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2013年09月27日

物語(12)−平家物語(4)−先帝御入水の事

 

 第八十一代安徳天皇御影

 (旧暦8月16日)

 

 鬼城忌
 俳人村上鬼城の昭和13年(1938)年の忌日。
 不遇な環境に置かれていたため、困窮した生活や人生の諦念、弱者や病気への苦しみなど、独特の倫理観で憐れみ、哀しみを詠った句が多いのが特色であるとされている。さらに、鬼城自信も耳が不自由だったために、身体障害者に対する感情を詠ったものが多い。
 
 生きかはり 死にかはりして打つ田かな
 小鳥このごろ 音もさせずに来て居りぬ
 冬蜂の 死にどころなく歩きけり



 海中(わだなか)に 都ありとぞ 鯖火もゆ   たかし

 この句は、高濱虛子(1874〜1959)に師事し、句誌「ホトトギス」の同人として昭和前期に活躍した俳人松本たかし(1906〜1956)が、昭和28年に足摺岬で詠んだ句です。

 松本たかしは、虚子門下では、川端茅舎(1897〜1941)、中村草田男(1901〜1983)、芝不器男(1903〜1930)に並び称され、平明な言葉で気品に富む美しい句を残したとされています。

 この句については、

 鯖火をみている作者の目には、平家の軍船がありありと映って見えたのであろうか。そして海の底にあるという都の幻も。作者の平家に寄せる思いのしのばれる美しい句である。

 と、福島壺春は評しています。

 この海の都は竜宮ではなく、平家物語の世界であるとされています。
 寿永4年(1185)3月24日、平家が長門國赤間關の壇ノ浦で破れた時、二位の尼(平清盛の継妻)が幼い安徳天皇(1178〜1185、在位1180〜1185)に、「浪の底にも都の候ふぞ」と言い聞かせて入水する、先帝入水のくだりを指しています。

 

 先帝御入水

 位階従二位により、二位尼と称された平清盛の継妻平時子(1126〜1185)は、清盛との間に三男宗盛(1147〜1185)、四男知盛(1152〜1185)、徳子(建礼門院、1155〜1214)、五男重衡(1157〜1185)らを生んでいました。

 

 

 新中納言平知盛

 
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:53Comments(0)物語

2012年08月09日

物語(11)-源氏物語(1)-桐壺

 

 Murasaki depicted gazing at the Moon for inspiration at Ishiyama-dera by Yoshitoshi (1889).

 (旧暦6月22日)

 太祇忌(不夜庵忌)

 江戸中期の俳人、炭太祇(不夜庵)の明和8年(1771)の忌日。
 水国(雲津鶴隣)、慶紀逸に俳諧を学び、宝暦年間(1751〜1764)には奥州・京都・九州などを巡った後、京都島原の遊郭内に不夜庵を営み、支持者である京都島原遊郭桔梗屋の主人桔梗屋呑獅のほか与謝蕪村とも親交が厚く、明和俳壇の中心人物として知られている。
 句集として『太祇句選』、『太祇句選後編』などがある。

  蚊の声は 打も消さぬよ雨の音
  かきつばた やがて田へとる池の水
  酔ふして 一村起ぬ祭りかな



 
 源氏物語は長すぎることが不幸だ。
 源氏物語は長すぎるためになかなか人に読まれない。読まれて正当な評価をうけることがむずかしい。それが源氏物語の不幸なのだ。


 慶應義塾在学中から著名な民俗学者、国文学者である折口信夫(1887〜1953)に師事し、古代学の継承と王朝の和歌・物語を研究してきた西村亨博士(1926〜)は、その著「知られざる源氏物語」(講談社学術文庫)の冒頭で、師折口信夫の源氏物語に対するを論評を紹介しています。

 

 折口信夫博士(1887〜1953)

 紫式部(生没年不詳)が著した54帖からなるとされる源氏物語は、おおむね100万文字、22万文節、400字詰め原稿用紙約2,400枚に及ぶ大作です。
 それは70年余りの出来事が描かれた長編でおよそ500名余りの人物が登場し、800首弱の和歌を含む王朝物語と解説されています。

 たしかに源氏物語は長すぎるので原文で通読した人はめったに見あたらず、人々からその全貌も知られず、真価も知られていません。

 さらには文壇の著名人から源氏物語悪文説が起きたりして、源氏物語の評価を傷つけているということも指摘されています。
 この源氏物語悪文説は、かの森鴎外あたりから始まったことらしく、今回、私「嘉穂のフーケモン」が挑戦しようとしている與謝野晶子の口語訳、與謝野源氏に寄せた序文の一節が西村亨博士により紹介されています。

