day」は、当時、フランス北西部ノルマンディー半島に展開して迎撃準備に専念していたドイツ西方軍B軍集団長(Oberbefehlshaber der Heeresgruppe B)エルヴィン・ロンメル(Erwin Johannes Eugen Rommel、1891~1944)元帥が、1944年4月24日、彼の当直将校(Ordonanzoffizier )ラング大尉に向かって述べた次のような言葉によるものだそうです。

 "Glauben sie mir, Lang, die ersten vierundzwanzig Stunden der Invasion sind die entscheidenden; von ihnen hängt das Schicksal Deutschlands ab ... Für die Alliierten und für Deutschland wird es der längste Tag sein."
 
 「私を信じるんだ、ラング、侵攻の最初の24時間が決定的なものとなる;ドイツの運命はその結果にかかっている・・・
 連合軍にとってもドイツにとってもそれは、最も長い日となるだろう」と。


 1940年の早々から英国放送協会(BBC)のRadio Londonは、イギリスに本拠地を置く連合軍がフランスのレジスタンス組織と連絡を取り、様々な破壊活動や最も重要な来るべきノルマンディ上陸の準備をするために、暗号化されたメッセージを日々連続して送信していました。

 それらは、次のようなものでした。
 BBC戦時ニュースです。フランスの皆様にお送りします。
 個人宛へのお便りをお伝えしていきます。

 "J'aime les chats siamois" 
 「私はシャム猫が好きだ。」

 "Daphné à Monique: Il y a le feu à l'agence de voyage. Inutile de s'y rendre."
 「ダフネからモニークへ:旅行社は火事です。心配ありません。」

 "Il fait chaud à Suez"  
 「スエズは暑い。」

 "Les dés sont sur le tapis"  
 「サイコロはマットの上にあります。」

 "Le chapeau de Napoléon est dans l'arène"  
 「ナポレオンの帽子はアリーナにあります。」

 "John aime Marie"  
 「ジョンはマリーを愛します。」

 "La Guerre de Troie n'aura pas lieu"
 「トロイ戦争は起きないでしょう。」

 "La Flèche ne passera pas"
 「矢は貫通しない。」  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:36Comments(0)歴史/ヨーロッパ

2006年10月21日

歳時記(12)-秋(3)-曲江の秋

 
 
 晩秋の米沢城趾「松が岬公園」

 (旧暦  8月30日)

 直哉忌 
 武者小路実篤、有島武郎、倉田百三、里見弴、柳宗悦等が所属した白樺派を代表する小説家のひとりで、『暗夜行路』、『和解』、『小僧の神様』、『城崎にて』などの作品を残し、推敲を尽くした無駄のない文章により「小説の神様」として大正、昭和期の多くの文学者に範とされた小説家志賀直哉の昭和46年(1971)の忌日。
 滝井孝作、尾崎一雄、小林秀雄、網野菊、藤枝静男、島村利正、直井潔、阿川弘之ら錚々たる作家が師事した。

 
 かつての唐の都長安の中心部より東南東数㎞の風光明媚なところに、曲江池という池がありました。
 この池は、「隋の長安建都の時に黄渠の水を引いて池を作り、これを曲江と呼んだ」と宋代(南宋1127~1279)の趙彦衛が撰した『雲麓漫鈔』に記述してありますが、隋はこの地に「芙蓉園」を造って離宮としました。

 この地には、かつて漢の武帝も「宣春下苑」という離宮を造っており、唐代になって第6代皇帝玄宗(在位712~752)の開元年間(713~741)に大規模な再開発が行われたようです。
 近くには杏園、楽遊原、大慈恩寺などの名所があり、貴族達の行楽地として春や秋には賑わい、特に唐の科挙試験に及第して進士となった者は、曲江のほとりの杏園で宴を賜ったと伝えられています。

 しかしこの場所も、安史の乱(756~763)の時に建築物は尽く破壊され、一部は後に修復されたようですが、これもまた唐末の戦乱で破壊されてしまいました。
 現在は曲江地遺跡として石碑なども建っているようですが、池は干上がって農地に化しています。

