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2008年11月27日

となり村名所あんない(31)-文京村(3)-三四郎池

 

 三四郎池 (育徳園心字池)

 (旧暦 10月30日)

 本郷の東京大学構内のほぼ中央部の谷地にある三四郎池は、正式には「育徳園心字池」と呼ばれ、利根川の前身である古東京川の支流が山手台地を浸食した谷に湧出する泉です。

 更新世(洪積世)の最終氷期(Last glacial period、約7万年前~約1万年前:ヨーロッパではヴュルム氷期、北アメリカではウィスコンシン氷期)末期には、海水面は現在より80メートル程度低くなって浦賀水道の辺りまで退き、東京湾は陸化して古東京川が流れていたことが分かっています。

 さて、加賀藩前田家102万5千石の江戸屋敷は、慶長10年(1605)、2代藩主前田利常(1594~1658)が徳川家康(1543~1616)より江戸城和田倉門外の辰口(たつのくち:丸の内1丁目)に7,500坪の屋敷地を賜ったのが始まりで、明暦3年(1657)の大火によりその拝領屋敷辰口邸が焼失したため、神田筋違橋(すじかいばし:現在の万世橋)付近の筋違邸(8,843坪)に移されますが、この屋敷も天和2年(1682)暮の大火で焼失し、その翌年からそれまで下屋敷であった本郷邸(103,822坪)が上屋敷に改められました。

 つまり、他の場所の上屋敷が焼失してしまったので、本郷邸が上屋敷に昇格したんですな。

 この本郷屋敷地を拝領した正確な時期は不明で、大坂の陣の後、元和2~3(1616~1617)のこととされているようです。その後しばらくは放置されていて、寛永3年(1626)頃になって、ようやく周囲を木柵で囲んだとする史料があるそうです。

 と云うことで、我が板橋村の下屋敷のライバル、文京村の東京大学の上屋敷の敷地もかつては下屋敷の時代があり、その期間は、2代藩主前田利常(1594〜1658)が3代将軍徳川家光(在職:1623~1651)の御成を迎えるために豪奢な御成御殿や数寄屋を新築し、庭園を整備した寛永6年(1629)頃から天和2年(1682)の間のことでした。

 寛永3年(1626)、幕府より3代将軍徳川家光(在職:1623~1651)御成(将軍が家臣などの邸へ訪れること)の内命を受け、3年かけて殿舎、庭園の造営にあたり、寛永6年(1629)4月26日には将軍家光を、同じく4月29日には大御所徳川秀忠を迎えています。

 この時の御相伴衆(お供)として水戸藩初代藩主徳川頼房(1603~1661)、伊勢津藩初代藩主藤堂高虎(1556~1630)、筑後柳河藩初代藩主立花宗茂(1567~1643)など錚錚たる大名が随行しています。

 これに対して前田家側は当主利常(2代藩主)、長男光高(3代藩主:1616~1645)、次男利次(富山藩祖:1617~1674)、三男利治(大聖寺藩祖:1618~1660)、長女亀鶴姫(森忠広室)、次女満姫(浅野光晟正室)、三女富姫(八条宮智忠親王妃)、母千代保の方(寿福院)以下、御目見として、家臣本多安房守政重(1580~1647)、横山山城守長知(ながちか:1568-1646)ほか12名でした。

 このとき完成した庭園が後に第4代藩主前田綱紀(1643~1724)によって「育徳園」と命名されていますが、「育徳」の名前の由来は、中国の周代(B.C.1046~B.C.771)に成立した易学書『周易(しゅうえき:Zhōu Yì)』に載る卦(け)の蒙(もう、méng)から取られ、君子育徳の象(かたち)を意味するからとされています。

 『境の勝は八(様子の盛んなるは八)、景の美は八(景色の美しいのは八)、合せて之を名づけて育徳の園と曰ふ。周易の蒙を取る所謂(いはゆる)君子育徳の象(かたち)なり。』

