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2017年12月08日

奥の細道、いなかの小道(44)− 種の濱

 
  奥の細道、いなかの小道(44)− 種の濱

      Lennon performing in 1964.

    ジョンレノン忌 (Lennon's day)
    昭和五十五年(1980)、ビートルズの中心メンバーだったジョン・レノン(John Winston Ono Lennon、1940〜1980)がニューヨークの自宅アパ
    ート前で熱狂的なファン、マーク・チャプマン(Mark David Chapman、1955〜)にピストルで撃たれて死亡した忌日。


    (旧暦10月21日)

    〈種の濱〉
    十六日、空霽(はれ)たれば、ますほの小貝ひろはんと種(いろ)の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某といふもの、破籠・小竹筒などこまやかに
    したゝめさせ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹き着きぬ。濱はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。ここに茶を飲、酒をあたゝめ
    て、夕ぐれのさびしさ、感に堪たり。
            寂しさや須磨にかちたる濱の秋 
            浪の間や小貝にまじる萩の塵
    其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に殘。


  芭蕉が色の濱に赴いた理由は、敬慕して止まない西行法師(1118〜1190)の詠んだ歌、
    汐染むるますほの小貝拾ふとて    色の濱とはいふにやあるらん        山家集  巻下    1194
に魅せられ、それが色の濱を訪ねる動機となったとされています。

  芭蕉が拾おうとした「ますほの小貝」は、色の濱の海岸で採れるという赤い色をした小さな貝の意で、学名は「チドリマスオ(Donacilla picta)」と云い、長さ五〜十ミリ、厚さ三ミリ程の小さな貝です。

  奥の細道、いなかの小道(44)− 種の濱

    チドリマスオ(Donacilla picta)

  さて、敦賀を訪れた芭蕉翁一行を歓待した天屋は、本姓を室五郎右衛門と云い、敦賀で廻船問屋を営む豪商で、俳号を玄流の他に点屋水魚と称し、当時の敦賀俳壇の中心的な存在でした。

  天屋五郎右衛門が準備させた「破籠」は一種の弁当箱で、白木の折り箱の内側に仕切りを入れ、被せ蓋を付けた入れ物です。

  また、「小竹筒」は『広辞苑』には、「小筒、竹筒酒(ささえさけ)を入れて携帯する竹筒。竹小筒(たけささえ)」とあります。

  色の濱には陸路がなく、当時は陸の孤島と云われ、舟便だけが頼りでした。
  芭蕉が訪ねた「法花寺」とは本隆寺のことで、もとは金泉寺と称した曹洞宗の永嚴寺(敦賀金ヶ崎)の末寺でした。

  應永三十三年(1426)八月、摂津尼崎本興寺の日隆上人が、生国の越中からの帰途、河野浦(南越前町河野)で舟に乗り敦賀へ渡ろうとしたとき、暴風雨に遭って色の濱へ流されてしまいました。

  当時、色の濱の集落では疫病が流行して村民が苦しんでいたので、日隆上人が海岸の岩に座って一心不乱に祈祷したところ、奇跡的に疫病が平癒したと云います。このため、喜んだ村民達は日隆上人に帰依し、金泉寺を本隆寺と改名し、日蓮宗に改宗したと云います。日隆上人は本隆寺の開祖となり、当時の金泉寺住持も日蓮宗に改宗し、本隆寺二世となりました。

  芭蕉翁一行は本隆寺に宿泊し、等裁(洞哉)が筆を執って「其日のあらまし」を記した「芭蕉翁色ヶ濱遊記」を本隆寺に残しています。

    ○ますほの小貝
        若狭湾特産の二枚貝で、あさりを小さくしたような形の直径五ミリから十ミリ程度の小貝。「ますほ」は真赭(まそほ)の転で、赤色を云う。

        汐染むるますほの小貝拾ふとて    色の濱とはいふにやあるらん        山家集  巻下    1194        西行法師


    ○海上七里
    一 九日 快晴。(中略)カウノヘノ船カリテ、色浜へ趣。海上四リ。戌刻、出船。夜半ニ色へ着。クガハナン所。塩焼男導テ本隆寺へ行テ宿。
            『曾良旅日記』

        曾良の日記にもあるように、実際の距離は二里強。
  
        あそび來ぬふく釣かねて七里迄
        鰒釣らん李陵七里の波の雪
            『野ざらし紀行』 貞享元年(1684)


  奥の細道、いなかの小道(44)− 種の濱

    富春江嚴子陵埀釣處

    芭蕉が、「海上七里」と言ったのは、後漢の嚴光(字は子陵、前39〜41)が俗塵を避けていたという「七里瀬」「七里灘」の故事を心に置いての
    表現かと捉えられている。

