2014年03月21日
クラシック(25)— ヘンデル(1)— ユダス・マカベウス


George Frideric Handel, born in 1685, the same year as Johann Sebastian Bach and Domenico Scarlatti. By Balthasar Denner (c. 1726–1728)
(旧暦2月21日)
和泉式部忌

菊池容斎『前賢故実』より
平安中期の歌人、中古三十六歌仙の一人、和泉式部の忌日。
生没年は不詳だが、摂政太政大臣藤原道長(966〜1028)が、むすめの上東門院彰子(988〜1074)に仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内の一庵を与えたのが起源とされる華嶽山東北寺誠心院に墓所があり、毎年3月21日に法要が営まれるている。
父である越前守大江雅致(まさむね)の式部省の官名から「式部」(一説には養女)、夫であった橘道貞の任国和泉から「和泉式部」と呼ばれたとされる。
恋愛を詠んだ秀歌が多い反面、その恋愛遍歴から、藤原道長からは「うかれめ」と揶揄され、紫式部からは「和泉はけしからぬ方こそあれ」と評されている。
和泉式部といふ人こそ、面白う書き交しける。されど、和泉はけしからぬ方こそあれ。うちとけて文走り書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。歌はいとをかしきこと、ものおぼえ、歌のことわり、まことのうたよみざまにこそ侍らざめれ。口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目とまる詠み添へ侍り。それだに人の詠みたらん歌なん、ことわりゐたらんは、いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるゝなめりとぞ、見えたるすぢに侍るかし。恥づかしげの歌よみやとは覺え侍らず
『紫式部日記』
『和泉式部集』(正集)、『和泉式部続集』のほか、「宸翰本」「松井本」などと呼ばれる略本(秀歌集)があり、勅撰二十一代集に二百四十五首を入集している。
御影供

『風信帖』(第1通目)空海筆
真言宗の開祖、弘法大師空海が承和二年(835)に、高野山奥の院で入寂したとされる日。
《承和二年(八三五)三月丙寅【廿一】》
丙寅。大僧都傳燈大法師位空海終于紀伊國禪居。
《承和二年(八三五)三月庚午【廿五】》
庚午。勅遣内舍人一人。弔法師喪。并施喪料。後太上天皇有弔書曰。眞言洪匠。
密教宗師。邦家憑其護持。動植荷其攝念。豈圖崦○未逼。無常遽侵。仁舟廢棹。
弱喪失歸。嗟呼哀哉。禪關僻在。凶聞晩傳。不能使者奔赴相助茶毘。言之爲恨。
悵悼曷已。思忖舊窟。悲凉可料。今者遥寄單書弔之。著録弟子。入室桑門。悽愴
奈何。兼以達旨。法師者。讃岐國多度郡人。俗姓佐伯直。年十五就舅從五位下
阿刀宿禰大足。讀習文書。十八遊學槐市。時有一沙門。呈示虚空藏聞持法。其經
説。若人依法。讀此眞言一百萬遍。乃得一切教法文義諳記。於是信大聖之誠言。
望飛焔於鑽燧。攀躋阿波國大瀧之嶽。觀念土左國室戸之崎。幽谷應聲。明星來影。
自此慧解日新。下筆成文。世傳。三教論。是信宿間所撰也。在於書法。最得其妙。
與張芝齊名。見稱草聖。年卅一得度。延暦廿三年入唐留學。遇青龍寺惠果和尚。
禀學眞言。其宗旨義味莫不該通。遂懷法寳。歸來本朝。啓秘密之門。弘大日之
化。天長元年任少僧都。七年轉大僧都。自有終焉之志。隱居紀伊國金剛峯寺。化
去之時年六十三。
『續日本後紀』 卷第四
米国アナポリスの海軍兵学校では、卒業式のあと、少尉候補生の制服姿になった未来のアドミラルたちが、三々五々、恋人といっしょに、ラヴ・レインという校内の森の小径に消えて行くそうだが、江田島ではそういう風習はない。しかし、恩賜の短剣を受ける時には、一人々々、ヘンデルの歓喜の合唱曲、「ユダス・マカベウス」が奏せられ、ちょっと日本ばなれした荘厳で美しい式典である。
『軍艦長門の生涯』 阿川弘之
「ユダス・マカベウス」(Judas Maccabaeus)は、バロック期を代表する重要な作曲家の一人とされている、ドイツ生まれでイギリスに帰化した作曲家ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Händel,1685〜1759)のオラトリオ(聖譚曲)HWV(Händel-Werke-Verzeichnis)63の題名です。
初演は1747年4月1日、ロンドンのコヴェント・ガーデン(王立歌劇場)で、同じくヘンデルのオラトリオ、メサイア (Messiah)HWV56 に次いで人気の高いオラトリオです。
ここで阿川弘之氏が云う合唱曲「ユダス・マカベウス」とは、オラトリオ「ユダス・マカベウス」の第3幕で歌われる「見よ、勇者は還りぬ」の合唱曲のことだと思われます。
CHORUS OF YOUTHS
See the conqu’ring hero comes,
Sound the trumpets, beat the drums,
Sports prepare, the Laurel bring,
Songs of triumph to him sing.
見よ、勇者は還りぬ
吹けや角笛、叩けや太鼓
備えよスポーツ(競技)、ローレル(月桂樹)かざし
勝利の歌を勇者に歌え
CHORUS OF VIRGINS
See the godlike youth advance!
Breathe the flutes, and lead the dance;
Myrtle wreath, and roses twine,
To deck the hero's brow divine.
見よ、神のごとき若者の進むを!
吹けや横笛、ダンスを導け
マートル(銀梅花)の花輪、バラの小束
神々しい 勇者の額を飾るため
CHORUS
See, the conqu'ring hero comes!
Sound the trumpets, beat the drums.
Sports prepare, the laurel bring,
Songs of triumph to him sing.
見よ、勇者は還りぬ
吹けや角笛、叩けや太鼓
