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2005年09月29日

演劇(1)−オペラ座の怪人

 

 (旧暦  8月26日) 宣長忌 国学者本居宣長の享和元年(1801)の忌日

 三男坊の高校の文化祭では、毎年1年生の各クラスが演劇を上演することになっており、 三男坊の所属する1年B組では、「オペラ座の怪人」を上演しました。
 日頃、硬式野球部で遅くまで練習しているので、「文化祭で劇をやる」と聞いたとき、「役は何だ?」と尋ねました。「舞台監督!」と答えたので、それは大役だと思っていましたが、家内に誘われて見に行ってみると、劇中のオペラ座の舞台監督の役で、台詞はたった一言だけでした。

 私「嘉穂のフーケモン」が高校生の頃は、文化祭や運動会に親が来ることなどは無かったのですが、時代の流れでしょうか、家内に誘われて、断り切れずに見に行ってしまいました。
 劇は1時間を超す内容で、主役のクリスティーヌ役の女子生徒は、長い歌を良く覚えたものだと感心してしまいました。

 さて、この「オペラ座の怪人」、原作はフランスの小説家であり法律家でもあったガストン・ルルー(Gaston Leroux、1868〜1927)が1910年に発表した小説『Le Fantome de l'Opera』で、その後、1925年にサイレント映画になり、現在まで合計7回映画化されています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 14:41Comments(0)演劇

2005年09月28日

書(11)−孫過庭−書譜

 

 書譜 孫過庭 [唐] 紙本墨書 一巻 台北故宮博物院 維基百科より  

 (旧暦  8月25日)
 
 古来、名書家と呼ばれる人にはそれぞれ「書論」を書き残した人が多く、中国東晋(317〜420)の書聖王羲之(307?〜365?)も以下のように書き残しています。

 「夫れ書は玄妙の技なり。若し通人志士に非ざれば学ぶも之に及ぶなし。書は須(すべか)らく思いを存すべし」
 
 書とは玄妙の技であり、その人の高潔な志を現し、字の形ではなく、その人の心を映すと

 また、「書を学ぶには、胸中に道義あるを要すべし。またこれを広むるに、聖哲の学をもってす」という言葉を残しています。
 書は単なる技術ではなく、人格を磨くことが必要であると言うことだと思います。

 さらに、「凡(およ)そ書は沈静を貴ぶ。意は筆前に在らしめ、字は心後に居らしめよ。未だ作らざるの初め、結思は成るなり」
 
 上手に書こうなどとは思わぬことだ。書の表現は、字の形を取る前に、既に定まっているのだから。

 数多残されている書論の中で、自筆の書が残されており、書を学ぶ人のお手本とされている書論の中に、唐代の書家孫過庭の「書譜」(台北故宮博物院蔵)があります。  
http://www.linkclub.or.jp/~qingxia/cpoem/shupu.html)  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:56Comments(0)

2005年09月26日

クラシック(15)−ショパン(2)−夜想曲全集

 

  Fryderyk Franciszek Chopin( 1810〜1849)

 (旧暦  8月23日)
 
 秀野忌  俳人石橋秀野の昭和22年(1947)の忌日
 八雲忌  紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の明治37年(1904)の忌日

 フレデリック・フランソワ・ショパン (Frédéric François Chopin, ポーランド名フリデリク・フランツィシェク・ショペン Fryderyk Franciszek Chopin, 1810〜1849)の夜想曲の創作は、17歳の1827年から38歳の1848年までの21年間に渡っています。

 夜想曲(Nocturne)は、アイルランドの作曲家、ピアノ奏者ジョン・フィールド(John Field 、1782〜1837)が創始した曲名で性格的小品(character piece)の一つとされています。この性格的小品(character piece)とは、19世紀のヨーロッパ音楽の主流となったロマン派およびその前後の時代に、自由な発想によって作られたピアノのための短い楽曲を指し、数曲まとめられて曲集とされています。

