さぽろぐ

文化・芸能・学術  |札幌市中央区

ログインヘルプ


2012年03月24日

史記列傳(12)−蘇秦列傳第九

 史記列傳(12)−蘇秦列傳第九

  Map showing the Seven Warring States; there were other states in China at the time, but the Seven Warring States were the most powerful and significant.
  face01 Qin (秦)
  face02 Qi (齊)
  face03 Chu (楚)
  face04 Yan (燕)
  face05 Han (韓)
  face06 Zhao (趙)
  face08 Wei (魏)

 (旧暦3月3日)

 檸檬忌
 作家梶井基次郎の昭和7年(1932)の命日。白樺派を代表する小説家志賀直哉の影響を受け、簡潔な描写と詩情豊かな小品を著すも文壇に認められてまもなく肺結核で没した。死後次第に評価が高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている。代表作の『檸檬』から檸檬忌と呼ばれている。

 史記列傳(12)−蘇秦列傳第九

 梶井基次郎(1901〜1932)

 天下は秦の衡に饜(あ)くること毋(な)きを患(うれ)ふ、而(しかる)に蘇子能く諸侯を存し、從を約し以て貪彊を抑ふ。よりて蘇秦列傳第九を作る。

 天下のひとびとは連衡の同盟によって、秦が満足することはあるまいと患(うれ)いていた。しかるに蘇子(蘇秦)は六国の諸侯の存立をはかり、合従の盟約をむすんで、貪欲で強大な秦をおさえることができた。ゆえに蘇秦列伝第九を作る。
 (太史公自序第七十:司馬遷の序文)


 「合従連衡」という熟語は高校の世界史に出てきた記憶がありますが、今日の高校では受験に関係のない世界史は履修しないとか。ほんまかいなあ?

 英語では、次のように解説しています。
 alliance (of the Six Kingdoms against the Qin dynasty, and of individual Kingdoms with the Qin dynasty)
 なるほど、against the Qin dynasty with the Qin dynastyとの違いやね。

   face05 「合従」は、中国戦国時代(B.C.403〜B.C.221)の諸国(楚、齊、燕、趙、魏、韓)が連合して強国「秦」に対抗する政策のことで、「秦」以外の国が秦の東に南北に並んでいること(縦=従)による。

   face02 「連衡」は、「秦」と同盟し生き残りを図る政策のことで、秦とそれ以外の国が手を組んだ場合、それらが東西に並ぶことを(横=衡)といったことによる。
 
 この中国の戦国時代は、不安定な混沌とした社会において巧みな弁舌と奇抜なアイディアで諸国を巡り、諸侯を説き伏せて自らも地位を得ようとする縦横家が活躍した時代でもありました。
 数多い縦横家の中でも合従策を唱えた蘇秦(?〜B.C.317?)と連衡策を唱えた張儀(?〜B.C.309?)が有名ですが、蘇秦はその弁舌によって同時に六国(楚、齊、燕、趙、魏、韓)の宰相を兼ねたとされています。
 しかしながら、司馬遷(B.C.145〜?)が史記を執筆した時代は蘇秦より200年以上後のことであり、また秦の始皇帝(B.C.259〜B.C.210)の焚書坑儒(書を燃やし、儒者を坑する)によって大量の資料が失われたたためにその記述に正確さを欠き、後世の研究によって様々な矛盾が指摘されているようです。

 司馬遷は、
 世の蘇秦を言ふこと異多し。異時の事、之に類する者有れば、皆之を蘇秦に附けしならん。
 世の中で蘇秦に関する話には異説が多い。蘇秦と時代が異なっていても、よく似たことがあれば蘇秦のものとされてしまっている。
 とも述べています。

 さて、蘇秦(?〜B.C.317?)は東周の洛陽に生まれ、後に連衡策を打ち出した張儀とともに、齊の鬼谷先生(王禪老祖、戦国時代の縦横家で百般の知識に通じ、『鬼谷子』三巻を著したといわれる人物、鬼谷=河南省鶴壁市淇県の西部に位置する雲夢山に住したとされる)に師事して学問を習いました。

 蘇秦者、東周雒陽人也。東事師於齊、而習之於鬼谷先生。
 蘇秦は東周の雒陽の人なり。東のかた齊において師に事(つか)へ、之を鬼谷先生に習ふ。

 遊学すること数年、困窮しきってふるさとに帰ってきましたが、兄弟、兄嫁、妹、妻、妾までがみなかげで笑いあいました。
 周の人は、農業に従事し、工芸や商売に精を出し、二割の利益を求めることが務めなのに、あの子は生業をすてて弁舌を仕事にしているのだから、貧乏するのも当然ではないか、と。

 出游數歲、大困而歸。兄弟嫂妹妻妾、竊皆笑之曰、周人之俗、治產業、力工商、逐什二以為務。今子釋本而事口舌。困不亦宜乎。
 出游すること數歲、大いに困(くる)しみて歸る。兄弟嫂妹妻妾、竊(ひそ)かに皆之を笑ひて曰く、周人(しうひと)の俗は、產業を治め、工商を力(つと)め、什(十)の二を逐ひ以て務めと為す。今、子は本を釋(す)て口舌を事とす。困(くる)しむも亦宜(うべ)ならずや、と。
 
 蘇秦はこれを聞いて恥ずかしく思い、落ち込んでしまいました。そこで部屋を閉じて外に出ず、蔵書全てに目を通した後、「男子たるもの一度心に決めて人に頭を下げて学問を習ったというのに、それによって栄誉を得ることができないとしたら、読んだ書物が多くても何にもならないではないか。」と自嘲しました。

 なるほど、当節の引きこもりですな!

