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2011年05月08日

染井霊園(11)ー安岡正篤先生の墓


 
 安岡家の墓

 (旧暦 4月6日)

 昨今の自由民主党の凋落ぶりには目を覆うものがありますが、同党の派閥の一つである「宏池会」は、創設者の池田勇人(第58・59・60代内閣総理大臣、1899〜1965)以来、大平正芳(第68・69代内閣総理大臣、1910〜1980)、鈴木善幸(第70代内閣総理大臣、1911〜2004)、宮沢喜一(第78代内閣総理大臣、1919〜2007)と4人の総理・総裁を輩出し、自他共に保守本流の名門派閥と見なされてきました。
 
 この「宏池会」という名前は、後漢の儒学者馬融(Mǎ Róng、79〜166)の著した一文、「高光の榭(うてな)に休息し、以て宏池に臨む」『広成頌』から、陽明学者安岡正篤(まさひろ、1898〜1983)が命名したものであるとされています

 棲遟乎昭明之觀、休息乎高光之榭、以臨乎宏池。鎮以瑤臺、純以金堤、樹以蒱柳、被以綠莎、瀇瀁沆漭、錯紾槃委、天地虹洞、固無端涯、大明生東、月朔西陂。
 『後漢書/列傳/卷六十上 馬融列傳第五十上』


 安岡正篤(1898〜1981)は東洋哲学や陽明学の思想的指導者として、戦前は「金鶏学院」や「日本農士学校」を設立し、伝統的な日本主義を掲げて幅広い教育、啓蒙活動を行い、軍部や官界、財界にもその支持者を広げて行きました。戦時中には大東亜省(大日本帝国の委任統治領であった地域及び大東亜戦争に於いて占領した地域を統治するために置かれた省、昭和17年11月1日〜昭和20年8月)顧問として外交政策などにも関わっています。
 戦後は師友会を設立して、その東洋思想に基づく帝王学、指導者論などの著作や講演により「一世の師表」「天下の木鐸」と仰がれ、国家・社会の指導者層の精神的柱石、政・官・財界の指南役として重きをなし、またその出処進退の哲学などにより、「歴代総理の指南番」とも称されていました。

 安岡正篤とその教学は、昭和精神史を主導した中核的存在として位置づけられ、今後も多くの人びとの心の支えとして学び続けられるのではないかとも評されています。

  俳聖芭蕉(1644〜1694)は、古人先賢に学ぶことの大切さとその学ぶ姿勢について、南山大師(空海)の「書も亦古意に擬するを以て善と為す。古迹に似るを以て巧と為さず。」『遍照発揮性霊集』との詩文を引用して、その歌論を『許六離別の詞(柴門ノ辞)』に残していますが、安岡正篤の古人先賢に学ぶ姿勢も亦、古聖・先賢の「もとめたる所をもとめよ」という姿勢を貫いています。

 芭蕉は、最晩年の弟子である江州彦根藩士森川許六(1656〜1715)の彦根帰参にあたり、離別の詞として書き送った『許六離別の詞(柴門ノ辞)』の中で、許六の槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の6芸に通じた才能に並々ならぬ敬意を表しながらも、自己の歌論を述べ、俳諧文芸の神髄を語っています。

 

 許六離別の詞(柴門ノ辞)

 去年(こぞ)の秋、かりそめに面(おもて)をあはせ、ことし五月の初、深切に別れをおしむ。其のわかれにのぞみて、ひとひ草扉(そうひ)をたたいて、終日(ひねもす)閑談をなす。
 其の器(うつはもの)、画を好(このみ)、風雅を愛す。予、こころみにとふ事有。「画は何の為好(このむ)や」、「風雅の為好(このむ)」といへり。「風雅は何為愛すや」、「画の為愛(あいす)」といへり。其まなぶ事二にして、用をなす事一なり。まことや、「君子は多能を恥」と云れば、品ふたつにして用一なる事、可感(かんずべき)にや。画はとつて予が師とし、風雅はをしへて予が弟子となす。
 されども、師が画は精神微に入、筆端妙(たんみょう)をふるふ。其幽遠なる所、予が見る所にあらず。予が風雅は夏炉冬扇(かろとうせん)のごとし。衆にさかひて用(もちい)る所なし。ただ釈阿・西行のことばのみ、かりそめに云ちらされしあだなるたはぶれごとも、あはれなる所多し。後鳥羽上皇のかかせ給ひしものにも、「これらは歌に実(まこと)ありて、しかも悲しびをそふる」とのたまひ侍しとかや。
 されば、この御ことばを力として、其細き一筋をたどりうしなふ事なかれ。猶(なほ)「古人の跡をもとめず、古人の求めたる所をもとめよ」と、南山大師の筆の道にも見えたり。風雅も又これに同じと云て、燈(ともしび)をかかげて、柴門(さいもん)の外に送りてわかるるのみ。
 