 寛永15年(1638)には大築造が施され、その後さらに修築や補修が加えられて、第4代藩主前田綱紀(1643~1724)の代になって完成を見ています。
 育徳園は泉水、築山、小亭などの八境、八景の景勝により、江戸諸侯邸の庭園中第一の名園といわれています。
 また、池の形は「心」という文字をかたどっているところから、「育徳園心字池」と呼ばれます。

 しかしこの上屋敷本郷邸も、幕末の安政2年(1855)10月2日の夜10時頃に起きたM6.9の安政江戸地震で大損害を受け、また明治元年(1868)4月の火事では殿舎の大部分が類焼して、明治7年(1874)に東京医学校(医学部の前身)へ移管される直前には、「荒漠タル原野」と化していたと云われています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:22Comments(0)となり村名所あんない

2008年11月24日

物語(8)-太平記(3)-兵部卿の宮薨御の事

 

 京都神護寺三像 伝源頼朝像
 従来、源頼朝像とされてきましたが、1995年、美術史家の米倉迪夫氏(当時東京国立文化財研究所)により、伝源頼朝像は足利直義像であるとする新説が発表され、その後、東大名誉教授の黒田日出男氏が米倉説を補強する所説を発表しています。

 (旧暦 10月27日)

 兵部卿宮護良(もりよし)親王(1308~1335)は、九十五代後醍醐天皇(在位1318~1339)の第三皇子で、母は三位大納言北畠師親(もろちか:1293~1354)の娘、親子(しんし)です。

 正和2年(1313)、6歳の時に天台宗三門跡の一つである船岡山東麓の梶井門跡(当時)に入室しますが、16歳の元享3年(1323)に比叡山延暦寺で出家して法名を尊雲(法親王)と称し、正中2年(1325年)には門跡を継承して門主となり、嘉暦2年(1327)には父後醍醐天皇の斡旋により、第百六十三代天台座主となっています。
 東山岡崎の法勝寺大塔(九重塔)周辺に門室を置いたことから大塔宮(おおとうのみや)と呼ばれました。

 護良親王は武芸に秀で、日頃から鍛練を積み、鎌倉幕府倒幕運動である元弘の乱(1331~1333)が起るや、父後醍醐天皇を助けて山門延暦寺の僧兵をまとめ、熊野、吉野の山奥に勤王の軍事行動を執るとともに、国々諸方に令旨(皇太子の命令を伝える文書)を発して勤王武士の奮起を促し、楠木正成らとともに倒幕のさきがけをなしています。

 ちなみに、護良(もりよし)親王は、私「嘉穂のフーケモン」が農学校を受験する当時の日本史では、護良(もりなが)親王と呼称されていました。
 その理由は、室町期の摂政関白、古典学者であった一条兼良(1402~1481)が著したと伝えられる『諱訓抄』の写本で、「護良」に「モリナカ」と読み仮名が振ってあることなどがあげられるようです。

  護良親王が、鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇による建武の新政下では征夷大将軍、兵部卿に任じられて上洛したのに対し、六波羅探題を討って倒幕に第一の勲功があった足利尊氏(1305~1308)は、事実上無名化していた鎮守府将軍および従四位下左兵衛督にしか任じられませんでした。

 また、父後醍醐天皇の寵妃、三位局阿野廉子(1301~1359)にとっては、還俗して皇位後継者の一人となっていた護良王は、自分の生んだ皇子たちにとっては邪魔な存在とみなされていたようです。

 足利尊氏は、三位局阿野廉子と結んで、謀反の疑い有りとして護良親王を讒訴し、建武元年(1334年)10月、護良親王は伯耆守名和長年(?~1336)、結城親光(?~1336)らに捕らえられて鎌倉へ送られ、鎌倉将軍府将軍成良親王(1326~1344)を奉じて鎌倉にて執権職にあった足利尊氏の弟左馬頭足利直義(1306~1352)の監視下に置かれて、二階堂ガ谷(やつ)東光寺の土牢に幽閉されてしまいます。

