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2021年06月01日

史記列傳(15)− 穰候列傳第十二

(旧暦4月22日)

光琳忌
江戸中期を代表する画家・工芸家、尾形光琳(1658〜1716)の享保元年の忌日。
幼少の頃より能を嗜み、書画にふれ、琳派の祖と言われる俵屋宗達(生没年不詳)に私淑し、弟の乾山(1663〜1743)と共にその作風を継承し発展させた。
代表作に、国宝風神雷神図(寛永年間中頃、建仁寺蔵、京都国立博物館寄託)および源氏物語関屋及び澪標図(寛永八年頃、静嘉堂文庫蔵)などがある。

史記列傳(15)− 穰候列傳第十二
史記列傳(15)− 穰候列傳第十二



国宝風神雷神図(寛永年間中頃、建仁寺蔵、京都国立博物館寄託)

河山を苞み、大梁を囲み、諸侯をして劍手して秦に亊へしむる者は、魏冄(ぎぜん)の功なり。よりて穰候列傳第十二を作る。

黄河と周辺の山地を苞みこみ、魏の首都大梁を包囲して、諸侯を手も出させずに秦にひれ伏せたのは、魏冄(ぎぜん)の功績である。そこで、穰候列傳第十二を作る。
(太史公自序第九十一)


穰候魏冄(ぎぜん)、その先祖は楚の人で、姓は羋(び)氏、秦の第二十八代昭王(在位:前306〜前251)の母宣太后の弟でした。秦の第二十七代武王(在位:前311〜前306)が若くして歿すると、後継ぎの男子が無かったため、異母弟の昭王が立てられました。昭王は年少で即位したため、宣太后が摂政となって政事を行い、弟の魏 冄に政務を任せました。

昭王の二年(前305)、武王の庶出の長子である壮が、大臣・諸侯・公子と結び、僣立して季君と号しましたが、魏冄が壮を誅殺ししてこの乱(季君之乱)を平定し、壮と結んだ武王の母の惠文后は憂死し、武王の正室の悼武王后は故国の魏に放逐されています。

昭王の七年(前300)、秦の第二十六代惠王(在位 前338〜前311)の弟にして、第二十七代武王(在位:前311〜前306)には右丞相、その次の昭王(在位 前306〜前251)には将軍として仕え、魏の曲沃(山西省臨汾縣)をはじめ、趙、楚を伐って功績があった樗里子(?〜前300)が死にました。そして昭王の同母弟の涇陽君を齊へ人質に出しました。

昭王の十年(前297)、趙の人樓緩(ろうくわん)が秦に来て宰相となりました。しかし趙はこれを自国の不利になると考え、仇液(きうえき)という者を遣わせて、樓緩を罷免して魏冄を宰相とするように請いました。果たして秦はこれを受け入れ、昭王の十二年(前295)に魏冄は宰相となりました。

昭王の十四年(前293)、魏冄は白起(?〜前257)を推挙して将軍となし、韓・魏を攻めてその軍勢を伊闕(河南省洛陽市の南)に破り、首を斬ること二十四萬、魏の将軍公孫喜を捕虜としました。
昭王の十六年(前290)、魏冄は穰(河南省鄧州市)に封じられ、更に陶(山東省菏沢市定陶区)の地を益し封じられて、穰候と称せられました。

穰候に封ぜられた四年後、魏冄は秦の将軍となって魏を攻めました。魏は河東(山西省の黄河以東の地域)の地四百里(約160㎞)四方を秦に献上しました。
また、魏冄は魏の河内(河南省の黄河以北の地域)を攻略して、大小六十余の城を奪い取りました。
魏冄は復た秦の宰相となりましたが、六年後に罷免され、二年でまた秦の宰相となっています。それから四年して、白起(?〜前257)に楚の郢(楚の都、湖北省江陵県)を攻略させ、秦はそこに南郡を置き、白起を封じて武安君としました。そのころ、穰候の財産は、王室よりも豊かでした。

昭王の三十二年(前275)、穰候は相國に任ぜられ、白起に続いて魏の討伐を命ぜられます。魏冄は兵を率いて魏を攻撃し、魏の将軍芒卯(ばうばう)を敗走させ、北宅(河南省鄭州市西方)に侵攻し、更に進んで魏の都大梁(河南省開封市)を包囲します。