 わたくしは源氏物語を読む度に、いつも或る抵抗に打ち勝つた上でなくては、詞から意に達することが出来ないやうに感じます。そしてそれが単に現代語でないからだと云ふ丈ではないのでございます。或る時故人松波資之さんに此事を話しました。さうすると松波さんが、源氏物語は悪文だと云はれました。随分皮肉な事も言ふお爺さんでございましたから、此詞を余り正直に聞いて、源氏物語の文章を謗られたのだと解するべきではございますまい。併し源氏物語の文章は、詞の新古は別としても、兎に角読み易い文章ではないらしう思はれます。
 岩波書店版『鴎外全集』


 さて、源氏物語の現代語訳では、その主な物でも、

 1. 與謝野晶子
 2. 谷崎潤一郎
 3. 窪田空穂
 4. 円地文子
 5. 田辺聖子
 6. 瀬戸内寂聴


などなど、錚々たる作家が名を連ねています。

また、漫画の世界でも、

 1. 『あさきゆめみし』 (1979〜1993、全13巻、講談社、大和和紀)
 2. 『源氏物語』 (1988〜1990、全8巻、小学館、牧美也子)
 3. 『パタリロ源氏物語!』 (2004〜2008、全5巻、白泉社、魔夜峰央)


等々、これまた多士済々です。

 では、源氏物語は何を書いた物語なのでしょうか。
 西村亨博士は、首都圏近郊のある女子短大での源氏物語に対するアンケート調査を紹介していますが、その回答結果は、

 1. 光源氏は女性たちを不幸にしたプレイボーイで、女性の敵である。
 2. 源氏物語は、はなやかな宮廷生活を描いた作品である。
 3. 光源氏が母親の面影を追い求めて継母である藤壺と密通するにいたったことから、光源氏はマザコンである。
 4. 幼い紫の君に対する光源氏の愛着から、光源氏はロリコンである。


等々、あまり芳しいものではありませんでした。
 
 「結局、女子短大生たちにとっては、源氏物語はマザコンとロリコンの物語である。」

 では、本当に「源氏物語はマザコンとロリコンの物語」なのでしょうか。

 昔から、源氏物語は大変に名声が高い一方で、「誨淫の書」、つまりみだらなことを教える書だとの厳しい評価を受け続けてきました。

 一方、和歌の世界では、源氏物語を積極的に評価しました。
 鎌倉初期の新古今集の時代には、歌人たちの間に源氏物語を恋歌を詠む場合の手本にしようとする傾向がはっきりと現れてきました。

 

 藤原俊成(菊池容斎画、明治時代)

 建久四年(1193)に行われた六百番歌合における判者である藤原俊成(1114〜1204)は、冬上十三番 「枯野」の判で、以下のように述べています。

「枯野」



 〔左〕 女房
 見し秋を何に残さむ草の原 ひとつにかはる野辺のけしきに







 〔右〕 隆信朝臣


 霜枯の野辺のあはれを見ぬ人や 秋の色には心とめけむ






 左、何に残さん草の原といへる、艶にこそ侍めれ。

 右ノ方人、草の原、難申之条、尤うたゝあるにや。

 紫式部、歌詠みの程よりも物書く筆は殊勝也。

 其ノ上、花の宴の巻は殊に艶なる物也。

 源氏見ざる歌詠みは遺恨ノ事也。

 右、心詞悪しくは見えざるにや。

 但、常の体なるべし。左ノ歌、勝と申べし。

  

 右の方人が、「草の原」という一句について、和歌の用語として聞き慣れない言葉だととがめたのに対して、俊成は、これが源氏物語の第八帖「花宴」の巻にあることばだと指摘したうえで、歌人として源氏物語を読んでいないのは残念なことだと手厳しくその無知をとがめています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 14:41Comments(0)物語

2009年07月28日

物語(10)-平家物語(3)-敦盛最後の事

 

 史蹟 生田の森

 (旧暦  6月 7日)

 乱歩忌 大正期から昭和期にかけて主に推理小説の分野で活躍し、怪人二十面相 (『少年倶楽部』1936年1月~12月)や少年探偵団 (『少年倶楽部』1937年1月~12月)などで人気のあった小説家、推理作家、江戸川乱歩(本名;平井太郎)の昭和40年(1965)の忌日。