 ロマン主義の底流に流れているものは、自由主義、内面性の重視、感情の尊重、想像性の開放といった特性であり、好まれる主題としては、異国的なもの、未知のもの、隠れたもの、はるかなるもの(特に、自分たちの文化の精神的な故郷、古代文化)、神秘的なもの(言葉で語れないもの)、夢と現実の混交、更には、憂鬱、不安、動揺、苦悩、自然愛などを挙げることができます。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:14Comments(0)音楽/クラッシック

2005年09月25日

染井霊園(9)−高田早苗先生の墓

 

 (旧暦  8月22日)

 もう30年以上も昔のフォークバンド全盛時代、「古井戸」が歌う「さなえちゃん」という曲が大好きでした。

 大学ノートの裏表紙に さなえちゃんを書いたの
 一日中かかって一生懸命書いたの
 でも鉛筆で書いたから いつの間にか消えたの
 大学ノートの裏表紙の さなえちゃんが消えたの
 もう会えないの もう会えないの
 二度と会えないの

  あの「さなえちゃん」はどこに行ったのでしょうね。

 さてこちらの早苗さんは、高田早苗(1860〜1938)先生といって、明治15年(1882)に小野梓(1852〜1886)らの協力を得て東京専門学校(後の早稲田大学)を創設した大隈重信(1838〜1922)の理想に共感し、東京専門学校【明治35年(1902)に早稲田大学に改称】の発展と充実に尽力した人です。

 当時、明治新政府の筆頭参議であった大隈さんは、西南戦争後の赤字財政の再建政策と早期憲法制定、国会開設といった自由民権運動を巡る政府部内の対立から、折から起きた「開拓使官有物払下げ事件」を契機として参議伊藤博文(1841〜1909)、右大臣岩倉具視(1825〜1883)、参議井上馨(1835〜1915)等によって罷免されました。(明治14年の政変)

 野に下った大隈さんは立憲政治の実現をめざして小野梓らと立憲改進党を結成し、併せて人材育成のために東京専門学校(後の早稲田大学)を創設したのですが、時の政府はこの学校を「明治14年の政変」で下野した大隈さんの私学校とみました。立憲改進党壮士養成の謀反人の学校に違いないと考えたのです。
 西郷先生が作った鹿児島私学校が西南戦争の導火線になった経緯もあり、新政府の警戒も無理からぬ所もあったとは思われますが・・・・・。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:18Comments(0)染井霊園

2005年09月24日

北東アジア(20)−九一八事変(2)

 

 満州事変要図

 (旧暦  8月21日) 
 
 言水忌 俳人池西言水の享保7年(1722)の忌日
 南洲忌 南州西郷隆盛先生が明治10年(1877)鹿児島の城山で自決された忌日

 北東アジア(19)−九一八事変(1)のつづき

 満蒙という呼び方は日本のみの俗称で、その地域は満洲いわゆる中国の東三省である奉天省【民国17年(1928)遼寧省に改称】、吉林省、黒竜江省と満内蒙古と呼ばれる熱河省を含めた広大な地域でした。

 昭和6年(1931)1月の第59帝国議会の衆議院本会議において、野党政友会の新人代議士松岡洋右の代表質問によって発せられた「生命線」という造語は、同年9月18日に関東軍の謀略により惹起された柳条湖事件(関東軍の満鉄線爆破とともに発動された軍事行動)とその後の全満洲へと拡大された軍事行動によって、当時の国民の注目が満洲に集まったこと、および大阪毎日新聞および東京日日新聞が同年10月27日付けで行った4ページ全面特集の「守れ満蒙−帝国の生命線」という一大キャンペーンによって広く国民に喧伝されました。

 また、柳条湖事件の真相は国民には秘匿され、中国軍(東北軍第20師第7旅)の満鉄線爆破と日本軍(独立守備歩兵第2大隊第3中隊)への攻撃によって引き起こされたという虚構が宣伝されたため、国民の大半は正義の自衛戦争と熱狂しました。