そこで、魏の重臣である須賈(しゆか)は穰候魏冄に説きます。

【魏の大夫須賈が穰候魏冄による大梁の包囲を解かせた言説】

私は、魏の重臣が魏王にこのように言ったと聞いています。

①昔、魏の惠王(在位:前370〜前335)が趙を攻撃し、三梁(河南省臨汝県の西南)にて戦勝し、趙の都邯鄲(河北省邯鄲市)を攻略しましたが、趙は魏に領地を割譲しなかったで、邯鄲もまた趙に返還されました。

②齊が衛を攻撃し、旧都楚丘(河南省滑県の東)を攻略して宰相の子良(しりやう:子之)を殺しましたが、衛は齊に領地を割譲しなかったので、楚丘もまた衛に返還されました。

③衛・趙が国家を保って軍を強くし、領地を他の諸侯に閉合されないでいる理由は、困難に耐えて領地を他国に与えることに慎重であったからであります。
 
④それに対して、宋(前286年に、齊・魏・楚によって滅ぼされた)・中山(前295年に、趙・齊・燕によって滅ぼされた)は、しばしば攻撃されて領地を割譲し、まもなく国家も滅亡しました。

⑤臣は思うに、衛・趙は手本とすべきであり、宋・中山は戒めとすべきであります。

⑥秦は貪欲な国で、親愛の情はありません。魏の国土を蚕食し、元の晉国の領土を全て奪い取りました。韓の将軍の暴鳶(ばうえん)と戦って勝ち、魏の八県を割譲させました。そしてその領地が完全に引き渡される前に、また出兵しています。秦という国は、領地を拡張するのに満足するということがありましょうか。今、また将軍芒卯(ばうばう)を敗走させ、北宅(河南省鄭州市西方)に侵入しました。これは魏の都を攻略しようとしているのではなく、魏王を脅して少しでも多くの領地を割譲させようとしているのです。

⑦魏王は決して秦の言い分を聞き入れてはいけません。今、魏王が楚・趙に背いて秦と講和したならば、楚・趙は怒って魏との同盟から去り、魏王と競って秦に服従するでありましょう。すると秦は必ず、楚・趙を受け入れる事でありましょう。

⑧秦が楚・趙の軍勢を味方にして再び魏を攻撃したならば、国が滅びないように願ったとしても適うことではありません。

⑨魏王が決して秦と講和することの無きようにお願いしたい。もし魏王が講和したいとのぞむのであれば、土地はなるべく少なく割譲して、秦から人質を取るべきであります。そうしなければ、必ず秦に欺かれる事でありましょう。


これは、私が魏で聞いたことです。どうかこの話を考慮していただきたい。

『書経』周書に、「惟(こ)れ命は常に于(おい)てせず」(天の与えた運命は一定しない)とあります。

これは、「幸運は何度も巡ってくるものではない」ということを言っているので
す。そもそも韓の将軍暴鳶(ばうえん)との戦いに勝って、魏の八県を割譲させたのは、兵力が精鋭であったからではなく、また、作戦が巧妙であったからでもありません。天の与えた幸運によるところが大きいのです。今また、将軍芒卯(ばうばう)を敗走させ、北宅(河南省鄭州市西方)に侵入し、都大梁(河南省開封市)を攻撃しています。これは、天の与える幸運が常に自分の側にあると思っておられるからです。智者はそのようなことはしません。

私は次にように聞いております。
「魏は、その百県から、鎧を身につけられる程の者は、全て集めて大梁を守っている」と。

史記列傳(15)− 穰候列傳第十二


私が思いますに、その数は三十万は下らないでしょう。三十万の兵力で都大梁の七仞(3.6m)もの高さの城壁を守っているのです。

湯王(夏の桀を倒し、殷王朝を建てた)、武王(殷の紂を倒し、周王朝を建てた)が生き返ってとしても、容易には攻め落とせないでしょう。

楚・趙の軍が背後にいるのを気にもとめず、七仞(3.6m)もの高さの城壁を超えて、三十万もの軍勢と戦って、必ずこれを攻略しようとしているのです。

臣以為(おもへ)らく、天地始めて分かれてより以て今に至るまで、未だ嘗て有らざる者也。攻めて而も拔けずば、秦の兵必ず罷(つか)れ、陶邑(たういふ:領地)必ず亡びん。則ち前功必ず棄たれん。