 杜甫には「曲江三章」という章五句の詩があり、この曲江のほとりの秋の様子を詠っています。

 曲江三章 章五句

 曲江蕭条秋氣高    曲江蕭条として 秋氣高く
 菱荷枯折随風濤    菱荷(菱と蓮)枯折して 風濤に随ふ
 游子空嗟垂二毛    游子空しく嗟す 二毛(白髪交じり)に垂(なんなん)とするを
 白石素沙亦相蕩    白石素沙 亦た相い蕩(うごか)す
 哀鴻独叫求其曹    哀鴻(あいこう、哀れなヒシクイ)独り叫び 其の曹(ともがら)
               を求む

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:01Comments(0)歳時記

2006年10月20日

詩歌(6)-秋の歌

 

 牧歌漂う北大農場 taken by Masaaki Ebina at the middle of 1970’s

 (旧暦  8月29日)

 Chanson d'automne             落葉   

 Les sanglots longs              秋の日の
 Des violins                    ヰ゛オロンの
 De l'automne                  ため息の
 Blessent mon coeur             身にしみて
 D'une langueur                 ひたぶるに
 Monotone.                    うら悲し。

 Tout suffocant                 鐘のおとに
 Et blême, quand                胸ふたぎ
 Sonne l'heure,                  色かへて
 Je me souviens                 涙ぐむ
 Des jours anciens               過ぎし日の
 Et je pleure                   おもひでや。

 Et je m'en vais                 げにわれは
 Au vent mauvais                うらぶれて
 Qui m'emporte                  こゝかしこ
 Deçà, delà,                    さだめなく
 Pareil à la                     とぴ散らふ
 Feuille morte.                  落葉かな。

 Poèmes saturniens              海潮音
 Paul Marie Verlaine              上田敏

 秋は人の心をもの悲しくさせ、またしみじみとさせるのは何故なのでしょう。
岩波文庫の『海潮音』に載せられている上田敏(1874~1916)の名訳に、多感な高校生の私「嘉穂のフーケモン」の胸は締め付けられるような不思議な思いに駆られたものでした。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:08Comments(0)詩歌

2006年10月16日

北東アジア(29)-高句麗・広開土王碑(3)

 

 広開土王碑拓本


 (旧暦 8月25日)

 北東アジア(28)-高句麗・広開土王碑(2)のつづき

 広開土王碑の拓本を持ち帰った酒匂景信は、嘉永3年(1850)に宮崎県都城に生まれ、明治4年(1871)に徴兵により陸軍に入隊しています。
 その後、酒勾景信は佐伯有清先生が著された『広開土大王碑と参謀本部』(吉川弘文館、1876)に引用された「官員録」によれば、砲兵科の将校として明治10年(1877)に少尉に任官し、明治15年(1882)に中尉、明治19年(1886)に大尉に進級しています。

 明治7年(1874)12月に皇城の西北市ヶ谷台に陸軍士官学校が開校され、翌明治8年(1875)2月に士官生徒第1期生が入校しましたが、酒匂景信もそのうちのひとりでした。
 教育制度はフランス式で、修学期間は兵科によって異なり、歩兵科と騎兵科が2年、砲兵科と工兵科が3年でしたが、明治9年(1876)には4年、明治14年(1881)には5年に延長されています。
 少尉に任官した後も在校したので、生徒少尉と称されましたが、士官生徒は11期生まで続き廃止されています。

 酒匂景信は明治13年(1880)から参謀本部に出仕して2年間勤務し、明治17年(1884)から士官学校の教官になっているので、清国に派遣されていたのは、明治15年(1882)3月から明治17年(1884)6月までの期間であろうと推定されています。

 当時の参謀本部は兵要地誌の調査(諜報活動)のため、明治12年(1879)から十数人の陸軍将校を駐在武官や語学教師として清国に派遣して防諜活動を展開させていますが、現役軍人が現地人に偽装して潜入しており、酒匂景信中尉もその一人であったようです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:10Comments(0)歴史/北東アジア

2006年10月15日

天文(6)-流星

 
 
 This picture is of the Alpha-Monocerotid meteor outburst in 1995. The Perseid meteor shower, usually the richest meteor shower of the year, peaks in August. Over the course of an hour, a person watching a clear sky from a dark location might see as many as 50-100 meteors. Meteors are actually pieces of rock that have broken off a comet and continue to orbit the Sun. The Earth travels through the comet debris in its orbit. As the small pieces enter the Earth's atmosphere, friction causes them to burn up.
 By NASA Ames Research Center/S. Molau und P. Jenniskens


 (旧暦  8月24日)

 Yonnd light is not day-light, I know it, I:
 It is some meteor that the sun exhales,
 To be to thee this night a torch-bearer,
 And light thee on thy way to Mantua:
 Therefore stay yet; thou need'st not to be gone.

