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2006年09月24日

新生代(14)−第四紀(4)−東京層

 

 石神井川旧河岸「東京層」の露頭
 
 (旧暦  8月 3日)

 南洲忌  政府軍の総攻撃により、島津応吉久能邸門前(鹿児島市城山町12-7)にて被弾、負傷し、別府晋介の介錯で自決した南州西郷隆盛先生の明治10年(1877)の忌日。

 北村の王子本町1丁目6番地先にある「音無さくら緑地」は、石神井川が蛇行して流れていた頃の旧流路につくられた公園ですが、緑に覆われた緑地内の通路は湧き水が滲みだし、夏でも涼しいところです。

 緑地には吊り橋も架かり、北村の役場の話しでは、ソメイヨシノ11本、ヒメシャラ7本、ヤブツバキ24本、ヤマモミジ13本、アジサイ638株が植えられているとのことです。

 写真の崖地は、川の蛇行による浸食作用が最も大きくなる河道屈曲の外側で、このような地形を地形学では攻撃斜面と呼んでいるそうです。

 湧き水がポタポタと滲みだしている縞状の部分より下方には、赤い酸化鉄に染まった砂質粘土の地層中に二枚貝や巻き貝などの化石を見つけることができます。
 この化石の見られる地層は、12〜13万年前の下末吉海進により、現在の帝都東京一円が海底となった頃に形成された「東京層」と呼ばれる地層です。

 横浜市鶴見区のJR鶴見駅の北西約1.5㎞の鶴見川沿いに下末吉という地域がありますが、下末吉海進はここの地名から付けられました。
 下末吉海進の時に堆積した地層を下末吉層といい、この地層は、東京帝國大学理学部地質学教室の大塚弥之助教授(1905〜1950)が下末吉地域を調査して、昭和5年(1930)に名付けた地層です。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:51Comments(0)新生代

2006年09月20日

北東アジア(28)−高句麗・広開土王碑(2)

 

 広開土王碑文(酒匂本)

 旧暦閏-7月28日

 「百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以辛卯年來渡□破百殘□□新羅以爲臣民」
 (□は不明文字)


 百殘(百済)新羅 舊(もと)より是れ屬民にして、由来、朝貢せり。而るに倭、辛卯の年を以て來たり、□を渡りて百殘(百済)を破り、新羅を□□し、以て臣民と爲す。

 昭和48年(1973)、農学校に入りたての日本史の講義で、在日韓国人の歴史学者である李進煕(イ・ジンヒ)氏の『広開土王陵碑の研究』(吉川弘文館、1972年)が紹介され、広開土王碑の拓本が明治16年(1883)に陸軍参謀本部の酒匂景信中尉によって持ちかえられたこと、日本陸軍による意図的、組織的な石灰塗布により碑文は改竄されているとの説を聞きました。

 この説を紹介したのは、当時の文学部教授佐伯有清先生(1925〜2005)でしたが、私「嘉穂のフーケモン」は理科系の学生でもあり、日本史も教養課程の選択科目であったため、「そんな事もあったんだ」程度の認識しかありませんでした。

 佐伯先生とはその後お会いする機会もありませんでしたが、残念ながら昨年に亡くなられたようです。
 先生は東大の大学院で国史学を専攻され、農学校の文学部教授を退官された後は、成城大学文芸学部教授を務められ、『研究史邪馬台国』、『魏志倭人伝を読む』、『最後の遣唐使』などの著作を残されています。

 広開土王(374〜412、在位391〜412)は高句麗の第19代国王で、東部鮮卑の前燕(337〜370)の圧迫を受け国都丸都城(中国吉林省通化専区揖安県)を失って衰退していた高句麗(B.C.37〜668)を再興し、後燕(384〜407)と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って領土を大きく拡張しました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:14Comments(0)歴史/北東アジア

2006年09月16日

中生代(8)−白亜紀(5)−エウオプロケファルス

 