今、魏は迷っています。多少の領地を割譲させて事態を収拾することはできるでしょう。

願はくは君、楚、趙之兵未だ梁に至らざるに逮(およ)びて、亟(すみ)やかに少しく割くを以て魏を收めよ。魏、方(まさ)に疑へるに、少しく割くを
以て利と爲すを得ば、必ず之を欲せん。則ち君の欲する所を得ん。


また楚、趙は、魏が自分たちより先に秦と講和したのを怒って、必ず先を争って秦に従うはずです。よって、合従の同盟(秦に対抗するための、南北に連なる
韓、魏、趙、燕、楚、齊の六国の連合)はばらばらになるでしょう。

あなたは、その後で連衡する国を檡(えら)べば良いでしょう。そしてまた、あなたが領地を得るのに、必ずしも戦いによらなければならなかったということ
はないでしょう。晉の領土を割こうとしたときは、秦の兵が攻めなくとも、魏は絳(かう:山西省曲沃県)、安邑(あんいふ:山西省運城県)をさし出し、ま
た、陶(山東省菏沢市定陶区)への二つの道を開きました。そして、宋の領土をほぼ手に入れ、衛は單父(ぜんぽ:山東省単県)をさし出しました。

秦の兵は、全てあなたが掌握しています。従って、求めて適わないものはありません。

願はくは君之を熟慮して、危きことを行ふこと無かれ。

穰候は魏の重臣である須賈の言説を取り入れ、魏の首都大梁(河南省開封市)の包囲を解きます。

翌年、魏は秦に背き、齊と合従の同盟を結びました。秦は穰候をして魏を伐たしめました。首を斬ること四万、魏と同盟を結んでいる韓の将軍暴鳶(ばうえ
ん)を敗走させ、魏の三県を得ました。その結果、穰候は領地を増し与えられています。
さらに翌年、穰候は将軍白起と客卿の湖陽とともにふたたび趙、韓、魏を攻め、魏の将軍芒卯(ばうばう)を華陽(陝西省商県)の城下に破り、首を斬るこ
と十万、魏の巻(河南省原武県の西北)、蔡陽(湖北省棗陽県の西南)、長社(河南省長葛県の西)、趙の観津(河北省武邑県の東南)を取りました。
 趙の観津(河北省武邑県の東南)はしばらくの間、趙に与えておき、趙に援軍を与えて齊を攻めようとしました。

 齊の襄王(在位 前283〜前265)は、それを怖れて、蘇代に命じて齊のために穰候に対して密かに書簡を送らせました。

【齊王の命により蘇代が、穰候魏冄に対して齊を攻めることの不利を説いた書簡】

臣聞く、往來する者言ひて曰く、「秦將(まさ)に趙に甲四萬を益(ま)して以て齊を伐たんんとす」と。臣竊(ひそ)かに之を敝邑(へいいふ:自分の国)の王に必(たしか)めて曰く、「秦王は明にして(はかりごと)に熟す。穰侯は智ありて亊に習(な)る。必ず趙に甲四萬を益(ま)して以て齊を伐たじ」と。是れ何ぞや。

① 理由の一
三晉の国々(韓・魏・趙)が連合することは、秦にとっては深刻な讎(しう:仇)であります。これらの国は秦に百回背き、百回欺いたとしても、それを信義のないことだとも品行のないことだとも思いません。今、秦は齊を破って趙を肥やそうとしています。趙は秦の深刻な讎(しう:仇)であります。これは秦にとって不利であります。

② 理由の二
秦の策士達は、「齊を破れば、勝ちを収めた三晉と楚も疲弊し、そのあとで、三晉と楚に対しても勝利を得ることができる」と言っているでしょう。しかし齊は疲弊している国です。天下の兵力をあげて齊を攻撃するのは、千鈞の強力な石弓で潰れかかっている腫れ物を射るようなものです。齊は必ず滅ぶでしょう。そうすればどうして三晉と楚を疲弊させることができるでしょうか。