 翌建武2年(1335)、鎌倉幕府第14代執権北条高時の次男北条時行(?~1353)が信濃の守護代であった諏訪三河守頼重(?~1335)らに擁立されて鎌倉幕府復興のため挙兵した中先代の乱によって鎌倉が北条軍に奪還されると、二階堂ガ谷の東光寺に幽閉されていた護良親王は、北条時行に奉じられる事を警戒した足利直義の命により淵辺伊賀守義博(?~1335)に殺害されてしまいます。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:14Comments(0)物語

2008年11月22日

秋津嶋の旅(13)-蝦夷が嶋(3)-すぐに来ちゃった函館

 

 1909年(明治42)に再建された赤煉瓦倉庫群より函館山を望む

 (旧暦 10月25日)

 近松忌、巣林忌  江戸元禄期に活躍した浄瑠璃、歌舞伎狂言作家、近松門左衞門の享保9年(1724)年の忌日。
  
  元禄16年(1703)  曽根崎心中
  正徳元年(1711)   冥途の飛脚
  正徳5年(1715)   国姓爺合戦
  享保5年(1720)   心中天網島

  残れとは 思ふも愚か埋み火の 消ぬ間徒なる朽木書きして


 函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花
                                      一握の砂 315 

 潮かをる北の浜辺の砂山の かの浜薔薇(はまなす)よ 今年も咲けるや
                                      一握の砂 304

 
 薄幸の歌人石川啄木(1886~1912)が函館に逗留していたのは、明治40年(1907)5月5日から9月12日までのわずか132日間でした。
 
 啄木は、明治39年(1906)に函館の青柳町で結成された文学愛好者の集まりである苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)同人、松岡蕗堂(政之助)をたより、函館の地を訪れました。
 そして、同じく苜蓿社同人の吉野白村(章三)の世話で、6月11日に函館区立弥生尋常小学校の代用教員(月給12円)に採用され、7月7日には妻子(妻節子、長女京子)を呼び寄せ、青柳町18番地に新居を構えています。

 その後、啄木は8月18日には代用教員在職のまま、苜蓿社同人宮崎郁雨(大四郎)の紹介により函館日日新聞の遊軍記者となっていますが、8月25日、東川町から出火した函館大火により、弥生尋常小学校も函館日日新聞社も焼失、同人誌『紅苜蓿』(べにまごやし)への寄稿もしていた札幌の向井永太郎の斡旋で、北門新報社の校正係となることが決まり、9月12日には弥生尋常小学校へ退職願を提出、翌9月13日、単身で札幌に向かっています。

 ところで、苜蓿社同人には札幌農学校出身で、函館遺愛女学校、私立函館英語学校で教鞭をとり、私立清和女学校の講師の傍ら新詩社の社友として「明星」に短歌を発表していた大島野百合(経男)という人がいました。
 大島野百合(経男)は、教え子との結婚の破綻や人生に対する懐疑から同人誌『紅苜蓿』(べにまごやし)の編集を啄木に託して明治40年(1907)7月、故郷日高に帰っていますが、「友の恋歌 矢ぐるまの花」という歌のモチーフは、かの大島野百合(経男)のことをさしているのでしょうか。

 明治四十年八月二十五日夜の函館大火は驚くべき惨劇を演出して一時殆ど区の生命を絶てり。予当時弥生尋常小学校に代用教員たり薄給僅かに十二金遂に一家数人の口を糊すべからず。
 乃ち函館日々新聞の招に応じ未だ校を辞せざるに暑中休暇を幸とし入りて同社に遊軍たり給十五金の約成る。生れて初めて新聞記者となり僅かに八日を経。火起りて社先づ焼け学校亦烏有に帰す。社は容易に立つ能はざるものの如く学校亦無資格者淘汰の噂頻りなり。
 九月に入り札幌に在る詞友夷希微向井永太郎君より飛電あり来りて北門新報社に入れ月十五金を給せむと。乃ち其月十三日夕星黒き焼跡に名残を惜みて秋風一路北に向ひ翌十四日札幌に着き向井君の宿なる北七条西四丁目四、田中方に仮寓を定む。
 秋風紀より


 と云うわけで、出張で函館に行ってきました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:57Comments(0)秋津嶋の旅

2008年11月19日

北東アジア(32)-奉天討胡檄(2)

  

 A scene of the Taiping Rebellion.