 エウオプロケファルス (Euoplocephalus) 国立科学博物館
 
 (旧暦閏-7月24日)

 エウオプロケファルス (Euoplocephalus)は、中生代白亜紀(Cretaceous)後期(約7600万〜7000万年前)に生息していた装甲を持つ四足歩行の大型草食恐竜です。 

 この種の恐竜は、貪欲な捕食者から身を守るために骨板、鱗甲、とげなどの頑丈な骨質の甲冑を発達させ、後期の種類では、この甲冑が曲がらない甲羅と化しており、一般に武装恐竜(Armoured dinosaurs)とも呼ばれています。

 カナダの化石採集家として有名なランベ(Lawrence Morris Lambe、1849〜1934)により、カナダのアルバータ州の白亜紀後期のオルドマン層から発見され、1910年に命名されました。

 ランベはカナダにおけ恐竜古生物学の父であり、今日、20世紀の恐竜古生物学における最も重要な人物の1人とされています。

 ランベの仕事は、1897年にカナダ西部で始まりましたが、彼は数年の内に、恐竜の新しい属や種を多数発見し、また多くの時間をGSC(Geological Survey of Canada、カナダ地質学協会)博物館の化石陳列館の準備に費やしました。

 彼の1902年の学術論文"On Vertebrata of the Mid-Cretaceous of the North West Territory"には、アルバータ州のジューディス川層化石群の最初の総括的な論評で、カナダで最初に発見された恐竜であるモノクロニウス(Monoclonius)の多様な種などについても記述されています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 10:31Comments(0)中生代

2006年09月13日

となり村名所あんない(28)−港村(7)−開拓使仮学校跡 B

 

 William Smith Clark (1826〜1886)

 (旧暦閏-7月21日)

 白雄忌 蕉風復興に生涯をかけ江戸天明期に活躍した俳人で、与謝蕪村とならび称される加舎白雄(かやしらお)の寛政3年(1791)の忌日。

 人恋し 火とぼしころを さくらちる


 となり村名所あんない(27)−港村(6)−開拓使仮学校跡(1)のつづき

 札幌農学校の1期生の卒業名簿によれば、

 佐藤昌介(農政、植民学、北大初代総長) 
 荒川重秀(社会学、演劇家)
 大島正健(英文学、音韻学、農学校教師)
 伊藤一隆(水産業)
 渡瀬寅次郎(実業家)等


 2期生では、

 内村鑑三(思想家)
 新渡戸稲造(農政、植民、一高校長、東大教授) 
 宮部金吾(植物学、北大教授) 
 南鷹次郎(農学、北大第2代総長) 
 廣井勇(土木工学、東大教授) 
 岩崎行親(英語学、七高校長)


 等の諸氏が名を連ねています。

 札幌農学校 北大東京同窓会30年(社)東京エルム会30年史 「第一編 松井栄一氏執筆分」によれば、

 「これより先、札幌学校から専門科に進み得る学力のある者は数名に過ぎない見込みであったので、明治8年(1875)12月に黒田長官名で文部省に対し、東京英語学校(東京大学予備門の前身)や開成学校(東京大学の前身)の学生を分けることを申し入れてあった。」

とあります。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:31Comments(0)となり村名所あんない

2006年09月12日

となり村名所あんない(27)−港村(6)−開拓使仮学校跡 A

 

 開拓使仮学校跡の碑

 (旧暦閏-7月20日)

 保己一忌  江戸中期の盲目の国学者で、寛政5年(1793)、幕府に願い出て和学講談所を開設し、ここを拠点として『群書類従』を編纂した塙保己一の文政4年(1821)の忌日。

 《我らが魂の故郷のふるさと》

 明治政府はロシアの南下を警戒し北海道を日本の版図として開拓するため、明治2年(1869)、開拓使を設置しました。

 開拓使では開拓次官黒田清隆(1840〜1900)を中心に北海道開拓の専門技術者養成を目的とする学校の設置を計画しましたが、建設間もない札幌は十分に基盤が整っていなかったため、明治5年(1872)4月15日(陰暦)、東京芝の増上寺本坊に開拓使仮学校を開校しました。