備えよスポーツ、ローレル(月桂樹)かざし
勝利の歌を勇者に歌え
(嘉穂のフーケモン拙訳)
この曲は、日本では表彰式におけるBGMとして流されるメロディとしてよく知られていますが、そのルーツは旧帝国海軍にあったのでしょうかねえ。
Originally composed as 'Chor der Jünglinge' (Text: 'See the conqu'ring hero comes') in the 3rd movement of the Oratoriums Josua, Händel later inserted this choir also into 'Judas Maccabäus'.
もともと、オラトリア「ヨシュア」の第3幕の「青年の合唱」(本文:「見よ、勇者は還りぬ」)として作曲されましたが、ヘンデルは後にこの合唱を「ユダス・マカベウス」の中にも入れました。
Around 1820, Johann Joachim Eschenburg (other sources attribute it to Friedrich Heinrich Ranke) added the text 'Tochter Zion, freue dich' and turned the song into an advent carol. Currently, it belongs to the most well-known and most often sung Christmas songs in the German-speaking countries."
1820年頃、ヨハン・ヨハイム・エッシェンブルク(1743〜1820)[一説にはフリードリッヒ・ハインリヒ・ランケ(1798〜1876)の作とも]が「喜べ、シオンの娘よ」の本文を追加して、降誕祭の祝歌にしました。現在では、ドイツ語圏では最もよく知られ、最もよく歌われるクリスマス・ソングとなっています。
An Easter hymn was later written in French to the same tune by the Swiss Edmond L. Budry and was translated from French to English by Richard B. Hoyle (1875〜1939) in 1923.
復活祭の賛美歌は、後にスイスのエドモンド・ルイス・バドリー(1854〜1932)によって同じ調べでフランス語で書かれ、リチャード・B・ホーリーによって1923年に英語に翻訳されました。
Tochter Zion, freue dich Daughter of Zion, Rejoice
Christmas Carol Christmas Carol
(German) (English)
Tochter Zion, freue dich! Daughter of Zion, rejoice!
Jauchze, laut, Jerusalem! Cheer loudly, O Jerusalem!
Sieh, dein König kommt zu dir, Behold, your King comes to you,
Ja er kommt, der Friedenfürst. Yea, he is the Prince of Peace.
Tochter Zion, freue dich! Daughter of Zion, Rejoice!
Jauchze, laut, Jerusalem! Cheer loudly, O Jerusalem!
喜べ シオンの娘よ
喜びの声をあげよ エルサレムよ
見よ お前の王が今し来たる
そうだ 平和の君が今し来たる
喜べ シオンの娘よ
喜びの声をあげよ エルサレムよ
Hosianna, Davids Sohn, Hosanna to the Son of David,
Sei gesegnet deinem Volk! Blessed be thy people!
Gründe nun dein ewig Reich! Thy eternal Kingdom comes,
Hosianna in der Höh'! Hosanna in the Highest!
Hosianna, Davids Sohn, Hosanna the Son of David,
Sei gesegnet deinem Volk! Blessed be thy people!
万歳(ホサナ) ダヴィデの子
その民にも祝福を!
今や お前の永遠の王国を建てよ
万歳(ホサナ) いと高きところに
万歳(ホサナ) ダヴィデの子
その民にも祝福を!
Hosianna, Davids Sohn, Hosanna to the Son of David,
Sei gegrüßet, König mild! Be welcome, gentle King!
Ewig steht dein Friedensthron, Peace is your Throne forever,
Du, des ew'gen Vaters Kind! You, the Father's only Son.
Hosianna, Davids Sohn, Hosanna to the Son of David,
Sei gegrüßet, König mild! Be welcome, gentle King!
万歳(ホサナ) ダヴィデの子
喜び迎えよ やさしき王を!
平和は お前の永遠の王座
君よ 永遠の神の子よ!
万歳(ホサナ) ダヴィデの息子
喜び迎えよ やさしき王を!
(嘉穂のフーケモン拙訳)
「ユダス・マカベウス」は、1746年にスコットランドで起きた名誉革命の反革命勢力ジャコバイトによるグレートブリテン王国に対する最後の組織的抵抗を鎮圧した指揮官カンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタス(William Augustus, Duke of Cumberland、1721〜1765)が、スコットランドから帰還するのを祝って計画されたものです。 続きを読む
2011年09月15日
クラシック(24)−ショパン(3)−ピアノ協奏曲第1番

