さぽろぐ

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2005年03月29日

秋津嶋の旅(4)−吾妻の国(2)-横浜ランドマークタワー

 

 スカイガーデンからの夜景

 (旧暦  2月20日) 立原道造忌 詩人立原道造の昭和14年(1939)の忌日。

 平成16年2月1日、横浜高速鉄道株式会社を事業主体とする「みなとみらい線」が開通し、横浜から元町・中華街が直接結ばれるようになりました。

 また、板橋村の住人も、都営三田線と東急東横線および「みなとみらい線」との相互直通運転により、武蔵小杉経由で「みなとみらい線」の終点元町・中華街まで、約1時間20分ほどで行くことができるようになり、横浜中心部がより身近となりました。

 ということで、筑紫の国から妹が上京してきたこともあり、初めて横浜ランドマークタワーと中華街に行ってきました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 07:25Comments(0)秋津嶋の旅

2005年03月24日

パイポの煙(15)−博多人形もびっくり

 

 福岡県西方沖地震による志賀島周回道路上の崖崩れ

 

 (旧暦  2月15日)

 檸檬忌  作家梶井基次郎の昭和7年(1932)の命日。代表作の『檸檬』にちなみ檸檬忌と呼ばれる。

 このところ地震が相次いでいますが、3月20日に発生した「福岡県西方沖地震」では、日頃地震災害などは関係ないと思っていた我が古里筑紫の国の住人たちも、さぞかしびっくりしたことでしょう。

 何しろ、彼らにとっては今時世界大戦による福岡空襲よりも、文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)による元寇の方が未だに強烈な印象を残しており、まあ、それ以外は大した災害のない平和な土地柄だったからでしょうかね。

 ちなみに福岡空襲では、昭和20年(1945)6月19日、マリアナ基地を出発したB29爆撃機221機が、有明海から背振山地を越えて西南部方面から福岡市内に侵入、午後11時過ぎから市内の東部ならびに西部地区に焼夷弾が投下され、約2時間にわたる空襲で福岡市街は焦土と化し、死者902人、行方不明244人、負傷者1,078人という甚大な被害を受けました。

 

 福岡市戦災略図 

 「博多の空が真っ赤に燃えとった」と死んだばあちゃんも良く云っていましたが、それでも福岡以外では他人ごと。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:59Comments(0)パイポの煙

2005年03月21日

染井霊園(5)−若槻家のお墓

 

 (旧暦  2月12日) 和泉式部忌

 若槻禮次郎(1866〜1949)といえば、第25代および第28代の内閣総理大臣として、昭和初期の金融恐慌への対応や緊縮財政政策、金本位制の維持を図った人ですが、同じ染井霊園にある幣原喜重郎(1872〜1951)の墓所に比べると、狭くてそこらの庶民のお墓と余り変わらない簡素さだったので、ちょっと気にかかりました。

 昭和2年(1927)3月14日、震災手形善後処理法案(来る9月30日が期日となる震災手形を10年間繰り延べる法案)審議中の衆議院予算委員会で、片岡直温(なおはる)(1859〜1934)蔵相は、野党立憲政友会吉植庄一郎代議士の執拗な追及を受けます。

 この法案はあくまで金融界の安定を図るのが目的であるという片岡蔵相に対し、
 「(震災手形未決済額)2億700万円の中に、鈴木商店、其関係のものがどれだけの震災手形を出して居るかと云うことを明らかにすることは、端的に本問題を国民の疑いの眼より明らさまにする一番の近道である・・・・」と追求して、「台湾銀行などの所有する震災手形の金額を示せ」と迫ります。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:55Comments(0)染井霊園

2005年03月19日

となり村名所あんない(13)−文京村(2)-赤門

 

 御守殿門

 (旧暦  2月10日)

 東京大学(本郷7丁目)のシンボル「赤門」は、11代将軍家斉(在1787〜1837)の娘溶姫(やすひめ)が、文政10年(1827)、加賀藩102万5千余石第13代前田斉泰(なりやす)に嫁いだときに造営された薬医門で、両側に唐破風造りの番所があり、千鳥の棟瓦には三葉葵の徳川家の紋、軒の丸瓦には前田家の梅鉢の家紋があしらわれた最高の格式の武家屋敷門です。