 津國(つのくに)の大輪田泊(いわゆる神戸市)に下向したおり、宿の近くに生田の社(やしろ)があり、早朝に境内を散策すると、本殿の背後には史蹟生田の森、謡曲「生田敦盛」にまつわる案内などもあって、なかなか風情がありました。

 名所歌奉りける時           前中納言定家
 秋とたに 吹あへぬ風に色かはる 生田の杜の露の下草 (248)
 続後撰集 巻第五 秋歌上

                       後鳥羽院
 月残る 生田の森に秋ふけて 夜寒(よさむ)の衣 夜半(よは)にうつなり (186)
 仙洞句題五十首(建仁元年仙洞五十首)

 題しらず                 順徳院
 秋風に またこそとはめ津の国の 生田の森の春のあけぼの (1501)
 続古今集 巻十七 雑上


 歌枕として知られ、かつては広大な森だった生田の森も、現在は生田神社の境内にわずかにその面影が残されています。

 寿永3年(1184年)2月7日より始まった一ノ谷の戦いにおいて平氏は、東の生田口から西の塩屋口までの三里以上にのぼる長大な防備陣地を構築し、

 1. 生田口(生田川に面した東城戸) 平氏側主力
  face02新中納言知盛(1152~1185) 入道相国最愛の息子(『玉葉』安元2年12月5日条)とも呼ばれた清盛の四男
  face03三位中将重衡(1157~1185) 清盛の五男

 2. 塩屋口(塩屋川に面した西城戸)
  face04薩摩守忠度(1144~1184)  清盛の父、平忠盛の六男

 3. 夢野口(山の手)
  face05越前三位通盛(1153~1184) 清盛の異母弟教盛の嫡男
  face07教経(1160~1185) 清盛の異母弟教盛の次男

 の三ヵ所の防備を固めて激しく抵抗し、源氏側は容易には突破できませんでした。
 この生田の森周辺も、一ノ谷の戦いの激戦地だったそうですが、いまはそのよすがもありません。

 さて、生田神社の境内には、謡曲「生田敦盛」にまつわる案内があります。

 法然上人に賀茂参詣の時に松の下で拾われて十歳まで育てられた少年が、ある時上人の説法の折にそのことを物語られた聴衆の中から母親が名乗り出て、父が無官の大夫平敦盛だと知らされます。

 そして、その少年が夢でもいいからひと目父に会いたいと願い、上人の従者と供に賀茂明神に祈願すると、津の國生田の森へ下るよう夢で告げられます。


 かやうに候者は、黒谷の法然上人に仕へ申す者にて候。さてもこれに渡り候人は、上人加茂へ御詣りの時、下り松の下に、さも美しき男子の二歳ばかりなるを、手箱の蓋に入れ尋常に拵へ捨て置きて候を御覧じて、上人不便に思し召され、抱かせ帰りさまざまに、育て給ひて候程に、はや十歳に餘り給ひて候。父母のなきことを悲しみ給ひ候程に、説法の後この事を御物語り候へば、聴衆の中より若き女性立ち出で、わが子にて候由申され候ほどに、ひそかに御尋ね候へば、一年一の谷にて討たれ給ひし無官の大夫敦盛の、わすれがたみにて候由申され候へば、この事を聞き及び、父御に逢ひましまさぬことを嘆き給ひ、御命も危ふく見えさせ給ひ候ほどに、加茂の明神へ一七日日参させ申し、夢になりとも父の御姿を見せ給へと御祈誓候。 今日満参にて候間、御供申し、唯今加茂の明神へ参り候。
 やうやう急ぎ候ほどにこれははや、加茂の明神にて候。
 御心静かに御祈念候へ。


 山陰の加茂の宮居を立ち出でて、加茂の宮居を立ち出でて、急ぐ行方は山崎や、霧立ちわたる水無瀬川、風も身にしむ旅衣、秋は来にけり昨日だに、訪はんと思ひし津の國の、生田の森に着きにけり、生田の森に着きにけり。

 生田の森へ赴いた少年の前に花やかな甲冑を身につけた若武者敦盛の霊が現れ、一ノ谷での合戦の様子を語りますが、やがて生存中に戦った相手を混沌の中に見出して、また戦いを始め、それが常にくり返されて安まることがないと云う修羅道の苦しみを受け、弔いを頼み夜明けとともに消え失せてしまいます。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:36Comments(0)物語

2009年05月24日

物語(9)-伊勢物語(1)-狩の使

 
 Ariwara no Narihira looking for the ghost of Ono no Komachi, in an 1891 print by Yoshitoshi.