 特に当時の新聞は、関東軍の虚偽の発表を国民に真実であると思いこませる役割を果たしました。そして事変の拡大を正当化して軍の奮戦勝利を称賛し、中国への侮蔑と憎悪を助長させ、国際連盟を非難する記事を掲載しました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 11:34Comments(0)歴史/北東アジア

2005年09月23日

歳時記(8)−秋(2)−中秋の月

 

 中秋の名月

 (旧暦   8月20日)

 「中秋」とは陰暦の8月15日のことで、「仲秋」とは陰暦の8月葉月のことを指す言葉だそうですから、陰暦8月15日の名月は「中秋の名月」と記述することが正しいようですね。

 さてお月見という風習は古くから有り、中国では「観月」あるいは「玩月」などと云われてきたようですが、この風習が陰暦8月15日の「中秋」の満月に固定されたのは、唐代以降のことだそうです。

 日本ではお月見といえば「十五夜お月さん」の8月15日だけでなく、9月13日にも月見をする風習があり、こちらは「十三夜」、「後の月」と呼ばれています。

 童謡作詞家として有名な野口雨情(1882〜1945)には、大正9年(1920)9月に児童文学誌『金の船』に発表された「十五夜お月さん」という詩があり、昭和35年に藤島恒夫の歌でヒットした「月の法善寺横町」の歌詞にも、「月も未練な十三夜」とありますから、昔の日本人には「十五夜」や「十三夜」というのは、季節感を表す生活の一部だったのでしょう。また、古いところでは、昭和16年(1941)に発売された石松秋二作詞の『十三夜』という唄もありますね。

 河岸の柳の 行きずりに ふと見合わせる 顔と顔
 立ち止まり  懐かしいやら 嬉しやら
 青い月夜の 十三夜


 作詞者の石松秋二氏は、『満州娘』や『九段の母』などを作詞していますが、終戦時に満洲に侵攻してきたソ連軍により殺害されたそうです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:47Comments(0)歳時記

2005年09月21日

北東アジア(19)−九一八事変(1)

 

 事件直後の柳条湖爆破現場

 (旧暦  8月18日)
 
 宮澤賢治忌  童話作家、詩人宮澤賢治の昭和8年(1933)の忌日
 廣津和郎忌  小説家、社会評論家廣津和郎の昭和43年(1968)の忌日
 宇野浩二忌  小説家宇野浩二の昭和36年(1961)の忌日

 中国における抗日戦争の発端となった「九一八事変」(満洲事変)から74年がたちましたが、事変勃発15年後の昭和21年(1946)5月3日から東京市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂で審理が開始された極東国際軍事裁判(The International Military Tribunal for the Far East)により、当時の関東軍高級参謀板垣征四郎大佐(1885〜1948)や関東軍作戦主任参謀石原完爾中佐(1889〜1949)等を中心とする関東軍首脳部の謀略により、武力発動が計画されたことが明らかになりました。

 

 関東軍高級参謀板垣征四郎大佐(1885〜1948)

 

 関東軍作戦主任参謀石原完爾中佐(1889〜1949)

 しかし、この極東国際軍事裁判(東京裁判)にしても事件の正確な全容は解明できず、石原中佐等の謀略と事件の実際の経過が明らかになったのは、当時奉天特務機関員であった花谷正少佐が昭和31年(1956)に「満洲事変はこうして計画された」(http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/thisei_0.htm)という回想を雑誌(「別冊 知性」 昭和30年12月号 河出書房)に発表してからのことであったと云うことです。

 

 日露戦争の勝利によりロシアから譲渡された関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権及びロシアが自ら施設した東清鉄道の内、旅順−長春間の南満州支線(772?、1903年1月に完成)と付属地の炭鉱の租借権こそが、その後の日本の運命を大きく左右することになろうとは、日本全権小村寿太郎も伊藤博文をはじめとする当時の指導者達も想像すら及ばなかったことでしょう。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:06Comments(0)歴史/北東アジア

