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2011年05月22日

史記列傳(11)ー商君列傳第八

 史記列傳(11)ー商君列傳第八

 (旧暦4月20日)
 
 鞅(あう)は衞を去りて秦に適(かな)ひ、能く其の術(すべ)を明らかにして、彊(し)いて孝公を霸たらしめ、後世其の法に遵(したが)ふ。よりて商君列伝第八を作る。

 商鞅(しょうおう)は衛を去つて秦に赴き、自分の学術を明らかにして、秦の孝公を覇者にし、後世その法は秦の模範とされた。そこで、商君列伝第八を作る。(太史公自序第七十:司馬遷の序文)

 商鞅(Shāng Yāng、B.C.390〜B.C.338)は、衞の公子の出身で、若くして刑名の学(実証的法治)を学び、魏の宰相公叔痤に仕えてその才能を認められ、その家の中庶子(公族を掌る官職)となりました。
 公叔痤は病を得て世を去るときに、魏の恵王(在位:B.C.369〜B.C.319)に鞅を推挙しましたが容れられず、「王がもし鞅を用いることを聴き容れないのなら、必ず鞅を殺して国境を出してはなりません。」と言い残しました。

 恵王は公叔痤が病のために判断を誤ったとして嘆息しますが、やがてこの予言は的中し、魏は秦の軍を率いた鞅のためにたびたび敗北し、徐々に領土を削られてゆきます。恵王は後に、公叔痤の言を用いなかったことを後悔することになります。

 鞅はその後、秦の孝公(在位:B.C.361〜B.C.331)の「招賢の令」に応えて秦に赴き、孝公に見えて「帝道」を説きますが孝公は興味を示しませんでした。
 五日後、もう一度引見の要請があり、孝公に見えて「王道」を説きますが、孝公はよくその真意を理解できません。
 鞅は重ねて孝公に面謁し、今度は「覇道」を説いて孝公に用いられることになります。

 孝公は、鞅を用いた後、その説くところに従って、鞅の富国強兵策を実施するために旧法を変え、制度と機構を改革したいと欲しましたが、世の人々が自分を批判することを恐れました。

 衞鞅曰、「疑行無名、疑事無功。且夫有高人之行者、固見非於世、有獨知之慮者、必見敖於民。愚者闇於成事、知者見於未萌。民不可與慮始、而可與樂成。論至德者不和於俗、成大功者不謀於眾。是以聖人苟可以彊國、不法其故、苟可以利民、不循其禮。」

 衞鞅曰く、「疑行は名無く、疑事は功無し。且つ夫れ人よりも高きの行ひ有る者は、固(もと)より世に非(そし)られ、獨知の慮(おもんばか)り有る者は、必ず民に敖(あなど)らる。愚者は成事にも闇(くら)く、知者は未萌にも見る。 民は與(とも)に始めを慮(はか)るべからずして、與(とも)に成るを樂しむべし。至德を論ずる者は俗に和せず、大功を成す者は眾(衆)に謀らず。是(ここ)を以て聖人は苟(いやし)くも以て國を彊(つよ)くすべくは、其の故に法(のつと)らず、苟(いやし)くも以て民を利すべくは、其の禮に循(したが)はず」と。
 
 衞鞅が云うには、「自信のない行動は人から評価されず、自信のない事業は功績をあげません。およそ人に優れた行いのある者は、本来世にそしられ、独創性、先見性のある者は、必ず民からののしられます。愚か者は事が既に成ってもまだ理解できませんが、知者は事の前兆すらあらわれないうちに予見します。民は計画に参加させるべきものではなく、成果をともに楽しませればよろしいのです。至徳を論ずる者は世俗とは話が合わず、大事業を成し遂げる者は大衆には謀りません。そこで聖人はもし国を強くできることであれば、その国の古いしきたりにのっとらず、もしその国民に利益を与えることであれば、その国の作法を守りません」と。
 孝公は衞鞅を左庶長(秦の爵位で、二十級の第十二爵)に任じ、ついに変法の令を定めます。

 【第一次変法】 B.C.359年
 1. 戸籍を設け、十戸(什)、五戸(伍)の隣保組を編成して互いに監視させ、犯罪には連座させる。犯罪を通報しない者は腰斬の刑にし、犯罪を通報した者は敵の首を取ったのと同じ賞を与え、犯罪者をかくまった者は敵に降伏したのと同等に罰する。
 2. 二人以上の成人男子がいる家で分家しない者は、二倍の課税をかける。
 3. 軍功のある者には、それぞれの程度に応じて授爵し、私闘をなすものは、その程度に応じて処罰される。
 4. 耕織を本業として、穀物や絹織物を納めることの多い者は夫役を免除し、商工業に従事したり、怠けて貧しかったりする者は、糾明して官の奴隷とする。
 5. 公族であっても軍功なき者は、公族の籍を除く。
 6. 身分の尊卑や官位俸禄の等級を明らかにし、それぞれ段階を設ける。
 7. 所有する田地や宅地、臣妾の数、衣服は、家の等級によって定める。
 8. 功績のある者は顕栄し、功なき者は富裕であっても華美な生活を営むことは出来ないと定める。