 Romeo and Juliet ( Ⅲ.SCENE V. Capulet's orchard.)


 あそこの明かりは夜が明けた明かりではないわ。私にはわかっているの。
 お日さまがはき出す流れ星か何かだわ。
 今夜あなたがマンチュアへ帰る道を照らす
 たいまつ持ちの役をさせようっていうんだわ。
 だからまだいて。帰る必要はないわ。


 JulietはRomeoを引き止めようとして、しきりに懇願しています。
 Shakespeareの時代には、太陽が水蒸気を吸い込み、そのために流星ができると考えられていたようです。

 さて現代では、流星(meteor / shooting star / falling star)とは、流星物質と呼ばれる太陽の周りを公転する小天体が、地球(または他の天体)の大気に衝突、突入し発光したものであるとされています。

 流星物質は、直径が0.1㎜以下のごく小さな塵状のものから数㎝以上ある小石のようなものまで様々な大きさがあり、このような小天体が地球(または他の天体)の大気に秒速数㎞から数十㎞というスピードで突入すると、上層大気の分子と衝突してプラズマ化したガスが発光し、これが流星として観測されるそうです。

 従って、小天体が大気との摩擦熱で加熱された状態が流星として見えているわけではないとのこと。
 また、流星は地上から150㎞~100㎞程度の高さで光り始め、70㎞~50㎞の高さで消滅して、地上に到達するのは極めて希なようです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 13:09Comments(0)天文

2006年10月13日

漢詩(15)-章炳麟(1)-獄中、鄒に贈る

  
 
 鄒容(1885~1905) from Wikipedia

 (旧暦  8月22日)

 嵐雪忌 芭蕉の高弟にして、芭蕉没後、宝井其角と江戸俳壇を二分した俳人服部嵐雪の宝永4年(1707)の忌日。

 名月や 煙はひ行く水の上

 獄中 鄒に贈る

 鄒容は  吾が小弟
 被髮(髪を振り乱す)して  瀛洲(えいしう、日本)に下る
 快(するど)き剪刀(せんたう、はさみ)もて  辮(べん、辮髪)を除き
 牛肉を乾して  餱(こう、乾肉)と作す
 英雄  一たび獄に入るや
 天地  亦た悲秋
 命に臨みて  摻手(さんしゅ、手を握る)を須(もと)む
 乾坤  只だ兩頭あるのみ


 清朝末期、浙江省余杭県の地主の家の四男坊として生まれた章炳麟(1869~1936)は、中日甲午戦争(日清戦争)の敗北による下関条約(日清講和条約)締結に反対する人々が中心となって清朝の富国強兵を研究・推進することを目的として設立された団体である強學会に入会し活動しますが、光緒24年(1898、戊戌の年)に起きた戊戌の政変により西太后(1835~1908)ら反変法派(保守派)から厳しく追及されて日本へ亡命します。

 その後上海に戻った章炳麟は、元清朝の役人で日清戦争における敗北や戊戌変法の失敗をきっかけに官職を捨てて革命家へと転向した蔡元培(1868~1940)が創設した愛國學社に加盟し、教師となりました。

 ここで彼は、激烈な「排満復仇」を強く表明したセンセーショナルな書『革命軍』を著した鄒容(すうよう、1885~1905)と出会います。この時鄒容は19歳であり、すぐさま章炳麟と意気投合し、やがて義兄弟の契りを結びました。

 光緒29年(1903)6月、章炳麟は『康有為を駁して革命を論ずる書』を雑誌『蘇報』に連載します。
 これは、清朝の変法派(改革派)である康有為(1858~1927)が、保皇会を立ち上げて中国に立憲君主制を樹立すべく活動を行っていることへの反駁の書です。

 上記の二著書は公然と清朝打倒を叫び、清朝の支配を脅かす強烈なインパクトを与えたため、捕縛されて下獄し、監禁されます。これが『蘇報』事件と呼ばれているものです。そしてこの時、章炳麟が詠んだ詩が、上記の「獄中 鄒に贈る」です。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:38Comments(0)漢詩