 (旧暦 10月21日)

 一茶忌 信濃が生んだ江戸期を代表する俳人一茶小林弥太郎の文政10年(1828)の忌日。
       
 門の木も 先つゝがなし夕涼         寛政三年辛亥  (二十九歳) 
 是がまあ つひの栖(すみか)か雪五尺  文化九年壬申  (五十歳)


 勇忌、かにかく忌  耽美頽唐な歌風を築いた歌人、脚本家、小説家にして、元薩摩藩士吉井友実の孫、元伯爵吉井勇の昭和35年(1960)の忌日。
       
 かにかくに 祇園は恋し寝るときも 枕の下を水の流るる

 北東アジア(31)-奉天討胡檄(1)のつづき

 キリスト教を基にした宗教教団の拝上帝会が、太平天国を名乗って挙兵したのは、道光30年(1850)12月10日のことでした。

 そして拝上帝会から「太平天国」になった決起軍の中には、「女営」と呼ばれる婦人部隊も含まれていました。男性軍隊とは隔離され、男性が女営に近づいたり、女性と会ったりすれば、それが夫婦、兄弟であっても死罪となる大変厳しい軍律が科せられていました。

 そのような切迫した情勢の中で蜂起した民衆にとっては、奉天討胡檄の激越な文章は、多くの人々を煽動し興奮させました。

 夫れ中國には中國の形像有り、今、滿洲は悉く削發(削髪:髪をそる)を令し、一長尾(辮髪)を後に拖(ひ)く、是れ中國の人をして變じて禽犬と為す也。

 そもそも中国には中国の形象があるのに、今満洲はことごとく髪を剃らせ、辮髪を後ろに垂らさせている。これは中国の人を禽獣に変えるものだ。

 中國には中國の衣冠有り、今、滿洲另(わか)ちて頂戴(ちんたい:官吏の等級のしるし)を置く、胡衣猴冠、先代の服冕(ふくべん:服と冠)を壞(こは)す、是れ中國の人をして其の根本を忘(ばう)す也。

 中国には中国の衣冠(装束)があるのに、今満洲は頂戴(ちんたい:官吏の帽子の頂に、珠玉、金石をつけてその等級を区別するしるし)を設け、胡の服、猿の冠をつけさせて、先代の衣冠を壊した。これは中国の人にその伝統を忘れさせるものだ。
 
 中國には中國の人倫(人種)有り、前の偽妖(ぎよう:偽帝)康熙、暗(ひそか)に韃子(だつし:韃靼人)一人に令して十家を管(くわん:管理する)し、中國の女子を淫亂せしむ、是れ中國の人をして盡(ことごと)く胡種と為すを欲する也。

 中国には中国の人種があるのに、前の偽帝妖王康熙帝(清の第4代皇帝、在位1661~1722)は、密かに満洲人一人に中国人の家十戸を管理させ、中国の婦女子を犯させた。これは中国の人をことごとく満洲人にしようとするものだ。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:13Comments(0)歴史/北東アジア

2008年11月17日

クラシック(22)-ヴァーグナー(1)-マイスタージンガー

 

 Richard Wagner (Portrait von Cäsar Willich), um 1862 von Wikipedia.