 そんなとき、蔵書の中から『周書陰符』を見つけてこつこつとこれを読み、一年経って揣摩の術を考案、「やった〜!これで今の世の諸侯達を説得できる。」と確信しました。

 『周書陰符』は、周の軍師太公望呂尚の作と云われ、『大公陰符』ともよばれる兵法書ですが、現在に伝わってはいません。
 また、「揣摩(しま)」とは、他人の気持ちなどを推量することを意味し、従って揣摩の術とは一種の弁論術で、君主の心を見抜き、思いのままに操縦する術のことだそうです。
 史記列傳(12)−蘇秦列傳第九

 河南省鶴壁市淇県雲夢山鬼谷子像

 蘇秦聞之而慙、自傷。乃閉室不出、出其書徧觀之曰、夫士業已屈首受書。而不能以取尊榮、雖多亦奚以為。於是得周書陰符、伏而讀之、期年以出揣摩曰、此可以說當世之君矣。
 蘇秦之を聞きて慙(は)ぢ、自ら傷(いた)む。乃(すなは)ち室を閉じて出でず、其の書を出し徧(あまね)く之を觀て曰く、夫れ士、業(すで)に已(すで)に首(かうべ)を屈して書を受く。而して以て尊榮を取ること能はずは、多しと雖も亦奚(なに)をか以て為さんと。是に於て周書の陰符を得、伏して之を讀み、期年にして以て揣摩を出だして曰く、此れ以て當世の君に說くべしと。

 蘇秦は、周の顯王に意見を述べたいと願い出るも受け入れられず、秦に赴き惠王に面会して意見を述べますが、用いられませんでした。
 そこで蘇秦は東の趙に向かい、肅候の弟の奉陽君に説きますが、気に入られませんでした。
 つぎに蘇秦は北方の燕に行き、1年以上滞在した後に文候に任用され、車馬、金帛を支給されて趙に赴き、肅候に説いて、秦との国交を絶ち、合従の策を納得させ、車馬、黄金を与えて、韓へ合従の盟約を結ばせしめる事に成功します。

 これにより蘇秦自身は、六国(楚、齊、燕、趙、魏、韓)の宰相を併任することになります。
 蘇秦が六国の盟約を成立させて趙に帰ると、肅候は蘇秦を武安君に封じ、以後十五年間秦軍は函谷関から出撃しませんでした。

 蘇秦旣約六國從親、歸趙。趙肅侯封為武安君、乃投從約書於秦。秦兵不敢闚函谷關十五年。
 蘇秦旣に六國に約し從親して、趙に歸る。趙の肅侯封じて武安君と為す。乃ち從約の書を秦に投ず。秦の兵敢て函谷關を闚(うかが)はざること十五年。

 しかし、燕の文候が世を去ると易王が後を継ぎますが、蘇秦は易王の母である文候夫人と密通していたためにその誅罰を恐れて、燕で罪を得たことにして齊に出奔し、その客卿となります。

 其後齊大夫多與蘇秦爭寵者、而使人刺蘇秦。不死殊而走。齊王使人求賊、不得。蘇秦且死、乃謂齊王曰、臣卽死、車裂臣、以徇於市曰、蘇秦為燕作亂於齊。如此則臣之賊必得矣。於是如其言。而殺蘇秦者果自出。齊王因而誅之。燕聞之曰、甚矣、齊之為蘇生報仇也。蘇秦既死、其事大泄。齊后聞之、乃恨怒燕。燕甚恐。

 其の後、齊の大夫、蘇秦と寵を爭ふ者多くして、人をして蘇秦を刺さしむ。死殊せずして走る。齊王、人をして賊を求めしむるも、得ず。蘇秦且(まさ)に死せんとす。乃ち齊王に謂ひて曰く、臣、卽(も)し死せば、臣を車裂し、以て市に徇(とな)へて曰へ、蘇秦、燕の為に亂を齊に作(な)す、と。此くの如くせば則ち臣の賊必ず得られん、と。是に於て其の言の如くす。而うして蘇秦を殺しし者果たして自ら出ず。齊王因りて之を誅す。燕之を聞きて曰く、甚(はなは)だしいかな、齊の蘇生の為に仇を報ずるや、と。蘇秦卽(すで)に死し、其の事大いに泄(も)る。齊、後に之を聞き、乃ち恨みて燕を怒る。燕甚だ恐る。