 元禄六孟夏末     風羅坊芭蕉
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:13Comments(0)染井霊園

2005年12月25日

染井霊園(10)−ローデスカ・ワイリック先生の碑

 

 (旧暦 11月24日)
 
 蕪村忌、春星忌  江戸中期の俳人・画家與謝蕪村の天明3年(1783)の忌日
            易水に ねぶか流るる寒さかな  (ねぶか:根深 ネギの異名)

 染井霊園の南東の一角に外人墓地があり、その中にアメリカの宣教師でハンセン病施設での世話やスラム街での奉仕活動に尽力し、また、日露戦争では負傷兵への献身的な看護に従事して「東洋のナイチンゲール」と呼ばれたローデスカ・ワイリック先生の碑があります。

 そばには、紙に書いた手書きの説明板が立っています。

 ロダスカ・ワイリック(一八五六−一九一四)
 アメリカ合衆国オハイオ州に生まれ、一八九○年(明治二三)ドレイク大学を苦学して卒業。直ちに宣教師として来日、五年間にわたり伝道活動に携わり、一時帰国。翌一八九六年再び来日し、教会を開いて伝道に努める一方、学習院や府立四中(現在の都立戸山高校)等で英語を教えたり、多くの孤児や捨て子を自宅に引き取って養育した。
 また、当時偏見の強かったハンセン病施設で患者の世話をしたり、四谷鮫が瀬のスラム街での奉仕活動にも尽くした。
 日露戦争(一九○四−五)が始まると看護婦と医師の資格を持つワイリックは戸山の陸軍病院に赴き病床から病床を回って負傷兵を励まし、献身的な介護に当たった。
 いつしか、「東洋のナイチンゲール」と呼ばれるようになり、日本政府や東京府からも表彰された。
 人類愛と奉仕活動に尽くした信念の人ロダスカ・ワイリックは一九一四年(大正三)四月三○日東京赤坂の病院で死去。享年五七歳。ここ染井霊園で永遠の眠りに就く。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:36Comments(0)染井霊園

2005年09月25日

染井霊園(9)−高田早苗先生の墓

 

 (旧暦  8月22日)

 もう30年以上も昔のフォークバンド全盛時代、「古井戸」が歌う「さなえちゃん」という曲が大好きでした。

 大学ノートの裏表紙に さなえちゃんを書いたの
 一日中かかって一生懸命書いたの
 でも鉛筆で書いたから いつの間にか消えたの
 大学ノートの裏表紙の さなえちゃんが消えたの
 もう会えないの もう会えないの
 二度と会えないの

  あの「さなえちゃん」はどこに行ったのでしょうね。

 さてこちらの早苗さんは、高田早苗(1860〜1938)先生といって、明治15年(1882)に小野梓(1852〜1886)らの協力を得て東京専門学校(後の早稲田大学)を創設した大隈重信(1838〜1922)の理想に共感し、東京専門学校【明治35年(1902)に早稲田大学に改称】の発展と充実に尽力した人です。

 当時、明治新政府の筆頭参議であった大隈さんは、西南戦争後の赤字財政の再建政策と早期憲法制定、国会開設といった自由民権運動を巡る政府部内の対立から、折から起きた「開拓使官有物払下げ事件」を契機として参議伊藤博文(1841〜1909)、右大臣岩倉具視(1825〜1883)、参議井上馨(1835〜1915)等によって罷免されました。(明治14年の政変)

