さぽろぐ

  文化・芸能・学術  |  札幌市中央区

新規登録ログインヘルプ


2013年04月02日

おくの細道、いなかの小道(18)−松島(2)

 

 松島

 (旧暦2月22日)

 連翹忌
 詩人・彫刻家高村光太郎の昭和31年の命日。高村が生前好んだ花がレンギョウであり、彼の告別式で棺の上にその一枝が置かれていたことに由来する。

 

 髙村光太郎29歳の写真

 松島や鶴に身をかれほとゝぎす   曾良

 元禄二年五月九日(1689年陽暦6月25日)辰ノ尅(午前8時頃)、塩竈明神に参拝した芭蕉翁一行は、「おくのほそ道」の本文によれば、お昼近くに舟をやとい、塩竃の津から松島を目指して漕ぎ出しました。
 千賀ノ浦(塩竃湾)・籬島・都島等を眺めながら海上二里余り、磯伝いに松島に向かったものと推測されています。

 一 九日
 快晴。辰ノ尅、塩竈明神ヲ拝。帰テ出船。千賀ノ浦・籬島・都島等所々見テ、午ノ尅松島ニ着船。茶ナド呑テ瑞岩寺詣、不残見物。開山、法身和尚(真壁平四良)。中興、雲居。法身ノ最明寺殿被宿岩屈(窟)有。無相禅屈(窟)ト額有。ソレヨリ雄島(所ニハ御島ト書)所ゝヲ見ル(とみ山モ見ユル)。御島、雲居ノ坐禅堂有。ソノ南ニ寧一山ノ碑之文有。北ニ庵有。道心者住ス。帰テ後、八幡社・五太堂ヲ見。慈覺ノ作。松島ニ宿ス。久之助ト云。加衛門状添。
『曾良随行日記』


 江戸前期の幕府の儒学者林鵞峰(号は春斎、1618〜1680)は、寛永二十年(1643)に著した『日本國事跡考』のなかで陸奥國松島のことを、

 松島此島之外有小島若干。殆如盆池月波之景、境致之佳興丹後天橋立安藝嚴島、爲三処奇觀。
 松島、此ノ島ノ外ニ小島若干(そこはく)有リ。殆ント盆池月波ノ景ノ如シ、境致ノ佳ナル、丹後天橋立、安藝嚴島ト三処ノ奇觀ト爲ス。

 と記しました。

 

 『日本國事跡考』 

 また、芭蕉らの旅と時を同じくして、元禄二年(1689)閏正月、筑前福岡藩の儒学者貝原益軒(1630〜1714)は丹波丹後若狭を旅して、天橋立を訪れた様子をその著『己巳紀行(きしきこう)』(丹波丹後若狭紀行)に記しています。

 二十八日。
 (中略)
 文殊堂の側(かたはら)より一町斗(ばかり)の後(うしろ)を舟にて越(こへ)て、天の橋立に至り、明神に参詣す。社(やしろ)、大ならず。社(やしろ)の側(かたはら)に「磯清水」とて井(ゐ)有(あり)。和泉式部、此所に來たり、「橋立の松の下なるいそしみずみやこなりせばくまましものを」と詠ず。清水の前に石碑を立(たて)たり。其文(そのぶん)は、弘文院書之(これをかく)。又、式部が歌をものせたり。是亦(これまた)、永井尚長の所立(たつるところ)也。毎年六月廿五日に祭礼あり。橋立に松多し。甚(はなはだ)、美也。是より江の尾までの十町斗(ばかり)の間、海中に一条(ひとすぢ)のひきゝ沙原(すなはら)の岡あり。横は七八間、十餘間、廿間にたらず。老松茂れり。此十町許(ばかり)の所、恰(あたかも)、海中に橋をわたせるが如し。故に「橋立」と號すならん。
 (中略) 
此坂中より、天橋立、切戸の文殊、橋立東西の與謝(よさ)の海、阿蘇の海、目下に在て、其景絶言語(げんごをぜつす)。日本の三景の一とするも宜(むべ)也。今日、雨天なりといへ共、幸にして、山上にのぼりし時、雨やみ雲はれて山水の景色よく見えたり。


