2010年05月21日
数学セミナー(24)ー相対性理論(10)ー重力方程式(6)
Johannes Kepler (1571〜1630)
(旧暦 4月 8日)
いや〜、お暑うございますなあ!
上方に出張に行っておりましたが、どこも暑いでんな。なんか、涼しい話題でもと思いましたが、暑さついでに、頭の方も熱くしてみまひょ。
サー・アイザック・ニュートン(Sir Isaac Newton、1643〜1727)が万有引力の法則を思いついたのは、太陽系の惑星の運行を司るケプラーの法則とリンゴの木からリンゴが落ちるという現象とが同じ力に由来する事を発見したからだそうでんな。
一方アインシュタインはんは、時空に質量やエネルギー、運動量が存在すると時空がゆがみ、その時空のゆがみが重力場であると考えよったそうです。ま〜、なんと賢いお人でっしゃろか。
ニュートン力学では、重力ポテンシャル(万有引力) はポアッソン(Poisson)方程式の解から導かれ、
ここで、Gは万有引力定数であり、ρは重力をつくり出す物体の質量密度を表します。
さらには前回、やっと導くことができたアインシュタインの重力方程式は、下記のよう表されました。
さて、(6.2)式は、次のように変形できます。
そこで(6.2)式の左辺の第2項を右辺に移項すると、
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2010年05月05日
天文(13)−妖霊星(ようれぼし)
Mars in 2001 as seen by the Hubble Space Telescope
(旧暦 3月22日)
第96代後醍醐天皇(1288〜1339)が倒幕運動を開始した「正中の変」(1331)から、足利義満(1358 〜1408)の第3代将軍職就任の(北朝)貞冶6年/(南朝)正平22年(1367)までの36年間の戦乱を描いた日本の代表的な軍記物語に『太平記』があります。
『平家物語』が仏教の無常観を中心に戦いの中にも風雅に富んだ世界を描いているのに対し、『太平記』は因果応報の思想を基に秩序と理念なき戦いの顛末を殺伐とした筆致で、時には残酷なまでに描いていると云われています。
その太平記巻五の四、『相摸入道田楽を弄(もてあそぶ)並びに闘犬の事』の記述中に、「妖霊星(ようれいぼし)」という妖星が現れて鎌倉幕府の支配者である北条氏の滅亡を予兆するかのように描かれている箇所があります。
時の権力者は北条高時(在職:1316〜1326)で、14歳で第14代執権職となりましたが、正中3年(1326)には病のために24歳で執権職を辞して出家し、崇鑑と号しています。
『太平記』や『増鏡』、『保暦間記』、『鎌倉九代記』などの後世に成立した記録では、闘犬や田楽に興じた暴君、暗君として書かれていますが、実際は病弱な人物であったようです。
相摸入道田楽を弄(もてあそぶ)並びに闘犬の事
又其比(そのころ)洛中に田楽を弄(もてあそぶ)事昌(さかん)にして、貴賎挙(こぞつ)て是に着(ぢやく)せり。相摸入道此事を聞及び、新座・本座の田楽を呼下して、日夜朝暮に弄(もてあそぶ)事無他事。入興(じゆきよう)の余に、宗(むね)との大名達に田楽法師を一人づゝ預て装束を飾らせける間、是は誰がし殿の田楽、彼(かれは)何がし殿の田楽なんど云て、金銀珠玉を逞(たくましく)し綾羅錦繍(りようらきんしう)を妝(かざ)れり。宴に臨で一曲を奏すれば、相摸入道を始(はじめ)として一族の大名我劣らじと直垂(ひたたれ)・大口(おほくち)を解(ぬい)で抛出(なげいだ)す。是を集(あつめ)て積(つむ)に山の如し。其弊(そのつひ)へ幾千万と云数を不知。
或夜一献の有けるに、相摸入道数盃(すはい)を傾け、酔に和して立て舞事良(やや)久し。若輩の興を勧る舞にてもなし。又狂者の言(ことば)を巧にする戯(たはむれ)にも非ず。四十有余の古入道、酔狂の余に舞ふ舞なれば、風情可有共(とも)覚ざりける処に、何(いづ)くより来(きたる)とも知ぬ、新坐・本座の田楽共十余人、忽然として坐席に列(つらなつ)てぞ舞歌(まひうた)ひける。其興(きよう)甚(はなはだ)尋常(よのつね)に越(こえ)たり。暫有(しばらくあつ)て拍子を替て歌ふ声を聞けば、「天王寺のやようれぼしを見ばや。」とぞ拍子(はやし)ける。
或官女此声を聞て、余(あまり)の面白さに障子の隙(ひま)より是を見るに、新坐・本座の田楽共と見へつる者一人も人にては無(なか)りけり。或(あるひは)觜(くちばし)勾(かがまつ)て鵄(とび)の如くなるもあり、或(あるひ)は身に翅(つばさ)在(あつ)て其形山伏の如くなるもあり。異類異形の媚者(ばけもの)共が姿を人に変じたるにてぞ有ける。
官女是を見て余りに不思議に覚ければ、人を走らかして城入道にぞ告たりける。入道取物も取敢ず、太刀を執て其酒宴の席に臨む。中門を荒らかに歩ける跫(あしおと)を聞て、化物は掻消様(かきけすやう)に失せ、相摸入道は前後も不知酔伏(ゑひふし)たり。燈(とぼしび)を挑(かかげ)させて遊宴の座席を見るに、誠に天狗の集りけるよと覚て、踏汚(ふみけが)したる畳の上に禽獣の足迹多し。城入道、暫く虚空を睨で立たれ共、敢て眼(まなこ)に遮(さへぎ)る者もなし。良(やや)久して、相摸入道驚覚(おどろきさめ)て起たれ共、惘然(ばうぜん)として更に所知なし。
後日に南家の儒者刑部少輔(ぎやうぶのせう)仲範(なかのり)、此事を伝聞(つたへきい)て、「天下将(まさに)乱(れんとする)時、妖霊星(えうれいぼし)と云悪星(あくしやう)下て災(わざはひ)を成すといへり。而も天王寺は是仏法最初の霊地にて、聖徳太子自(みづから)日本一州の未来記を留(とどめ)給へり。されば彼媚者(かのばけもの)が天王寺の妖霊星と歌ひけるこそ怪しけれ。如何様(いかさま)天王寺辺より天下の動乱出来(いでき)て、国家敗亡しぬと覚ゆ。哀(あはれ)国主徳を治め、武家仁を施して消妖謀(はかりごと)を被致よかし。」と云けるが、果して思知(おもひしら)るゝ世に成にけり。
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