 
 法令は出来ましたが、すぐには公布されませんでした。新法の信賞必罰を民衆が信用しないことを恐れたからです。
 そこで三丈(約8.3m)の材木を都の南門に立て、「この材木を都の北門に移す者があれば、これに十金を与える。」と布告しました。しかし、民衆はこれを怪しんで、材木を移そうとはしません。そこで更に、「移動することが出来た者には五十金を与えよう。」と布告すると、一人の者が材木を移動させたので、五十金を与え、民衆を欺かないことを明らかにして法令を発布しました。
 新法が施行された当初、秦の国民で都に出向いて新法の不都合を申し出る者は千名にも上りました。そのような時、太子の嬴駟(えいし、後の恵文王)が法を犯したので、これを処罰しようとしましたが、さすがに後嗣ぎの太子を処罰するわけにも行かず、太子の傅(後見役)の公子虔を刑し、また太子の師の公孫賈を入墨の刑に処しました。その結果、翌日からは秦の国民は皆法令に従うようになりました。

 十年もすると秦の国民は大いによろこび、道に物が落ちていても誰も拾わず、山には盗賊がおらず、人びとの生活は満ち足り、国民は公の戦争には勇敢に、私の戦いには臆病になり、町も村も大いに治まりました。

 秦の国民で、初めは法令が不便だと申し立てたもので、今回は法令が便利だと言いに来たものがありました。
 鞅は、これらの者は政治の指導を乱す者として、悉く辺境の地に移してしまいました。
 これ以降、法をあげつらう者はいなくなり、変法は成功を収めます。

 秦の孝公十二年(B.C.350)、秦は雍(陝西省鳳翔県)から咸陽へ都を移しました。
この年に鞅はさらに第二次の変法を行い、法家思想による君主独裁権の確立を狙います。

 【第二次変法】 B.C.350年
 1. 父子兄弟が一つの家に住むことを禁じる。
 2. 小さな町や村を集めて県とし、県に令(長官)、丞(補佐)を置く。
 3. 井田を廃して田地の区画整理を行い、課税を均等にする。
 4. 度量衡を統一する。(斗桶權衡丈尺を平らかにする。)


 秦の孝公二十二年(B.C.340)、秦は前年に斉の孫臏に敗北して疲弊した魏へ侵攻し、鞅自ら将となり兵を率いて撃ちます。またかつて親交のあった魏の将である公子卭を欺いてこれを捕虜にし、黄河以西の土地を奪います。この功績により鞅は於・商の15邑に封ぜられ、呼び名を商君とします。
 宰相に在ること十年、公族や外戚の中には鞅に怨みを抱く者が多くなっていました。
 秦の孝公二十四年(B.C.338)、孝公が崩御し、太子嬴駟が即位(恵文君、在位:B.C.338〜B.C.311)しますが、恵文君(B.C.324からは恵文王)は、太子時代に鞅の法に触れて、傅(後見役)の公子虔を鼻削ぎの刑にされ、また師の公孫賈を入墨の刑にされた怨みから、鞅に罪を被せて討ち取り、その死体を車裂きの刑に処します。

 太史公曰、商君、其天資刻薄人也。跡其欲干孝公以帝王術、挾持浮說、非其質矣。且所因由嬖臣、及得用、刑公子虔、欺魏將卬、不師趙良之言、亦足發明商君之少恩矣。余嘗讀商君開塞耕戰書、與其人行事相類。卒受惡名於秦、有以也夫!

 太史公曰く、商君は其の天資刻薄の人なり。其の孝公に干(もと)めんと欲するに帝王の術を以てせしを跡(たづ)ぬるに、浮說を挾持(けふぢ)し、其の質に非ず。且つ因る所は嬖臣(へいしん)に由り,用ゐらるるを得るに及びては、公子虔(こうしけん)を刑し、魏の將卬(しやうがう)を欺き、趙良の言を師とせず。亦、商君の恩少なきを發明するに足る。余嘗(かつ)て商君の開塞・耕戰の書を讀みしに、其の人の行事(かうじ)と相類す。卒(つひ)に惡名を秦に受けたるは、以(ゆゑ)有るかな、と。

 司馬遷が論評するには、商君はその生まれつきが残酷薄情な人であった。孝公に用いられようとして、帝王の術を説いたあとをたどってみると、本心とかけ離れた論を説いたのであって、その説は商君の本質をあらわしたものではなかった。しかも孝公に近づく手引きとして寵臣に身を寄せ、ひとたび用いられることが出来ると、公子虔を処刑し、魏の将の公子卬をだまし討ちにし、趙良の忠言に従わなかった。これらも商君の酷薄さを証明するに足るものである。私、司馬遷は、かつて商君の著した開塞・耕戰の二書を読んだが、その人の行跡と類似していた。ついに秦で悪名を受けたのは、当然なことである。

 司馬遷は、

 1. 郡県制の確立による中央集権の強化
 2. 井田法を廃しての農産振興
  1里(500m)四方、900畝の田を「井」の字の形に9等分し、そうしてできる9区画のうちの中心の1区画を公田とし、公田の周りにできる8区画を私田としてそれぞれ8家家族に与え、公田は共有地として8家族が共同耕作し、そこから得た収穫を租税とした。
 3. 新都咸陽の造営
 4. 度量衡の統一


 等の富国策を成功させ、秦を強大にし、孝公の負託に応えた商鞅を評価しての立傳としています。

 しかるに司馬遷の評価は、きわめて厳しく、天性酷薄な鞅が本心を偽って孝公に近づき、寵臣によって権力を得た後は、公子虔(こうしけん)を刑し、魏将を欺き、趙良の諫言を聴かず、みずから敗亡の途をたどったとしています。

 司馬遷は、商君の業績を正当に評価しているものの、列伝を書いている内に商君の人間性に憤りを覚え、果てには車裂(車裂き)の刑を肯定するに至ったのであろうかと、新釈漢文体系史記列伝一を担当された水澤利忠先生は結んでおられます。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 14:23│Comments(0)史記列傅
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