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2008年10月31日

史記列傳(8)-伍子胥列傳第六(1)

 

 春秋戦国時代概念図 by Wikipedia.

 (旧暦 10月 3日)

 維(こ)れ建、讒(ざん)に遇ひ、爰(ここ)に子奢(ししや)に及ぶ、尚(しやう)は既に父を匡(すく)ひ、伍員(ごうん)吳に奔(はし)る。よりて伍子胥列傳第六を作る。(太史公自序第七十)

 楚の平王の太子建(けん)が讒言にあい、その禍いが伍子奢(ごししゃ)に及んだとき、伍子奢の子の伍尚(ごしょう)は父を救おうとして捕らわれてしまったが、もう一人の子の伍員(ごうん:子胥)は吳に亡命して父の仇を討った。そこで、伍子胥の列傳第六を作る。(太史公自序第七十:司馬遷の序文)

 伍子胥(ごししょ:?~B.C.484)は楚(長江中流、湖南省、湖北省一帯)の国の人で、名は員(うん)。員(うん)の父は伍奢(ごしゃ)と云い、兄を伍尚(ごしょう)と云います。

 伍子胥の父、伍奢は楚の平王(B.C.528~B.C.516在位)の太子建の太傅(たいふ:お守り役)をしていましたが、太子建が讒言によって平王との仲が悪くなり宋に亡命すると、平王は伍奢を人質に、二人の子、伍尚と伍員を呼び出します。

 呼び出された伍尚とその父伍奢は平王に殺されてしまいますが、伍子胥は抵抗して太子建のいる宋に逃亡します。

 伍子胥は太子建と共に、鄭(河南省)つぎに晋(山西省)と逃れて行動を共にしますが、太子建は晋で頃公(B.C.525~B.C.512在位)にそそのかされて鄭に反逆しようとし、逆に殺されてしまいます。
 伍子胥は太子建の子と共に、今度は呉(江蘇省)に逃亡します。

 建、子有り、名は勝(しよう)。伍胥(ごしよ)、懼(おそ)れ、乃ち勝(しよう)と俱に吳に奔(はし)る。昭關(せうくわん:呉と楚の関所)に到る。昭關(せうくわん)之を執(とら)へんと欲す。伍胥、遂(つひ)に勝と獨身步走し、幾(ほと)んど脫するを得ざらんとす。追ふ者、后(しりへ)に在り。
 
 江に至る。江上、一漁父の船に乘る有り。伍胥の急を知り、乃(すなは)ち伍胥を渡す。
 
 伍胥、既に渡り、其の劍を解きて曰く、“此の劍は直(あたひ)百金。以て父に與(あた)ふ”と。
 
 父曰く、“楚國の法、伍胥を得る者は、粟五萬石、爵執珪を賜ふ。豈に徒(ただ)百金の劍のみならん邪(や)”と。
受けず。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:04Comments(0)史記列傅

2008年10月29日

歳時記(17)-秋(4)-Halloween 

 

 A jack-o'-lantern (sometimes also spelled Jack O'Lantern) is typically a carved pumpkin. It is associated chiefly with the holiday Halloween, and was named after the phenomenon of strange light flickering over peat bogs, called ignis fatuus or jack-o'-lantern. In a jack-o'-lantern, typically the top is cut off, and the inside flesh then scooped out; an image, usually a monstrous face, is carved onto the outside surface, and the lid replaced. At night a light (commonly a candle, although in recent years candles have fallen out of favor and are now considered unsafe because of the potential for fires) is placed inside to illuminate the effect. The term is not particularly common outside North America, although the practice of carving lanterns for Halloween is.