 将軍家の権勢を象徴する丹塗りの門としては現存する唯一のもので、国の重要文化財に指定されています。 

 我が板橋村でも金沢との交流姉妹都市を結んでおり、何とか板橋村を観光面でアピールしたいのですが、如何せん、文京村は上屋敷、板橋村は下屋敷、文京村は東京大学、板橋村は「嘉穂のフーケモン」の邸宅(?)と知名度においては全く比較になりません。残念!  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 06:44Comments(0)となり村名所あんない

2005年03月18日

書(6)−蘇軾(2)−『黄州寒食帖』

 

 東坡此詩似李太白 
 猶恐太白有未到處
 此書兼顏魯公楊少師李西臺
 筆意
 試使東坡 
 復為之 未必及此 它日
 東坡或見此書 應 
 笑我於無佛處 稱尊也 

 
 黃州寒食帖 黃庭堅跋文 [北宋] 紙本墨書 一巻 台北故宮博物院 維基百科より

 (旧暦  2月 9日)

 小町忌  平安時代の歌人小野小町の忌日。生没年は不詳。

 蘇軾(1)−『黄州寒食帖』のつづき

 蘇東坡の書は宋代の「尚意」の書風を代表しているとされています。

 書法の芸術思想や精神、風格などはそれぞれの時代によって異なっていますが、これらの違いを 「商周尚象、秦漢尚勢、晋人尚韻、唐人重法、宋人尚意、元明取姿媚、清人論質」のように形容して言われています。

 商周時代の書法(文字)は象(形)を重視し、秦漢時代の書法は勢(筆勢、形勢)を重視し、晋時代の書法は韻(心にいつまでも残る含蓄、意趣、味わい)を重視し、唐時代の書法家は法(規律、規則)を重視し、宋時代の書法家は意(情感、意趣)を重視し、元明時代の書法は姿媚(形態が美麗で感動的なこと)を追求し、清時代の書法は質(本質)を論議し探究しているとの意味です。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:51Comments(0)

2005年03月17日

書(5)−蘇軾(1)−『黄州寒食帖』

 

 自我來黃州 已過三寒食
 年年欲惜春 春去不容惜
 今年又苦雨 兩月秋蕭瑟
 臥聞海棠花 泥污燕支雪
 闇中偷負去 夜半真有力
 何殊病少年(子點去) 病起鬚已白
 
 春江欲入戶 雨勢來不已
 (雨點去)小屋如漁舟 濛濛水雲裏
 空庖煮寒菜 破燒濕葦
 那知是寒食 但見烏銜紙
 君門深九重 墳墓在萬里
 也擬哭塗窮 死灰吹不起
 
 右黃州寒食詩帖二首 


 黃州寒食帖 蘇軾 [北宋] 紙本墨書 一巻 台北故宮博物院 維基百科より

 (旧暦  2月 8日) 月斗忌  俳人・青木月斗の昭和24年(1949)の忌日。


 王安石(1021〜1086)の改革を引継ぐ「新法党」の策謀から守るため、北宋第6代の皇帝神宗(在位1067〜1085)の計らいで、黄州団練副使(名目だけの地方官職)という閑職を与えられた蘇軾(1036〜1101)が、黄州(湖北省武昌東南60kmの揚子江左岸)に左遷されたのは、元豊3年(1080)2月のことでした。

 この黄州で残された「天下第一の書」と言われるのがこの『寒食帖』であり、同じく書の傑作とされる『前赤壁賦』と共に、元豊5年(1082)、蘇軾47歳の時に書かれました。
 
 「寒食」とは、冬至の翌日から105日目の4月初旬、先祖の墓参りをする漢民族の伝統行事である清明節の頃に、火を使うことを避けて冷たい食事をとる習俗で、宋代においては、清明節の3日前と定められていました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:43Comments(0)

