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2012年11月18日

青山霊園(1)ーなりたち

  

 晩秋の青山霊園桜並木

 (旧暦10月5日)

 晩秋の一日、早朝に板橋村を出発して滝野川〜大塚〜茗荷谷〜江戸川橋〜牛込天神町〜市ヶ谷加賀町〜曙橋〜四谷三丁目〜信濃町〜青山二丁目〜青山霊園とジョギングをしてきました。

 目的地の青山霊園は東京都が管理する公営墓地で、わが国最古の公共霊園のひとつです。面積は約二十六万平方メートル、明治五年(1872)、美濃郡上藩四万八千石青山家の下屋敷跡に開設されましたが、当初は神道の葬儀の神葬祭墓地でした。

 徳川幕府が編纂した江戸の地誌『御府内備考』には、

 青山は天正十九年(1591)青山常陸介忠成が宅地を賜りし地なり。或云、青山忠成十万石の時は、今の青山の地一円に屋敷也。その後忠俊、幸成兄弟街道を隔て住す。 (中略)
 後年次第に上げ地となりて、青山氏の上げ地といふべきを下略して青山と呼びしより、おのずから一つの地名となり。又其近き辺をもかの名をおし及ぼして、ともに青山といひしかば、今は広き地名となれり。


 と記されています。

 つまり青山の地名は、徳川家康の譜代の重臣青山忠成(1551〜1613)が原宿村を中心に赤坂の一部から上渋谷村にかけての広大な土地を屋敷地として拝領したことに由来するようです。

 

 青山霊園案内図
 
 青山氏は、『寛政重修諸家譜』に、

「花山院堀川師賢の子信賢、その子師資、其の嗣師重、初めて青山と称す」

とあり、後醍醐天皇の忠臣であった花山院師賢(1301〜1332)の孫師重が、後醍醐天皇の孫の尹良親王が三河から上野国に移った時、これに従って吾妻郡青山郷(群馬県中之条町)に住んで青山氏と称したのに始まるとされています。

 美濃国郡上八幡藩の青山氏の先祖は大職冠の後裔で、その孫房前を祖とする藤原北家から十二代目の大納言藤原師実の子家忠が花山院氏の祖となり、花山院氏十代目師資の子師重が上野国吾妻郡青山郷(現群馬県吾妻郡中之条町青山)に居住して青山氏を名乗った。

 大職冠とは大化三年丁未(644)に制定された位階の最高位で、臣下では藤原鎌足が初めて授けられたことから鎌足の別称とされる。

 花山院は清和天皇の皇子式部卿貞保親王の邸宅があったところで東一条、東院とも称され、周囲に花木が多く植えてあって花山と呼ばれたことから花山院の名がつけられ、後に藤原師実が伝領してその子家忠の代にこの花山院を氏号としてその祖となった。

 建武三年丙子(1336)に後醍醐天皇は邸宅花山院を仮皇宮として吉野へ移り、応仁元年丁亥(1467)に起った応仁の乱で花山院は焼失した。 青山氏の祖師重は新田一族とともに尹良(ただよし)親王を奉じて南朝に合流しようと信州浪合に至った応永三年丙子三月(1396)に北朝軍に攻撃されて壊滅した。このとき師重の子次郎丸が逃れて三河に至り酒井家で育てられ、その子権之丞光教が松平氏に臣従して三河松平氏三代目信光(泰親の子で、家康の曽祖父信忠の曽祖父)の岩津城入城に従い百々(どうどう)村に所領を与えられた。

光教から忠治[明応二年癸丑(1493)没]─長光─忠教─清治[天文四年乙未(1535)没]─忠康─忠門と続き、忠門の子忠成の二男忠俊の系統は宗家として江戸期を通じ、大坂城代、老中などの幕府要職に就き、常陸国江戸崎藩主、武蔵国岩槻藩主、信濃国小諸藩主、遠江国浜松藩主、丹波国亀山藩主などを経て、寛延元年戊辰(1748)に丹波国多紀郡篠山藩(現兵庫県篠山市)へ六万石で入封し維新を迎えて廃藩後は子爵となった。また、忠門の子忠成の三男幸成の系統は分家として、幸道の代に美濃国郡上八幡藩へ移封して四万八千石を領し維新を迎えて廃藩後は子爵となった。
『明宝寒水史』 郡上八幡藩青山氏(他説もある)


 藤原師実流青山氏として始めて記録に残る青山忠門(1519〜1571)は、松平宗家で家康の父である松平廣忠(1526〜1549)に臣属していましたが、主君廣忠が死去すると今川家の人質になっていた嫡男家康の帰還を待って仕え、元亀二年(1571)辛未四月に甲斐の武田信玄が遠江の郷民と盟約して岡崎城に押し寄せた際、岩津村で戦って負傷し、同月七日に五十四歳で死去したと伝えられています。

 忠門の嫡男忠成(1551〜1613)は早くから家康に近仕していましたが、元亀二年(1572)、二十一歳の時に父忠門が武田氏の三河侵攻による戦いがもとで死亡した事により、その家督を継いでいます。
 天正十三年(1585)、家康の三男秀忠の傳役(ふやく)となり、天正十六年(1588)、秀忠十一歳の時に上洛した際、随従して秀吉から従五位下常陸介に叙任されました。
 天正十八年(1590)、家康の関東入国後は御書院御番頭に任ぜられ相州佐間(相模国高座郡座間)に五千石の領地を賜っています。
 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いには秀忠に従軍して遅参しましたが、同年十一月には播磨守となり、翌年には常陸国江戸崎に一万八千石を与えられて大名に列しています。さらに慶長八年(1603)の幕府開設後も、江戸奉行、関東総奉行を兼任し、本多正信、内藤清成と並んで幕政の中枢を担っています。
 
 この忠成の四男幸成(1586〜1643)の五代の後胤幸道(1725〜1579)が、宝暦八年(1758)に美濃郡上藩四万八千石に移封され、幕末に至っています。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:50Comments(0)青山霊園