③ 理由の三 
秦が少ししか兵を出さなければ、三晉と楚は、秦を信用しないでしょう。しかし、多く兵を出したならば、三晉と楚は、秦に制せられてしまうでしょう。すると、齊は怖れて、秦に従わずに三晉と楚に従うことになるでしょう。

④ 理由の四  
秦が齊の領土を分割して三晉と楚に与えるといってそそのかし、味方に付けたとしても、三晉と楚はその領土に兵をおいて守備するでしょうから、秦はかえって新たな敵を相手にすることになります。

⑤ 理由の五
これらのことは、三晉と楚が秦を利用して齊を謀略にはめるか、齊を利用して秦を謀略にはめるかであります。何と三晉・楚は知恵があり、秦・齊はおろかなのでしょうか。

従って、安邑(山西省運城県)を手に入れるだけにして、齊と仲良くして安心させておくことです。そうすれば決して心配事は起こらないでしょう。秦が
安邑(山西省運城県)を保持していれば、韓は必ず上黨(山西省長治市)の地を失うことになりましょう。

天下之腸胃を取ると、兵を出だして其の反らざるを懼(おそ)るると、孰(いづ)れか利なる。

天下の要衝を手に入れるのと、出兵して帰還できないのではないかと怖れるのでは、どちらが有利でありましょうか。

これが、臣が『秦王は賢明で計略に長けており、穰候は知恵があって事を行うのに習熟している。決して趙に四万の軍を増援して齊を伐つことはないでし
ょう』と述べた理由であります。

この書簡を見て穰候は侵攻をやめ、軍を率いて秦に帰りました。

昭王の三十六年(前271)、相國穰候は客卿の竈(さう)の進言に従って、齊を攻め、齊の剛(山東省寧陽県の北東)、壽(山東省東平県の西南)を占領し、彼の領地の陶(山東省菏沢市定陶区)邑を拡張しようとしました。

その時、魏の人范雎(はんしよ)は張祿先生と自称しており、穰候が齊を攻めようとするのは、三晉(趙、魏、韓)の三国を飛び越えて齊を攻める無謀なことだと非難していました。

そこでこの時とばかりに、范雎は知遇を求めて秦の昭王に拝謁し、三晉(趙、魏、韓)を越えて齊を攻める無謀さを述べます。
かくして昭王は、范雎を登用します。

范雎は昭王に、次のことを述べます。
① 昭王の母である宣太后が政権を専横していること
② 姉の宣太后を後ろ盾として、相國穰候が諸侯の間で権勢をふるっていること
③ 昭王の弟である涇陽君(公子悝)、高陵君(公子市)の一族が甚だ奢侈で、王室よりも財産が豊かであること

 ここで昭王も心に悟り、穰候を相國から罷免し、涇陽君の一族を函谷関の外に出して、その領地に住むように命じました。穰候が函谷関を出るときに荷物を運ぶ車輌は千台以上であったといいます。
 穰候は領地の陶(山東省菏沢市定陶区)で死に、その地に葬られました。その後、秦は陶の地を没収して郡としています。

太史公曰く、穰侯は昭王の親舅なり。而うして秦、東のかた地を益(ま)し、諸侯を弱め、嘗て帝を天下に稱し、天下皆西に郷(むか)ひて稽首せし所以の者は、穰侯の功なり。其の貴極まり富溢るるに及び、一夫開說し、身折(くじ)け勢ひ奪はれ、而うして憂ひを以て死せり。況んや羈旅の臣に於てをや。

太史公曰く、穰侯は昭王の母方の叔父である。そして秦が東方へ領土を拡張し、諸侯の力を弱め、嘗て帝を天下に稱し、天下の国々がみな西方の秦に向かって頭を下げるようにしたのは、すべて穰侯の功績である。しかし、地位は貴顕をきわめ、財産はあふれるほど豊になったその時に、一人の男(范雎)が自説を開陳すると、身は退けられ勢力も奪われ、憂いをいだいて死んだ。王の一族の者でさえこの通りであるから、ましてや、他国から来て使えた臣の運命は、言うまでもないであろう。


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Posted by 嘉穂のフーケモン at 00:03│Comments(0)史記列傅
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