 (旧暦 10月20日)

 19世紀ロマン派の最高峰として『歌劇王』の異名を持つヴィルヘルム・リヒャルト・ヴァーグナー(Wilhelm Richard Wagner, 1813~1883)の作品演奏に関しては、ドイツが生んだ20世紀前半を代表する史上空前の大指揮者、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler,1886~1954)を抜きに語ることは不可能といっていいでしょう。

 1886年にベルリンの教養人の家庭に生まれたフルトヴェングラーは、幼少の頃から、古代ギリシャやローマの文化、人文主義の世界、造形芸術や音楽に親しんでいました。
 少年ヴィルヘルムが最も崇拝したのはヴェートーヴェンの音楽でしたが、ヴェートーヴェンに対するこの気持は生涯変わることは無かったと云います。

 フルトヴェングラーは15歳の時に、「ヴァーグナーは本物の芸術家ではなく、彼のオペラの台本ほど安っぽいセンチメンタリズムに浸りきったものはない」と、徹底的に嫌っています。
 しかしそれから2年後、彼はヴァーグナーが「マイスタージンガーの中で、ヴェートーヴェン以降成し遂げられなかったことをやっていて、音楽的にもすばらしい」ことに気付いたと云います。

 それは、曲の中で繰り返し使われ、人物や状況を表す指導動機(Leitmotiv)と呼ばれる機能的メロディの手法や、歌と語りの両方の性格を持つ声楽演奏の一種で、音の流れがどこまでも流動し発展していく形で旋律は休みなく成長し溶け合って行く無限旋律(Sprechgesang)と呼ばれる構成上の手法を巧みに使用して、それまでの序曲、アリア、重唱、合唱、間奏曲を途切れのない一つの音楽作品へと発展させることに成功したことを指しているのでしょうか。
 
 さてヴァーグナーは、1850年にK. Freigedankという変名で、『音楽におけるユダヤ性(Das Judenthum in der Musik)』という論文を出版し、ユダヤ系ドイツ人の歌劇作曲家ジャコモ・マイアベーア (Giacomo Meyerbeer、 1791~1864)やドイツロマン派の作曲家、指揮者であったフェリックス・メンデルスゾーン(Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy、1809~1847)を誹謗中傷しています。
 (http://mydocs.strands.de/MyDocs/05845/05845.pdf

 ヴァーグナーの思想は、反ユダヤ主義的な側面も持ち、その思想がのちにナチス・ドイツ(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)に利用されることにもなったため、イスラエルでは現在においてもヴァーグナーの作品を自由に演奏することはできず、他の国においてもその作品の上演に関しては、微妙なこともあるようです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 09:20Comments(0)音楽/クラッシック

2008年11月14日

北東アジア(32)-中國正史日本傳(1)-宋書倭國傳

 

 5世紀後半の韓半島 (by Wikipedia)


 亀井勝一郎忌  『大和古寺風物誌』(1943年 天理時報社)や『親鸞』(1944年 新潮社 日本思想家選集)などの宗教論、美術論、人生論、文明論、文学論などに多くの著作を残した函館出身の評論家、亀井勝一郎の昭和41年(1966)年の忌日。

 正史とは、主に国家によって公式に編纂された王朝の歴史書のことで、中国では二十四史が代表的なものとされています。

 二十四史は、清の第6代乾隆帝(在位1735~1795)によって定められた中国王朝の正史二十四書のことで、司馬遷の『史記』130巻から明史332巻までの24の王朝の興亡が、伝説上の帝王「黄帝」から明滅亡の1644年まで記載されています。
 
 辛亥革命(1911)後、中華民国政府によって正史に加えられた『新元史』および中華民国政府時代の編纂による『清史稿』、戦後の台湾の国民政府が編纂した『清史』を加えて、二十八史とすることもあるようです。

 その中国二十八史のなかで、我が日本の傳(言い伝え)を載せるものは十八史あります。ここでは、お隣中国の正史に著された日本傳(主に東夷傳)についてたどってみましょう。