プリニウス 『博物誌』(ドイツ語版)より「バシリスク」
1584年、フランクフルト・アム・マイン。
古代ローマの学者大プリニウスが書いた『博物誌』第8巻第33(21)章第78 - 79節では、バシリスクは小さいながら猛毒を持ったヘビで、その通った跡には人を死に至らしめるほどの毒液が残った、そしてバジリスクに睨まれることはその猛毒と同じように危険だということが記述されている。
(旧暦8月18日)
「ピアノの詩人」と評されたフレデリック・フランソワ・ショパン(Fryderyk Franciszek Chopin、1810〜1849)の出世作とも云うべき作品は、若きショパンがワルシャワ音楽院第2学年在籍中の1828年に作曲した、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』第1幕第3場のドン・ジョヴァンニとツェルリーナの有名な二重唱『ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ(Là ci darem la mano)』(お手をどうぞ)をテーマにした「ラ・チ・ダレム変奏曲 変ロ長調 作品2(Variations sur "La ci darem la mano" de "Don juan" de Mozart)」だと云われています。
それは、この「ラ・チ・ダレム変奏曲作品2」がウィーンで出版された1年後に、ライプツィヒの『Allgemeine Musikalische Zeitung』誌に掲載されたドイツのロマン派音楽を代表する作曲家ロベルト・アレクサンダー・シューマン(Robert Alexander Schumann, 1810〜1856)の、「諸君、帽子をとりたまえ、天才ですぞ!(Hut ab, ihr Herren, ein Genie)」とショパンを絶賛した記事によるとされています。
(http://www.pianostreet.com/blog/files/schumann-article-on-chopin-opus-2.pdf)
この記事は、シューマンの芸術理念を対照的な二つの性格に分かち与えた空想上の人物オイゼビウス(Eusebius)とフロレスタン(Florestan)がシューマンと共に新人ショパンを語る形式をとって展開されます。
内面的で瞑想にふけるオイゼビウスと活発で英雄的なフロレスタン、そしてシューマンは次のように語ります。
以下、青澤唯夫著 『ショパンその生涯』での英訳からの文章を参考にしながら辿ってみましょう。
Eusebius trat neulich leise zur Türe herein. Du kennst das ironische Lächeln auf dem blassen Gesichte, mit dem er zu spannen sucht. Ich saß mit Florestan am Klavier. Florestan ist, wie du weißt, einer von jenen seltenen Musikmenschen, die alles Zukünftige, Neue, Außerordentliche schon wie lange vorher geahnt haben ; das Seltsame ist ihnen im andern Augenblicke nicht seltsam mehr ; das Ungewöhnliche wird im Moment jhr Eigenthum.
オイゼビウスがそっと入ってきた。つい少し前のことだ。この男の青白い顔に浮かぶいかにも好奇心をそそる皮肉な微笑みは君もご存じだろう。ぼくはフロレスタンと一緒にピアノに向かっていた。フロレスタンというのはご承知の通り、将来起こる新しいことや変わったことをとっくの昔にみんな見越すことができる希に見る音楽的な才能を持った男の一人だ。奇妙な物は、瞬く間に彼らにとっては奇妙な物ではなくなる。変わった物は、瞬時の内に彼らの所有物となる。
Eusebius hingegen, so schwärmerisch als gelaßen, zieht Blüthe nach Blüthe aus ; er faßt schwerer, sber sicherer an, genießt seltener,aber langsamer und länger ; dann ist auch sein Studium strenger und sein Vortrag im Klavierspiele besonnener, aber auch zarter und mechanisch vollendeter, als der Florestans.
オイゼビウスは一方、非常に空想にふける男で、一度に1本だけ花を摘む。彼はより多くの困難を伴って、しかし、同時によりしっかりと、自分自身を帰する。まれに、しかし、より完全に、そして、より永続的に、ものごとを楽しむ。これゆえに、彼はフロレスタンより良き学生であり、彼のピアノの演奏はより独創的で、より優しく、技術的により完璧である。
Mit den Worten : „Hut ab, ihr Herren, ein Genie,“ legte Eusebius ein Musikstück auf, das wir leicht als einen Satz aus dem Haslinger’schen Odeon erkannten. Den Titel durften wir nicht sehen. Ich blätterte gedankenlos im Buche ; dieses verhüllte Genießen der Musik ohne Töne hat etwas Zauberisches. Überdies scheint mir, hat jeder Componist seine eigenthümlichen Notengestaltungen für das Auge: Beethoven sieht anders auf dem Papier, als Mozart, etwa wie Jean Paul’sche Prosa anders, als Göthe’sche.
『諸君、帽子を取りたまえ、天才ですぞ!』と言いながら、オイゼビウスがハスリンガー(オーストリアの楽譜出版者、1787〜1842)によって出版された一つの楽譜を見せた。タイトルは見えなかったけれども、ぼくは何気なくページをめくってみた。この音のない音楽の密かな楽しみには、なにか魔法めいた魅力がある。それにどんな作曲家も独自の譜面の形があると思う。ちょうどジャン・パウル(ドイツの小説家、1763〜1825)の散文がゲーテのものと異なるように、ベートーヴェンは譜面の上ではモーツァルトとは違う。
Hier aber war mir's, als blickten mich lauter fremde Augen, Blumenaugen, Basiliskenaugen, Pfauenaugen, Mädchenaugen wundersam an: an manchen Stellen ward es lichter - ich glaubte Mozart’s „Là ci darem la mano“ durch hundert Accorde geschlungen zu sehen, Leporello schien mich ordentlich wie anzublinzeln und Don Juan flog im weißen Mantel vor mir vorüber.
しかしこの時はまるで見慣れない眼、花の眼、バシリスク(伝説の怪蛇)の眼、クジャクの眼、乙女の眼が、妖しく見つめているような気がした。それがところどころに鋭く光るのだ。ぼくはモーツァルトの「お手をどうぞ(Là ci darem la mano)」に何百という和音が絡みついているのではないかと思った。レポレロ(ドン・ジョヴァンニの従者兼秘書)が目配せするかと思うと、白いマントをはおったドン・ジョヴァンニが鳥のように飛んでいく。
„Nun spiel's,“meinte Florestan lachend zu Eusebius, „wir wollen Dir die Ohren und uns die Augen zuhalten. “Eusebius gewährte; in eine Fensternische gedrückt hörten wir zu. Eusebius spielte wie begeistert und führte unzälige Gestalten des lebendigsten Lebens vorüber; es ist, als wenn der frische Geist des Augenblicks die Finger über ihre Mechanik hinauahebt. Freylich bestand Florestan’s ganzer Bayfall, ein seliges Lächeln abgerechnet, in nichts als in den Worten: das die Variationen etwa von Beethoven oder Franz Schubert seyn konnten, wären sie nämlich Klavier-Virtuosen gewesen —
「じゃあ、弾いてみないか」とフロレスタンが笑いながらオイゼビウスに言う。「ぼくたちは眼を閉じて、邪魔しないように聞こう」。 オイゼビウスはうなずく。ぼくたちは窓の鎧戸にもたれて耳をすませる。オイゼビウスはものに憑かれたように弾き始めた。生命感あふれるものを次々に呼び出すように弾くので、一瞬の霊感が指に乗り移って力以上のものを発揮したかと思えるほどだった。
フロレスタンはすっかり感激してしまって、陶然とした微笑を浮かべたきりしばらく言葉もなかったが、やっとのことで、この変奏曲はきっとベートーヴェンかシューベルトのどちらかが書いたのだろう、なにしろ二人は有名なピアノの名手だったからと言った。
— wie er aber nach dem Titelblatte fuhr, weiter nichts las, als:
Là ci darem la mano, varié pour le Pianoforte par Frédéric Chopin, Opus 2,
und wir beyde verwundert ausriefen: ein Opus zwey und wie Eusebius hinzufügte: Wien, bey Haslinger und wie die Gesichter ziemlich glühten vom ungemeinen Erstaunen, und außer etlichen Ausrufen wenig zu unterscheiden war, als: „Ja, das ist wieder einmal etwas Vernünftiges - Chopin - ich habe den Namen nie gehört - wer mag er seyn - jedenfalls - ein Genie“ (...)
—ところが表紙を見ると、
『ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ、ピアノのための変奏曲 フレデリック・ショパン、作品2 』
とある。ぼくたちは信じられずに叫んだ。「作品2だって!」。オイゼビウスが付け加えた。「ウィーン、ハスリンガー出版」。ぼくたちは興奮で顔を赤らめて、感嘆のほかには何も思い浮かばなかった。「ついにすごい奴が現れたぞーショパンー聞いたことのない名前だーどんな男だろうーともかく天才だ!」・・・・・
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2009年06月18日
クラシック(23)-ヴァーグナー(2)-ニーベルングの指輪
Rheingold von Wikipedia. (ラインの黄金)
Bühnenbildentwürfe für das Festspielhaus Bayreuth von Josef Hoffmann (1876)
ヨーゼフ・ホフマンによるバイロイト祝祭劇場のための風景デザイン
(旧暦 5月26日)
Chorus mysticus
Alles Vergängliche
Ist nur ein Gleichnis;
Das Unzulängliche
Hier wird's Ereignis;
Das Unbeschreibliche
Hier ist's getan;
Das Ewig-Weibliche
Zieht uns hinan.
(Faust, der Tragödie zweyter Theil.)
神秘の合唱
すべての移ろいゆくもの
ただ譬喩にすぎず;
満ち足りなきもの
ここに出来事となる;
表し難きもの
ここに成されたり;
永遠にして女性的なるもの
我らを昇らしむ。
『ファウスト 悲劇第二部』(1831)より 嘉穂のフーケモン 拙訳
ヴィルヘルム・ リヒャルト・ヴァーグナー(Wilhelm Richard Wagner, 1813~1883)の書いた楽劇『ニーベルングの指輪』(Der Ring des Nibelungen)は、1876年8月13日、バイロイト祝祭劇場(Bayreuther Festspielhaus)における第1回バイロイト音楽祭(Bayreuther Festspiele)にて、多くの王族や芸術家を集めて初演されました。
その主な人々だけでも、以下のような錚錚たる人々でした。