 (旧暦 10月 1日)

 Upon that night, when Fairies light,        その夜、軽やかな妖精たちは
  On Cassilis Downans dance,          カシリスの丘に踊り
 Or owre the lays, in splendid blaze,        また草原に、輝きを放ちながら
  On sprightly coursers prance;          さっそうと馬を駆る
 Or for Colean the rout is ta'en,          またコウリーンの館のために夜会は催され
  Beneath the moon's pale beams;        月の青白い光の下に
 There, up the Cove, to stray an' rove     そこ、洞窟の上で、さすらいそしてさ迷い
  Amang the rocks an' streams          岩と流れの間に
             To sport that night.      その夜を遊び過ごす

 Amang the bonnie winding banks         ドゥーンのさざ波がきらめき
   Where Doon rins, wimplin', clear,       うねりゆく美しい岸辺に
 Where Bruce ance rul'd the martial ranks,  そこはかつてスコットランド王ブルースが軍列を指揮し
  An' shook his Carrick spear,           そしてカリックのやりを振り回したところ
 Some merry, friendly, countra folks,       親しい村の人々が楽しげに
  Together did convene,                つどい寄った
 To burn their nits, an' pou their stocks,     木の実を燃やし、ブッコリの茎を抜いて
   An' haud their Halloween             ハロウィーンの祭りを今宵
            Fu' blythe that night.       心ゆくまで楽しもうと。


  ―R.Burns : ‘Halloween’

 «Cassilis Downans»
 Certain little, romantic, rocky green hills, in the neighbourhood of the ancient seat of the Earls of Cassilis.

 «the Cove»
 A noted cavern near Colean-house, called the Cove of Colean which, as well as Cassilis Downans, is famed in country story for being a favourite haunt of fairies.

 «Bruce»
 The famous family of that name, the ancestors of Robert, the great deliverer of his country, were Earls of Carrick.  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:51Comments(0)歳時記

2008年10月28日

日本(35)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(7)

 

 Binary fission.

 (旧暦  9月30日)

 日本(34)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(6)のつづき

 ベルリン郊外ダーレムのカイザー・ヴィルヘルム化学研究所1階の実験室で行われていたオットー・ハーンとフリッツ・シュトラースマンによるウラニウムへの中性子照射実験において、バリウムと思われる物質が生成された驚くべき現象について、リーゼ・マイトナーはクリスマス休暇でスウェーデンの寒村クングエルブに一緒に逗留していた甥の物理学者オットー・フリッシュ(Otto Robert Frisch、1904~1979)とともに、この問題の究明に取り組みました。

 これまでの照射実験では、陽子やヘリウムの核(アルファ粒子)以上の大きな塊がウラニウムの核からはぎ取られたことは観察されませんでした。

 「核力を考慮すれば、中性子の一撃でウラニウムの核が真っ二つに裂けると云うことは不可能だ。しかし、液滴モデルで考えれば、核の分裂も起こりうるかもしれない。」

 フリッシュは、ウェイトトレーニングのダンベルのような絵を描いてみました。そして、考察を続けました。・・・・・・

 そうして、リーゼ・マイトナーと甥のオットー・フリッシュは、二人で考えた核分裂に関する説明論文とそれを検証するフリッシュの実験報告論文を、世界で最も権威のあるイギリスの総合学術雑誌「Nature」に発表します。

 1. Disintegration of Uranium by Neutrons: a New Type of Nuclear Reaction
   中性子によるウラニウムの崩壊:新しいタイプの核反応
   Author: Lise Meitner and O.R. Frisch
   Lise Meitner ; Physical Institute, Academy of Sciences, Stockholm.
   O.R. Frisch  ; Institute of Theoretical Physics, University, Copenhagen.
   Source: Nature, vol.143, 239-240
   Year published: Feb. 11, 1939
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:58Comments(0)歴史/日本

2008年10月27日

クラシック(21)-ブラームス(5)-ドイツ・レクイエム

 
 
 Martin Luther, Portrait von Lucas Cranach d.Ä., 1529 

 (旧暦  9月29日)

 松陰忌 私塾松下村塾を叔父である長州藩士玉木文之進より引き継ぎ、武士や町民などの身分の隔てなく塾生を受け入れ、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山縣有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、飯田俊徳など、後の明治維新の指導者となる人材を教えた、松陰吉田寅次郎の安政6年(1859)の忌日。

 身ハたとひ 武蔵の野辺に朽ぬとも 留置まし大和魂 
 十月念五日     二十一回猛士


 ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms, 1833~1897)が1868年に完成させたオーケストラと合唱、およびソプラノ・バリトンの独唱による宗教曲ドイツ・レクイエム(Ein Deutsches Requiem op.45)は、これまで、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan, 1908~1989)がベルリン・フィルを指揮した64年録音盤と76年録音盤、ウィーン・フィルを指揮した83年録音盤が人気を分け合い、時代によって支持のされ方に違いがあるそうです。