 『宋書』(そうじょ)は、中国南朝の宋(420~479)に関して、宋・斉・梁に仕えた政治家、文学者沈約(chén yāo:441~513)が斉の武帝に命ぜられて編纂した本紀(歴代帝王の事跡)10巻、列傳(人々の伝記)60巻、志(天文・地理・礼楽などを記述したもの)30巻、計100巻からなる紀伝体の歴史書です。

 宋書 列傳第五十七 夷蠻

 倭國は高驪(高句麗)の東南大海の中に在り、世(よよ、代々)貢職(貢ぎ物)を修む。

 高祖(南朝劉宋第1代武帝:在位420~422)の永初二年(421)、詔(みことのり)して曰く、「倭贊(さん:第16代仁徳天皇に比定)、萬里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、除授を賜ふべし」と。

 太祖(第3代文帝:在位425~453)の元嘉二年(425)、贊、又司馬曹達を遣はして表(上書)を奉り方物(地方の産物)を獻ず。贊、死して、弟珍(第17代履中天皇に比定)、立つ。使ひを遣はして貢獻し、自ら使持節都督倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王と稱し、表(上書)して除正(叙任)せられんことを求む。詔(みことのり)して安東將軍、倭國王に除す。珍、又倭隋等十三人を平西、征虜、冠軍、輔國將軍の號に除正せられんことを求む。詔(みことのり)して並びに聽す。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:35Comments(0)歴史/北東アジア

2008年11月09日

おくの細道、いなかの小道(8)-白川の関

 

 寛政12年(1800)8月、白河藩久松松平家第3代藩主松平定信(1759~1829)が、種々考証の結果からこの地を古代の白河関跡と結論して建てた「古関蹟」碑 

 古関蹟
 白河関跡、堙没(いんぼつ)して其の處所を知らざること久し。
 旗宿村の西に叢祠(そうし)あり。地、隆然として高し。
 いわゆる白河(白川)その下を遶(めぐ)りて流る
 これを図・史・詠歌に考え、また地形を老農の言に徴するに
 これ其の遺址たるは較然(こうぜん)として疑はざる也。
 すなわち碑を建て、以て標することしかり。

 寛政十二年八月一日 
 白河城主従四位下左近衛少将兼越中守源朝臣定信識


 (旧暦  10月12日)

 卯の花を かざしに関の晴着かな 曾良

 やったあ~!1年以上かかって、遂に、みちのくへ到着しました。

 白河の関は都から陸奥(みちのく)に通じる古代官道東山道の要衝に設けられた関門で、蝦夷地との境界をなし、その成立と廃止の時期については定かではないようです。7世紀の後半にはすでに存在しており、平安中期(10世紀ごろ)にはその役割を終えたものと考えられているようです。

 古来、本州東部およびそれ以北に居住し、朝廷からは「まつろわぬ民」として敵視されてきた蝦夷(えみし、えぞ)の人々は、9世紀までの数々の蝦夷征討や奥州十二年合戦(前九年の役、1051~1061)、後三年の役(1083~1087)、文治5年(1189)の源頼朝による奥州合戦、天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置、そして幕末の奥羽列藩同盟に対する東北戦争、その後の函館戦争と、つねに中央政権から虐げられてきた存在でした。

 そのような緊張の最前線が、古代の白河の関と菊多の関(勿来関)だったのでしょうか。

 ここで芭蕉翁は、次のような古歌、故事に託して白河の関を描写しているようですが、なかなかの博学ですのん。

 芭蕉翁が師事した歌人、俳人、和学者の北村季吟(1625~1705)は、いずれも朝廷の歌壇で活躍した飛鳥井雅章(1611~1679)や清水谷実業(1648~1709)に和歌、歌学を学んだことで、『土佐日記抄』、『伊勢物語拾穂抄』、『源氏物語湖月抄』などの注釈書をあらわし、元禄2年(1689)には歌学方として幕府に仕えています。
 だから、芭蕉翁も博識なんですのん。