Die Uraufführung des gesamten Rings fand am 13. August 1876, einem Sonntag, mit dem Vorabend Das Rheingold im Bayreuther Festspielhaus statt. Der deutsche und brasilianische Kaiser, einige Könige und Fürsten und viele Künstler, unter ihnen Franz Liszt, Anton Bruckner, Camille Saint-Saëns,Johannes Brahms, Anton Rubinstein, Edvard Grieg, Peter Iljitsch Tschaikowsky, Charles Gounod und Karl Klindworth wohnten dem außergewöhnlichen Kunstereignis bei, denn niemals zuvor hatte ein Künstler zur Aufführung eines seiner Werke ein eigenes Theater bauen lassen, um Festspiele zu veranstalten. 続きを読む
2008年11月17日
クラシック(22)-ヴァーグナー(1)-マイスタージンガー

Richard Wagner (Portrait von Cäsar Willich), um 1862 von Wikipedia.
(旧暦 10月20日)
19世紀ロマン派の最高峰として『歌劇王』の異名を持つヴィルヘルム・リヒャルト・ヴァーグナー(Wilhelm Richard Wagner, 1813~1883)の作品演奏に関しては、ドイツが生んだ20世紀前半を代表する史上空前の大指揮者、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler,1886~1954)を抜きに語ることは不可能といっていいでしょう。
1886年にベルリンの教養人の家庭に生まれたフルトヴェングラーは、幼少の頃から、古代ギリシャやローマの文化、人文主義の世界、造形芸術や音楽に親しんでいました。
少年ヴィルヘルムが最も崇拝したのはヴェートーヴェンの音楽でしたが、ヴェートーヴェンに対するこの気持は生涯変わることは無かったと云います。
フルトヴェングラーは15歳の時に、「ヴァーグナーは本物の芸術家ではなく、彼のオペラの台本ほど安っぽいセンチメンタリズムに浸りきったものはない」と、徹底的に嫌っています。
しかしそれから2年後、彼はヴァーグナーが「マイスタージンガーの中で、ヴェートーヴェン以降成し遂げられなかったことをやっていて、音楽的にもすばらしい」ことに気付いたと云います。
それは、曲の中で繰り返し使われ、人物や状況を表す指導動機(Leitmotiv)と呼ばれる機能的メロディの手法や、歌と語りの両方の性格を持つ声楽演奏の一種で、音の流れがどこまでも流動し発展していく形で旋律は休みなく成長し溶け合って行く無限旋律(Sprechgesang)と呼ばれる構成上の手法を巧みに使用して、それまでの序曲、アリア、重唱、合唱、間奏曲を途切れのない一つの音楽作品へと発展させることに成功したことを指しているのでしょうか。
さてヴァーグナーは、1850年にK. Freigedankという変名で、『音楽におけるユダヤ性(Das Judenthum in der Musik)』という論文を出版し、ユダヤ系ドイツ人の歌劇作曲家ジャコモ・マイアベーア (Giacomo Meyerbeer、 1791~1864)やドイツロマン派の作曲家、指揮者であったフェリックス・メンデルスゾーン(Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy、1809~1847)を誹謗中傷しています。
(http://mydocs.strands.de/MyDocs/05845/05845.pdf)
ヴァーグナーの思想は、反ユダヤ主義的な側面も持ち、その思想がのちにナチス・ドイツ(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)に利用されることにもなったため、イスラエルでは現在においてもヴァーグナーの作品を自由に演奏することはできず、他の国においてもその作品の上演に関しては、微妙なこともあるようです。 続きを読む
2008年10月27日
クラシック(21)-ブラームス(5)-ドイツ・レクイエム