 このドイツ・レクイエムは、ドイツ語圏では日本人には想像もつかないくらい人気のある曲とのことで、特にカラヤンは、すざましい意欲でこの作品を繰り返し録音(映像を含めると7回)しています。

 カラヤンは、1946年1月13日、ウィーン・フィルとの第二次大戦後初のコンサートを成功させ高い評価を受けますが、ソ連占領下のウィーンにおいて、戦時中ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党:Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)党員であったことを理由に、1月19日の公開演奏停止処分を受けてしまいます。
 そして、同年9月17日、ついにソ連やアメリカなどの占領軍当局は、カラヤンの指揮者としての活動を全面禁止とする措置を下します。
事実、カラヤンは1933年4月8日、ザルツブルクにおいて当時オーストリアでは非合法政党だったナチスへの入党手続きをとっていました。

 しかし、翌1947年にはオーストリア政府が設けた査問委員会(非ナチ化委員会)で処分保留となり、1947年10月、ヴィーナー・ジングフェライン(Wiener Singverein : ウィーン楽友協会合唱団)の終身音楽監督というポストを与えられます。
それほどに、カラヤンとウィーン楽友協会合唱団との結びつきには深いものがありました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:44Comments(0)音楽/クラッシック

2008年10月19日

谷中霊園(1)-北の都に秋たけて(駒井重次氏のお墓)

 

 乙5号5側の駒井家の墓碑 右側に「北の都に秋たけて」の墓誌

 (旧暦  9月21日)

 晩翆忌 詩人、英文学者の晩翆土井林吉の昭和27年(1952)年の忌日。明治32年(1899)、漢詩調詩風の第一詩集『天地有情』を刊行。この詩集で島崎藤村と並び称される代表的詩人となった。
 明治37年(1904)、母校第二高等学校の教授(英語)として赴任、明治38年(1905)、第二高等学校校歌「天(そら)は東北」を作詞。
 昭和7年(1932)、本来の名字である土井(つちい)を、誤って「どい」と多く読まれたことを受けて改姓。従って、土井晩翠(どいばんすい)が正式名称。

 北の都に秋たけて
 吾等二十(はたち)の夢数(かぞ)う
 男女(おとこおみな)の棲(す)む国に
 二八(にはち)に帰るすべもなし
 (大正四年 第四高等学校時習寮 南寮寮歌)


 かつて北陸金沢に在った旧制第四高等学校の寄宿舎、時習寮南寮の大正四年寮歌「北の都に秋たけて」は、全国数ある寮歌の中でも有名な歌で、私「嘉穂のフーケモン」も高校時代にあこがれて歌った曲のひとつでした。

 この歌を作詞した駒井重次(1895~1973)氏は、東京高等師範学校附属中学校(現筑波大学附属中学校・高等学校)出身で、東京の中学校柔道界では名の知られた存在でしたが、かつて東京高等師範学校教授を勤めたこともある溝淵進馬校長の在籍する第四高等学校をめざして進学してきたようです。

 溝淵進馬校長は高知県の出身で、明治28年(1895)年、帝国大学文科大学哲学科を卒業し、二高教授、千葉中学校長、高等師範学校教授、東北帝国大学農科大学予科(旧札幌農学校)教授を歴任の後、大正元年(1911)、四高の第7代校長に就任しています。

 四高の柔道が最盛期に入ったのは、大正元年(1911)、東北帝国大学農科大学予科(後の北大予科)から溝渕校長が赴任してきてからであり、有段者であった溝渕校長は自ら柔道着に着替えて武術道場無声堂(旧)に立ち、部員と一緒に稽古をしていたと伝えられています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 11:40Comments(0)谷中霊園

2008年10月15日

パイポの煙(32)-御名御璽

 
 

 大日本帝国憲法原本の御名御璽 (ネガ画像)
 The signature of Emperor Meiji and the Privy Seal in Constitution of the Empire of Japan (photographic negative) by Wikipedia.
 