 いかで都へと便求めしも断(ことわり)也

 みちのくにの白河関こえ侍りけるに    平兼盛
 たよりあらは いかて宮こへつけやらむ けふ白河の関はこえぬと  (拾遺集 巻六 別 339)


 秋風を耳に残し

 みちのくににまかり下りけるに、白川の関にてよみ侍りける   能因(古曾部入道)
 みやこをは かすみとともにたちしかと あきかせそふく しらかはのせき  (後拾遺集 巻九 羈旅 518)
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 05:40Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2008年11月08日

アメリカ(9)-Yes we can(2)

 

 Oprah Winfrey joins the Obamas on the campaign trail, December 10, 2007 by Wikipedia.

 (旧暦 10月11日 )

 アメリカ(8)-Yes we can(1)のつづき

 オバマ上院議員のスピーチは続きます。

 All of the candidates in this race share these goals. All have good ideas. And all are patriots who serve this country honorably.
 
 この大統領指名競争での候補者のすべてが、ゴールを共有している。彼らすべてはすばらしい考えを持っている。そしてすべての候補は、見事にこの国に奉仕する愛国者である。

 But the reason our campaign has always been different is because it's not just about what I will do as President, it's also about what you, the people who love this country, can do to change it.
 
 しかし、我々の選挙運動が常に異なっていた理由は、私が大統領として為すであろうことについて、それが適切ではなく、それはまた、あなた方、つまり、この国を愛し、それを変えることができる人々についてのことであるからだ。

 That's why tonight belongs to you. It belongs to the organizers and the volunteers and the staff who believed in our improbable journey and rallied so many others to join.
 
 それは今晩があなたがたのものであるという理由だ。それは我々のありそうにもない行程を信じて、仲間になるために非常に多くの人たちを呼び集めた世話人とボランティアとスタッフのものである。

 We know the battle ahead will be long, but always remember that no matter what obstacles stand in our way, nothing can withstand the power of millions of voices calling for change.

 これからの戦いは長くなるということは分かっている。けれども忘れないで欲しい。どんな障害が行く手を阻もうとも、変化を求める何百万と言う人々の声の力に抵抗できるものなど何もないと云うことを。

We have been told we cannot do this by a chorus of cynics who will only grow louder and more dissonant in the weeks to come. We've been asked to pause for a reality check. We've been warned against offering the people of this nation false hope.

 そんなことはできないと云う皮肉な声が聞こえる。皮肉な声はどんどん大きくなり、より大きな不協和音になるであろう。もっと現実的な確認を行うように言われている。この国の人々に偽りの期待を与えるなと、そう警告されてきた。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 05:10Comments(0)歴史/アメリカ

2008年11月05日

アメリカ(8)-Yes we can(1)

  

 Obama takes the oath of office as President of the United States.
 
 (旧暦 10月 8日)

 本日11月5日、熾烈なアメリカ大統領選挙戦を勝ち抜き、第44代大統領当選者となったバラック・フセイン・オバマ・ジュニア(Barack Hussein Obama, Jr :1961~)は、数々の名演説を残しています。

 ちなみに、オバマ上院議員のスピーチライターは、Charles Ommanney という26歳の若者だそうですが、なかなかのもんじゃごわさんか。
 (http://www.newsweek.com/id/84756

 2008年1月8日、アメリカ合衆国東北部ニューハンプシャー州の予備選挙で、ヒラリー・クリントン上院議員に僅差で敗北したオバマ候補の演説は、歴史に残る名演説として全米から賞賛され、その後、ヒップホップ・R&Bグループ「the Black Eyed Peas」のメンバーWilliam James Adams Jr.が作曲し、ボブ・ディランの息子のJesse Dylanがディレクターとなってオバマ・バラード「yes we can」として発表されています。

 I want to congratulate Senator Clinton on a hard-fought victory here in New Hampshire.
 