Martin Luther, Portrait von Lucas Cranach d.Ä., 1529
(旧暦 9月29日)
松陰忌 私塾松下村塾を叔父である長州藩士玉木文之進より引き継ぎ、武士や町民などの身分の隔てなく塾生を受け入れ、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山縣有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、飯田俊徳など、後の明治維新の指導者となる人材を教えた、松陰吉田寅次郎の安政6年(1859)の忌日。
身ハたとひ 武蔵の野辺に朽ぬとも 留置まし大和魂
十月念五日 二十一回猛士
ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms, 1833~1897)が1868年に完成させたオーケストラと合唱、およびソプラノ・バリトンの独唱による宗教曲ドイツ・レクイエム(Ein Deutsches Requiem op.45)は、これまで、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan, 1908~1989)がベルリン・フィルを指揮した64年録音盤と76年録音盤、ウィーン・フィルを指揮した83年録音盤が人気を分け合い、時代によって支持のされ方に違いがあるそうです。
このドイツ・レクイエムは、ドイツ語圏では日本人には想像もつかないくらい人気のある曲とのことで、特にカラヤンは、すざましい意欲でこの作品を繰り返し録音(映像を含めると7回)しています。
カラヤンは、1946年1月13日、ウィーン・フィルとの第二次大戦後初のコンサートを成功させ高い評価を受けますが、ソ連占領下のウィーンにおいて、戦時中ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党:Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)党員であったことを理由に、1月19日の公開演奏停止処分を受けてしまいます。
そして、同年9月17日、ついにソ連やアメリカなどの占領軍当局は、カラヤンの指揮者としての活動を全面禁止とする措置を下します。
事実、カラヤンは1933年4月8日、ザルツブルクにおいて当時オーストリアでは非合法政党だったナチスへの入党手続きをとっていました。
しかし、翌1947年にはオーストリア政府が設けた査問委員会(非ナチ化委員会)で処分保留となり、1947年10月、ヴィーナー・ジングフェライン(Wiener Singverein : ウィーン楽友協会合唱団)の終身音楽監督というポストを与えられます。
それほどに、カラヤンとウィーン楽友協会合唱団との結びつきには深いものがありました。 続きを読む
2008年01月08日
クラシック(20)-ベートーヴェン(4)-《悲愴》

Grave introduction: first four bars
(旧暦 12月 1日)
「妙音」という言葉があります。その意味はいろいろあり、仏に供養する妙なる音という意味もありますが、仏・菩薩が法を説く時に発する音声という意味もあり、仏・菩薩は諸々の衆生に法を説くのに、八種の妙音を出すと云われています。
また、法華経巻七妙音菩薩品第二十四では、妙音菩薩が釈尊の法華経説法の会座(えざ)に現れ、苦悩渦巻く娑婆世界にあって、妙なる「天の曲」や「天の歌」を奏でながら、人々に限りない希望と勇気を贈ってくれると説いています。
まさに、旧制第七高等学校造士館(鹿児島)の大正3年第14回記念祭歌「北辰斜めに」の巻頭言の一節ではありませんが、
歌は悲しき時の母ともなり
うれしき時の友ともなれば
であり、「音楽の力というものはすばらしい」と感動するのは、私「嘉穂のフーケモン」だけではありますまい。
新年早々、御徒町のカラオケハウスで淋しがりやの大先輩を慰めるために、「♪ 轟沈 轟沈 凱歌が挙がりゃ つもる苦労も 苦労にゃならぬ・・・・」などと歌って盛り上げるのも、妙なる音楽のなせる技でございましょう。
ちなみにこの「轟沈」という歌は、大東亜戦争中の昭和19年(1944)に公開された日本映画社製作による潜水艦通商破壊作戦の国策映画、『轟沈 印度洋潜水艦作戦記録』の挿入歌(作詞・米山忠雄 作曲・江口夜詩)です。
ところで余談ですが、旧制第七高等学校造士館の後身鹿児島大学理学部同窓会のHPに、次のよう趣旨の話が掲載されていました。
北辰とは北極星のことですが、南国薩摩の鹿児島では北極星が北天の仰角31度36分の方向に見えることから、「北辰斜めにさすところ」とは、鹿児島は北極星が「斜め」の方向に見える場所であるという意味だとか。
それに対し、蝦夷地の札幌では、北極星は仰角43度11分の方向に見えるため、やや頭を上げて仰ぎ見ることになり、同じ北極星でも、旧制予科恵迪寮の明治45年度寮歌「都ぞ弥生」では、歌詞2番の最後の部分で「おごそかに北極星を仰ぐ哉」という言い回しが出てくるとのこと。
なるほどそうか~、私「嘉穂のフーケモン」も酔っぱらって寮に帰るときは、いつも「おごそかに北極星を仰いでいた」なあ・・・。
続きを読む
2007年08月01日
クラシック(19)-ベートーヴェン(3)-クロイツェル

Antonio Salieri(1750〜1825)
(旧暦 6月19日)
ベートーヴェンの第9番目のヴァイオリンソナタ イ長調Op.47、通称《クロイツェル》(Kreutzer)、 「この曲では意志や倫理観を裏切って出てくる魔性のぞくぞくする魅力が聴きもの」との評があるように、この曲の持つデモーニッシュな力のために、聴くことをためらう人も多かったということです。
ロシアの文豪レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(1828~1910)は、この曲のデモーニッシュな力に啓発を受けて、1889年に地主貴族の主人公の公爵が嫉妬がもとで妻を刺し殺すといった内容の小説『クロイツェル・ソナタ』を書いています。
デモーニッシュ(魔神的)-オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイク(Stefan Zweig, 1881~1942)はその著『デーモンとの闘争』(Der Kampf mit dem Daemon)の中で、次のように述べています。
「私は、人間各人に根元的かつ本来的に生まれついた焦燥をデモーニッシュなものと呼ぶ。人間はこの焦燥のために自分自身から抜け出し、自分自身を超えて無限の境へ、根元的な世界へ駆り立てられるのである。
(中略)
魔神(デーモン)は、われわれ人間のなかに入りこむことによって、ありとあらゆる危険、過度、恍惚、自己放棄、自己破滅へとふだんは静かな存在を追いたてる発酵素としてのはたらき、沸き立ち、責めたて、刺激する酵素としてのはたらきを、具現するのである。・・・・」
ともあれ、第1楽章のアダージョ・ソステヌート(Adagio sostenuto)は、イ長調の重厚な和音で始まり、ヴァイオリンとピアノが語り合うかのような、ゆったりとした序奏から始まります。
主部はイ短調のプレストで、ヴァイオリンがスタカートで情熱的な第1主題を奏し、ピアノがこれを繰り返します。 続きを読む
2006年09月06日
クラシック(18)−チャイコフスキー(1)−バイオリン協奏曲