 その後、齊の大夫たちで蘇秦と王の寵愛を争うものが多くなり、人をやって蘇秦を刺殺させた。蘇秦は死には至らず、刺客は逃げてしまった。齊王は犯人を捜させたが、捕らえることはできなかった。

 蘇秦は死に臨んで、齊王に云った。
 「わたくしがもし死にましたら、車裂きにして市場で見せしめにし、『蘇秦は、燕のために齊で乱を起こそうとしたのだ。』と布告して下さい。そうそうれば、わたしを刺した犯人は必ず捕らえることができましょう。」
 
 そこで蘇秦の云ったとおりにした。すると蘇秦を刺した者がはたして自ら名乗り出た。齊王はそこでその者を誅殺した。

 燕はこのことを聞いて、「ひどい話だ。燕のために齊を疲弊させようとしていたあの蘇秦のために、其れとは知らずに齊が本気で仇を報ずるとは。」とうわさした。

 蘇秦の死後、燕と蘇秦の齊に対する謀略が、盛んに世間に漏れてきた。齊は後になってこのことを知ったので、燕を恨み、また怒った。燕は齊を大変恐れた。


 太史公曰、蘇秦兄弟三人、皆游說諸侯以顯名、其術長於權變。而蘇秦被反閒以死、天下共笑之、諱學其術。然世言蘇秦多異、異時事有類之者皆附之蘇秦。夫蘇秦起閭閻、連六國從親、此其智有過人者。吾故列其行事、次其時序、毋令獨蒙惡聲焉。

 太史公曰く、蘇秦兄弟(けいてい)三人は、皆諸侯に游說し以て顯名を顯(あらは)す。其の術權變に長ず。而うして蘇秦は反閒を被(かうむ)りて以て死し、天下共に之を笑ひ、其の術を學ぶを諱む。然るに世の蘇秦を言ふこと異多し。異時の事、之に類する者有れば、皆之を蘇秦に附けしならん。夫れ蘇秦は閭閻(りよえん)に起こり、六國の從親を連ぬ。此れ其の智人に過ぐる者有りたればなり。吾故に其の行事(かうじ)を列(つら)ね、其の時序を次で、獨り惡聲をのみ蒙らしむる毋(な)し。

 司馬遷が論評するには、蘇秦の兄弟三人は、みな諸侯を遊説してまわって名声をひびかせた。その弁舌の術は、時代や場所の変化に応じて物事を処置するという点で優れていた。しかし、蘇秦は讒言をこうむって死んでいった。天下の人々は皆蘇秦を嘲笑し、その弁舌の術を学ぶことを避けた。

 しかし、世の中で蘇秦に関する話には異説が多い。蘇秦と時代が異なっていても、よく似たことがあれば蘇秦のものとされてしまっている。そもそも蘇秦という者は、貧しい村より身をおこして、六国の合従親交を成功させたのである。これは人並み優れた知恵の持ち主であったからである。

 わたしはその故に蘇秦の事跡を列挙し、年代毎に整理して悪名ばかりをこうむらないようにしたのである。

 司馬遷は「其智有過人者」(其の智人に過ぐる者有りたればなり。)という処に興味と好感を抱いたのであろうとは、新釈漢文体系史記列伝一を担当された水澤利忠先生の所感であります。

 水澤先生によれば、蘇秦と弟の蘇代の説くところは、常に為にするところがあって、この説をまじめに信ずれば、彼らに利用され、思わぬ結果を招く恐れが多い。しかしながら、一貫して秦を嫌い、秦に対する諸侯連合を成立させようと努力していたことには変わりなく、必ずしも己が一身の栄達のために巧言を用いていたとは言えない。

 蘇秦の弁舌は、思慮遠大、話術巧妙、且つ時の情勢を的確に分析把握していて、耳を傾けるに足るものが多い。今日の国際情勢にあてはめて考えても、なお説得力のある節もある、と述べられています。

 かの大東亜戦争前後の国際情勢しかり、また現在の国際情勢しかり、この日本に、蘇秦のような人材の出でんことを切に望むものであります。


あなたにおススメの記事

同じカテゴリー(史記列傅)の記事画像
史記列傳(15)− 穰候列傳第十二
史記列傳(14)− 樗里子甘茂列傳第十一
史記列傳(13)−張儀列傳第十
史記列傳(11)ー商君列傳第八
史記列傳(10)-仲尼弟子列傳第七
史記列傳(9)-伍子胥列傳第六(2)
同じカテゴリー(史記列傅)の記事
 史記列傳(15)− 穰候列傳第十二 (2021-06-01 00:03)
 史記列傳(14)− 樗里子甘茂列傳第十一 (2017-11-22 20:20)
 史記列傳(13)−張儀列傳第十 (2013-01-14 18:52)
 史記列傳(11)ー商君列傳第八 (2011-05-22 14:23)
 史記列傳(10)-仲尼弟子列傳第七 (2010-04-19 17:13)
 史記列傳(9)-伍子胥列傳第六(2) (2009-07-13 23:44)
Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:50│Comments(0)史記列傅
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。
削除
史記列傳(12)−蘇秦列傳第九
    コメント(0)