2005年09月17日

国立故宮博物院(5)−大禹治水図玉山(2)

 

 大禹治水圖玉山

 (旧暦  8月14日)  牧水忌 歌人・牧水若山繁の昭和3年(1928)の忌日

 大禹治水図玉山(1)のつづき

 清朝の記録によれば、この巨大な玉の原石は、乾隆帝の勅命により新疆の密勒塔(ミーローター)山から掘り出されました。そして新疆から北京までの約1万kmの距離を新たに道を開き、河には橋を架け、冬の間に道を凍らせて、車幅12mもの特大の運搬車で数百頭の馬と1000人近い人夫が3年かけて運んだと記録されています。

 乾隆帝は王宮に伝わる宋代以前の作とされる『大禹治水図』が色褪せて劣化したことを惜しみ、中国古代の伝説的な帝王「禹」(う、2070BC頃)の治水事業の功績を後世に伝えるために、この巨大な玉に絵画の構図をそのまま刻むことを思いついたと云われています。

 中国夏王朝の始祖とされる伝説上の人物「禹」は、司馬遷の『史記 夏本紀第二』の記述によれば、これも中国古代の伝説的な帝王「舜」の治世に起こった大洪水の治水に失敗した父親鯀(こん)のあとを受けて、非常な困難を克服してついに洪水を治め、天下を九州に分割して開拓し、以て版図を定めました。「禹」はその功により舜から帝位を譲られて夏王朝を開きました。

 この「禹」治水の記録は、『書経 禹貢編』他、『史記 夏本紀第二』、『漢書 地理志』等に残されていますが、いずれにせよ、古代の大土木技術者にして、大指導者であったことは確かです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:26Comments(0)国立故宮博物院

2005年09月16日

国立故宮博物院(4)−大禹治水図玉山(1)

 

 大禹治水圖玉山 北京故宮博物院

 (旧暦  8月13日)

 古代中国においては、玉は特別な意味を持っていました。ここでいう玉とは、軟玉(ネフライト:nephrite)のことで、角閃石の一種で化学組成はCa2(Mg, Fe)5Si8O22(OH)2 、色は白色ないしは葉緑色〜暗緑色です。
 
 「玉石混淆」という言葉がありますが、後漢の許慎(58?〜147?)が撰し、第4代皇帝和帝(在位88〜105)の英元12年(100)に完成した中国最古の字典『説文解字』によれば、玉とは「石の美しきものなり」とあります。

 前漢の袁康が撰した越(浙江地方)の『越絶書・外伝宝剣第十三』には、玉がどの時代に何の目的で用いられるようになったかが記述してあります。
  「・・・黄帝の時、玉を以て兵と為し、樹木を伐りて官屋と為し、地を鑿(うが)つ。」
 黄帝とは、『史記・五帝本紀』に記述された伝説の帝王で、イメージ的には新石器時代の天子という強引な解釈もあるようです。

 玉は石とは違って、内面からにじみ出る「徳」という美を持っていなければならないとされていました。
 周代(1046BC頃〜771BC)から漢代(206BC〜220)にかけて儒学者がまとめた礼に関する書物に『禮記』(らいき)があり、その聘義(へいぎ)第四十八に、玉に関する孔子とその弟子子貢との問答が記載されています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:01Comments(0)国立故宮博物院

2005年09月14日

歳時記(7)−秋(1)−野分

 

 颱風

 (旧暦  8月 11日) 

 日本では台風14号が豪雨災害をもたらし、北米ではハリケーン(Hurricane)「Katrina」がニューオリンズ市を壊滅状態に追い込みましたが、洋の東西を問わずこの季節に吹く大風にはまったく困ったもんでゴンス!
 NHKのアニメワールド「おじゃる丸」に登場する子鬼のトリオのアオベエのくちぐせみたいでゴンス!
 この子鬼トリオは、エンマ大王の笏(シャク)をとりかえすため、おじゃる丸を追って月光町にやってきたのでゴンス!

