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2008年11月14日

北東アジア(32)-中國正史日本傳(1)-宋書倭國傳

 北東アジア(32)-中國正史日本傳(1)-宋書倭國傳

 5世紀後半の韓半島 (by Wikipedia)


 亀井勝一郎忌  『大和古寺風物誌』(1943年 天理時報社)や『親鸞』(1944年 新潮社 日本思想家選集)などの宗教論、美術論、人生論、文明論、文学論などに多くの著作を残した函館出身の評論家、亀井勝一郎の昭和41年(1966)年の忌日。

 正史とは、主に国家によって公式に編纂された王朝の歴史書のことで、中国では二十四史が代表的なものとされています。

 二十四史は、清の第6代乾隆帝(在位1735~1795)によって定められた中国王朝の正史二十四書のことで、司馬遷の『史記』130巻から明史332巻までの24の王朝の興亡が、伝説上の帝王「黄帝」から明滅亡の1644年まで記載されています。
 
 辛亥革命(1911)後、中華民国政府によって正史に加えられた『新元史』および中華民国政府時代の編纂による『清史稿』、戦後の台湾の国民政府が編纂した『清史』を加えて、二十八史とすることもあるようです。

 その中国二十八史のなかで、我が日本の傳(言い伝え)を載せるものは十八史あります。ここでは、お隣中国の正史に著された日本傳(主に東夷傳)についてたどってみましょう。

 『宋書』(そうじょ)は、中国南朝の宋(420~479)に関して、宋・斉・梁に仕えた政治家、文学者沈約(chén yāo:441~513)が斉の武帝に命ぜられて編纂した本紀(歴代帝王の事跡)10巻、列傳(人々の伝記)60巻、志(天文・地理・礼楽などを記述したもの)30巻、計100巻からなる紀伝体の歴史書です。

 宋書 列傳第五十七 夷蠻

 倭國は高驪(高句麗)の東南大海の中に在り、世(よよ、代々)貢職(貢ぎ物)を修む。

 高祖(南朝劉宋第1代武帝:在位420~422)の永初二年(421)、詔(みことのり)して曰く、「倭贊(さん:第16代仁徳天皇に比定)、萬里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、除授を賜ふべし」と。

 太祖(第3代文帝:在位425~453)の元嘉二年(425)、贊、又司馬曹達を遣はして表(上書)を奉り方物(地方の産物)を獻ず。贊、死して、弟珍(第17代履中天皇に比定)、立つ。使ひを遣はして貢獻し、自ら使持節都督倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王と稱し、表(上書)して除正(叙任)せられんことを求む。詔(みことのり)して安東將軍、倭國王に除す。珍、又倭隋等十三人を平西、征虜、冠軍、輔國將軍の號に除正せられんことを求む。詔(みことのり)して並びに聽す。
 二十年(443)、倭國王濟(第18代反正天皇あるいは第19代允恭天皇)、使ひを遣はして奉獻す。複た以て安東將軍、倭國王と為す。

 二十八年(451)、使持節都督倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六國諸軍事を加へ、安東將軍は故(もと)の如く、並びに上(たてまつる)る所の二十三人を軍郡に除す。濟、死す。世子(世嗣:あとつぎ)興(第19代允恭天皇あるいは第20代安康天皇)、使ひを遣はし貢獻す。

 世祖(第4代孝武帝:在位454~464)の大明六年(462)、詔(みことのり)して曰く、「倭王世子(世嗣:あとつぎ)興(第19代允恭天皇あるいは第20代安康天皇)、奕世(えきせい、世々)載(すなは)ち忠、籓を外海に作(な)し、化を稟(う)け境を寧(やすん)じ、恭しく貢職(貢ぎ物)を修め、新たに邊業を嗣(つ)ぐ。宜しく爵號を授くべく、安東將軍、倭國王とすべし」と。興、死して弟武(第21代雄略天皇)、立ち、自ら使持節、都督倭、百濟、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王と稱す。

 倭王武(わおうぶ)は、宋の昇明2年(478)5月、南宋の皇帝順帝に有名な上表文を奉ります。

 順帝の升明二年(478)、使ひを遣はして上表(上表文)して曰く、
 
 「封國(倭国)は偏遠にして、籓を外に作(な)す。昔自(よ)り祖禰(そでい:父祖)躬(みずか)ら甲胄を擐(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋涉(ばつせふ:原野を行くを跋、河川を渡るを涉)して、寧處(ねいしよ:安らかに暮らす)に遑(いとま)あらず。東は毛人(蝦夷)を征すること五十五國、西は眾夷(しうい:熊襲、隼人)を服すること六十六國、渡りて海北を平ぐること九十五國、王道融泰(平安)にして、土を廓(ひら)き畿(みやこ)を遐(はるか)にす。累葉朝宗して歲に愆(あやまた)ず。臣、下愚なりと雖(いへど)も、忝(かたじけ)なくも先緒を胤(つ)ぎ、統(す)ぶる所を驅率し、天極(天道の極まり至るところ)に歸崇し、道百濟を遙(へ)て、船舫を裝治す。

 而るに句驪(くり:高句麗)無道にして、圖(はか)りて見吞を欲し、邊隸を掠抄し、虔劉(けんりふ:殺す)して已まず、每に稽滯を致し、以て良風を失ひ、路に進むと曰ふと雖(いへど)も、或ひは通じ或ひは不(しか)らず。

 臣が亡考(亡父)濟(第18代反正天皇あるいは第19代允恭天皇)、實に寇仇(かたき)の天路(宋に通づる路)を壅塞(よふそく:閉じふさぐ)するを忿(いか)り、控弦(弓兵)百萬、義聲(正義の声)に感激し、方(まさ)に大舉せんと欲せしも、奄(にはか)に父兄を喪ひ、垂成(まさに成らんとする)の功をして一簣(いつくわい:ひとつのかたまり)を獲ざらしむ。居(むな)しく諒暗(喪中)に在りて兵甲を動かさず、是れ以て偃息(休み憩う)して未だ捷(か)たざりき。今に至りて甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。

 義士虎賁(こほん:勇士)、文武功を效(いた)し、白刃前に交はるとも亦顧みざる所。若し帝德の覆載(天の万物を覆い、地の万物を載せる)を以て、此の強敵を摧(くじ)き、克く方難を靖(やす)んぜば、前功を替へること無けん。竊(ひそ)かに自ら開府儀同三司(優礼の官)を假し、其の餘は鹹(み)な各(おのおの)假授して以て忠節を勸(すす)む」と。窃かに自ら開府儀同三司を仮し、その余は咸(み)な仮授して以て忠節を勧む。」と。

 
 詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に除す。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:35│Comments(0)歴史/北東アジア
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