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2010年04月19日

史記列傳(10)-仲尼弟子列傳第七

 
 長崎孔子廟

 (旧暦  3月 6日)

 孔氏は文を述べ、弟子は業を興し、咸(みな)師傅を為して、仁を崇(たつと)び義を厲(はげ)む。よりて仲尼弟子列傳第七を作る。

 孔子は文化を述べつたえ、弟子たちは孔子の事業をさかんにして、みな世の師表となり、仁を尊び厳しく実践した。そこで、仲尼弟子列伝第七を作る。(太史公自序第七十:司馬遷の序文)

 孔子の弟子中の弟子たるものは77人と云われていますが、その伝は長短・精粗さまざまで、その大半は名と字(あざな)だけしか記されていません。
 その多くは『論語』のなかに登場していますが、子貢の伝のように全体のかなりの部分を占めるものもあります。

 孔子の弟子(ていし)、業を受け身六藝[礼・楽・射・御(馬の御し方)・書・数]に通ずる者、七十有七人、皆異能之士也。
 德行には顏淵(がんゑん)、閔子騫(びんしけん)、冄伯牛(ぜんはくぎゅう)、仲弓(ちゆうきゆう)あり。政事には冄有(ぜんいう)、季路あり。言語には宰我、子貢あり。文學には子游(しいう)、子夏あり。

 師(子張)や辟(奇矯)、參(曾參)や魯(遅鈍)、柴(子羔)や愚(愚直)、由(子路)や喭(がん、強情粗暴で不作法)。回(くわい、顔回)や屢(しばしば)空し(穀物を入れるお櫃が空になる)。賜(子貢)は命を受けずして貨殖す、億すれば則ち屢(しばしば)中(あた)る。


 1. 徳行(行いが道徳にかなって正しい者)
 face01顔淵(がんゑん、顔囘、B.C.514~B.C.483) 
 孔門十哲(孔子の弟子の中でも最も優れた十人の弟子)の一人で、随一の秀才。孔子から後継者として嘱望されていたが、早世した。
 
 子、子貢に謂ひて曰はく、女(なんじ)と囘(顔囘)とは孰(いづ)れか愈(まさ)れる。對(こた)へて曰はく、賜(子貢)や何ぞ敢へて囘を望まん。囘や一を聞いて以て十を知る。賜や一を聞いて以て二を知る。子曰はく、如かず。吾、女(なんじ)に如かざるを與(ゆる)さん。 
 『論語』 公冶長第五

 子曰はく、囘や其の心三月仁に違(たが)はず。其の餘は則ち日に月に至るのみ。 
 『論語』 雍也第六

 顏淵死す。子曰はく、噫、天予(われ)を喪(ほろぼ)せり。天予を喪せり。
 『論語』 先進第十一

 顏淵死す。子之を哭(こく)して慟(どう)す。從者曰はく、子慟(どう)せり。曰はく、慟(どう)すること有るか。夫(か)の人之爲に慟するに非ずして、誰が爲にかせん。 
 『論語』 先進第十一


 face02閔子騫(びんしけん、B.C.536~B.C.487) 
 孔門十哲の一人で、孔子からも孝行者であると賞賛されている。

 子曰く、孝なるかな閔子騫。人、其の父母昆弟の言を間せず(悪口を言わない)。 
 『論語』 先進第十一


 face03冄伯牛(ぜんはくぎゅう、B.C.544~?)
 孔門十哲の一人。伯牛が重い病(ハンセン病との説あり)にかかり、窓越しに孔子の永訣の見舞いを受けた。
       
 伯牛疾(やまひ)有り。子之を問ふ。牖(まど)より其の手を執りて曰はく、之を亡せん。命なるかな。斯の人にして斯の疾有ること。斯の人にして斯の疾有ること。
 『論語』 雍也第六


 face04仲弓(ちゆうきゆう)
 孔門十哲の一人。その人格の高さから「南面すべし」(君主たる器量がある)と孔子がたたえたことが、『論語』雍也第六に記されている。

