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2006年10月16日

北東アジア(29)-高句麗・広開土王碑(3)

 

 広開土王碑拓本


 (旧暦 8月25日)

 北東アジア(28)-高句麗・広開土王碑(2)のつづき

 広開土王碑の拓本を持ち帰った酒匂景信は、嘉永3年(1850)に宮崎県都城に生まれ、明治4年(1871)に徴兵により陸軍に入隊しています。
 その後、酒勾景信は佐伯有清先生が著された『広開土大王碑と参謀本部』(吉川弘文館、1876)に引用された「官員録」によれば、砲兵科の将校として明治10年(1877)に少尉に任官し、明治15年(1882)に中尉、明治19年(1886)に大尉に進級しています。

 明治7年(1874)12月に皇城の西北市ヶ谷台に陸軍士官学校が開校され、翌明治8年(1875)2月に士官生徒第1期生が入校しましたが、酒匂景信もそのうちのひとりでした。
 教育制度はフランス式で、修学期間は兵科によって異なり、歩兵科と騎兵科が2年、砲兵科と工兵科が3年でしたが、明治9年(1876)には4年、明治14年(1881)には5年に延長されています。
 少尉に任官した後も在校したので、生徒少尉と称されましたが、士官生徒は11期生まで続き廃止されています。

 酒匂景信は明治13年(1880)から参謀本部に出仕して2年間勤務し、明治17年(1884)から士官学校の教官になっているので、清国に派遣されていたのは、明治15年(1882)3月から明治17年(1884)6月までの期間であろうと推定されています。

 当時の参謀本部は兵要地誌の調査(諜報活動)のため、明治12年(1879)から十数人の陸軍将校を駐在武官や語学教師として清国に派遣して防諜活動を展開させていますが、現役軍人が現地人に偽装して潜入しており、酒匂景信中尉もその一人であったようです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:10Comments(0)歴史/北東アジア