 (旧暦  5月 1日)

 昔、男ありけり。その男伊勢の国に狩(かり)の使(つかひ)にいきけるに、かの伊勢の斎宮(さいぐう)なりける人の親、「つねの使よりは、この人よくいたはれ」といひやれりければ、親のことなりければ、いとねむごろにいたはりけり。朝(あした)には狩にいだしたててやり、夕さりは帰りつつそこに来させけり。かくてねむごろにいたつきけり。

 昔、ある男がいた。その男が伊勢の国に狩りの使いとして行ったおり、その伊勢神宮の斎宮であった人の親が、「いつもの勅使よりはこの人をよくお世話しなさい」と言い送っていたので、親の言いつけであることから、斎宮はたいそう心をこめて丁寧にお世話をした。朝には、狩りの準備を十分にととのえて送り出し、夕方に帰ってくると、自分の御殿に来させた。このようにして、心を込めて世話をした。

 二日といふ夜、男われて「あはむ」といふ。女もはた、いとあはじとも思へらず。されど人目しげければえ逢はず。使ざねとある人なれば遠くも宿さず。女の閨(ねや)近くありければ、女人をしづめて、子(ね)ひとつばかりに男のもとに来たりけり。男はた寝られざりければ、外(と)の方を見出だして臥(ふ)せるに、月のおぼろなるに小さき童(わらは)を先に立てて人立てり。男いとうれしくて、わが寝る所にゐて入りて、子一つより丑三つまであるに、まだ何事も語らはぬにかへりにけり。男いとかなしくて寝ずなりにけり。

 男が来て二日目の夜、男が無理に「逢いたい」という。女もまた絶対に逢うまいとは思っていない。しかし、周りにお付きの者が多く人目が多いので、逢うことができない。男は狩りの使いの中心となる正使だったので、斎宮の居所から遠く離れた場所には泊めていない。女の寝所に近かったので、女は侍女たちが寝静まるのを待って、夜中の十二時ごろに男の泊まっている部屋にやって来た。男もまた、女のことを思い続けて寝られなかったので、部屋の外を眺めながら横になっていると、おぼろ月夜のなか、小柄な童女を前に立たせてその人が立っている。男はたいそううれしくて、女を自分の寝室に引き入れて、夜中の十二時ころから三時ころまでいっしょにいたが、まだ何も睦言(むつごと)を語り合わないうちに女は帰ってしまった。男はたいそう悲しく、寝ないまま夜を明かしてしまった。

 つとめていぶかしけれど、わが人をやるべきにしあらねば、いと心もとなくて待ちをれば、明けはなれてしばしあるに、女のもとより詞(ことば)はなくて、
 

  君や来し 我や行きけむおもほえず 夢か現(うつつ)か寝てかさめてか
 
 男いといたう泣きてよめる、

  かきくらす 心の闇にまどひにき 夢うつつとはこよひさだめよ
 
とよみてやりて狩に出(い)でぬ。野にありけれど心は空(そら)にて、こよひだに人しづめていととく逢はむと思ふに、国の守(かみ)斎宮(いつきのみや)のかみかけたる、狩の使ありと聞きて、夜ひと夜酒飲みしければ、もはらあひごともえせで、明けば尾張の国へたちなむとすれば、男も人知れず血の涙を流せどえ逢はず。夜やうやう明けなむとするほどに、女がたより出だす。杯の皿に歌を書きて出だしたり。とりて見れば、
 
  かち人の渡れど濡れぬえにしあれば
 
と書きて末(すゑ)はなし。その杯の皿に続松(ついまつ)の炭して歌の末を書きつぐ。
 
  又あふ坂の関はこえなむ

とて明くれば尾張の国へ越えにけり。

 翌日の早朝、気にかかりつつも、自分の供の者を使いにやるわけにもいかず、ずっと待ち遠しく思いながら待っていると、夜がすっかり明けてしばらくして、女の所から、詞は何も書かないで、

 君や来し 我や行きけむおもほえず 夢か現(うつつ)か寝てかさめてか

 男はたいそうひどく泣きながら詠んだ、
 
 かきくらす 心の闇にまどひにき 夢うつつとはこよひさだめよ

と詠んで女におくって、狩りに出かけた。野原に出ても、気持ちは狩りのことから離れてしまってうつろで、せめて今夜だけでも皆が寝静まったら少しでも早く逢おうと思っていたのに、伊勢の国守で斎宮寮の長官を兼任している人が、狩りの勅使が来ていると聞いて、一晩じゅう酒宴を催したので、まったく逢うことができない。夜が明けると尾張の国を目指して出発しなければならないので、男はひそかにひどく嘆き悲しんだが、逢うことができない。夜がしだいに明けようかというときに、女のほうから杯の受け皿に歌を書いて出した。受け取ってみると、