 豊かに稔れる石狩の野に
 雁(かりがね)はるばる沈みてゆけば
 羊群(ようぐん)声なく牧舎に帰り
 手稲の巓(いただき)黄昏(たそがれ)こめぬ
 雄々しく聳(そび)ゆる楡(エルム)の梢(こずえ)
 打振る野分に破壊(はえ)の葉音の
 さやめく甍(いらか)に久遠(くおん)の光
 おごそかに 北極星を仰ぐかな
 (明治四十五年寮歌 都ぞ弥生)

 我らが魂のふるさと、恵迪寮の明治45年度寮歌『都ぞ弥生』の二番に、「打振る野分」とあるように、古来日本では立春から二百十日ないし二百二十日前後に吹く暴風のことを、「野分」と呼んでいました。野の草を分けて吹くという意味から「野分」と名付けられたと云われています。

 ところで、紫式部(973?〜1016?)さんが書きはった『源氏物語』の28帖にも「野分」と題するお話があり、夏目漱石(1867〜1916)どんも「野分」という小説を書きました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:58Comments(0)歳時記

2005年09月11日

やまとうた(13)−心なき身にもあはれは知られけり

 

 大原 往生極楽院

 (旧暦  8月 8日)

 秋ものへまかりける道にて
 心なき身にもあはれは知られけり 鴫たつ澤の秋の夕ぐれ (山家集)


 「選挙だ」、「大雨だ」、「台風だ」と忙しくしているうちに秋も深まり、もう旧暦では中秋の季節を迎えました。
 明日からはまた平穏な暮らしが始まるのでしょうが、秋の行事も多々控えており、なにかと慌ただしい日々が続きます。しかし、開票速報が始まる前の虫の音が聞こえる静かなひととき、しみじみと秋を楽しむことにしましょう。

 西行のこの歌は、名もなき場所の詠歌とされています。また、『新古今集』巻四(秋上)の362番に「題しらず」として載せられています。しかし、13世紀の半ば、鎌倉時代中期に成立したとされる『西行物語』では、「相模国大庭といふ所、砥上原を過ぐるに、・・・」とあり、ここは現在の神奈川県藤沢市鵠沼(くげぬま)付近の片瀬川西岸の原野と推定されています。

 この砥上原は、『方丈記』作者で鴨社の氏人菊大夫長明入道(鴨長明)の歌にも詠まれています。

 浦近き砥上原に駒とめて 片瀬の川の潮干(しほひ)をぞ待つ  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:27Comments(0)やまとうた

2005年09月10日

パイポの煙(22)−約束暗号(2)

 

 旧称「新高山」 台湾玉山東峰(左 3,869m)と玉山主峰(右 3,952m)
 
 (旧暦  8月 7日)

 去來忌 俳人向井去來の宝永元年(1704)の忌日

 パイポの煙(21)−約束暗号(1)のつづき

 「ニイタカヤマノボレ一二○八」というGF(General Fleet:聯合艦隊)機密第六七六番電、GF電令作第一○号は、「X日ヲ十二月八日午前零時トス」というあらかじめ打ち合わせておいた約束暗号でしたが、何故この日がX日でなければならなかったのかという疑問は当然あります。

 昭和16年(1941)12月2日午前10時から開催された大本営政府連絡会議において開戦を8日(日本時間)と決議し、午後2時から杉山参謀総長(陸軍)、永野軍令部総長(海軍)が参内して、連絡会議で決議した12月8日午前零時以降の武力発動を天皇に報告し、允裁を仰いで裁可を得ました。

 

 杉山元参謀総長

 

