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2011年07月23日

漢詩(28)ー毛澤東(2)−沁園春 長沙

 

 橘子洲

 (旧暦6月23日)

 沁園春 長沙
 一九二五年


 獨立寒秋        獨り 寒秋に立てば
 湘江北去        湘江は 北に去る
 橘子洲頭        橘子洲頭(きつししゆうとう)
 看萬山紅遍       看よ 萬山の紅きこと遍(あまね)く
 層林盡染        層林 盡(ことごと)く染まるを
 漫江碧透        漫江 碧(あお)く透み
 百舸爭流        百舸 流れに爭ふ
 鷹撃長空        鷹 長空を撃ち
 魚翔淺底        魚 淺底に翔(ひるが)へる
 萬類霜天競自由     萬類 霜天に自由を競ふ
 悵寥廓         寥廓を悵(なげ)き
 問蒼茫大地       蒼茫たる大地に 問ふ
 誰主沈浮        誰か 沈浮を主(つかさど)ると

 携來百侶曾游      百侶を携へ來りて 曾て游べり
 憶往昔 崢嶸歳月稠   往昔を憶へば  崢嶸(さうくわう)として  歳月 稠(おほ)し
 恰同學少年       恰(まさ)に 同學 少年にして
 風華正茂        風華 正に茂れる
 書生意氣        書生の 意氣は
 揮斥方遒        揮斥(きせき)して 方(まさ)に遒(つよ)し
 指點江山        江山を 指點(してん)し
 激揚文字        文字に 激揚し
 糞土當年萬戸侯     當年の 萬戸侯を糞土とす
 曾記否         曾て 記すや否や
 到中流撃水       中流に到りて 水を撃てば
 浪遏飛舟        浪 飛舟を 遏(とど)めたるを


 独り 晩秋の岸辺にたたずめば
 湘江は北へ流れ去る
 橘子洲の南端
 見よ 山々は全て紅く
 山腹に重なる木々は ことごとく紅葉となる
 水面は一面 青く澄み
 多くの舟が 流れに逆らって上る
 鷹は大空を羽ばたき
 魚は浅瀬でひるがえる
 命あるもの 霜天の下 自由に生きる
 天を恨み
 果てしなく広がる大地に問う
 人の世で 誰が浮き沈みを司っているのか

 かつて多くの友人と集い来て この地で青春を過ごした
 昔を顧みれば なみなみならぬ歳月が積み重なる
 私たちは皆若く
 花の盛りだった
 書生の意気は
 奔放でまさに強く
 国事を論じ
 文章に激昂し
 世の軍閥を罵倒した
 友よ 覚えているだろうか
 湘江の中ほどで水を撃ち 
 祖国の回復を誓ったとき
 激しい波が 飛ぶように速い舟さえ止(とど)めようとしたことを


 詞は、中国における韻文形式あるいは歌謡文芸の一つとされています。
詞調に合わせて詞が作られますが、詞調には特定の名称が決められており、これを詞牌と呼んでいます。詞の題名には詞牌が使われており、詩のような内容による題はつけられないきまりがありますが、その代わりに詞牌の下に詞題が添えられたり、小序が作られたようです。

 「沁園春」はこうした詞牌のひとつで、114字、双調(詞の段落が上下2つある形式)から成り立っています。
 したがって、詞牌が「沁園春」、詞題が「長沙」となるようですね。

 『沁園春 長沙』は毛澤東数え年33歳の作で、公表された作品の中ではこれが一番早く、「壮年期に達した作者が心中に決意するところがあって過去を追想し、自己の前半生に一種の総括を行っているので、今後の詩の世界の導入部の役割を果たしている」と竹内実氏はその著『毛沢東その詩と人生』で述べています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 13:13Comments(0)漢詩

2011年07月09日

秋津嶋の旅(17)ー東山道(1)ー旧制松本高等学校

  

 あがたの森公園 旧制松本高等学校跡地  

 (旧暦6月9日)

 鴎外忌  明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、劇作家、陸軍軍医総監であった文豪森鴎外の大正11年(1922)年の忌日。

 遺言
 余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリコヽニ死ニ臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ手続ハソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス
 大正十一年七月六日


 早稲田大学マニフェスト研究所の議会改革調査部会による議会改革度調査2010総合ランキングで日本一に輝いた松本市議会出張のついでに、若き日のあこがれの地、信州松本の旧制松本高等学校跡地を訪れました。