    後漢の初代皇帝光武帝(前6〜57)の学友嚴光(字は子陵、前39〜41)は、光武帝即位の後、姓名を変えて身を隠していたが、澤中に釣をしているとこ
    ろを見いだされ、長安に招聘された。その後、諫議大夫に推挙されたがこれを受けず、富春山(浙江省富陽県)に隠棲して耕作や釣りをして暮らし、
    その地で没した。嚴光が釣りをしていた釣臺七里瀬(桐廬県の南、富春江の湖畔)は「嚴陵瀬」と名づけられ、隠棲を象徴する場所として、盛唐から中
    唐以降、しばしば詩人の作品に取り上げられている。

  奥の細道、いなかの小道(44)− 種の濱
     
      嚴子陵釣臺周邊地圖
      

    嚴光の釣臺を詩中に詠み込んだのは、南朝宋の康樂侯謝靈運(385〜433)が最初とされている。謝靈運は、魏晉南北朝時代を代表する詩人で、山水を
    詠じた詩が名高く、「山水詩」の祖と云われている。

    下記の詩「七里灘」は、謝靈運が永嘉太守(浙江省温州)に左遷され、任地に赴く途中、富春江を遡っていた時に詠まれたものとされている。此の
    時、謝靈運は左遷の失意の中で、嚴光の釣臺から『莊子』外物篇の「任公子」へと思いを馳せ、時代は異なっても、自分は彼らのような隠者と調べを同
    じくするのだと結んでいる。

    任公子は先秦の人、巨大な釣り針と糸を用意し、これに五十頭の牛を餌につけ、東海に竿を垂れ、やがて巨大魚を釣り上げたという故事。

        七里灘            謝靈運
        羈心積秋晨    晨積展遊眺
        孤客傷逝湍    徒旅苦奔峭
        石淺水潺湲    日落山照曜
        荒林紛沃若    哀禽相叫嘯
        遭物悼遷斥    存期得要妙
        既秉上皇心    豈屑末代誚
        目睹嚴子瀨    想屬任公釣
        誰謂古今殊    異代可同調


        羈心は秋晨に積り    晨に積りて遊眺を展ばさんとす
        孤客は逝湍を傷み    徒旅は奔峭に苦しむ
        石浅くして水は潺湲(せんたん)たり    日落ちて山は照曜す
        荒林紛として沃若たり    哀禽相い叫嘯す
        物に遭いて遷斥を悼み    期を存し要妙を得たり
        既に上皇の心を秉(と)り    豈末代の誚(そし)りを屑(いさぎよし)とせんや
        目のあたり厳子が瀬を睹(み)て    想いは任公の釣に属す
        誰か謂う古今殊(こと)なると    異代も調べを同じくす可し


    奥の細道、いなかの小道(44)− 種の濱

        任公子

    任公子、大鈎巨緇を爲(つく)り、五十犗(かい、去勢された牛)、以て餌と為し、会稽に蹲(うづくま)り、竿を東海に投じ、旦旦にして釣る。期年
    にして魚を得ず。已にして大魚之を食らい、巨鈎を牽いて、陥没して下り、驚揚して鬐(ひれ)を奮う。白波は山の若く、海水は震蕩し、声は鬼神に侔
    (ひと)しく、千里に憚嚇(たんかく)す。任公子、若(こ)の魚を得て、離(さ)きて之を腊(ほしじ)にす。淛河以東、蒼梧已北、若(こ)の魚に
    厭(あ)かざる者莫(な)し。
        『莊子』外物篇


    ○天屋何某
        敦賀の廻船問屋、天屋五郎右衛門。
    雨中のつれづれ俳諧する人やあると問たまへば、天屋の何某こそ風雅に富る人也と答ふ。さはとて、その家をたづねたまへば、玄流雀踴して風談に
    および、金が崎・色の濱にいざなひまいらせ、須磨にかちたるの吟、浪の間やの詠、二章は等裁に筆をとらせ、爰の寺にのこして什寶となせり
        『蕉翁宿句帳』    琴路の記


    ○破籠(わりご)
        白木の折箱で、内側に仕切りを設け、被せ蓋にした弁当箱。
    樏子(わりご) (中略) 按ずるに、樏子は今云ふ破子。其の形、或は圓く、或は方にして、中に隔有りて、飯及び諸肴を盛るものなり
        『和漢三才圖繪』