 (旧暦  9月17日)

 体育の日の早朝、秋風に誘われて何となく、板橋村から帝都を縦断して千代田村の宮城もとい皇居桜田門内の外苑まで、LSD(Long Slow Distance:長距離をゆっくり走る)をしてきました。

 皇居と言えば、第92代内閣総理大臣となった麻生太郎氏が9月24日に今上天皇から任命をうけたのは、皇居正殿松の間での親任式(内閣総理大臣任命式)でした。
 9月29日、第170国会における所信表明演説は、時代がかったユニークな一節から始められました。

 わたくし麻生太郎、この度、国権の最高機関による指名、かしこくも、御名御璽(ぎょめいぎょじ)をいただき、第92代内閣総理大臣に就任いたしました。・・・・・
 
 ところで、御名御璽(ぎょめいぎょじ)とは、日本においては、天皇陛下の署名(今上天皇の諱である明仁)および公印のことで、印文は篆書、角印で「天皇御璽」(2行縦書きで右側が「天皇」、左側が「御璽」)、大きさは方3寸(約9cm)、重量4.5kgの純金製です。
 明治7年(1874)、京印章の名匠、安部井櫟堂(1805~1883)が国璽と共に1年をかけて製作したと云います。
 
 国璽の方は、印文が「大日本國璽」(2行縦書で右側が「大日本」、左側が「國璽」)、字体は篆書、3寸(約9cm)四方の角印です。
 やはりこちらも純金製です。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:12Comments(0)パイポの煙

2008年10月12日

おくの細道、いなかの小道(7)-殺生石・遊行柳

 

 鳥山石円燕(1712~1788) 『今昔百鬼拾遺』より「殺生石」 by Wikipedia.
 (旧暦  9月14日)

 芭蕉忌、時雨忌、桃青忌、翁忌
 俳聖芭蕉、松尾宗房の元禄7年10月12日(1694年11月28日)の忌日。亡くなったのは旧暦の10月12日ですが、現在では新暦の10月12日を忌日とするそうです。
 俳号は、最初は実名の宗房、次に桃青、ついで芭蕉(はせを)と改めたようですが、時雨は、俳諧七部集の一つ猿蓑の「初時雨 猿も小蓑を欲しげ也」などと好んで詠んだ句材でもあったため、時雨忌とも云われています。

 ということで、なんと今日は、芭蕉翁が亡くなった日ではござらんか。
 
 野を横に 馬牽(ひき)むけよ ほとゝぎす

 十六日 天気能(よし)。翁、館(黒羽の浄法寺図書の館)ヨリ余瀬ヘ被立越(立ち越さる)。則(すなはち)、同道ニテ余瀬ヲ立。及昼(昼に及び)、図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ被送(送ら)ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。此間弐里余。
高久ニ至ル。雨降リ出ニ依、滞(とどま)ル。此間弐里半余。宿角左衛門、図書ヨリ状被添(添えらる)。

 十七日 角左衛門方ニ猶宿(なほ宿る)。雨降。野間ハ太田原ヨリ三里之内鍋かけヨリ五、六丁西。

 十八日 卯尅(午前6時頃)、地震ス。辰ノ上尅(午前7時半頃)、雨止。午ノ尅(正午頃)、高久角左衛門宿ヲ立。暫有テ快晴ス。馬壱疋、松子村迄送ル。此間壱リ。松子ヨリ湯本ヘ三リ。未ノ下尅(午後2時半頃)、湯本五左衛門方ヘ着。

 一九日 快晴。予、鉢(托鉢)ニ出ル。朝飯後、図書家来角左衛門ヲ黒羽ヘ戻ス。午ノ上尅(午前11時半頃)、湯泉(ゆぜん:温泉神社)ヘ参詣。神主越中出合、宝物ヲ拝(拝す)。與一(那須與一宗高)扇ノ的躬(射)残ノカブラ(鏑矢)壱本・征矢十本・蟇目ノカブラ壱本・檜扇子壱本、金ノ絵也。正一位ノ宣旨・縁起等拝ム。夫ヨリ殺生石ヲ見ル。宿五左衛門案内。以上湯数六ヶ所。上ハ出ル事不定(定まらず)、次ハ冷、ソノ次ハ温冷兼、御橋ノ下也。ソノ次ハ不出(出でず)。ソノ次温湯アツシ。ソノ次、湯也ノ由、所ノ(者)云也。
温泉大明神ノ相殿ニ八幡宮ヲ移シ奉テ、両神一方ニ拝レサセ玉フヲ、