 旧制松本高等学校は、フランス文学者中島健蔵(1903〜1979)、文芸評論家唐木順三(1904〜1980)、小説家臼井吉見(1905〜1987)、フランス文学者辻邦生(1925〜1999)、小説家北杜夫(1927〜)などの錚々たる文学者を輩出していますが、私「嘉穂のフーケモン」が尊敬する東洋史学者で、『科挙』『九品官人法の研究』などの著作でも有名な宮﨑市定博士(1901〜1995)やトーマス・マンの翻訳で知られるドイツ文学者望月市恵先生(1901〜1991)の出身校でもあります。

 また、「ヒルさん」、「蛭公」の愛称で慕われた名物教授、蛭川幸茂先生(1904〜1999)が数学の教鞭を執っておられたことでも知られています。
 旧制高校と旧制高校生をこよなく愛し、陸上競技部の部長でもあった蛭川先生は、東京帝国大学理学部数学科を卒業してすぐの大正15年(1926)4月に松本高等学校に赴任していますが、松高赴任時は満22歳で、日本で一番若い旧制高等学校の先生であったそうです。そのために、32名もの年上の生徒が在籍していたそうですが・・・。

 「ヒルさん」のエピソードについては、北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』に詳しく描かれていますが、その一節に、

 蛭川幸茂というその先生は、生徒からヒルさん、或いはヒル公という愛称でしか呼ばれなかった。身なり風体をかまわぬこと生徒以上であった。伝説であろうが、松高に赴任してきたとき、物売りと間違えられ、受付で追い払われたと伝えられている。
 (中略)
 服装はもっとも悪い。荒縄を帯代りにして着物をしばっていたこともある。私もこの先生をはじめて見たときは乞食だと思った。ヒルさんは陸上競技部の部長であったから、校庭で砲丸を投げたり走ったりしている。乞食がなんであんな真似をしているのか、さすが高等学校というところは変った場所だと思った。ヒルさんはインターハイなどへ行っても、グラウンドでムシロをかぶって寝たりするので、頻々と乞食と間違えられた。

とあります。

 以前、中日新聞社にお勤めの蛭川先生のお孫さん(女性)が書かれた本があったかと思いますが、その本に載せられていた蛭川先生の容貌は、とても高等学校の先生とは思えないような、あえて言えば山賊のような容貌であったと記憶しています。

 北杜夫は、蛭川先生のことを「髭づらで容貌は野武士のごとくである。」と書いていますが、それは恩師だから遠慮したのであって、この先生が着物を荒縄でしばって現れると、本当に乞食か山賊としか思えない容貌でしたね。

 そういえば我らが農学校時代の応援団顧問の先生も、名物と云えば名物。
 北海道帝国大学予科最後の教授というのが自慢であり、その後新制北海道大学で長く統計学の教鞭を執られた「やまげん」こと山元周行先生に関しては、下記のような論文まであります。

 前略
 「統計学」の教科書は今で もときどき見ることがある。ご担当の山元周行先生の試験問題に解答できないときは、 「明治45年度恵迪寮歌 都ぞ弥生」の1番から5番までを漢字で書けば単位を下さる、という噂があったが、真偽のほどは確かめていない。
 静岡県立大学短期大学部 一般教育研究会誌(1)-2 (2001)
 『私の一般教育 My Liberal Arts』  原田 茂治 HARADA Shigeharu 
 
 (http://oshika.u-shizuoka-ken.ac.jp/faculties/liberal_arts/005/upimg/1_2_harada.pdf

 ちなみに、私「嘉穂のフーケモン」は山元先生にはお世話になりましたが、先生の「統計学」は受講していないので、やはり、真偽のほどは明らかではありませぬ。
 かつて、昭和の御代に北大創起百年記念祭があり、大学から大通り公園まで提灯行列を行いましたが、そのときに山元先生が、「いや〜○○君(私のこと)、札幌で提灯行列を行うのは南京陥落以来ですよ。」とおっしゃられたのを、昨日のことのように思い出します。
 南京陥落は昭和12年12月13日だったから、北大創起百年記念祭当時でも40年近く経っており、「先生はえらい昔のことをおっしゃるものだ。」と妙に感心したのが記憶に残っています。

 ところで山元先生は、『競争均衡分析における均衡存在定理』(Equilibrium existence theorems in competitive equilibrium analysis)という論文で理学部数学科の博士号を取られている偉い先生のようですが、酒を飲んで寮歌を歌っている姿しか見かけたことはありませんな。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:35Comments(0)秋津嶋の旅