 永野修身軍令部総長

 このとき永野海軍軍令部総長は、「X日十二月八日決議の理由」について天皇に上奏しています。その記録によれば、

 天皇 海軍ノ日次ハ何日カ。
 永野 八日ト予定シテ居リマス。
 天皇 八日ハ月曜日デハナイカ。
 永野 休ミノ翌日ノ疲レタ日ガ良イト思ヒマス。


 12月8日は、日本時間や陸軍の緒戦地であるマレーや香港では月曜日ですが、ハワイでは日曜日でした。
 天皇の下問にたいし、咄嗟に時差の換算を失念した奉答になりましたが、このことが巷説、「月曜の朝でございますと、日曜日にアメリカ陸海軍の将兵は、遊びつかれぐったりしておりますので」と奉答したとされて、海軍部内で「ぐったり大将」という仇名がついたという何とも笑うに笑えない伝聞もあるようです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 08:11Comments(0)パイポの煙

2005年09月08日

パイポの煙(21)−約束暗号(1)

 

 海軍通信科予備仕官 阿川弘之少尉

 (旧暦  8月 5日)

 千代尼忌、素園忌 加賀の俳人・千代(千代尼、素園)の安永4年(1775)の忌日
 
 昭和17年(1942)、東京帝国大学(文学部国文科)を繰上げ卒業し、第二期兵科予備学生として海軍に志願して採用され、通信科予備士官として海軍に勤務した作家の阿川弘之氏は、その著「軍艦長門の生涯」の中で、真珠湾攻撃時の暗号電報として有名なGF(General Fleet:聯合艦隊)機密第六七六番電、GF電令作第一○号、いわゆる「ニイタカヤマノボレ一二○八」の発信経緯について詳しく記述しています。

 それによるとこの暗号は、「X日ヲ十二月八日午前零時ト定ム」というあらかじめ打ち合わせておいた約束暗号だったとのこと。
 もちろんこの暗号文は、乱数表により乱数の足し算をして作成された第二次暗号文で発信されたそうですが、陸軍においても開戦日を知らせる約束暗号がありました。

 開戦劈頭マレー作戦を展開し、シンガポール攻略を命令されていた第25軍司令官山下奉文中将(1885〜1946)は、昭和16年(1941)12月2日午後7時30分、上陸部隊の集結地である中国広東省海南島三亜港の輸送船龍城丸の船内で、南方総軍司令官寺内寿一大将からの電令を受け取りました。
 「ヒノデハヤマガタ」
 「ヒノデ」は開戦日、「ヤマガタ」は八日を意味していました。

 陸軍は、開戦日についてはあらかじめ、12月1日から10日までそれぞれ、ヒロシマ、フクオカ、ミヤザキ、ヨコハマ、コクラ、ムロラン、ナゴヤ、ヤマガタ、クルメ、トフケフの順に都市名による約束暗号を決めていたそうです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:38Comments(0)パイポの煙

2005年09月06日

物語(3)−西行物語(1)

 

 西行法師 フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

 (旧暦  8月 3日)

 実子為相(ためすけ)と異母兄為氏(ためうじ)との間の遺産相続問題により惹起した播磨国細川庄の所領紛争の訴訟のため、弘安2年(1279)鎌倉に下向した藤原為家の側室阿仏尼(?〜1283)は、京から鎌倉までの道中紀行および鎌倉滞在中の出来事を日記にして残しました。

 当初は、この日記に名前が付いていなかったため、『阿仏日記』などと呼ばれていたようですが、日記が10月16日に始まっていることにより、後世の人が『十六夜日記』と名付けました。

 この『十六夜日記』の10月23日の天龍川の渡し場の箇所に以下の記述があります。

 廿三日、天りうのわたりといふ。舟にのるに、西行がむかしもおもひいでられていと心ぼそし。くみあはせたる舟たゞひとつにて、おほくの人のゆきゝに、さしかへるひまもなし。
 水のあわの うき世にわたる ほどを見よ はや瀬の小舟 竿もやすめず
こよひは、とをつあふみ見つけのこふといふ所にとゞまる。里あれて物おそろし。傍に水の井あり。
 たれか來て みつけの里と 聞くからに いとゞたびねの 空おそろしき