2005年03月16日

陶磁器(3)−白磁刻花蓮花文洗(宋代/定窯)

  

 劃花纏枝蓮紋葵瓣口碗 宋 定窯 高6.8cm 口径19.2cm 足径5.7cm

 (旧暦  2月 7日)
 
 北京から京漢線(北京〜漢口)に沿って走るハイウエイで南西に向かって約250kmほど行くと、河北省曲陽県に定州市があります。
 この地は、晩唐から五代十国(907〜960)のころは、中原防衛の重要拠点であったため、たびたび戦禍にみまわれ、街は何度も焼き尽くされましたが、北宋が統一を果たすと、交通の要衝にあるため、人馬文物が往来して商工業が発展しました。

 この街に、宋の五名窯の一つである定窯と呼ばれる白磁の技術が発達しました。

 磁器の色は、胎土(陶磁器の素地となる土)と釉薬の成分で決まるとされていますが、鉄や銅などの不純物が含まれていると、焼成したときに発色して白くならないので、鉄分を取り除く精錬と不純物を含まない素地を練り上げることに大変な技術がいるようです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:52Comments(0)陶磁器

2005年03月15日

板橋村あれこれ(9)−渋沢栄一翁銅像

 

 渋澤榮一翁像(1840〜1931)

 (旧暦  2月 6日)

 栄町35番地の板橋養育院内には、渋沢栄一翁の銅像があります。

 渋沢栄一(1840〜1931)は、天保11年(1840)武州榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)に生まれましたが、実家は豪農で、少年の頃は尊皇攘夷思想に走り、高崎城を乗っ取り、横浜を焼き討ちにして、幕府を倒す計画をたてたこともありました。

 しかし、7歳より漢籍を学んだ従兄の尾高惇忠の弟長七郎の説得により中止します。その後京都に向かい、元治元年(1864)には一橋家家臣の平岡円四郎の推薦により一橋慶喜に仕えることになります。

 慶応3年(1867)、徳川慶喜の弟徳川昭武が万国博覧会使節になったため、随行して欧州に渡り、欧州で近代産業を学び帰国。明治2年(1869)、明治新政府に招聘され、大蔵省租税司となり税制改革などを担当しました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:40Comments(0)板橋村あれこれ

2005年03月14日

アメリカ(3)−最初の人々

 

 Language families of North American indigenous peoples.

 (旧暦  2月 5日)

 元麿忌 詩人・千家元麿の昭和23年(1948)の忌日。

 考古学による発掘調査によれば、1万2千年前までには、今日のシベリアにいた人々は、最後の氷河期に出来たべーリンギアと呼ばれる草の生えたツンドラ状の陸路を通って、南北アメリカ大陸の概ね全域に住むようになったと云われています。

 そして、紀元前1500年までには、特定の経済があり、言語と文化を持ち、さらには商取引の複雑なネットワークや政治組織、宗教慣行を持つ先住民社会が、多数存在するようになっていたと推測されています。

 紀元前1500年頃、北アメリカだけで600の独立した集団が認められ、170以上の異なる言語を話し、1400万から5000万の総人口を数えたと推計されています。

 驚くほど多様な文化、驚くほど多くの人々、北アメリカは、コロンブスに代表されるヨーロッパ人の言うように、決して未開の大地ではなかったのです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:36Comments(0)歴史/アメリカ

2005年03月13日

パイポの煙(14)−三十六計

 

 孫子の兵法書

 (旧暦  2月 4日)

 中国民衆の生活に密着した人生の知恵は、様々な「ことわざ」になって日本にも伝えられていますが、その中に「三十六計、逃げるにしかず」という「ことわざ」があります。

 これは、兵法三十六計の最後が「走為上」(走るを上と為す=逃げるのが一番)であることからきています。

 「兵法三十六計」は人間関係の指南集であり、日常生活の知恵として役立つため、中国では庶民にも広く暗唱されているそうです。

 瞞天過海、囲魏救趙、借刀殺人、以逸待労、趁火打劫、声東撃西
 無中生有、暗渡陳倉、隔岸観火、笑裏蔵刀、李代桃僵、順手牽羊
 打草驚蛇、借屍還魂、調虎離山、欲擒姑縦、抛磚引玉、擒賊擒王
 釜底抽薪、混水模魚、金蝉脱殻、関門捉賊、遠交近攻、仮道伐虢
 偸梁換柱、指桑罵槐、仮痴不癲、上屋抽梯、樹上開花、反客為主
 美人計、空城計、反間計、苦肉計、連環計、走為上