Young Pyotr Ilyich Tchaikovsky (1874)
(Пётр Ильич Чайковский)
(旧暦閏-7月14日)
私「嘉穂のフーケモン」が初めてこの曲を聴いたのは、もう30年以上も昔のこと、旧ソビエト連邦のヴァイオリニスト、D.オイストラフ(1908〜1974)とハンガリー出身のユージン・オーマンディ(1899〜1985)指揮フィラデルフィア管弦楽団の共演によるLP盤でした。
貧乏学生の分際ではありながら、秋の温かな日曜日の午前中、コーヒーを飲みながらこのヴァイオリン協奏曲を聴くと、何とも云えない満ち足りた気分になったものでした。
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61とメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64、ブラームスのヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77が三大ヴァイオリン協奏曲として有名ですが、それらにこのチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲 二長調 作品35を加えて四大ヴァイオリン協奏曲と称されることもあります。
ベートーヴェンやブラームス、チャイコフスキーはヴァイオリン協奏曲は1曲しか作曲しておらず、不思議なことにそのいずれもがニ長調で書かれています。
ところでこの曲に関しては、かの有名なリトアニア出身で20世紀最高峰のヴァイオリンの神様と云われたヤッシャ・ハイフェッツ(1901〜1987)がハンガリー出身のフリッツ・ライナー(1888〜1963)指揮シカゴ交響楽団と共演した1957年のRCA盤が、歴史的名盤と云われています。
1957年、56歳の絶頂期にあったハイフェッツの名人芸が燦然たる光を放っていると絶賛した評論家もいます。
また、音楽評論家の柴田龍一氏によれば、「ハイフェッツ盤を凌ぐ演奏は、あるいはもはや永久に出現しないのではないだろうか。ハイフェッツのこれ以上なく完璧な表現は、スマートで磨き上げられた美しさを誇りながらも、たぎるような情念や濃密なロマンを秘めており、どこからみても圧倒的といえる説得力を放っている。」とこれまた、これ以上はない賛辞を送られています。 続きを読む
2006年04月17日
クラシック(17)−ブラームス(4)−ハイドン変奏曲

Haydn portrait by Thomas Hardy, 1792.
(旧暦 3月20日)
家康忌 正一位太政大臣徳川家康の元和2年(1616)の忌日。死因は、鷹狩で献上された鯛の天ぷらを食べて以来食事がとれなくなり、胃癌又は梅毒性ゴム腫で死亡したとされている。
嬉やと再び覚めて一眠り 浮世の夢は暁の空
ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms, 1833〜1897)は、ハイドン研究家として著名なカール・フェルディナント・ポール(Carl Ferdinannd Pohl:1819〜1887)がまだウィーン楽友協会の司書をしていたときに親交を結び、毎日レストラン「赤いはりねずみ」で昼食を共にしていました。
1870年のある日、ブラームスはこのポールから、ハイドンの未出版作品の楽譜を見せられました。それは、まだ当時はハイドンの作曲とされていた《ディヴェルティメント変ロ長調Hob.?.46》の写譜でしたが、ブラームスはその第2楽章「聖アントニウスのコラール」と題された主題が気に入り、自分のノートに書き留めました。
この「聖アントニウスのコラール」の旋律を主題として流用したのが、「ハイドンの主題による変奏曲」(Variationen uber ein Thema von Joseph Haydn op.56a)で、そのため、「聖アントニウスのコラールによる変奏曲」の別称でも親しまれています。
のどかで田舎じみた感じのこの主題は、20世紀になって真の作曲者はハイドンではないことが明らかにされましたが、では一体誰なのかは長い間謎とされていました。
しかし近年になって、オーストリア出身の古典派音楽の作曲家であるイグナス・プレイエル(Ignatz Joseph Pleyel, 1757〜1831)である可能性が推測されているようです。
プレイエルは、今日では、ヴァイオリンやフルートの教則本の二重奏曲などの練習曲の作曲家として知られています。
この変奏曲は、1873年の夏、ブラームスがドイツ南部のバイエルン山中にあるシュタールンベルガー湖のほとりのトゥッツィンクという町に滞在している間に書き進めたもので、その年の秋に完成していますが、先に2台のピアノのための版が完成してこちらがop.56b、管弦楽版がop.56aで、管弦楽版のほうが有名です。 続きを読む
2006年01月15日
クラシック(16)−バッハ(3)−カンタータ第152番

Johann Sebastian Bach im Jahre 1746, mit Rätselkanon. Ölgemälde von Elias Gottlob Haußmann
(旧暦 12月16日)
《苦悩を突き抜けて歓喜に至れ》(Durch Leiden zur Freude zu gehen.)という言葉は、ベートーベンの書簡集を編纂した岩波文庫の『ベートーヴェンの手紙』の中にも納められている有名な言葉で、もちろんベートーベンの生涯の生き様を表した言葉ではありますが、この言葉はかのヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach、1685〜1750)が作曲したカンタータ、《出で立て、信仰の道に》(Tritt auf die Glaubensbahn)《降誕祭後第1日曜日の為のカンタータ》(Kantate zum Sonntag nach Weihnachten)という曲の歌詞の中でも見ることができ、どうもキリスト教の一種の慣用句だったのではないでせうか。
カンタータ第152番 《出で立て、信仰の道に》 BWV152
この第6曲目は、ソプラノとバスのデュエットで魂とイエスの対話という形式になっています。
6. [Soprans&Basses Arie (Duett)]
Seele (S), Jesus (B) 魂(ソプラノ)、イエス(バス)
Sopran (ソプラノ)
Wie soll ich dich, Liebster der Seelen, umfassen? 魂の最愛なる方よ、如何にして我は汝を抱かん?
Bass (バス)
Du musst dich verleugnen und alles verlassen! 汝は自身を抑え、全てを捨てねばならぬ!
Sopran (ソプラノ)
Wie soll ich erkennen das ewige Licht? 如何にして我は永遠なる光を知らん?
Bass (バス)
Erkenne mich gläubig und ärgre dich nicht! 我を信仰によりて知り、怒ってはならぬ!
Sopran (ソプラノ)
Komm, lehre mich, Heiland, die Erde verschmähen! 来たりて我に教え給へ、主よ、大地が蔑む方よ!
Bass (バス)
Komm, Seele, durch Leiden zur Freude zu gehen! 来たれ、魂よ、苦悩を突き抜けて歓喜に至れ!
Sopran (ソプラノ)
Ach, ziehe mich, Liebster, so folg ich dir nach! おお、我を導き給へ、最愛なる方よ、我は汝に従わん!
Bass(バス)
Dir schenk ich die Krone nach Trübsal und Schmach. 我は汝に苦難と恥辱の後に王冠を贈らん! 続きを読む
2005年09月26日
クラシック(15)−ショパン(2)−夜想曲全集