 私はここ、ニューハンプシャーで激しく争われた勝利について、クリントン上院議員を祝福したい。

 A few weeks ago, no one imagined that we'd have accomplished what we did here tonight. For most of this campaign, we were far behind, and we always knew our climb would be steep.
 
 数週間前に、我々が今晩ここで行ったことを成し遂げるであろうとは誰も想像しなかった。 このキャンペーンの大部分について、我々ははるかに遅れていたし、常に我々の前途が険しいであろうことは知っていた。

But in record numbers, you came out and spoke up for change. And with your voices and your votes, you made it clear that at this moment - in this election - there is something happening in America.
 
 けども記録的な数で、あなたたちはやって来て、そして変革を高らかに語った。そしてあなたたちの声とあなたたちの票で、この瞬間に-この選挙で-アメリカで何かが起きることを明らかにした。

 There is something happening when men and women in Des Moines and Davenport; in Lebanon and Concord come out in the snows of January to wait in lines that stretch block after block because they believe in what this country can be.
 
 この国がなし得ることを信じるから、1月の雪の中をデモインとダベンポート、レバノンとコンコードの男性や女性がブロックからブロックへと延びる行列に並ぶためにやって来るとき、そこに何かがおきる。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:01Comments(0)歴史/アメリカ

2008年11月03日

北東アジア(31)-奉天討胡檄(1)

 

 Extent of Taiping control in 1854 (in red).
 太平天国の主要支配地域

 ( 旧暦 10月 6日)

 「檄」とは、敵の罪悪などを挙げて自分の信義を述べ、衆人に告げる文書(広辞苑)のことで、古来から数々の有名な檄文が残されています。
 台湾では「檄文教典」なる書籍も出版されており、その中に、「奉天討胡檄」なる一文が載せられています。

 「奉天討胡檄」は、天を奉じて胡(えびす:満洲族)を討つという意味の極めて民族意識の強い檄文で、清末の咸豊2年(1852)、湖南と湖北で猖獗を極めた太平天国の乱において、湖南の湘南拡軍の指導者である広西省桂平出身の客家、東王楊秀清(Yang Xiuqing :1821~1856)と広西省武宣県河馬郷出身の西王蕭朝貴(Xiao Chaogui :1820頃~1856)の名で発せられました。

 太平天国の乱(1850~1864)は、広東省広州福源水村出身の客家、洪秀全(hóng xìu qúan:1814~1864)が、キリスト教を基にした宗教教団、拝上帝会を興して天王を自称し、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって清に反旗を翻して南京を首都と定め、国号を太平天国と称した叛乱です。この乱により、一説には約4,000万人の犠牲者を出したとも云われています。

 

 洪秀全(hóng xìu qúan:1814~1864)

 「奉天討胡檄」のテキストは、初版本と改訂本の二種類があり、ここでは改訂本を基に、東大の東洋史学科で中国近代史を専攻し、博士過程を修了されて金沢大学、富山大学等で教鞭を執られた西川喜久子先生の訳を参考にしてみます。

  真天命太平天國禾乃(かだい:洪秀全と楊秀清の秀を分解したもので、「禾(か)」は稲なので飢饉を救うことができ、「乃(だい)」は救うという意味)師贖病(しょくびょう:庶民に代わって病を贖い人々を救う)主左輔正軍師 東王楊、右弼又正軍師 西王簫、天を奉じて胡を討たんが為に、四方に檄す。すなはち曰く、

 嗟(ああ)爾(なんじ)有眾(ゆうしゆう:人々)よ、明らかに予が言を聽け。予惟(おも)ふに天下なる者は上帝(中国)の天下にして、胡虜(こりよ:満洲族)の天下に非(あら)ざる也。衣食は上帝の衣食にして、胡虜の衣食に非(あら)ざる也。子女民人は上帝の子女民人にして、胡虜の子女民人に非(あら)ざる也。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 10:21Comments(0)歴史/北東アジア