   湯をむすぶ 誓も同じ石清水  翁
     殺生石
   石の香や 夏草赤く露あつし


 正一位ノ神位被加(加えらる)ノ事、貞享四年(1687)黒羽ノ館主信濃守増栄被寄進(寄進せらる)之由。祭礼九月廿九日。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:59Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2008年10月11日

書(14)-杜牧-張好好詩巻

 

 張好好詩巻 杜牧 [唐] 紙本墨書 一巻 台北故宮博物院 維基百科より

 (旧暦  9月13日)

 杜牧(803~852)は、李商隠(812~858)とともに「晩唐の李杜」と称され、盛唐の杜甫(712~770)に対して「小杜」とも呼ばれて、晩唐第一の名声を欲しいままにした詩人です。

 その詩風は、「阿房宮賦」に代表される時事を諷した骨太でありながら頽廃的な情緒や滅びゆく美への感傷に独自のものを示し、艶麗で風流洒脱な詩を多く残したことにあります。

 秦の人は自ら哀しむに暇(いとま)あらずして、後の人、之を哀しむ。
 後の人之を哀しみて、之に鑑(かんがみ)ざれば、亦た後の人をして復た後の人を哀しましめん。
 「阿房宮賦」


 秦の人は哀しむ暇(いとま)もなく滅んでしまい、後の人は之を哀しむ。
 だが、後の人がただ哀しむだけで、これを手本として顧みなければ、後の人自身が、更にその後の人を哀しませることになるであろう。  「阿房宮賦」


 杜牧は自身の詩風について、「巻十六 詩を献ずる啓(上申書)」の中で、「某苦心して詩を為(つく)る。 本、高絶を求めて奇麗を務めず、習俗に渉らず、今ならず、古ならず、中間に處(お)る」と謙遜して述べています。

 さて杜牧は、行草書にも優れ、その書風は「気格が雄渾でその文章と表裏一体をなす」と云われていますが、伝存する作例は少なく、この「張好好詩巻」が唯一の遺品であると推測されています。

 「張好好詩巻」は、詩序併せて48行、322字の遺品です。
 太和8年(834)、杜牧32歳の作ですが、歌を唱うのに秀でた名妓張好好に、時を経て再会し、その時の感慨を詩に託して彼女に贈ったものです。

 巻の初めと終わりに、宋代から清代にわたって所有した多くの文人、皇帝の題簽(だいせん:署名)、題跋(あとがき)、印記(押印)が残されていますが、それによると、かつては北宋の宣和内府(北宋第8代皇帝徽宗の内庭)に所有され、その後南宋の軍人、政治家にして無類の美術収集家であった賈似道(1213~1275)の所有に帰し、明代屈指の書画収蔵家の項元汴(1525~1590)、張孝思の手を経て清朝内府に渡り、第6代乾隆帝弘歴(1711~1799)、第7代嘉慶帝顒琰(ぎょえん:1760~1820)を経て、ラストエンペラー宣統帝溥儀(1906~1967)の鑑賞を受けました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:51Comments(0)

2008年10月10日

漢詩(22)-毛澤東(1)-沁園春 雪



 Overview map of the route of the Long March by Wikipedia.
 Red-hatched areas show Communist enclaves. Areas marked by a blue "X" were overrun by Kuomintang forces during the Fourth Encirclement Campaign, forcing the Fourth Red Army (north) and the Second Red Army (south) to retreat to more western enclaves (open dotted lines). The solid dotted line is the route of the First Red Army from Jiangxi. The withdrawal of all three Red Armies ends in the northwest enclave of Shanxxi.