Fryderyk Franciszek Chopin( 1810〜1849)
(旧暦 8月23日)
秀野忌 俳人石橋秀野の昭和22年(1947)の忌日
八雲忌 紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の明治37年(1904)の忌日
フレデリック・フランソワ・ショパン (Frédéric François Chopin, ポーランド名フリデリク・フランツィシェク・ショペン Fryderyk Franciszek Chopin, 1810〜1849)の夜想曲の創作は、17歳の1827年から38歳の1848年までの21年間に渡っています。
夜想曲(Nocturne)は、アイルランドの作曲家、ピアノ奏者ジョン・フィールド(John Field 、1782〜1837)が創始した曲名で性格的小品(character piece)の一つとされています。この性格的小品(character piece)とは、19世紀のヨーロッパ音楽の主流となったロマン派およびその前後の時代に、自由な発想によって作られたピアノのための短い楽曲を指し、数曲まとめられて曲集とされています。
ロマン主義の底流に流れているものは、自由主義、内面性の重視、感情の尊重、想像性の開放といった特性であり、好まれる主題としては、異国的なもの、未知のもの、隠れたもの、はるかなるもの(特に、自分たちの文化の精神的な故郷、古代文化)、神秘的なもの(言葉で語れないもの)、夢と現実の混交、更には、憂鬱、不安、動揺、苦悩、自然愛などを挙げることができます。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 続きを読む
2005年08月10日
クラシック(14)−バッハ(2)−管弦楽組曲

Johann Sebastian Bach(1685〜1750)
(旧暦 7月 6日)
西鶴忌 浮世草子、人形浄瑠璃の作家にして俳諧師井原西鶴の元禄6年(1693)の忌日
ベートーベンが "Urvater der Harmonie" 『和声の父祖』と呼び、 "nicht Bach, sondern Meer" 『小川(Bach)ではなく海(Meer)だ』と洒落たことは有名なエピソードですが、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach、1685〜1750)は、18世紀に活躍したドイツの作曲家でありチェンバロやオルガンなどの鍵盤楽器の名手として、音楽史における巨人(ジャイアンツではありまっせん)です。
バッハの作品はモーツァルトのケッヘル番号(Köchel-Verzeichnis、1〜626)のように、シュミーダー番号(BWV、Bach Werke Verzeichnis )によって整理されています。これは、1950年にヴォルフガング・シュミーダーによって編纂された "Thematisch-systematisches Verzeichnis der musikalischen Werke von Johann Sebastian Bach" 『ヨハン・ゼバスティアン・バッハの音楽作品の主題系統的目録』によって付けられた番号で、バッハの全ての作品が分野別に配列されていますが、その後の研究により不充分な点が出てきたため、アルフレッド・デュルらが中心になって1990年に「第2版」が出版されています。 続きを読む
2005年07月08日
クラシック(13)−スメタナ(1)−交響詩ヴィシェフラード

Bedřich Smetana(1824〜1884)
(旧暦 6月 3日)
《ヴィシェフラード (Vysehrad) 》は、チェコ共和国の首都プラハの南のヴルタヴァ川(Vltava)東岸にそびえ立つお城の名前です。因みに、モルダウ(Moldau)はヴルタヴァ川のドイツ語名です。
詩人は、《ヴィシェフラード》の岩を眺めながら、伝説上の吟遊詩人であるルミールのハープの響きをこころの中に聞きます。そして、昔の《ヴィシェフラード》の栄光と輝き、闘争と勝利の歴史が語られます。
しかし、詩人は間もなくその栄光の没落を見ます。激しい戦いが行われた末に、無惨な敗北がもたらされます。
《ヴィシェフラード》はすっかり荒れ果て、見棄てられてしまいます。そこはもう、過去の栄華の一つでしかありません。
やがて、長く沈黙していたルミールのハープの響きが、訴えかけるように響いてきます。
この「ヴィシェフラードのモチーフ」は、交響詩『わが祖国』全6曲を通して活用され、動機付け(モチベーション)として重要な役割を果たしています。 続きを読む
2005年05月30日
クラシック(12)−合唱(3)−天(そら)は東北
旧制二高有志による校歌『天は東北』
(旧暦 4月23日)
かつて仙台にあった旧制第二高等学校の校歌『天は東北』は、明治38年(1905)、当時第二高等学校教授であった晩翠土井(つちい)林吉(1871〜1952)が母校のために作詞し、東京音楽学校助教授楠美恩三郎(1868〜1927)が作曲した有名な校歌です。
明治20年(1887)4月、仙台に第二高等中学校が設置されましたが、晩翠土井林吉は翌明治21年(1888)、その第二高等中学校補充科二年に入学しました。
二高の場合、本科(2年)の下に予科(3年)が設けられましたが、それでも人材が足りないため明治21年(1888)には予科の下に更に補充科(2年)が設けられました。
その後明治27年(1894)、「高等学校令」の公布により第二高等中学校は第二高等学校と改称しますが、晩翠は明治27年(1894)第二高等学校を卒業し、帝国大学文科大学英文学科に入学、英文学を学びながら、「帝国文学」の編集委員として在学中から詩を発表し、注目されました。
卒業後、明治33年(1900)母校である第二高等学校の教授として迎えられ、英語を教えると共に詩作・翻訳等で活躍しています。 続きを読む
2005年05月15日
クラシック(11)−ベートーベン(2)−『エグモント』序曲