    ○小竹筒(ささえ)
        酒を携行するための竹筒。
    棬〈和名、俗云、左須江。佐々江。〉竹筒〈俗字。和訓同。〉
    按ずるに、棬は俗に云ふ曲物なり。(中略)今、竹筒を以て樽と爲すもまた、和名同じくして竹筒の二字を用ふ
        『和漢三才圖繪』


    ○追風、時のまに吹着ぬ
        追風は順風。
    日長きころなれば、追風さへ添ひて、まだ申の時ばかりに、かの浦に着きたまひぬ        『源氏物語』    須磨の巻    第一章第九段
        上記、『源氏物語』須磨の巻第九段の文を念頭に置いた叙述で、「寂しさや」の句への伏線ををなしている。

    ○法花寺
        日蓮宗の寺、本隆寺。
  
    ○酒をあたゝめて
        送王十八歸山寄題仙遊寺
        曾於太白峰前住
        數到仙遊寺裏來
        黑水澄時潭底出
        白雲破處洞門開
        林間煖酒燒紅葉
        石上題詩掃緑苔
        惆悵舊遊無復到
        菊花時節羨君迴


        王十八が山に歸るを送り、仙遊寺に寄せ題す
        曾て太白峰前に住まひ
        數(しば)しば仙遊寺裏に到りて來る
        黑水澄む時    潭底(たんてい)出で
        白雲破るる處    洞門開く
        林間に酒を煖めて紅葉を燒き
        石上に詩を題(しる)して綠苔を掃(はら)ふ
        惆悵(ちうちやう)す    舊遊の複た到ること無きを
        菊花の時節    君が迴(かへ)るを羨む


        上記の詩の文言を用い、秋興と仙遊寺へ再び訪ねることのない思いを、次の「夕ぐれのさびしさ」の前提としたもの。

  奥の細道、いなかの小道(44)− 種の濱

      Beneath Maple Trees

    ○夕ぐれのさびしさ
    秋は夕暮。夕日のさして山端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさへあはれなり。まして雁などのつらねたる
    が、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入りはてて、風の音、蟲の音など。
        『枕草子』 第一段

    秋の夕べをあわれぶ、『枕草子』以来の伝統的詩情、なかんずく、
        見わたせば花も紅葉もなかりけり    浦の苫屋の秋の夕暮れ        新古今集    秋            藤原定家
    の歌を念頭に置いて表現したもの。

    ○寂しさや須磨にかちたる濱の秋
    須磨の浦を秋のあはれの極地とする伝統的詩情によるもの。
        色濱泛舟(色の濱に舟を泛ぶ)
            小萩ちれますほの小貝小盃
        その浦の寺にあそびて
            寂しさや須磨にかちたる濱の秋
            『俳諧四幅對』


    須磨には、いとど心尽くしの秋風に 、海はすこし遠けれど、 行平中納言の、「関吹き越ゆる」と言ひけむ 浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またな
    くあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。
        『源氏物語』 須磨の巻 第三章第一段


  奥の細道、いなかの小道(44)− 種の濱

      源氏物語画帖 須磨

    かかる所の穐(あき)なりけりとかや。此浦の実は秋をむねとするなるべし。かなしさ、さびしさ、いはむかたなく、秋なりせばいさゝか心のはしをも
    いひ出べき物をと思ふぞ、我心匠の拙なきをしらぬに似たり。
        『笈の小文』


    ○浪の間や小貝にまじる萩の塵
        季語は「萩」で、八月。初案の「小盃」は、「小貝を拾ひ、袂につゝみ、盃にうち入なんどして」と洞哉筆懐紙(本隆寺蔵)に書いている
        「盃」で、浜辺での雅宴の具。「小」と言ったのは、「小貝」から口拍子で続けたもの。
  
    ○等栽に筆をとらせて
    氣比の海のけしきにめで、いろの濱の色に移りて、ますほの小貝とよみ侍しは、西上人の形見成けらし。されば、所の小はらはまで、その名を傳え
    て、汐のまをあさり、風雅の人の心をなぐさむ。下官(やつがれ)、年比思ひ渡りしに、此たび武江(武蔵国江戸)芭蕉桃青巡国の序(ついで)、この
    はまにまうで侍る。同じ舟にさそはれて、小貝を拾ひ、袂につゝみ、盃にうち入なんどして、彼上人のむかしをもてはやす亊になむ。越前ふくゐ洞哉
    書。 
        小萩ちれ ますほの小貝小盃 桃青 元禄二年仲秋
        『芭蕉翁色ヶ濱遊記』


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Posted by 嘉穂のフーケモン at 11:27│Comments(0)おくの細道、いなかの小道
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