 「兵法三十六計」は、6段階ごとに6計ずつ分類されています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:39Comments(0)パイポの煙

2005年03月12日

となり村名所あんない(12)−豊島村(2)−徳栄山本妙寺

 

 (旧暦  2月 3日)

 菜の花忌 昭和前期の詩人・伊東静雄の昭和28年(1953)の忌日。 季節の花に因み「菜の花忌」と呼ばれる。

 「火事と喧嘩は江戸の華」と云われますが、帝都東京ほど近世から現代にかけて火事という大災害に遭った都市もめずらしいでしょう。
 江戸時代の続いた265年のうち、江戸では、火元から長さ15町(約1636m)以上焼いた大きな火事が96回あり、 3年に1回は大火、7日に1回は小火(ぼや)があったと云います。

 明暦3年(1657) - 明暦の大火(振袖火事)
 明和9年(1772) - 明和の大火(行人坂の火事)
 文化3年(1806) - 文化の大火(芝車坂の火事)


 以上を「江戸三大大火」というそうです。

 他に、主な大火として以下のような火事がありました。

 天和2年(1682) - 天和の大火(お七火事)
 元禄11年(1698) - 勅額火事(中堂火事)
 元禄16年(1703) - 元禄の大火(水戸様火事)
 安政2年(1855) - 安政の大地震による大火
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:01Comments(0)となり村名所あんない

2005年03月10日

日本(14)-東京大空襲

 

 Tokyo burns under B-29 firebomb assault, 26 May 1945.

 (旧暦  2月 1日)

 金子みすゞ忌  童謡詩人、金子みすゞの昭和5年(1930)の忌日。 西条八十から「若き童謡詩人中の巨星」と称えられましたが、結婚後夫から詩作を禁じられ、また夫から病をうつされた末、自ら命を絶ちました。


 「東部軍管区情報、駿河湾を北上中の敵数梯団は東京に向かう模様、関東地区警戒警報発令」

 「南方海上ヨリ敵ラシキ数目標、本土ニ接近シツツアリ」
 「第一、第二目標ハ、南方海上ニ退去セリ」
 「第三目標ハ房総方面ニ北上中」
 「ナオ新タル数目標ハ、南方海上ニ退却」

 
 昭和20年(1945)3月9日22時30分、東部軍管区は「警戒警報発令」、2機のB29が帝都上空に飛来して房総沖に退避したため、帝都の人々はほっと安心していました。

 翌3月10日未明、米陸軍航空隊第21爆撃団のB29爆撃機325機は低空から帝都上空に侵入し、隅田川を挟んだ下町一帯の本所、深川、浅草方面に対し無差別爆撃を行いました。

 午前0時15分 「空襲警報発令」
 「東部軍管区情報。東部軍管区情報。空襲警報発令。敵B29大型数梯団は、東京上空を旋回中なり」


 この爆撃により、帝都の4分の1が焦土と化し、約18万棟の家屋が灰燼に帰し、約10万人の人々が犠牲になりました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:13Comments(0)歴史/日本

2005年03月09日

漢詩(3)−杜甫(1)-兵車行

 
 
 Qin dynasty bronze chariot and horses

 (旧暦  1月29日)

 車轔轔(りんりん) 馬蕭蕭(しょうしょう)
 行人の弓箭おのおの腰に在り
 耶孃妻子(やじょうさいし)走りて相送り
 塵埃に見えず咸陽橋                 
 衣を牽(ひ)き足を頓(とん)し道をさえぎりて哭す
 哭聲直ちに上りて雲霄(うんしょう)を干(おか)す 