  かち人の渡れど濡れぬえにしあれば

と、上の句だけ書いてあり、下の句がない。男はそこで、その受け皿に、たいまつの消え残りの炭で、下の句を続けて書いた。

  
又あふ坂の関はこえなむ

と書いて、夜明けとともに、尾張の国へ向かい、国境を越えて行ってしまった。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:19Comments(2)物語

2008年11月24日

物語(8)-太平記(3)-兵部卿の宮薨御の事

 

 京都神護寺三像 伝源頼朝像
 従来、源頼朝像とされてきましたが、1995年、美術史家の米倉迪夫氏(当時東京国立文化財研究所)により、伝源頼朝像は足利直義像であるとする新説が発表され、その後、東大名誉教授の黒田日出男氏が米倉説を補強する所説を発表しています。

 (旧暦 10月27日)

 兵部卿宮護良(もりよし)親王(1308~1335)は、九十五代後醍醐天皇(在位1318~1339)の第三皇子で、母は三位大納言北畠師親(もろちか:1293~1354)の娘、親子(しんし)です。

 正和2年(1313)、6歳の時に天台宗三門跡の一つである船岡山東麓の梶井門跡(当時)に入室しますが、16歳の元享3年(1323)に比叡山延暦寺で出家して法名を尊雲(法親王)と称し、正中2年(1325年)には門跡を継承して門主となり、嘉暦2年(1327)には父後醍醐天皇の斡旋により、第百六十三代天台座主となっています。
 東山岡崎の法勝寺大塔(九重塔)周辺に門室を置いたことから大塔宮(おおとうのみや)と呼ばれました。

 護良親王は武芸に秀で、日頃から鍛練を積み、鎌倉幕府倒幕運動である元弘の乱(1331~1333)が起るや、父後醍醐天皇を助けて山門延暦寺の僧兵をまとめ、熊野、吉野の山奥に勤王の軍事行動を執るとともに、国々諸方に令旨(皇太子の命令を伝える文書)を発して勤王武士の奮起を促し、楠木正成らとともに倒幕のさきがけをなしています。

 ちなみに、護良(もりよし)親王は、私「嘉穂のフーケモン」が農学校を受験する当時の日本史では、護良(もりなが)親王と呼称されていました。
 その理由は、室町期の摂政関白、古典学者であった一条兼良(1402~1481)が著したと伝えられる『諱訓抄』の写本で、「護良」に「モリナカ」と読み仮名が振ってあることなどがあげられるようです。

  護良親王が、鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇による建武の新政下では征夷大将軍、兵部卿に任じられて上洛したのに対し、六波羅探題を討って倒幕に第一の勲功があった足利尊氏(1305~1308)は、事実上無名化していた鎮守府将軍および従四位下左兵衛督にしか任じられませんでした。

 また、父後醍醐天皇の寵妃、三位局阿野廉子(1301~1359)にとっては、還俗して皇位後継者の一人となっていた護良王は、自分の生んだ皇子たちにとっては邪魔な存在とみなされていたようです。

 足利尊氏は、三位局阿野廉子と結んで、謀反の疑い有りとして護良親王を讒訴し、建武元年(1334年)10月、護良親王は伯耆守名和長年(?~1336)、結城親光(?~1336)らに捕らえられて鎌倉へ送られ、鎌倉将軍府将軍成良親王(1326~1344)を奉じて鎌倉にて執権職にあった足利尊氏の弟左馬頭足利直義(1306~1352)の監視下に置かれて、二階堂ガ谷(やつ)東光寺の土牢に幽閉されてしまいます。

 翌建武2年(1335)、鎌倉幕府第14代執権北条高時の次男北条時行(?~1353)が信濃の守護代であった諏訪三河守頼重(?~1335)らに擁立されて鎌倉幕府復興のため挙兵した中先代の乱によって鎌倉が北条軍に奪還されると、二階堂ガ谷の東光寺に幽閉されていた護良親王は、北条時行に奉じられる事を警戒した足利直義の命により淵辺伊賀守義博(?~1335)に殺害されてしまいます。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:14Comments(0)物語

2008年06月12日

物語(7)-太平記(2)-直冬上洛事付鬼丸鬼切事

 

