2005年11月30日
となり村名所あんない(23)−千代田村(8)−日比谷入江
江戸城日比谷濠(日比谷入江跡)
(旧暦10月29日)
天正18年(1590)、小田原城を落城させて北条氏政を亡ぼし天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、北条氏とも縁戚関係にあった徳川家康を、三河、駿河、遠江、甲斐、信濃を含む東海5ヵ国約140万石の太守から、武蔵、上野、下総、上総、相模、伊豆の6ヵ国約240万石を領する関東へと転封させました。
家康が入国した当時の江戸は、葦の生い茂る寒村に過ぎなかったといわれていますが、少なくとも太田道灌(1432〜1486)の時代までは隣接する門前町浅草や品川湊と並んで日明貿易の硫黄や鉄など鉱産物の集積地として栄えた江戸湊がありました。入り江に恵まれた江戸湊には、西国からの大船や関東内陸部からの川船などが集まって賑わっていたということです。
中世の江戸は、現在の皇居のある丘陵地帯の東南側に大きく海が入り込み、その東側に「江戸前島」と呼ばれる標高4〜5mの低い半島がつき出す地形になっていました。 当時、丸の内一帯は浅い入り江で、この入り江は「日比谷入江」と呼ばれていましたが、この入江には、北から平川(神田川の旧名)が流れ込み、本郷台地を隔てた東側には、不忍池からまっすぐ南下して隅田川河口部に注ぐ旧石神井川がありました。 続きを読む
2005年11月28日
中生代(6)−三畳紀(2)−ヘレラサウルス

Skeleton cast shown alongside the smaller skeleton of Eoraptor and a Plateosaurus skull, North American Museum of Ancient Life
(旧暦 10月27日)
親鸞忌 浄土真宗の開祖親鸞上人の弘長2年(1262)の忌日
1958年、アルゼンチン北西部、南緯40度付近を流れるコロラド川以南の地域パタゴニアのValley of the Moonの近くに住むのビクトリノ・ヘレラ(Victorino Herrera)というヤギ飼いの男によって発見された恐竜の部分骨格は、その後この地を訪れた古生物学者達によってヘレラサウルス(Herrerasaurus:ヘレラのトカゲ)と呼ばれることになりました。
この部分骨格化石は、後肢、骨盤、尾のみで、頭骨は発見されていませんでしたが、後肢の鋭い爪から肉食の恐竜で、全長は4〜5mであろうと推定されました。当初この化石は、三畳紀(Triassic)イスキグアラスト層(Ischigualasto Formation)から見つかったので、最も古い恐竜であると考えられていました。
1988年、アルゼンチンとアメリカの学生からなる調査隊を率いてValley of the Moonを訪れたシカゴ大学のポール・セレノ(Paul C.Sereno)博士は、3週間後、2個体のヘレラサウルスを発見しましたが、そのうちの1個体には完全な頭骨が残されていました。
数ヶ月かけてのクリーニング作業の後、彼らは頭骨と体の骨格を組み合わせることに成功しましたが、その骨格は前肢や後肢の中空度(空洞の体積)が高く、手の指の指先から2番目の指骨が長いと云った初期の獣脚類の特徴を持っていました。
下顎はその中央部に可動性のある関節を持ち、骨は中空で、手は熊手のように特殊化していました。
その後彼らは、その地域で火山灰からなる地層を発見し、ヘレラサウルスが発見された地層の年代は、約2億2800万年前と測定しました。
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2005年11月27日
板橋村あれこれ(14)−近藤局長終焉の地
近藤勇昌宣之墓
(旧暦 10月26日)
慶応4年4月3日、東山道軍斥候隊として総州流山で賊徒の取り調べに当たった東山道先鋒総督府副参謀の薩摩藩士有馬藤太(1837〜1924)らに投降した近藤さんは、当初大久保大和と名乗って部隊の兵器を差し出し恭順の意を示していましたが、彦根藩士渡辺九郎佐衛門に見破られ、囚われの身となってしまいました。
そして4月5日、総督岩倉具定(岩倉具視の第3子、1851〜1910)、参謀板垣退助(1837〜1919)率いる中山道御総督(東山道軍)の本陣がある中山道板橋宿の仲宿脇本陣の豊田一右衛門宅に護送され軟禁されました。