 天寶10載(751)、杜甫は出征兵士の嘆きを借りて、唐第6代玄宗皇帝の無益な外征策を批判しました。

 道傍を過ぐる者行人に問う              
 行人但だ云うのみ「點行頻(しき)りなり」と
 或いは十五より北のかた河を防ぎ
 便(すなわ)ち四十に至るも西のかた田を營む
 去(ゆ)く時里正(りせい)與(ために)頭を裹(つつ)み   
 帰り来たれば頭白くして還(ま)た邊を戍(まも)る
 邊庭の流血海水を成すも
 武皇邊を開くの意未だ已(や)まず 

         
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 君見ずや青海の頭(ほとり)
 古来白骨人の収むる無く
 新鬼は煩冤(はんえん)し舊(きゅう)鬼は哭し
 天陰(くも)り雨濕(うるお)うとき聲の啾啾(しゅうしゅう)たるを。     
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 08:40Comments(0)漢詩

2005年03月08日

クラシック(8)-ブラームス(1)-ヴァイオリン協奏曲ニ長調

 

 Johannes Brahms(1833〜1897)

 (旧暦  1月28日)
 
 協奏曲ソナタ形式では、提示部までは独奏楽器なしで演奏され、提示部が繰り返される時に独奏楽器が入ります。また、再現部が終わった後に、演奏者の力量を誇示するためのカデンツァ(cadenza)と呼ばれる長い独奏楽器のみで演奏される部分が挿入されます。

 1933年1月、国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)、通称ナチスが政権を取得して「第三帝国」(Das Dritte Reich )となったドイツでは、1935年に制定された「ニュルンベルク法」によって、ユダヤ人はドイツ国内における市民権を否定されて公職から追放され、また、ユダヤ系作曲家の作品が演奏禁止となりました。

 ブラームスのヴァイオリン協奏曲の場合、第1楽章のヨアヒムとクライスラーのカデンツァ(cadenza)が使えなくなりました。しかし、名手ゲオルク・クーレンカンプ(1898〜1948)はこの措置に公然と反旗を翻し、1935年に演奏禁止のメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64を、1936年にはヨアヒムのカデンツァを使ってブラームスのこのヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77を録音しました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:08Comments(0)音楽/クラッシック

2005年03月07日

新生代(4)-第三紀(4)-バシロサウルス

 

 バシロサウルス骨格化石 国立科学博物館

 (旧暦  1月27日)

 1832年、フイラデルフィアにあるアメリカ哲学協会にひとつの箱が届きました。中味は岩の塊で、ルイジアナのブライ判事という人の手紙がついていました。

 その塊は、ブライ判事が海の怪物であるかもしれないと信じたものの化石でした。

 この巨大な海洋生物の化石は、ルイジアナ州コロンビアの数マイル下流、ワシタ川に注ぐクリークに沿って続く険しい丘の側に埋まっていました。

 ブライ判事は、ワシタ川に沿って多くの地域を探検した北東ルイジアナ出身のアマチュア地質学者であり古生物学者でした。

 3年前の1829年、約40フィート(12m)の深さに埋まっていたと思われる化石化した骨格が激しい雨の後に丘の表面に露出しました。
 化石は約400フィート(120m)の長さにカーブした曲線に沿って、点々と見つかりました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:43Comments(0)新生代

2005年03月06日

やまとうた(7)-我が園に梅の花散るひさかたの

 

 尾形光琳 紅白梅図屏風(白梅図)

 (旧暦  1月26日)

 菊池寛忌 作家の菊池寛の昭和23年(1948)の命日

 太宰帥(だざいのそち)大伴の卿(きみ)の宅(いへ)に宴してよめる梅の花の歌三十二首、また序、天平二年正月の十三日、師の老(おきな)の宅(いへ)に萃(つど)ひて、宴会を申(の)ぶ。・・・・・