 (旧暦  9月12日)

 素逝忌  落葉を詠んだ句が多かったので、「落葉リリシズム」ともいわれた俳人、長谷川素逝の昭和21年(1946)の忌日。京大三高俳句会で、田中王城、鈴鹿野風呂に師事して『京鹿子』の同人となり、後に『ホトトギス』に拠る。昭和12年(1937)、支那事変に砲兵少尉として出征するも病を得て内地送還。その間の句を収録した句集『砲車』が評価されたが、結核により戦後、39歳の若さでこの世を去った。

 遠花火 海の彼方にふと消えぬ
 鴛鴦(おしどり)ねむる 氷の上の日向かな
 みいくさは 酷寒の野をおほひ征(ゆ)く


 沁園春 雪           毛澤東

 北國風光            北國の 風光は
 千里冰封            千里 冰(こおり) 封じ
 萬里雪飄            萬里 雪 飄(ひょう)たり
 望長城内外           望む 長城の内外
 惟餘莽莽            惟だ餘(あま)すは 莽莽(ほんぽん:広大なさま)たるのみ
 大河上下            大河(黄河)の 上下
 頓失滔滔            頓(とみ)に 滔滔たるを 失ふ
 山舞銀蛇            山は 銀蛇を舞はし
 原馳蠟象            原は蠟象(白い象)を馳し
 原指高原即           原は高原を指す、即ち
 秦晉高原            秦晉(陝西と山西)高原なり
 欲與天公試比高         天公(空)と試みに 高きを比べんと欲す
 須晴日             晴たる日を 須(ま)ち
 看紅裝素裹           看よ 紅裝(紅い太陽)と素裹(雪で覆われた原)
 分外妖嬈            分外(格別)に 妖嬈(あでやか)ならんを
 
 江山如此多嬌          江山(祖国の山河)は此くの如く 多(いと)嬌(あでやか)なれば
 引無數英雄競折腰        無數の英雄を引きいて 競ひて腰を折らしむ(祖国のために尽くす)
 惜秦皇漢武           惜むらくは 秦皇(始皇帝嬴政:えいせい) 漢武(武帝劉徹)は
 略輸文采            略(ほ)ぼ 文采(文才)で 輸(おと)り
 唐宗宋祖            唐宗(太宗李世民) 宋祖(太祖趙匡胤)は
 稍遜風騒            稍(や)や 風騒(風流韻事)で 遜(ゆず)る
 一代天驕成吉思汗        一代(一時代中の最も有名な人物)の 天驕(匈奴の首長)  成吉思汗は
 只識彎弓射大雕         只だ 弓を彎(ひ)きて 大雕(オオワシ)を射るを識るの
 倶往矣             倶(み)な 往(す)ぎに 矣(けり)
 數風流人物           風流 人物を 數へんには
 還看今朝            還(な)ほ 今朝を看よ
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:29Comments(0)漢詩

2008年10月08日

数学セミナー(18)-一般相対性理論(4)-測地線(2)

 

 Artist's impression of a binary system consisting of a black hole and a main sequence star. The black hole is drawing matter from the main sequence star via an accretion disk around it, and some of this matter forms a gas jet by Wikipedia.
 
 ブラックホールとその伴星GRO J1655-40についてのアーチストによる想像図。伴星 GRO J1655-40は我々の銀河に存在するマイクロクエーサーで、ブラックホールがそれからガスを吸いとっている。青色のトーチのように描かれているのはブラックホールから光の90%のスピードで出ているジェットである。

 (旧暦  9月10日)


 数学セミナー(17)-一般相対性理論(3)-測地線(1)のつづき


 いま、経路の変化については事象AとBを動かさないとしているので

 

 この経路の変化で、

 

 となる条件は、次式であらわされます。

 

 この条件が成り立つためには、[ 被積分項 ] が0になることが必要です。

 

 この形の方程式は、オイラー・ラグランジュ方程式(Lagrange's equations)と呼ばれます。

 

 だから

 

 したがって

 

 (17)、(18)、(19)式を(15)式に代入すると、

 

 また、

 
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:46Comments(0)数学セミナー

2008年10月07日

やまとうた(23)-夕されば 野邊の秋風身にしみて (2)

 