 120年後の平成4年(1992)、北海道大学東京同窓会は創立50周年を記念して、帝都港村芝公園内の北東の一角(芝公園3-2)に「開拓使仮学校跡」石碑を建立し、11月15日に除幕式をおこないました。

 その碑文には、下記のように記されています。

 「北海道大学の前身である開拓使仮学校は、北海道開拓の人材を養成するために増上寺の方丈の25棟を購入して、明治5年3月(陰暦)この地に開設されたもので、札幌に移して規模も大きくする計画であったから仮学校とよばれた。
 
 生徒は、官費生、私費生各60名で、14歳以上20歳未満のものを普通学初級に、20歳以上25歳未満のものを普通学2級に入れ、さらに専門の科に進ませた。
 明治5年9月、官費生50名の女学校を併設し、卒業後は北海道在籍の人と結婚することを誓わせた。

 仮学校は明治8年7月(陰暦)札幌学校と改称、8月には女学校とともに札幌に移転し、明治9年8月14日には札幌農学校となった。」
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:03Comments(0)となり村名所あんない

2006年09月11日

パイポの煙(30)−震は四知を畏る

 

 明の定陵出土の金冠

 (旧暦閏-7月19日)

 このところ、企業や公職に就くひとのモラルが喧しく云われていますが、「見つからなければ何をやっても良い」という風潮や、本来高いモラルを持って社会に貢献して行くべき企業が、自社の利益のみを優先し、逆に社会に多大な不安と迷惑を与えているという実態に強い怒りを覚えるのは、私「嘉穂のフーケモン」だけではありますまい。

 とは言え、「自らを律していくことの難しさ」もまた人の世の常とも云うべきものでしょうか。小さく云えば、生活習慣病なども、自らを律していくことによりかなり改善されるやにも聞いています。

 はるか昔の中国の後漢(東漢:25〜225)の初期、弘農郡華陰県(陝西省渭南市)出身の軍事担当宰相である太尉に楊震(54〜124)という人がいました。

 楊震(字は伯起)は少年の頃から学問を好み、太常(宗廟禮儀を司る官)の桓郁から欧陽氏に伝わる、堯舜から夏・殷・周の帝王の言行録を整理した演説集である欧陽尚書(書経)を教授され、経書(儒家経典)に明るく、博覧強記で、内容を窮め尽くさない物は有りませんでした。

 この為、当時の儒者たちは、「関西(函谷関以西の地)の孔子楊伯起」と称えていましたが、数十年の間、州郡の役人が丁重に招いても出仕しませんでした。

 楊震は年五十で州郡に仕え始めました。

 大將軍鄧隲(とうかく)其の賢なるを聞き而して之を辟し(召し)、茂才(秀才:後漢の光武帝の諱である秀の字を避けたため)に舉ぐる。四たび(4回目の出世で)荊州刺史に遷(うつ)る。

 東莱(荊州東莱郡:山東省萊州市)太守として郡に之くに當(あ)たり、道、昌邑(兗州山陽郡昌邑県:山東省昌邑市)を經るに、故舉ぐる所の荊州茂才王密、昌邑の令と為りて謁見す。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:46Comments(0)パイポの煙

2006年09月07日

やまとうた(19)−葦辺なる荻の葉さやぎ秋風の

 

 近江八幡水郷巡り

 (旧暦閏-7月15日)

 鏡花忌  『高野聖』や湯島の白梅でおなじみの『婦系図』などで知られる小説家泉鏡花の昭和14年(1939)の忌日。

 英治忌  『鳴門秘帖』、『宮本武蔵』、『新書太閤記』などで人気を博した時代小説作家吉川英治の昭和37年(1962)年の忌日。

 葦辺なる荻の葉さやぎ秋風の 吹き来るなへに雁鳴き渡る (萬葉集 巻10−2134) 作者未詳

 葦邊在荻之葉左夜藝秋風之 吹来苗丹鴈鳴渡


 荻(オギ)はイネ科の多年草で、学名はMiscanthus sacchariflorus 、河岸や水辺などの湿地に群生し、薄(ススキ)にそっくりですが、その花穂は純白で大きく、長さ20〜40cmになります。 
 