 野に下った大隈さんは立憲政治の実現をめざして小野梓らと立憲改進党を結成し、併せて人材育成のために東京専門学校(後の早稲田大学)を創設したのですが、時の政府はこの学校を「明治14年の政変」で下野した大隈さんの私学校とみました。立憲改進党壮士養成の謀反人の学校に違いないと考えたのです。
 西郷先生が作った鹿児島私学校が西南戦争の導火線になった経緯もあり、新政府の警戒も無理からぬ所もあったとは思われますが・・・・・。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:18Comments(0)染井霊園

2005年07月12日

染井霊園(8)−福岡孝弟(たかちか)の墓

 

 (旧暦  6月 7日)

 今日のニュースで、福井県が慶應4年(1868)3月14日(明治への改元は9月8日)に発せられた「五箇条ノ御誓文」の草稿と清書された原稿をオークションで落札したと伝えていました。

 落札価格は2,388万8,000円とかで、これを「高い」と考えるのか、「郷土の先人が係わった貴重な資料を地元に留めておくことの方が大切だ」と考えるのかは福井県人の判断するところですが、部外者の私「嘉穂のフーケモン」にとっては、「知事さんよく決断しましたね!」と云ったところです。

 なおこのオークションは、明治古典会が7月10日(日)に東京古書会館(東京都千代田区神田小川町3-22)で行った「平成17年 明治古典会七夕古書大入札会」でのことだったようです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:45Comments(0)染井霊園

2005年06月05日

染井霊園(7)−松浦詮(あきら)の墓

 

 (旧暦  4月29日)

 染井霊園の一角に、周囲を塀で囲まれ木々が鬱蒼と茂っているところがあります。
 ここは、肥前平戸6万1千石松浦(まつら)家の墓所です。めずらしい苔むした石の土饅頭型の墓石は、松浦家第37代当主松浦詮(あきら)(1840〜1908)の墓石です。

 松浦家は江戸大名の中でも屈指の古い家柄で、始祖は桓武天皇の皇子で、能書家として弘法大師、橘逸勢とともに「三筆」の1人として数えられ、また勅撰漢詩集『凌雲集』、『文華秀麗集』を編纂せしめたことでも知られる第52代嵯峨天皇(786〜842、在位809〜823)の第18皇子融(とほる)とされています。
 
 融(とほる)(822〜895)は、源氏姓と家紋の三星を賜い臣籍に降下して、後に河原左大臣と呼ばれ、『源氏物語』の光源氏のモデルとされています。
 
 貞観6年(864)陸奥・出羽の按察使(あぜちし)として多賀城に赴任しますが、遙任(かたちだけで実際に赴任していない)であったのではないかとも言われていますが、
 
 陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに みだれむと思ふ我ならなくに  (古今集巻十四(恋四) 「題しらず 河原左大臣」 724)

 という、小倉百人一首(14)にも載っている歌を詠んでいます。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:13Comments(0)染井霊園

2005年04月18日

染井霊園(6)−幣原喜重郎の墓

 

 (旧暦  3月10日)

 幣原喜重郎(1872〜1951)といえば、昭和20年(1945)10月首相となり、日本の戦後処理と新日本建設に貢献した政治家として有名ですが、大正後期から昭和初期にかけて、外務大臣として「幣原外交」と呼ばれる国際協調外交を展開し、英米との強調、中国に対する内政不干渉、国際連盟中心主義などの、戦前の日本の外交方針における一つの標準を築いた人でした。

 しかし、国内においては、特に中国との関係では、陸軍・政友会・枢密院・右翼の反感を買い「軟弱外交」との批判を受けていました。

 幣原の考えは、「中国革命にさいしては、日本や列強が如何なる理由があろうとも干渉することは問題であり、中国の成長を見守ることが必要」という事であったようです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:36Comments(0)染井霊園

2005年03月21日

染井霊園(5)−若槻家のお墓

 

 (旧暦  2月12日) 和泉式部忌

 若槻禮次郎(1866〜1949)といえば、第25代および第28代の内閣総理大臣として、昭和初期の金融恐慌への対応や緊縮財政政策、金本位制の維持を図った人ですが、同じ染井霊園にある幣原喜重郎(1872〜1951)の墓所に比べると、狭くてそこらの庶民のお墓と余り変わらない簡素さだったので、ちょっと気にかかりました。