有馬藤太は近藤さんの一軍の将としての人物を惜しみ、上司に自分が戻るまで近藤さんの処分を保留し相応の待遇を頼むという内容の手紙を送りましたが、当時坂本龍馬を暗殺したのは新選組であるとして復讐の念に萌えていた土佐藩士で後に西南戦争では熊本鎮台司令官として西郷軍の攻撃から52日間にわたって熊本城を死守した谷守部(干城、1837〜1911)や軍監の水戸脱藩香川敬三(1841〜1915)らの強硬な姿勢に押され、近藤さんは斬首の刑となってしまいました。
4月24日、近藤さんは滝野川三軒家(北村)の石山亀吉邸で今生最後の夜を過ごし、翌4月25日、中山道平尾一里塚の馬捨て場で、ついに斬首されてしまいました。斬首の太刀取りは、美濃揖斐で5,300石を領する直参旗本岡田家の武術指南役横倉喜三次という人物でした。 続きを読む
2005年11月26日
やまとうた(14)−大空の月の光し清ければ

山寺(立石寺)五大堂
(旧暦 10月25日)
題しらず 読人しらず
大空の月の光し清ければ 影見し水ぞ先づこほりける (古今集316)
各地からは紅葉のたよりも聞かれ、行く秋を惜しむかのような穏やかな日が続いていますが、アメリカやカナダでは、晩秋や初冬におこる穏やかでからりとした気候をIndian summer と云い、かすんだ空気を伴うそうです。
旧暦では神無月(10月)、霜月(11月)、師走(12月)は冬の季節となり、この頃は晩秋というより初冬または孟冬と言うべきでしょうね。
「孟」という言葉は広辞苑によれば「はじめ」という意味で、特に「四季のはじめ」とあり、孟春、孟夏、孟秋となるようですが、現在はほとんど使われていません。
ところで、元オフコースの小田和正氏が作詞・作曲した「もう終わりだね〜 君が小さく見える・・」ではじまる歌の「もう・・」は副詞で、「もはや」とか「すでに」という意味ですから、日本語は面白うございます。
私「嘉穂のフーケモン」も、調査をしたり原稿を書いたりしてしばらく本業が忙しく、「板橋村だより」も40日ばかり休眠していましたが、やっと開放されたので、また武蔵の国板橋村より筆の遊(すさ)びもといキーボードの遊(すさ)びに、「心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」でございますよ〜だ。 続きを読む
2005年11月24日
その他(2)−大陸移動説

大陸移動概念図
(旧暦 10月23日)
”大陸は移動する”(Continental drift)という仮説は、1915年、ドイツの気象学者、地球物理学者のアルフレート・ロタル・ヴェーゲナー(Alfred Lothar Wegener、1880〜1930)がその著書『大陸と海洋の起源』(Die Entstehung der Kontinente und Ozeane)に発表したものですが、では大陸は何故移動するのかということを説明することはできませんでした。
その後彼は、ドイツ調査隊の隊長としてグリーンランドの気候調査に赴きましたが、1930年、氷原のなかで遭難し凍死してしまいました。
「大陸は何の力によって動くのか」、この命題に解答を与えたのは、ハリー・ハマンド・ヘス(Harry Hammond Hess :1906〜1969)というプリンストン大学の地質学教授でした。彼は、1959年に海洋底拡大(seafloor spreading)という仮説に辿り着き、1962年に出版された『海洋底の歴史』(History of Ocean Basins)という論文でこの仮説を発表しました。
第2次大戦中に海軍の軍人だったハリー・ハマンド・ヘスは、太平洋で音響測深調査に従事していましたが、これらの音響測深調査から、海洋底に連なる海嶺(mid-oceanic ridges )が発見され、この海嶺の頂上部から放出される熱量は、他の海底の8倍もの値を示していました。
また、ヘスは西太平洋の海洋底の詳細な起伏断面図を作成したところ、比較的平坦な頂を持ち、深海底から1,000m以上の高さがある海山が連なっていることを発見し、この海山に19世紀の地理学者Arnold Henry Guyot (1807〜1884)にちなんでギヨー(平頂上海山)と命名しました。 続きを読む
2005年11月23日