 「西行法師の昔の出来事が思い出されて、非常に心細い」と阿仏尼に言わしめた西行の昔の出来事とは、これより135年前の天養元年(1144)、約百数十年も前の歌人能因法師(988〜?)の道筋をたどって歌枕探訪の修行をするため、みちのくへの第1回目の旅に出た西行(1118〜1190)が、遠江国天中川(天龍川)の渡し船で、船頭からさんざんに鞭打たれる場面が、『西行物語』に語られているからです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:08Comments(0)物語

2005年09月04日

詩歌(4)−高楼(たかどの)

 

 旧東京陸軍造兵敞本部

 (旧暦  8月 1日)

 わかれゆくひとををしむと こよひより とほきゆめちに われやまとはん
 妹
 とほきわかれに たへかねて このたかどのに のぼるかな
 かなしむなかれ わがあねよ たびのころもを  とゝのへよ
 姉
 わかれといへば むかしより このひとのよの つねなるを
 ながるゝみづを  ながむれば ゆめはづかしき なみだかな
 ・・・・・・・・・・・・・・・ 
 妹
 きみがさやけき めのいろも きみくれなゐの くちびるも
 きみがみどりの くろかみも またいつかみん このわかれ
 姉
 なれがやさしき なぐさめも なれがたのしき うたごゑも
 なれがこゝろの ことのねも またいつきかん このわかれ

 明治二十九年の秋より三十年の春へかけてこゝろみし根無草の色も香もなきをとりあつめて若菜集とはいふなり、このふみの世にいづべき日は青葉のかげ深きころになりぬとも、そは自然のうへにこそあれ、吾歌ほまだ萌出しまゝの若菜なるをや。
 『若菜集−序二』

 
 キリスト教の洗礼を受け、明治24年(1891)明治学院を卒業した藤村・島崎春樹(1872〜1943)は、明治25年(1892)明治女学校高等科の英語科教師となり、翌明治26年(1893)北村透谷らによる「文学界」の創刊に参加しました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:15Comments(3)詩歌

2005年09月03日

パイポの煙(20)−古本

 

 西遊妖猿伝9巻第一部大唐篇(双葉社)

 (旧暦  7月30日)

 迢空忌  国文学者、歌人折口信夫の昭和28年(1953)の忌日

 このところ天文、それも中国古代の天文記述に凝ってしまい、板橋村の住まい(加賀藩下屋敷跡)近くの図書館には資料がないので、仕方なくインターネットのアマゾン・ドット・コムで検索したところ、新品で6,300円もする本が中古で1,800円で売りに出されていたので、思わず4冊も買ってしまいました。

 本を買うと始末に困るので、なるべく買うなら文庫本、通常は図書館から借りてきて用を済ませてしまうのですが、ま、仕方がないでしょう。

 その後、我が家から電車に乗って3つめの駅の常盤台というところにある板橋中央図書館に、探していた本(新釈漢文大系)の全巻115巻中刊行された101巻がそろっていることがわかり、早速訪ねてみました。

 なんとこの図書館は古くさいのですが資料は充実しており、私「嘉穂のフーケモン」の専門の原子力関係の書籍や数学関係、物理学関係の書籍が農学校の図書館とまではいきませんがかなり充実しており、思わず感心してしまいました。

 思想、哲学、科学などに関する全集や叢書などもそろっており、調べ物をするには役に立つ図書館のようです。

 古本(かっこよく云えば古書)は、神田の古本屋街にいけば山のように積み重ねられていますが、それぞれ専門の店が有るらしく、なじみのない店に行くと、店主が「何しに来た」という感じでにらんでいます。

 私「嘉穂のフーケモン」は、昔(30年くらい前)は理工学関係、それも物理学や数学関係の洋書や和書が充実している書店が大好きでしたが、その店も今は廃業して、スポーツ用品販売店になっています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:52Comments(0)パイポの煙

2005年09月02日

天文(2)−ハレー彗星(1)

 

 A photograph of Halley's Comet taken during its 1910 approach. 