 この「日本の三景の一とするも宜也」と記しているところが文献に初見とされ、益軒が訪れる以前から「日本三景」が一般に知られていたと考えられているようです。

 文化財保護法第百九条2項により、昭和二十七年(1952)に国の特別名勝に指定された松島の領域は、現在の七ヶ浜町、塩竈市、利府町、松島町、東松島市の二市三町にまたがり、松島湾、塩釜湾や外洋に二百六十余りの島々が絶景を織り成しています。

 松島は、仙台平野を南北に分ける松島丘陵の東端が海にまで達し、それが沈降(subsidence)して出来たリアス海岸(ria coast)で、溺れ谷(drowned valley)に海水が入り込み山頂が島として残った多島海(archipelago)であると説明されています。
 湾内の水深は10メートル以内であり、大部分の地層は古第三紀および新第三紀層(6430万年前から260万年前まで)の凝灰岩、砂岩、礫岩などから成り、侵食に非常に脆い岩質のため、波に洗われる部分は容易に侵食されています。  
 多くの小島は上部に松などが植生し、海面に近い基部は白から灰白色の岩肌を見せており、海水面近くが波に洗われて鋭角に浸食され、キノコ状になったものもみられます。

 

 千貫島。伊達政宗お気に入りの島だったと言われている。

 雄島が磯は地つゞきて海に出たる島也。雲居禪師の別室の跡、坐禪石など有。

 雲居(うんご)禪師(1582〜1659)は江戸前期の臨済宗の僧で、諱は希膺(きよう)、その禅堂を把不住軒(はふじゆうけん)と号としました。土佐の人で、禅を志して上洛し、妙心寺蟠桃院の一宙東黙(1552〜1621)に師事しました。

 寛永十三年(1636)五月、初代藩主伊達政宗の死去にともない家督を相続して二代藩主となった伊達忠宗(1600〜1658)は、父政宗の遺命により、同年八月二十一日、雲居禅師を第九十九代青龍山円福瑞岩禅寺(瑞巌寺)の住持として迎えました。

 寛永十三年
 師五十五歳。此の夏、仙台中納言政宗、千里に使を遣わし、師を松島に請するも辞して来らず。其の歳、政宗逝去す。嗣君忠宗、先考の遺意を以て、再び福浦の洞水初首座に和会して書使を具え、花園智勝院の単伝和尚に寄せて、勝尾三請の義を助発せしむ。師、再三辞譲するも拒むこと能わざるをしいられ、了に服す。
 『松島瑞巌中興大悲円満国師雲居和尚年譜』


 慶長十四年(1609)三月二十六日、初代藩主伊達政宗により再建された瑞巌寺は、第九十八代住持、碧堂智崔が没したあと十年間無住となっていました。
 こうした状況を憂えた政宗は、寛永十三年(1636)、自身の学問の師である虎哉宗乙(1530〜1611)の孫弟子、洞水東初(1605〜1671)に瑞巌寺の住持を懇請しましたが、洞水は若年を理由に断り、代わりに高名な雲居禅師を推薦しました。  
 政宗は二度にわたって雲居禅師に使者を遣わして入山を要請しましたが雲居禅師はこれに応じず、三度目に洞水東初を使者として遣わすことなりました。しかし、その返答を聞くことなく政宗は寛永十三年(1636)五月二十六日、その七十年にわたる波乱の生涯を閉じました。
 雲居は、同年八月二十一日、先代政宗と二代忠宗の強い要請を聞き入れて第九十九代住持として来松し、翌月、政宗の百ヶ日忌を営んでいます。


 雲居禅師は瑞巌寺の臨済宗妙心寺派としての基礎を築いて中興開山と仰がれ、生前に特賜慈光不昧禅師号をおくられ、死後に勅諡大悲円満国師号をおくられています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:04Comments(0)おくの細道、いなかの小道