 子曰はく、雍(仲弓)や南面せしむべし。仲弓、子桑伯子を問ふ。子曰はく、可なり簡(かん、おおまか)なり。仲弓曰はく、敬に居(ゐ)て簡を行ひ、以て其の民に臨む。亦可ならずや。簡に居(ゐ)て簡を行はば、乃ち大簡なるなからんか。子曰はく、雍の言然(しか)り、と。
 『論語』 雍也第六


 2. 政事(政治の実務にたけた者)
 face05冄有(ぜんゆう)
 孔門十哲の一人。行政手腕に優れ季氏(魯の大夫)に用いられる。孔子からも政治の才能を認められ、大きな町や卿の家の長官として取り仕切ることができると評された。
 一方、消極的な人柄であったらしく、孔子から「聞くままに斯れ諸(これ)を行へ」と激励されている。

 子路問ふ、聞くままに斯れ諸(これ)を行はんか。子曰はく、父兄の在る有り。之を如何ぞ其れ聞くままに斯れ之を行はん。
 冄有問ふ、聞くままに斯れ諸(これ)を行はんか。子曰はく、聞くままに斯れ諸(これ)を行へ。

 公西華曰はく、由(ゆう、子路)や問ふ、聞くままに斯れ諸(これ)を行はんか、と。子曰はく、父兄の在る有り、と。求(きゅう、冄有)や問ふ、聞くままに斯れ諸(これ)を行はんか、と。子曰はく、聞くままに斯れ之を行なへ、と。

 赤(せき、公西華)や惑ふ、敢へて問ふ。
 子曰はく、求(きゅう、冄有)や退く、故に之を進む。由(ゆう、子路)や人を兼(か)ぬ、故に之を退く。
 『論語』 先進第十一


 face06季路(きろ、子路、B.C.543~B.C.481)
 孔門十哲の一人。弟子の中では、『論語』に出てくる回数が最も多い。
 武勇を好み、そのためか性格は軽率なところがあるが、質実剛健たる人物であった。

 子曰はく、道行はれず。桴(いかだ)に乘りて海に浮ばん。我に從ふ者は其れ由(ゆう、子路)か。子路之を聞きて喜ぶ。子曰はく、由(ゆう、子路)や勇を好むこと我に過ぎたり。取り材(はか)る所なし。
 論語』 公治長第五

 
 3. 言語(弁舌に秀でた者)
 face08宰我(さいが)
 孔門十哲の一人で、弁論の達人と評された。

 face09子貢(しこう、B.C.520~?)
 孔門十哲の一人で、弁舌に優れ衛、魯で その外交手腕を発揮した。また、商才にも恵まれ、魯と曹の国で物資を売り買いして莫大な富を築いたとされる。

 子貢、君子を問ふ。子曰はく、まず其の言を行うて而して後之に従ふ。
 『論語』 為政第二


 4. 文学(学識に優れた者)
 face11子游(しゆう、B.C.506~B.C.443)
 孔門十哲のひとりに数えられ、武城(山東省武城県)の町の長官を勤め、礼楽を以て民を教化していた。

 子游武城の宰と爲る。子曰はく、女(なんぢ)、人を得たるか。曰はく、澹臺滅明(たんだい めつめい)といふ者有り。行くに徑(こみち)に由らず。公事に非ざれば、未だ嘗て偃(子游)の室に至らざるなり。
 『論語』 雍也第六


 face10子夏(しか、B.C.507?~B.C.420?)
 学問を好み孔門十哲の一人とされる。

 子貢問ふ、師(子長)と商(子夏)とは孰(いづ)れか賢(まさ)れる。子曰はく、師(子長)は過ぎたり。商(子夏)は及ばず。曰はく、然らば則ち師(子長)愈(まさ)るか。子曰はく、過ぎたるは猶及ばざるが如し。
 『論語』 先進第十一
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:13Comments(0)史記列傅