 鎌倉幕府初代執権 北条時政(1138〜1215)

 (旧暦  5月 9日)

 太平記巻32の7に、「直冬(ただふゆ)上洛の事付けたり鬼丸、鬼切の事」という段があり、源平累代の重宝として伝わる鬼丸、鬼切と云う二振りの太刀のことが記載されています。
 ここで鬼丸というのは「鬼丸國綱」のことで、後に「二つ銘則宗」、「大典太(おおでんた)光世」、「骨喰藤四郎」とともに足利将軍家の重宝として足利尊氏以後14代にわたって伝承され、最後の将軍第15代足利義昭(1537~1597)より豊臣秀吉に譲られています。
 また、「鬼丸國綱」は、「童子切安綱」、「大典太(おおでんた)光世」、「三日月宗近」、「数珠丸恒次」とともに、室町期以来「天下五剣」のうちの一つにも数えられています。

 抑(そもそも)此の鬼丸と申す太刀は、北条四郎時政天下を執って四海を鎮(しづ)めし後、長(たけ)一尺許(ばかり)なる小鬼、夜々(よなよな)時政が跡枕に来て、夢共なく幻(うつつ)共なく侵(をか)さんとする事度々(たびたび)也。
 修験の行者、加持(かぢ)すれ共休まず。陰陽寮(おんやうれう)封ずれ共立ち去らず。剰(あまつさ)へ是故(これゆゑ)に時政病を受けて、身心苦む事隙(ひま)なし。

 或夜の夢に、此の太刀独りの老翁に変じて告げて云く、「我常に汝を擁護(おうご)する故に彼の妖怪の者を退けんとすれば、汚れたる人の手を以て剣を採りたりしに依って、金精(さび)身より出て抜けんとすれ共叶はず。早く彼の妖怪の者を退けんとならば、清浄ならん人をして我が身の金清(さび)を拭(のご)ふべし。」と委(くはし)く教へて、老翁は又元の太刀に成りぬとぞ見えたりける。

 時政夙(つと)に起きて、老翁の夢に示しつる如く、或侍に水を浴びせて此の太刀の金精(さび)を拭(のご)はせ、未だ鞘にはさゝで、臥したる傍(そば)の柱にぞ立掛けたりける。冬の事なれば暖気を内に篭(こめ)んとて火鉢を近く取寄せたるに、居(すゑ)たる台を見れば、銀(しろがね)を以て長(たけ)一尺許(ばかり)なる小鬼を鋳て、眼には水晶を入れ、歯には金をぞ沈めたる。

 時政是れを見るに、此の間夜な夜な夢に来て我を悩ましつる鬼形(きぎやう)の者は、さも是れに似たりつる者哉(かな)と、面影ある心地して守り居たる処に、抜いて立てたりつる太刀俄(にはか)に倒れ懸りて、此の火鉢の台なる小鬼の頭(かうべ)をかけず切てぞ落したる。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:46Comments(0)物語

2007年12月21日

物語(6)-平家物語(2)-宇治川の事(1)

 

 宇治川に浮かぶ宇治公園の塔ノ島より、下流橘島の朝霧橋を望む

 (旧暦 11月12日)

 現在、琵琶湖から流れ出た水は瀬田川と呼ばれる川を下り、京都府に入るあたりで宇治川と名を変え、京都府と大阪府の境界付近の大山崎町で桂川、木津川と合流して淀川となります。
 しかし、古代から豊臣秀吉(1537~1598)が隠居所として現在の宇治川沿いの桃山丘陵に指月屋敷を築き城下の整備を始めた元禄3年(1596)頃までは、宇治川は現在の宇治橋の下流あたりから木津川、桂川との合流点の上流側にかけて広大な遊水池を形成していました。

 「うしさんのおもしろ伏見の歴史」 
 http://comox.co.jp/~ushisan/pages/history.pages/ogura3.html

 この巨大な遊水池は、古くは万葉集巻9-1699の

 巨椋(おおくら)の入江響(とよ)むなり射部人(いめびと)の 伏見が田居(たい)に雁渡るらし

 という歌でも知られています。

 この当時の奈良から京へと向かう京街道は、巨椋池(おぐらいけ)を避けるように盆地の外縁部を通っていましたが、「宇治橋」が交通の要衝でした。
 「宇治橋」は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる「瀬田の唐橋」、京都府大山崎町と八幡市橋本間に架かっていた「山崎橋」と共に日本三古橋の一つに数えられ、山崎太郎、勢多次郎、宇治三郎とも称されていました。
 また、「宇治橋」は「瀬田の唐橋」とならんで京都防衛上の要地でもありました。