 また荻(オギ)は、薄(ススキ)のような大きな株をつくらず、地下茎を長くのばし、その地下茎から茎が1本ずつ生えるので、大きな群落を作ります。

 水辺では、水深の深いところから、蒲(ガマ:Typha latifolia )、真菰(マコモ:Zizania latifolia Turcz)が群生し、水深が浅くなるにつれて葦(アシ:Phragmites communis)の群落となり、岸から離れた所に荻(オギ)の群落が広がり、乾いたところで薄(ススキ:Miscanthus sinensis)の群落に移行するようです。
 
 萬葉集第1の歌人で歌聖と呼ばれ称えられている柿本人麻呂(660年頃〜720年頃)の歌集である『人麿歌集』にも小異歌が見える次の歌は、前記の歌を原歌としているようです。

 垣ほなる荻の葉そよぎ秋風の 吹くなるなへに雁ぞなくなる(新古今集 497)

 また、

 秋風に山飛び越ゆる雁がねの 声遠ざかる雲隠るらし (萬葉集 巻10−2136) 作者未詳

 秋風尓山飛越鴈鳴之 聲遠離雲隠良思

 を原歌として人麻呂は、次のような歌も残しています。

 秋風に山とびこゆる雁がねの いや遠ざかり雲がくれつつ(新古今集 498)  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:30Comments(0)やまとうた

2006年09月06日

クラシック(18)−チャイコフスキー(1)−バイオリン協奏曲

 

 Young Pyotr Ilyich Tchaikovsky (1874)
 (Пётр Ильич Чайковский)

 (旧暦閏-7月14日)

 私「嘉穂のフーケモン」が初めてこの曲を聴いたのは、もう30年以上も昔のこと、旧ソビエト連邦のヴァイオリニスト、D.オイストラフ(1908〜1974)とハンガリー出身のユージン・オーマンディ(1899〜1985)指揮フィラデルフィア管弦楽団の共演によるLP盤でした。

 貧乏学生の分際ではありながら、秋の温かな日曜日の午前中、コーヒーを飲みながらこのヴァイオリン協奏曲を聴くと、何とも云えない満ち足りた気分になったものでした。

 ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61とメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64、ブラームスのヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77が三大ヴァイオリン協奏曲として有名ですが、それらにこのチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲 二長調 作品35を加えて四大ヴァイオリン協奏曲と称されることもあります。

 ベートーヴェンやブラームス、チャイコフスキーはヴァイオリン協奏曲は1曲しか作曲しておらず、不思議なことにそのいずれもがニ長調で書かれています。

 ところでこの曲に関しては、かの有名なリトアニア出身で20世紀最高峰のヴァイオリンの神様と云われたヤッシャ・ハイフェッツ(1901〜1987)がハンガリー出身のフリッツ・ライナー(1888〜1963)指揮シカゴ交響楽団と共演した1957年のRCA盤が、歴史的名盤と云われています。

 1957年、56歳の絶頂期にあったハイフェッツの名人芸が燦然たる光を放っていると絶賛した評論家もいます。
 
 また、音楽評論家の柴田龍一氏によれば、「ハイフェッツ盤を凌ぐ演奏は、あるいはもはや永久に出現しないのではないだろうか。ハイフェッツのこれ以上なく完璧な表現は、スマートで磨き上げられた美しさを誇りながらも、たぎるような情念や濃密なロマンを秘めており、どこからみても圧倒的といえる説得力を放っている。」とこれまた、これ以上はない賛辞を送られています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:13Comments(0)音楽/クラッシック