 昭和2年(1927)3月14日、震災手形善後処理法案(来る9月30日が期日となる震災手形を10年間繰り延べる法案)審議中の衆議院予算委員会で、片岡直温(なおはる)(1859〜1934)蔵相は、野党立憲政友会吉植庄一郎代議士の執拗な追及を受けます。

 この法案はあくまで金融界の安定を図るのが目的であるという片岡蔵相に対し、
 「(震災手形未決済額)2億700万円の中に、鈴木商店、其関係のものがどれだけの震災手形を出して居るかと云うことを明らかにすることは、端的に本問題を国民の疑いの眼より明らさまにする一番の近道である・・・・」と追求して、「台湾銀行などの所有する震災手形の金額を示せ」と迫ります。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:55Comments(0)染井霊園

2005年01月18日

染井霊園(4)−天心岡倉覚三先生之墓(2)

 

 (旧暦 12月 9日)
 
 天心岡倉覚三先生之墓(1)のつづき

 奈良法隆寺の夢殿には、人目に触れずに仕舞い置かれた秘仏がありました。法隆寺の僧侶の間には、この秘仏を開く(仏像を巻いている布を取り除く)と、必ず雷が落ちて天罰が下ると信じられていました。

 先生達は、恐れる僧侶たちを説得し、ようやくにして秘仏を開くにいたりましたが、布を取り除く際には、僧侶たちは恐れて皆その場を離れてしまったといいます。

 布から出てきた秘仏は千年の眠りから覚めた現在の国宝『救世観音像』でした。

 明治22年(1889)に東京美術学校が設立され、翌年先生は第2代校長に就任、横山大観、菱田春草等に大きな影響を与え、また、帝室博物館理事・美術部長も務め、古美術の保護に尽力しています。

 このころ親交のあった男爵九鬼隆一の妻初子との悲恋(今風に言えば不倫)もあり、当時としては何かと話題を提供したようですね。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 09:20Comments(0)染井霊園

2005年01月17日

染井霊園(3)−天心岡倉覚三先生之墓(1)

 

 (旧暦 12月 8日)

 天心岡倉覚三先生は、文久2年12月26日(1863年2月14日)、越前福井藩士岡倉覚右衛門の次男として横浜(江戸馬喰町との説もある)に生まれました。

 当時、越前福井藩では、横井小楠、三岡八郎(由利公正)を中心とした藩財政改革が進行しており、安政6年(1859)横浜に越前福井藩の出資による商館「石川屋」が設置され、翌年の万延元年(1860)に覚右衛門が主命(藩主松平春嶽)により、越前福井藩商館を代表して横浜での生糸の輸出業の責任を担っていました。

 先生は、早くから英語と漢籍を学び、明治10年(1877)東京開成学校(後の東京大学)に入学、政治学・理財学を専攻、卒業後(明治13年)は文部省に出仕しました。

 先生は、父覚右衛門の方針で、幼い頃(6歳)からジェイムズ・バラーの英語塾に通っていましたが、あるとき先生が漢字の立て札を読めないことに気付き、勘右衛門はようやく漢籍の教育を始めたといわれ、生涯先生は英語を母国語同然に使ったと伝えられています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:06Comments(0)染井霊園

2004年12月13日

染井霊園(2)-羯南・陸實先生之墓

 

 羯南・陸實先生は、津軽藩士中田謙斎の二男として安政4年(1857)、弘前に生まれました。

 東奥義塾卒業後、宮城師範学校に入学しましたが、薩摩出身の校長の横暴に抗議して退校処分、明治19年(1886)の帝国大学令による帝国大学設置以前は官吏登用の最難関であった司法省法律学校に転校するも、ここでも校長の態度に反発して退学、フランス語の才能をかわれて太政官書記局官吏に就職するも、時の政府の条約改正・欧化政策に反対し、退官。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:32Comments(2)染井霊園

2004年12月04日

染井霊園(1)-陸軍歩兵大尉堅本暉之墓

 

 豊島区駒込5丁目にある染井霊園は、帝都東京でも名のある霊園のうちのひとつです。
 港区の青山霊園、台東区の谷中霊園、豊島区の雑司が谷霊園等々、これらの霊園には、歴史に名を残した数々の著名人とともに、歴史を担った無名の庶民も静かに眠っています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 00:29Comments(1)染井霊園