パイポの煙(23)−健啖家
吉亭(米沢)のサーロインステーキ
(旧暦 10月22日)
一葉忌 極貧の短い生涯のうちに、 「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった珠玉の作品を遺して、24歳にして肺結核で逝った小説家樋口一葉の明治29年(1896)の忌日
帝都東京のはずれの板橋村界隈で、「これはおいしいな」と極めて希に感動する食べ物に出会うと「食べ物散歩」として紹介していますが、いつも食べ出してから写真に取ることを思い出して後悔している私「嘉穂のフーケモン」です。
このところ2軒ばかり、気に入った居酒屋風蕎麦屋と「東都第一かな?」と感動したとんかつ屋を見つけましたが、例によって写真を取り忘れてしまったので、またの機会にしませう。
グルメ案内のHPでは、日記「築地市場を食べつくせ!」を「毎日よくも築地を中心にあんなにたくさん食べ尽くして、胃袋の方は大丈夫かな」などとよけいな心配をしながら感動して見ています。
また、昼食放浪記でもその健啖家振りに感心しています。
いずれにしても、グルマン(gourmand)と呼ばれる人達は健啖家でなければ務まりませんね。
日記「築地市場を食べつくせ!」
(http://www.tsukijioo.com/Diary/DiaryFlame.html)
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2005年11月22日
書(12)−王羲之(1)−蘭亭序(1)

蘭亭八柱第三 馮承素模蘭亭序卷 神龍本(1) 唐代馮承素の臨摸
(旧暦 10月21日 小雪)
近松忌、巣林忌 時代物の「國姓爺合戰」、世話物の「曾根崎心中」などの浄瑠璃・歌舞伎狂言などの作品で人気を博した近松門左衞門の享保9年(1724)の忌日
書聖と呼ばれ、古今無双の書の神様として現在も中国、日本などの漢字文化圏で尊ばれている「王羲之」(307?〜365?)は、4世紀前半の中国東晋時代の書家・文人で、字は逸少、琅邪臨沂(ろうやりんぎ) (山東省臨沂市)の王氏の出身で、はじめ秘書郎として官途につき、その後寧遠将軍・江州刺史をへて、永和7年(351)に右軍将軍・会稽内史となりましたが、4年で官を辞しました。「右軍将軍」と言う官名から、王右軍とも呼ばれました。
早くから隠遁の志を抱き、官を辞したのちも都の建康には帰らず、会稽郡(江蘇省南部から浙江省北部)に永住して59歳で亡くなったといわれています。
会稽郡に赴任してから2年後の東晋永和9年(353)春3月3日上巳の節句、王羲之は親交のある文人で当時の名士である謝安(320〜385)や孫綽(314〜371)および子供の王徽之(?〜388)や王献之(344〜386)など総勢42名と共に、郊外の景勝の地蘭亭で流觴曲水の宴を催しました。 続きを読む
2005年11月21日
秋津嶋の旅(8)−陸奥(3)−銀山温泉
銀山温泉能登屋
(旧暦 10月20日)
八一忌 早稲田大学名誉教授、東洋美術史学者であるとともに、歌人、書家としても足跡を残した秋艸道人(しゅうそうどうじん)会津八一の昭和31年(1956)の忌日
むさしのの くさにとはしるむらさめの いやしくしくに くるるあきかな
波郷忌 俳誌「鶴」を創刊し、主宰者として活躍した俳人石田波郷の昭和44年(1969)の忌日
琅玕(ろうかん)や 一月沼の横たはり
琅玕:中国の玉の名称で、青竹色をしている
銀山温泉は、奥羽本線大石田駅から車で約40分くらいの山間に位置する静かな温泉郷です。ニジマスが泳ぐ銀山川の両側に13軒の木造3層、4層の旅館が軒を連ね、大正時代の古きよき面影を今に残しています。
昭和58年(1983)にNHK連続テレビ小説「おしん」の舞台として紹介され、以来温泉地としてだけでなく観光面でも有名になりました。ドラマの中でおしんのお母さん(泉ピン子)が働いていた旅館は、写真の「能登屋」だったとか。
この木造旅館は、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」の中で八百万の神々が集う湯屋「油屋」のモデルになったのではとも聞きましたが、江戸東京たてもの園の子宝湯がモデルだともされているため、定かではありません。きっとこのようなさまざまな建築物を参考にしてデザインされたのでしょう。 続きを読む