 オミナエシ科 オミナエシ(女郎花) by 草花写真館

 (旧暦  9月 9日) 重陽

  九月九日、山東の兄弟(けいてい)を憶(おも)ふ    王維
  
  獨り異郷に在りて異客と為り
  佳節に逢ふ毎に倍(ます)ます親を思ふ
  遙かに知る 兄弟(けいてい) 高きに登る処
  徧(あまね)く茱萸(しゅゆ)を挿すも 一人を少(か)かん


 やまとうた(22)-夕されば 野邊の秋風身にしみて (1) のつづき

 深草の里に住み侍りて、京へまうでくとて、そこなりける人によみて贈りける 

                                         なりひらの朝臣
 年をへて すみこし里を出でていなば いとど深草野とやなりなむ (古今集971)

 
 年を経て住んで来た里を去ったならば、ますます草が深く茂り、深草の里(平安京の南郊)は草深い野となるだろうか。

 返し
 野とならば うづらと鳴きて年は経む かりにだにやは君はこざらむ (古今集972)
 

 ここが草深い野となったならば、私はうずらになって鳴きながら年を経よう。せめてかりそめにも、せめて狩りのついでにでも、あなたが来ないとも限らないのだから。

 この古今集の歌をモチーフに、伊勢物語第123段には「鶉」あるいは「深草」と題する1段が記載されています。

 むかし、おとこありけり。深草にすみける女を、やうやうあきがたにや思ひけむ、かゝるうたをよみける。
 年をへて すみこしさとをいでゝいなば いとゞ深草野とやなりなむ
 女、返し、
 野とならば うづらとなりてなきをらむ かりにだにやは君は来ざらむ
 とよめりけるにめでゝ、ゆかむと思ふ心なくなりにけり。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:40Comments(0)やまとうた

2008年10月06日

やまとうた(22)-夕されば 野邊の秋風身にしみて (1)

 

 キキョウ科 キキョウ by 草花写真館

 (旧暦  9月 8日)

 百首歌奉りける時、秋歌とてよめる
                                   皇太后宮大夫俊成
 夕されば 野邊の秋風身にしみて うづらなくなり深草の里 (千載集 259)


 千載集を代表する平安末期の歌人藤原俊成(1114~1204)の秀作ですが、この歌に難癖をつけた東大寺の僧、俊恵法師(1113~1191?)の歌評の方が正当視されていることにお怒りになっている方もいらっしゃるようです。

 方丈記で有名な鴨長明(1156~1216)は、賀茂御祖(かもみおや)神社の神事を統率する鴨長継の次男として生まれ、俊恵の門下に学んで歌人としても活躍しましたが、その歌論書『無名抄』に「俊成自讃歌事」という和歌に関する評論を残しています。

 「俊成自讃歌事」
 俊恵云(いはく)、五條三位入道の許(もと)にまうでたりしついでに、御詠の中にはいづれをかすぐれたりとおぼす。人はよそにてやうやうに定(さだめ)侍れど、それをばもちゐ侍べからず。まさしくうけたまはらむと思(おもふ)ときこえしかば、

  夕されば 野邊の秋風身にしみて うづらなくなり深草の里

これをなむ身にとりてのおもての歌と思給ふるといはれしを、俊恵又云、世にあまねく人の申侍るは、

  面影に 花のすがたをさきだてて いくへこえきぬ峯の白雲

是をすぐれたる様に申侍はいかにときこゆれば、いさよそにはさもやさだめ侍らむ、しり給はず。尚みづからはさきの歌にはいひくらぶべからずとぞ侍りしとかたりて、これをうちうちに申しは、
   俊恵難俊成秀歌事 此詞イ本無之
彼の歌は身にしみてというこしの句、いみじう無念におぼゆるなり。これほどになりぬる歌は、けいきをいひながして、ただそらに身にしみけむかしとおもはせたるこそ心にくくもいうにも侍れ。いみじくいひもてゆきて歌の詮とすべきふしをさはさはとあらはしたれば、むげにことあさくなりぬるなりとぞ。其次にわが歌の中には
俊恵歌

  三吉野の 山かきくもり雪ふれば 麓の里はうちしぐれつつ

是をなむかのたぐひにせむと思給ふる。もし世の末におぼつかなくいふ人もあらば、かくこそいひしかとかたり侍べしとぞ。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:42Comments(0)やまとうた