 宇治川は現在では「宇治橋」の上流に天ヶ瀬ダムが建設されて水量が調節されているとはいえ、私「嘉穂のフーケモン」が訪れた師走の渇水期でさえ、相当の水量を湛えていました。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:33Comments(0)物語

2006年02月16日

物語(5)−西行物語(2)

 

 西行法師 菊池容齋筆

 (旧暦  1月19日)

 西行忌  西行法師は建久元年2月16日73歳で、河内国南葛城の弘川寺に円寂しました。建久元年2月16日は旧暦ですから、西洋暦に換算すると、ユリウス暦1190年3月23日にあたるようです。

 龍池山弘川(ひろかわ)寺は、第38代天智天皇(626〜671、在位668〜671)の四年、役行者によって開創された真言宗醍醐派の古刹で、金剛山地の葛城山(959m)の北西の麓に位置し、日本庭園と枯山水が美しい桜と紅葉の名所で、近鉄長野線の富田林駅が最寄りの駅になります。

 鳥羽法皇に仕えた北面の武士、佐藤義清が出家を遂げたのは、保延6年(1140)23歳のときでした。
 平安末期の左大臣藤原頼長(1120〜1156)が残した漢文体の日記『台記』の永治2年(1142)3月15日のくだりは、西行についての重要な基本的文献となっています。

 西行法師来りて曰く、一品経を行ふにより、両院以下、貴所皆、下し給ふなり。料紙の美悪を嫌はず、ただ自筆を用ゐるべしと。余、不軽を承諾す。また余、年を問ふ。答へて曰く、廿五なりと。去々年出家せり。廿三。そもそも西行は、もと兵衛尉義清なり。左衛門大夫康清の子。重代の勇士なるを以て法皇に仕へたり。俗時より心を仏道に入れ、家富み年若く、心愁ひ無きも、遂に以て遁世せり。人これを歎美せるなり。

 当時、西行は一品経の書写供養を発願し、鳥羽法皇、崇徳上皇両院をはじめ朝廷の有力者を歴訪し、頼長自身も西行の依頼に応じて不軽経(法華経常不軽菩薩品第二十)の書写を承諾していました。
 一品経の書写供養とは、法華経二十八品と開結無量義経、観普賢経を合わせて都合三十巻を、写経の際に多数の人が一品ずつ分けて書写し一巻ずつに仕立てた経巻で、一人で全てを書写する一筆経に対する語です。  続きを読む

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2005年10月09日

物語(4)−平家物語(1)−那須與一の事

 

 『平家物語絵巻』巻十一、屋島の戦い「扇の的」

 (旧暦  9月 7日)

 九郎判官義経(1159〜1189)の伝説は全国各地に残されており、最近では大手出版社から義経の波乱万丈の生涯とゆかりの地を30冊にわたって紹介する分冊百科も出ているようですから、その根強い人気には感心させられます。

 壽永2年(1183)7月25日、安徳天皇、建礼門院を奉じて都落ちした平家一門は、一旦は九州まで落ち延びましたが、再び東上して壽永3年(1184)1月にはかって遷都した摂津福原に戻り、播磨との国境の一ノ谷に城郭を構えて源氏に備えていました。
 壽永3年(1184)2月7日早朝、義経率いる三千餘騎は背後の鵯越えから奇襲して平家の陣を混乱させ、兄範頼の軍と共に激戦の末平家の軍勢を駆逐しました。
 
 海上に逃れた平家の軍勢は、さらに四国讃岐の屋島に逃れて陣を築き再興を図っていましたが、翌年の元暦2年(1185)2月16日、義経は摂津国渡邊、福島から暴風の中五艘、僅か五十騎を率いて海を渡って阿波の国勝浦に上陸、18日には背後から屋島の平家本営を攻撃し大激戦となりました。

 「今日は日暮れぬ、勝負を決すべからず」とて、源平互に引退く処に、沖の方より尋常にかざりたる小舟一艘、汀(みぎは)へ向ひて漕ぎ寄せ、渚より七八段(70〜80m)ばかりにもなりしかば、舟をよこさまになす。「あれはいかに」と見る程に、船のうちより、年の齢十八九ばかりなる女房の、柳の五衣(いつつぎぬ)に、紅の袴着たるが、皆紅(くれない)の扇の、日出したるを、舟のせがいに鋏み立て、陸(くが)へ向つてぞ招きける。 『平家物語 流布本 巻11』  続きを読む