(旧暦  7月29日) 天心忌 美術評論家にして美術教育者であった天心・岡倉覚三の大正2年(1913)の忌日

 日本でもおなじみのハレー彗星が発見されたきっかけは、イギリスの天文学者、地球物理学者にして数学者、気象学者、物理学者のエドモンド・ハアレイ(Edmond Halley、1656〜1742)が、彗星の中に周期的に出現するものがあると判断したことによります。
 
 サー・アイザック・ニュートン(Sir Isaac Newton,1643〜1727)は、彗星が太陽の周りを放物線軌道を描いて運動していることを証明し、その著『自然哲学の数学的諸原理』(Philosophiae naturalis principia mathematica:1687年出版)のなかで万有引力の法則と、運動方程式について述べ、彗星の放物線軌道を求める方法を明示しました。
 
 ハアレイ(ハレー)は、このニュートンの方法を用いて、過去に観測された彗星の記録から24個の彗星軌道を決定しましたが、その中の1531年、1607年、1682年の彗星の軌道がよく似ていることに注目し、その後発見した木星への軌道接近による引力の影響(摂動:perturbation)を考慮して周期を計算した結果、次の接近(近日点通過)  は、1758年末ごろと予測し、1705年、その概要を記述した『彗星天文学要綱』(Synopsis Astronomia Cometicae)を発表しました。

 ハアレイの死(1742年)後、ドイツのアマチュア天文家ヨハン・ゲオルク・パリッチュ(Johann Georg Palitzsch)は、1758年12月25日、ハアレイが予測した彗星を発見し、ハアレイの予測は的確である事が証明されて、この彗星に彼の名前が付けられました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:30Comments(0)天文

2005年09月01日

古生代(5)−ペルム紀(2)−大量絶滅(2)

 

 The extent of the Siberian Traps.

 (旧暦  7月27日) 

 木歩忌 俳人富田木歩の大正12年(1923)の忌日
  
 ペルム紀(1)−大量絶滅(1)のつづき

 アメリカ・オレゴン大学の地質科学教授グレゴリー・レタラック博士を初めとする世界の研究者たちが、この数年の間に南極、中国、グリーンランド等の世界各地のPT境界層を精密に分析したところ、どのPT境界層でも絶滅が起きたとされる部分から、通常よりも大量のC12(炭素12)が見つかりました。

 このC12を極端に多く含む地球上の物質はメタンハイドレート(理論化学式:CH4・5.75 H2O)と呼ばれ、大量の有機物を含んだ土砂が低温・高圧の状態におかれ、そのなかのメタンガスが結晶化して、白いゼリー状または雪状の物質に変化したものです。

 このメタンガスは、C12を好んで体内に取り込む性質がある嫌気性(酸素を嫌う)バクテリアによって作られたものと考えられています。
 従って、PT境界層でC12の比率が大きいのは、当時地下に埋蔵されていたメタンハイドレートが溶け出し、大量のメタンガスとなって大気中に放出された証拠だと考えられるようになりました。

 そしてそのメタンガスを放出させた要因は、ロシアの中央シベリア高原に痕跡が残されている巨大噴火が引き起こした地球温暖化によるものだという考え方が有力になってきました。
 現在中央シベリア高原(面積約200万平方キロメートル:オーストラリア大陸の約4分の1)を形成している巨大な岩塊「シベリア洪水玄武岩」(the Siberian flood basalt)は、約2億5000万年前に起きた巨大噴火の痕跡と考えられています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:47Comments(0)古生代