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2008年11月24日

物語(8)-太平記(3)-兵部卿の宮薨御の事

 

 京都神護寺三像 伝源頼朝像
 従来、源頼朝像とされてきましたが、1995年、美術史家の米倉迪夫氏(当時東京国立文化財研究所)により、伝源頼朝像は足利直義像であるとする新説が発表され、その後、東大名誉教授の黒田日出男氏が米倉説を補強する所説を発表しています。

 (旧暦 10月27日)

 兵部卿宮護良(もりよし)親王(1308~1335)は、九十五代後醍醐天皇(在位1318~1339)の第三皇子で、母は三位大納言北畠師親(もろちか:1293~1354)の娘、親子(しんし)です。

 正和2年(1313)、6歳の時に天台宗三門跡の一つである船岡山東麓の梶井門跡(当時)に入室しますが、16歳の元享3年(1323)に比叡山延暦寺で出家して法名を尊雲(法親王)と称し、正中2年(1325年)には門跡を継承して門主となり、嘉暦2年(1327)には父後醍醐天皇の斡旋により、第百六十三代天台座主となっています。
 東山岡崎の法勝寺大塔(九重塔)周辺に門室を置いたことから大塔宮(おおとうのみや)と呼ばれました。

 護良親王は武芸に秀で、日頃から鍛練を積み、鎌倉幕府倒幕運動である元弘の乱(1331~1333)が起るや、父後醍醐天皇を助けて山門延暦寺の僧兵をまとめ、熊野、吉野の山奥に勤王の軍事行動を執るとともに、国々諸方に令旨(皇太子の命令を伝える文書)を発して勤王武士の奮起を促し、楠木正成らとともに倒幕のさきがけをなしています。

 ちなみに、護良(もりよし)親王は、私「嘉穂のフーケモン」が農学校を受験する当時の日本史では、護良(もりなが)親王と呼称されていました。
 その理由は、室町期の摂政関白、古典学者であった一条兼良(1402~1481)が著したと伝えられる『諱訓抄』の写本で、「護良」に「モリナカ」と読み仮名が振ってあることなどがあげられるようです。

  護良親王が、鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇による建武の新政下では征夷大将軍、兵部卿に任じられて上洛したのに対し、六波羅探題を討って倒幕に第一の勲功があった足利尊氏(1305~1308)は、事実上無名化していた鎮守府将軍および従四位下左兵衛督にしか任じられませんでした。

 また、父後醍醐天皇の寵妃、三位局阿野廉子(1301~1359)にとっては、還俗して皇位後継者の一人となっていた護良王は、自分の生んだ皇子たちにとっては邪魔な存在とみなされていたようです。

 足利尊氏は、三位局阿野廉子と結んで、謀反の疑い有りとして護良親王を讒訴し、建武元年(1334年)10月、護良親王は伯耆守名和長年(?~1336)、結城親光(?~1336)らに捕らえられて鎌倉へ送られ、鎌倉将軍府将軍成良親王(1326~1344)を奉じて鎌倉にて執権職にあった足利尊氏の弟左馬頭足利直義(1306~1352)の監視下に置かれて、二階堂ガ谷(やつ)東光寺の土牢に幽閉されてしまいます。

 翌建武2年(1335)、鎌倉幕府第14代執権北条高時の次男北条時行(?~1353)が信濃の守護代であった諏訪三河守頼重(?~1335)らに擁立されて鎌倉幕府復興のため挙兵した中先代の乱によって鎌倉が北条軍に奪還されると、二階堂ガ谷の東光寺に幽閉されていた護良親王は、北条時行に奉じられる事を警戒した足利直義の命により淵辺伊賀守義博(?~1335)に殺害されてしまいます。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:14Comments(0)物語