 我が園に梅の花散るひさかたの
  天(あめ)より雪の流れ来るかも (巻5 822)  大伴旅人


 中納言大伴旅人(665〜731)が帥(そち)として大宰府に赴任したのは、神亀4年(727)冬、62歳の頃のことでした。当時10歳の少年だった家持も父に同行したものと思われ、天平2年(730)の暮れ頃、佐保(現在の奈良市法華寺町・法蓮町一帯)の自宅に戻るまでの約3年余りを九州大宰府の地で過ごしました  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:25Comments(0)やまとうた

2005年03月05日

板橋村あれこれ(8)-高島平

 

 高島秋帆 徳丸原演習

 (旧暦  1月25日) 

 高島平は、古くは一面の沼や低湿の原野で、徳丸ヶ原と呼ばれていました。また、江戸時代の初期から幕府の直轄領で、歴代将軍の鷹狩の地でもありました。

 5代将軍綱吉によって禁止されていた鷹狩りは、8代将軍吉宗が復活し、江戸の周囲5里の範囲を葛西・岩淵・戸田・目黒・品川の六筋に分けて将軍の鷹場に指定しましたが、徳丸ヶ原も戸田筋に組み込まれ鷹狩りの場所として代々の将軍が訪れました。

 享保4年(1719)に御鉄砲町技・渡辺長左衛門が「からくり筒」の試射を行い、下って寛保年間(1741〜1743)に幕府の御鉄炮御稽古場となりましたが、寛政4年(1792)には、「鉄砲調練錬場」と定められました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:02Comments(0)板橋村あれこれ

2005年03月02日

日本(13)-2.26事件(7)-「白骨となって帰還せよ」

 

 歩兵第3聯隊第6中隊 中隊長安藤輝三大尉

 (旧暦  1月22日)

 亡羊忌  昭和期の詩人村野四郎の昭和50年(1975)年の忌日。 詩集『亡羊記』に因み、「亡羊忌」と呼ばれる。

 蹶起部隊の将校たちが次々と下士官兵を兵営に帰し、続々と陸相官邸に集結している中で、赤坂の高級ホテル「山王ホテル」(千代田区永田町2丁目)の安藤輝三大尉に率いられた歩兵第3聯隊第6中隊159名だけは依然として交戦の構えを解きませんでした。
 
 当然のことながら、上官や同僚が説得にやって来ましたが、安藤大尉は決して説得に従おうとはしませんでした。

 午後2時半ころ、警視庁占拠の歩兵第3聯隊第3、第7、第10中隊の3個中隊を指揮していた野中四郎大尉が自決したとの報がもたらされ、安藤大尉も兵を原隊へ復帰させることを決意、全員で中隊歌を合唱する中、午後3時、安藤大尉は拳銃をあごに当て引き金を引きました。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 07:52Comments(4)歴史/日本

2005年03月01日

日本(12)-2.26事件(6)- 兵に告ぐ(2)

 

 投降を促すアドバルーン。1936年2月29日.

 (旧暦  1月21日)

 三汀忌、微苦笑忌  小説家・劇作家・俳人の久米正雄の昭和27年(1952)の忌日。 俳号の三汀から三汀忌、久米正雄が微笑と苦笑を合わせて作った造語「微苦笑」から微苦笑忌と呼ばれる。

 帰順勧告放送の命令を受けた大久保少佐は、戒厳司令部内に設けられていた放送室に飛び込んで、マイクを持ち何か話そうとしましたが言葉が出てきません。そこで手元にあった便箋に原稿を書きなぐって二分足らずで草稿ができたといいます。

 1人放送室にいた中村茂アナウンサーが、「私が放送しましょう」と言って、あの「兵に告ぐ」が繰り返し放送されました。

 兵に告ぐ
 勅命が発せられたのである。既に、天皇陛下の御命令が発せられたのである。
 お前たちは上官の命令を正しいものと信じて、絶対服従をして、誠心誠意活動してきたのであろうが、既に天皇陛下の御命令によってお前たちは皆原隊に復帰せよと仰せられたのである。この上お前たちが飽くまでも抵抗したならば、それは勅命に反することとなり、逆賊とならなければならない。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 07:11Comments(0)歴史/日本