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2005年09月06日

物語(3)−西行物語(1)

 

 西行法師 フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

 (旧暦  8月 3日)

 実子為相(ためすけ)と異母兄為氏(ためうじ)との間の遺産相続問題により惹起した播磨国細川庄の所領紛争の訴訟のため、弘安2年(1279)鎌倉に下向した藤原為家の側室阿仏尼(?〜1283)は、京から鎌倉までの道中紀行および鎌倉滞在中の出来事を日記にして残しました。

 当初は、この日記に名前が付いていなかったため、『阿仏日記』などと呼ばれていたようですが、日記が10月16日に始まっていることにより、後世の人が『十六夜日記』と名付けました。

 この『十六夜日記』の10月23日の天龍川の渡し場の箇所に以下の記述があります。

 廿三日、天りうのわたりといふ。舟にのるに、西行がむかしもおもひいでられていと心ぼそし。くみあはせたる舟たゞひとつにて、おほくの人のゆきゝに、さしかへるひまもなし。
 水のあわの うき世にわたる ほどを見よ はや瀬の小舟 竿もやすめず
こよひは、とをつあふみ見つけのこふといふ所にとゞまる。里あれて物おそろし。傍に水の井あり。
 たれか來て みつけの里と 聞くからに いとゞたびねの 空おそろしき


 「西行法師の昔の出来事が思い出されて、非常に心細い」と阿仏尼に言わしめた西行の昔の出来事とは、これより135年前の天養元年(1144)、約百数十年も前の歌人能因法師(988〜?)の道筋をたどって歌枕探訪の修行をするため、みちのくへの第1回目の旅に出た西行(1118〜1190)が、遠江国天中川(天龍川)の渡し船で、船頭からさんざんに鞭打たれる場面が、『西行物語』に語られているからです。  続きを読む

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2005年05月26日

物語(2)−源平盛衰記(1)−菖蒲前(あやめのまへの)事

 

 歌川広重 『名所江戸百景』 堀切の花菖蒲

 (旧暦  4月19日)

 五月雨(さみだれ)に 沼の石垣水こえて 何(いずれ)かあやめ引(ひき)ぞわづらふ
 (源三位頼政)

 
 旧暦では、4月から6月にかけての時節を夏としています。
 あやめぐさは、万葉集では夏の草花で12首詠み込まれていますが、現在のサトイモ科の多年草の菖蒲(しょうぶ)のことで、その独特の香りから邪気をはらうと考えられてきました。

 現在、ショウブという場合は、たいていハナショウブ(花菖蒲)のことを言います。学名はIris ensata、アヤメ科アヤメ属の花ですが、同属にアヤメ(学名:Iris sanguinea)、カキツバタ(学名:Iris laevigata)もあり、どれがどれだか素人にはさっぱりわかりません。

 全く分けが判らず、思わず「責任者呼んで来い!」と叫びたくなります。
 そのため、古来から、「いずれが菖蒲(アヤメ)か杜若(カキツバタ)」と云われ、「美しくて甲乙付けがたいこと」を言う時の形容句として用いられてきましたが、この頃では、「どっちもどっち」の意味で使われているのではないかと愚考致しております。  続きを読む

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2005年04月20日

物語(1)−太平記(1)−備後三郎高徳事付呉越軍事

 

 児島高徳 菊池容斎筆 『前賢故実』より

 (旧暦  3月12日) 

 百閒(ひゃっけん)忌 小説家・随筆家内田百閒の昭和46年(1971)年の忌日。

 第96代後醍醐天皇(1288〜1339)が倒幕運動を開始した「正中の変」(1331)から、足利義満(1358 〜1408)の第3代将軍職就任の(北朝)貞冶6年/(南朝)正平22年(1367)までの36年間の戦乱を描いた「平家物語」と並ぶ日本の代表的な軍記物語に「太平記」があります。

  「平家物語」が仏教の無常観を中心に戦いの中にも風雅に富んだ世界を描いているのに対し、「太平記」は因果応報の思想を基に秩序と理念なき戦いの顛末を殺伐とした筆致で、時には残酷なまでに描いていると云われています。
 
 その巻の4の7に、「備後三郎高徳事付呉越軍事」があります。

 大正3年(1914)に発表された尋常小学唱歌『児島高徳』にもうたわれ、戦前の教育を受けた人にはよく知られている太平記の中の有名なエピソードです。  続きを読む

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