Johann Wolfgang von Goethe(1749〜1832)
(旧暦 4月 8日)
1786年9月3日、ワイマール公国の宰相であった37歳のゲーテは、理想とする政治に行き詰まり、また10年にも及ぶシュタイン夫人との交際にも決別して、突如として郵便馬車に乗り、イタリアへと旅立ちました。
ヴェローナ、ヴィンチェンツァ、パドゥア、ヴェネチア、フィレンツェなどを経てローマに入るまでの間、イタリア・ルネサンスのさまざまの芸術に感動したゲーテは、翌年イタリアで戯曲『エグモント』を完成させます。
戯曲『エグモント』は、16世紀にイスパニア(スペイン)の圧制に苦しむネーデルランドの民衆を救おうと、独立運動を指導して立ち上がった軍人/政治家ラモラル・エグモント伯爵(Lamoral Egmont 1522〜1568) というオランダの英雄をモデルに描いたものです。 続きを読む
2005年04月24日
クラシック(10)−ブラームス(3)−大学祝典序曲

Johannes Brahms(1833〜1897)
(旧暦 3月16日)
ブラームスは、全部で2曲の演奏会用序曲を残していますが、1880年に作曲されたAcademic Festival Overture《大学祝典序曲》は、ブラームスのオーケストラ作品の中でも特に人気のある作品のひとつになっているようです。
遙か昔、田舎の高校生であった私「嘉穂のフーケモン」は、大学進学を切望していましたが、高校3年まで柔道に打ち込み(男の意地でやめるにやめられず)、金鷲旗争奪高校柔道大会全国第2位(鹿児島実業に大将戦判定負け)で涙を呑んだ後、受験勉強に切り替えましたが、数学、英語、物理、化学がさっぱり分からず(要するに理科系としては論外)、絶望の高校生活最終章を過ごしていました。
案の定、受験した大学からは全部蹴られ、現在のように予備校など無い田舎のことなので、途方に暮れて旺文社のラジオ講座にすがりつきました。
そのとき流れていた曲が、この《大学祝典序曲》でした。寺田文行先生(数学)!大変お世話になりました。 続きを読む
2005年04月05日
クラシック(9)−ブラームス(2)−交響曲第3番へ長調

(旧暦 2月27日)
達治忌 詩人・翻訳家の三好達治の昭和39年(1964)の忌日。
「ブラームスはお好き?」と聞かれれば、「はい、大変気に入っちょります。」と答えるしかないほど、このところ、ブラームスが好きになりました。
モーツアルトもショパンも良いですが、ブラームスの重厚でありながら心に残るメロディや情感は、人生の年輪を重ねた者に受け入れやすいのでしょうかね。
とか何とか言うと、大変人生の紆余曲折を経たような言い方ですが、そんなに年寄りではありまっしぇん。
フランソワーズ・サガン(1935〜2004)の小説-『ブラームスはお好き』 Aimez-vous Brahms... (1959) でブラームスという名前は知っていましたが、実際聞いてみるとなかなかのもんですね。 続きを読む
2005年03月08日
クラシック(8)-ブラームス(1)-ヴァイオリン協奏曲ニ長調

Johannes Brahms(1833〜1897)
(旧暦 1月28日)
協奏曲ソナタ形式では、提示部までは独奏楽器なしで演奏され、提示部が繰り返される時に独奏楽器が入ります。また、再現部が終わった後に、演奏者の力量を誇示するためのカデンツァ(cadenza)と呼ばれる長い独奏楽器のみで演奏される部分が挿入されます。
1933年1月、国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)、通称ナチスが政権を取得して「第三帝国」(Das Dritte Reich )となったドイツでは、1935年に制定された「ニュルンベルク法」によって、ユダヤ人はドイツ国内における市民権を否定されて公職から追放され、また、ユダヤ系作曲家の作品が演奏禁止となりました。
ブラームスのヴァイオリン協奏曲の場合、第1楽章のヨアヒムとクライスラーのカデンツァ(cadenza)が使えなくなりました。しかし、名手ゲオルク・クーレンカンプ(1898〜1948)はこの措置に公然と反旗を翻し、1935年に演奏禁止のメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64を、1936年にはヨアヒムのカデンツァを使ってブラームスのこのヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77を録音しました。 続きを読む
2005年02月03日
クラッシック(7)-べート−ヴェン(1)-ピアノ協奏曲第5番

Ludwig van Beethoven
(旧暦 12月25日)
光悦忌
ベートーヴェンは、専制的な権力に反対する考えの持ち主であったといわれています。にもかかわらず、この協奏曲が「皇帝」という題名で呼ばれることは、彼の政治的立場からすれば、むしろ嘲笑のように聞こえるのではないかともいわれています。
この協奏曲以後、1810年には「エグモント」、1812年には「第7交響曲」、1813年には「ウェリントンの勝利(戦争交響曲)」を作っています。
権力の強奪者を打ち負かすために、音楽に盛込むことができるあらゆる内容、革命の裏切り者そして民衆を圧迫する者の姿と末路を、彼はこれらの作品に注ぎ込みました。
「私が音楽について知っているのと同じように戦争について知っていれば、私は彼を負かしただろうに」
「皇帝」よりも「反皇帝」と名づけた方が、この変ホ長調協奏曲のためには、より適切だったのではないでしょうか。 続きを読む
2004年12月29日
クラッシック(6)-ショパン(1)-夜想曲第20番嬰ハ短調

Władysław Szpilman (1911〜2000)
「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」(Lento con gran espressione)
おいどんは最初、コーヒーの飲み方かと思ったとですが、夜想曲第20番嬰ハ短調(Lento con gran espressione)遺作、いわゆる遺作の嬰ハ短調のノクターンで、ナチスのホロコーストを生き延びたポーランドのユダヤ人ピアニストで映画「戦場のピアニスト」のモデルになったヴワディスワフ・シュピルマン(1911〜2000)が、実際にドイツ軍将校ヴィルム・ホーゼンフォルトの前で演奏した曲だったとです。
第2次大戦中、屋根裏に隠れていたシュピルマンがドイツ軍将校ヴィルム・ホーゼンフォルトに見つかったとき、「ピアニストなら演奏を」と請われてこのショパンの嬰ハ短調ノクターンを弾いたところ、ホーゼンフォルトは彼を殺さなかったばかりか、その後食料品や毛布まで届けて彼を励ましたという逸話があります。 続きを読む